80代も半ばを越えて、脳の神経細胞が若いころの半分以下になっているはずである。それどころか、残っている細胞は若いころの1割に満たないかもしれない。神経細胞は古くなったら新しい細胞ができて、古いのを置き換えるという風にはなっていない。皮膚とは違うのである。ただひたすら減る。

 その少なくなった細胞で、なんとかものを考えようとする。もちろん脳は細胞の間引きによって有効に機能するという考えもあるから、細胞が減ったらダメだとは一概に言えない。ただどう考えても間引き過ぎじゃないか、というのが認知症である。

 さて、そういう状況で、今考えていることは、世界の見方である。はて、世界をどう考えればいいのだ。そんなこと別に考えなくても日常は済む。でも、ファウスト博士じゃないが、考えたくなってしまう。何のためかというと、自分の頭の整理である。情報過多の世界で、何とか自分なりに整理をつけないと、頭がパンクする。世界を考えるフリをして、自分の頭を整理する。これを哲学という。

 若いころに、カール・ポパーの本を読んだような気がする。誰かの解説を読んだのかもしれない。本自体は本棚の中に埋もれて、もはや発掘不能である。そこには世界を3つに分けることが書いてあった。世界1、世界2、世界3である。ポパーはウィーンの人で、のちに英語圏で暮らしたが、元来がドイツ語圏の出身だから、この「世界」の原語はライヒらしい。でもこれを使うと、世界3はドリッテ・ライヒになって、ヒットラーの第三帝国と紛らわしい。それで世界3なのである。

 若いころの私はこの分類にいたく感銘を受けたが、この年になると、世界1、2、3の区別がどうだったのか、何に感銘を受けたのか、わからない。忘れてしまった。数年前に筑波大学の落合陽一と話す機会があった。その時に落合が「質量のある世界」と「質量のない世界」という表現をした。これは極めて現代向きだと、私はまたもや感銘した。こっちは聞いたばかりなので、まだ忘れていない。そうか、世界1、2、3は忘れたから、世界を3つではなく、2つに割ってしまおう。「質量のある世界」は長いから、「世界+」にする。「質量のない世界」はそれなら世界マイナスつまり「世界-」であろう。

 ヒトは世界+から刺激を五感で受け取って、そこから先は世界-に入る。まぶしいとか、うるさいとか、暑いとか、硬いとか言う。でも世界+の実体は不明である。カント風に言えば、物自体を知ることはできないのである。世界-は現代では日々急激に膨張している。情報に質量はないからである。世界+は昔からあって、いまもそのまま(だと思う、そういうことにしておく)。宇宙は膨張しているというから、そのままではない可能性もある。

 ここで突然、自分の話になる。私はこの2つの世界の中で、これまで何をしてきたのか。この2つの世界の境界をウロウロしていた。解剖学には人体という世界+があって、それを言語化して記述する。そうやって人体を世界-に導入し、世界-を大きくするのに寄与する。解剖学の作業とはこの2つの領域を往復することである。世界-の方だけにスッポリ入ってしまうと、仕事にならない。他人の論文を読んで、あれこれいうしかなくなる。これでは現役の研究者にはなれない。今は虫をいじって、分類をやっている。目の前の虫は何という種か。いくら調べても名前がない場合には、名前を自分でつける。いわゆる新種である。ここで現物の標本が世界-に組み込まれる。

 先日、「解剖学とは何ですか」と詰問された。相手の口調から、そう聞こえた。解剖学なんて無用でしょうという含みがあるように感じた。もちろん解剖学はなくてもいい。必要な時に、人体そのものを持ち出せばいいからである。昆虫の分類も似たようなものである。新種に名前を付けなくたって、現物の標本を持ち出せばいい。どうだ、見たことないだろうが。そういって威張る。

 要するに私は世界+と世界-の境界に関心が張り付いてしまっていたのである。目の前にブータンで捕まえたゾウムシがある。現地ではこんな虫に誰も関心を持たない。道端のヨモギの一種にいくつもついている。ヨモギと大麻は放牧しているウシが食べないから、そこら中に繁茂しているのである。だからこのゾウムシもたくさんいる。これがレプトミアスという属の種だということは知っている。この属(仲間)の一種が日本にもいるからである。目の前の種はこれとは明らかに違う。ヒマラヤにはこの属の種が多いらしい。ロンドンの自然史博物館に行くと、この仲間の標本がたくさんあって、名前が付けてあるからわかる。そこで同じものを探すと、確かに似たヤツがある。でも本当に同じ種と思われるものがない。では新種ではないか。今度は文献を探す。ブータンはヒマラヤの南側である。北側はチベット、中国の学者がチベットのこの仲間のゾウムシに名前を付けた論文がある。ずいぶんたくさん種類があるらしく、20種ほどに名前を付けている。その1つかもしれないが。確実にそれを知るためには、名前を付ける基になった標本と比較する必要がある。これをタイプ標本という。結局、中国にある標本を見に行かないと答えがはっきりしない。だから現在はここまでの状態で推移している。目の前のブータンの標本は世界-にまだ入れていないのである。

 標本を見る。あれこれ考える。また標本を見る。この往復は世界+と世界-を往復している。この運動はロクでもない運動として、学問の世界では馬鹿にされる。何といっても、学問の世界は世界-の上の方にどっしりと鎮座しているから、一番地面に近い世界+との境界調べなんて、地べたを這っている賤業である。「子どもの科学」なのである。そんなものはとうの昔に済んでしまった。たまにはちゃんと勉強しなさい。そういわれてしまう。

 とはいえ、世界+は真っ暗闇である。そこから少しずつ「事実」を拾ってくる。拾われた事実(情報)がある程度豊かになると、様々な概念が生じ、ヒトは自分なりの世界像を創る。

 この辺りまで考えたら、ここでいう「世界-」とは、ポパーの世界2及び世界3ではないかということをおぼろげながらやっと思い出した。世界2、3とはなにか。だれでも共通に理解する世界-のことを世界2という。心は個々別々ではないのか。別々で共通しない部分を世界3と呼べばいい。共通するものとは何か。典型は数学であろう。津田一郎はこの世界2を強調して、『心はすべて数学である』という本を書いた。心の別々の部分は数学的には誤差に過ぎない、と断ずる。数学は誰でも理解するはずだし。ピタゴラスの定理はいつでも、どこでも、だれでも理解できる。これが理解できないというのは、考えたくないのか、考える気がないのか、考えてもしょうがないと思っているからであろう。数学は世界+を参照する自然科学と違って、証明を自分の外部に求める必要はない。世界2の中で万事済んでしまうのである。論理がなぜ正しいのか、私は知らない。でも論理回路だけあれば、数学は可能になる。

 世界+と世界-の中の法則は、きちんと対応しなければならない。暗闇の中に何が横たわっているのか、それを知らないと動けない。世界+はこうなっているはずだ、と世界-の住民は思う。それが当たっているか否か、確かめなくてはならない。世界-の中の法則を世界+の吟味にかける。ポパーの言う反証可能性である。20世紀の半ばまでは、自然科学は世界+から情報を拾ってくる形だった。そこへ闖入してきたのが、AIである。これが世界-を爆発的に大きくした。自然科学も大きな影響を受けているが、これは世界+を世界-に移し替えていた従来の自然科学と違って、世界-から世界+を作ってしまう試みである。それを科学技術と呼ぶ。津田の著作が chat GPT のようなAI時代の先駆けとして出たのは、よく理解できる。まさに人工知能を予期しているからである。世界-が世界+を作り出してしまう典型が、メタバースである。そこには世界+にあった暗闇はもうない。

 ではポパーの世界3はどこに行ったのか。先週、たまたま臨床心理士の東畑開人と話す機会があった。そこにはまだその人だけの心の世界が残存している。誤差が生きているのである。AIの時代が進行していくと、我々自身の世界+つまり身体はほぼノイズに変わる、と以前述べたことがある。すべてが統計的なシステムの中で把握され、そこに載らないものはノイズとして処理されるからである。ノイズが世界-のなかでは津田の言う誤差になるだけである。

 ボケた頭で考えられるのは、この程度しかない。しかも書いている間、年中昼寝をしていた。この種の話題は、私にとって、催眠効果があるらしい。読む人にとっても同じかもしれない。この稿を起こすきっかけとなったのは、伊藤祐靖『陸軍中野学校外伝』(角川春樹事務所)を読んだためである。この本の末尾に「本作品は事実に基づくフィクションである」との注記があった。これで私は混乱したので、事実に基づくなら世界+に関する話で、フィクションならもっぱら世界-で閉じる話だ、ということになろう。言葉だけの意味で言うなら「事実に基づくフィクション」というのは世界+と世界-を往復している感じがあって、混乱しているのは私だけではないなあと思いつつ、つい考えてしまったのである。この作品は息子が父親の伝記を書いたのだから、ポパーの世界3が含まれている。著者はそこを思って、いわゆる客観性ということに配慮したから、こうした注記になったと思うが、人間はコンピュータではないのだから、汎用AIである必要はない。胸を張って世界3に入り浸ればいい。それだと売れない可能性があるというのは編集者が考えればいいことで、著者が考えるべきことではないと思う。