今年のセミの鳴き終わりは、私の住む鎌倉では10月2日だった。その後急激に気温が下がり、典型的な秋になった。2日に鳴いていたのはツクツクホウシで、10月のセミは寂しいものである。懸命に鳴いているけれど、ほとんどだれも聞いていない。俺みたいなものか、と思う。

『紅はこべ』(創元推理文庫)が新訳で出た。子どものころから知っている題名なので、旧訳を読んだに違いないのだが、まったく記憶がないし、本ももちろん手元にない。ハコベにはたまたま虫のことで関心がある。日本にはハコベ、ウシハコベなどがあって、早春に白い小さな花を咲かせる。紅ハコベはない。ルリハコベはあるが、これは日本のハコベとはグループが違うという。ルリハコベの仲間に赤いハコベがあるらしい。

 フランス革命時の話で、フランス貴族をイギリスに脱出させる努力をする主人公が紅はこべを名乗る。目立たない小さな赤い花の名をとることで、当時は格好よく感じられたのだと思う。解説によれば、映画化、劇化もされていたようで、宝塚でも演じられたという。 現在ならNetflix か Hulu にあってもおかしくない話だと感じる。

 さて、10月のセミだが、浜崎洋介『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)と『ぼんやりとした不安の近代日本』(ビジネス社)。両者は基本的には同じ主題を扱っている。もちろん後者のほうが幅が広い。近代日本の文芸思想史だが、きわめて基本的な主題なのに、近年はあまり論じられていなかったように思う。西欧文明の流入が日本の思想界に与えた影響だが、そんな主題は古い、いまさら論じても、10月のセミだという感が広がっていたのではないかと思う。

 私がこの問題に触れたのは、研究者として独り立ちする頃だった。いちおう理系だったので、なにを、どう考え、どう表現するかにぶつかった時に、いわば外発つまり欧米式に没入する結果になった。自然科学は欧米のものという常識があったから、日本式の考え方など「ない」、なくて当然というのが一般の常識だった。そこで英語で論文を書くことになり、いやでも言語の問題に触れることになった。

 助手として初めて自分で研究主題を選び、研究作業をして、英語で論文を書いて、イギリスの解剖学の雑誌に投稿した。そうしたらレフェリーの反応が返ってきて、そこには作者(私)は英語のネイティヴに違いないと書かれていた。英語を誉められたと思えば済む話だったが、むろんそうではない。あちら側からすれば、日本人がこういう言い方で議論するわけがない、と言いたかったのだと思う。だれか英語系の人が私の代わりに考えて書いた、そんな疑いを持ったのかもしれない。

 当時私は、英語で議論を書くために、まさに英語で考えていた。頭の中で英語を使って自問自答する。それが気に入った表現になるまで、しつこく繰り返す。それによって、英語の文脈で考える訓練をひとりでにしていたのであろう。のちにドイツ人の大学講師と日本人の知り合いがもめ事を起こし、私が仲介に入ることがあった。ドイツの大学にいるその講師に手紙を書いたところ、「自分のところの教授にお前の手紙を見せたら、あんたはヨーロッパ人よりヨーロッパ人らしい考え方をすると言った」と書いてきた。

 これもその教授がどういうつもりで言ったのか、完全には理解できない。この2つの体験からわかるように思うことがある。「こういうことは、西欧文明の外からわかるわけがない」という偏見の存在である。これは日本でもよくあることだから、いわば人類普遍の偏見といってもいいであろう。「外人にわかるはずがない」というやつである。

 私が研究者を続けているあいだ、日本はどんどん「国際化」した。いわゆるグローバリゼーションである。自分が外国の研究所に行ってしまえば、話は簡単だった。それはそれでさまざまな面倒があっただろうことはわかっている。ただ10月のセミ問題で悩むことはなかったはずである。人文系の学問であれば、日本で考えれば済む。理系はそうはいかない。研究自体はいいとしても、その評価の問題がある。日本の社会と自分のやりたい科学を折り合わせるのにくたびれて、しまいに大学を辞めてしまった。

 欧米化の問題なんて、明治で済んだことじゃないか。そうはいかない。少なくとも私自身はそうはいかなかった。現代世界を見ればわかる。中近東も、中国ですら、欧米化の波に飲み込まれて、さまざまな「問題」が生じている。日本は歴史的には先端を切っていたので、それがうまく処理されていれば、現代世界の模範だったのになあ、と思う。簡単に表現するなら、欧米化のストレスが日本社会にあった。私個人もそれを強く感じて生きてきた。実際には敗戦の影響だと思ってきたが、歳をとるにつれて、話はそう簡単ではないと感じるようになった。きちんと論じようとすると、本1冊分になってしまうので、短くするしかない。あとは浜崎氏の論考を読んでいただけばいい。

 子どものころから不思議だと思っていたのは、西郷隆盛がなぜ偉いか、というよりなぜ人気が高かったのか、ということである。大学生くらいになって、なにごとも理屈で考えるようになってから、西郷人気は理屈に合わないと思い始めた。政治的にはいわば失敗続きだったあの人が、なぜ偉いとされるのか。まあ、具体的にはどうでもいい問題なので、長年そのままになっていた。それを解決してくれたのは先崎彰容『未完の西郷隆盛』(新潮選書)であった。

 なるほど文明開化のストレスか。私個人は自分の対社会への折り合いの悪さを敗戦後の社会への不適応の問題だと思い込んできたが、話はもっと古くからだ、と気づかされたのである。

 続いて浜崎洋介が日本近代の文芸思想史をまとめて論じる。夏目漱石の内発的、外発的という表現は岩波文庫の『漱石文明論集』で読むことができる。そのあたりから始まって、芥川龍之介の自殺。漱石も芥川も若い時には愛読したから、両者の問題意識が私に感染していないはずがない。『三四郎』の広田先生の有名な台詞、三四郎が日本もこれからますます発展するでしょうと言ったのに対して、にべもなく「滅びるね」という。敗戦世代の私には突き刺さる表現だった。芥川の「ぼんやりとした不安」に対する浜崎の解釈は正鵠を射ていると思う。

 そこから小林秀雄。この人は論じにくい人である。私自身は戦前の小林の論考を読む機会がなかった。同時代を生きている人として小林を意識するのは『本居宣長』のころからで、いちばんの契機は小林の没後、雑誌「新潮」にオマージュとして山本七平が書いた「小林秀雄の流儀」だった。山本の作品は愛読していたけれども、彼が人生の師と仰いでいたのが小林秀雄であることは、この文章を読むまでは知らなかった。乱暴に言うなら、浜崎は福沢諭吉、夏目漱石から、芥川龍之介に至る問題意識を縦糸にしながら、小林秀雄を解析する。もっと乱暴につなげるなら、漱石、小林、山本、小林ということになって、『本居宣長』でひとまず終わる。小林がほとんど筆を断っていた戦時中から敗戦直後までの軍の実情を仔細に報告したのが山本七平であろう。

 昨日は「所さんの目がテン」の舞台になっている、茨城県常陸太田の「かがくのがっこう」で、環境省主催の子どもたちの虫取りイヴェントがあった。ここは里山を回復させた場所で、有機農業をやっているから、他ではあまり見られなくなったガムシやタイコウチ、タガメなどの大型の水生昆虫が多い。しかもアメリカザリガニが侵入していない。この里山の状況を国際会議でビデオで放映したいから、コメントをつけてくれという。それは難しいでしょうと私は言った。日本の自然は日本の自然であって、それを外国の人が見てどう思うかは、相手の問題である。そこを忖度しても、あまり意味があるとは思えない。ここはここだ、というしかない。それが生物多様性を示すということでしょう。私はそう答えるしかなかった。

 里山の復活に問題があるとしたら、それが日常生活の必然の帰結として生じてきた状況であるか、否かである。自然とはまさに「自然に」維持されるものであって、なにかの原理・原則が先行して、それに「合う」ように作られるものではない。浜崎洋介が書くように、小林秀雄の「人生」観もこれに近いと思う。自分の生き方が自然であるなら、それは必然の結果ともいえるわけで、だから「我事において後悔せず」なのである。人生を必然として生きているなら、後悔なんてありえない。万事はそれ以外に「なかった」からである。

 こうした見方は、漱石のいう内発的と符合する。近年よく言われる主体性である。主体性は原理・原則に従うことと勘違いされることが多い。周囲の状況からやむを得ず行動したとしても、主体性がないとは言えない。

 里山環境の重要性は、自給自足の生活を考えたらよくわかる。グローバリゼーションの逆が地域の自給自足だが、別に自給自足に向かえと号令をかけるつもりはない。そんなことを言わなくても、2038年に予測される南海トラフの地震とそれに伴うであろう大災害を考えたら、そうするしかなくなるとわかる。まさに「ひとりでにそうなる」べき時期が来ている。日本のいわゆる近代化が、浜崎が記すように大東亜戦争の敗戦でとりあえず終わって、その後の不安定な状態が自然災害によって、終焉を迎えるに違いない。そのあとは日常性を回復するしかないわけだが、それを金でやろうとすれば、日本全体が中国に買われる結末になりそうである。それなら小さな地域単位でなんとか生き延びるしかない。そこで回復できた日常性が新しい日本社会を創るであろう。幸い私は寿命がもうない。その姿を見られないのが少し残念である。