久しぶりというか、初めて自分の関係した本について述べようと思った。それが表題の本『日本の進む道』(毎日新聞出版)である。内容は藻谷浩介氏との対談。この連載でも何度も触れた話題を含んでいるが、私が言いたかったことは、環境問題を含めた未来の日本社会の在り方を想定する、ということで、藻谷さんは経済の専門家だから、その点では私自身は聞き役にとどまった。藻谷さんの名を最初に知ったのは、『デフレの正体』(角川新書)を読んだ時だった。この本は経済音痴の私でも、データから結論までが明快で、感心して書評で紹介した覚えがある。もちろん人口減少、とくに生産年齢人口の減少が重要な課題だということは素人でもわかるが、それでデフレと呼ばれる現象すべてが説明できるわけではない。この辺りをじっくり議論しようとすると、なんとも面倒くさい。

 これとよく似ているのが、地球環境や生態系の問題で、グールソンの『サイレント・アース』(NHK出版)は1990から2020年の間に、世界中の昆虫の8―9割がいなくなったとするが、経済で言えばまあ極端なデフレといえよう。その原因をグールソンは特定していない。千葉聡『招かれた天敵』(みすず書房)は生物的防除の歴史を描く。何かの虫が増えすぎた時に、天敵を導入して駆除するというやり方である。こうした生態学関係の書物を読んでよくわかるのは、問題の解決は一筋縄ではいかないということである。議論自体がああでもない、こうでもない、ああでもあるし、こうでもあるという具合に進行するから、私のように短気な人間は「わかった、わかった、もういい」と言いたくなってしまう。

 現代社会の様々な問題を考えようとすると、こうしたややこしい問題にすぐに突き当たる。世界にはややこしい問題だけが残ったのか。そう疑いたくなる。解答が簡単なら、もう解決してしまっているはずだから、当然ややこしい問題だけが残される。そうなるに違いないという気がしてならない。

 複雑な問題を解くために、複雑系の科学ができたが、それ自体が複雑で素人にはよくわからない。なにか根本に問題があるのではないかという思いがあるが、それを考え出すと、すでにこの連載で述べてきたように、明治維新以来の日本文化の問題に突き当たってしまう。それが夏目漱石、小林秀雄、山本七平という系譜で、それに最近では浜崎洋介などが付け加わる。「科学的に」社会問題を解こうとするのは、そもそも私たちの基本的なやり方なのか。欧米からの借り物で何とかしのごうとしているから、「問題」が起こるのでは。ではというので、借り物でないものを探そうとすると、到底間に合わないという問題が起こってくる。AIを典型として、世の中はどんどん動いてしまうのである。今まで全くなかったものが、大手を振って世間を歩いている時代だから、伝統文化もクソもない。

 ここまで来て思う。なぜおまえがそんなことを考えなきゃならんのだ。もういい加減にして、身近な日常だけを考えたらどうか。ブータンの知人に夜遅くまで原稿を書くなどとうっかりいうと、叱られる。あんたの年なら、毎日お経を読んで、まさに後生大事に暮らさなけりゃいかん。お経が読めないなら、マニ車を回せばいい。ついでに家内まで叱られる。あんたの旦那のような老人を働かせてはいけない。ところが日本政府は後生大事どころか、生涯現役、死ぬまで働けと号令をかける。これでは来世、ろくな人間が生まれるわけがない。お経を読んで、功徳を積まなけりゃいけない年齢に、それを怠けてひたすら働いている。そうか、間違っているのは俺の方だった。そりゃそうに決まっているので、日本の将来も何も、自分の後生の方が大切ではないか。そろそろ悟りを開いてもいいころである。

 それなら、心当たりがないではない。どういう悟りを開こうとしているかというと、森の中に入ると、鳥が頭や肩にとまる。虫がよく見えて、その上こちらに寄ってくる。その境地なら、特に修行などしなくても、実現できると知っている。知り合いにそういう人がいるからである。

 座禅をしているお坊さんに聞いた話だが、座り始めは野良猫が遠回りによけて通った。5年も座ったら、自分を踏んで通るようになったという。まさに枯淡の境地で、そうなれば原稿など書かない。ただ座っている。人々は私の存在に気づかないで、通り過ぎていくであろう。それがいい。それに決めた。

 そう思って庭に出ると、上天気である。少し風が吹くと、桜の花びらが舞い落ちてくる。庭には一面にスミレが咲いている。早速スマホを持ち出して、 picture this というアプリで名前を調べる。Viola reichenbachiana という名前がすぐに出てくる。便利なものである。名前がわかったらどうだというのだ。自然を相手にする際には、名前を付けることが肝要であって、そうすれば相手が意味を持ってくる。情報化されるのである。じつはつい最近、眼科学会総会があって、そこでひとしきりしゃべらされた。その際に、解剖学は名前を付ける学問だと思っていたが、じつは「意味の体系」であって、人体の各部は名前を与えられることによって、解剖学という体系の中で意味をあたえられ、存在するようになるのだ、という趣旨の話をしたばかりである。

 さてこのスミレを調べようとして、ウィキペディアを参照したら、日本のものがすぐには出てこない。箱根にある私の家は、先々代がアメリカ人だったようで、庭木も変な物が多い。珍しいゾウムシがやってくる木があるが、マユミにつく虫だとわかっているので、素直にマユミだと思っていて、念のため確認してみたところ、アメリカマユミと出た。コナラかミズナラか、知人たちが訪問してくると、教えてくれるのだが、それが食い違う。これも調べると、swamp chestnut oak と出てくる。アメリカから苗木を運んで来たに違いない。スミレもその一部かもしれない。

 こういうことをしていたのでは、悟りから遠ざかるばかりである。思えば自分は若い時から、自然を意味の体系に組み込む作業ばかりしてきたのではなかろうか。その特定の「意味の体系」を拡大し、洗練させていくのが自然科学であった。このところ Netflix で中国もののファンタジーを見ているけれど、森と滝と岩がよく出てくる。水墨画で見るような石灰岩地域の山で、これが中国人の仙境なのであろう。映っている樹木の種別を確認しようと思って、目をこらすが、遠目では松くらいしかわからない。草は会話に出てくるのは薬草ばかり、中国文化は自然物を人間の利害に組み込んで意味づけするので、「自然の体系」など考えなかったらしい。植物は薬草か毒草のいずれかで、自分の都合で分類してしまう。虫なら益虫か、害虫か、である。

「自然の体系」で扱われるのは、他者としての自然である。その他者を体系の中に組み込むことによって、意識化する。すなわち自分の中に持ち込んでしまう。被造物としての自然はそこで具体的な「意味」を与えられる。それはそのまま世界の意味に直結するのである。

 神が世界を創造したという前提の上でないと、こういう作業はおそらく成り立たなかった。リンネの構築したシステムは、動植物の居場所を意識の中に創り出した。それはオープンのシステム、つまり開放系であり、常に新しい要素を付け加えることができる。そのことによって、分類学は今でも生き続けているのである。

 思えば解剖学も似たような状況で成立している。対象が外部の自然ではなく、人体という内部の自然だという違いに過ぎない。そこで解剖学は「系統」解剖学という名称で呼ばれる。この「系統」とは、「意味のシステム」であり、その中で個々の器官はその存在と意味を与えられる。

 自然科学のこうした旧来のシステムは科学の「発展」とともに別のシステムに置き換えられていく。そこではシステムの統一が図られる。すべての生物は細胞からなり、細胞は細胞からのみ生じる。細胞を構成するのは分子であり、分子を構成するのは特定の種類しかない原子である。ここに至って、物理化学的な世界像がほぼ生物界を覆うことになる。そこに変なものが侵入する。細胞は細胞から生じるが、そこで働くのはDNAである。DNAは細胞にとって必要な「情報」を含んでいる。だから「同じ」種類の細胞が再生産される。この「同じ」は細胞を表現するのではない。「種類」を表現するのである。ある細胞とそれの分裂の結果で生じた娘細胞は当然「同じ」ではない。「同じ種類」なのである。ここでシステムを扱っているのはヒトの意識だということが露呈する。人の意識だけが「同じ」という機能を持つからである(『遺言。』)。

「同じ」は階層性を導く。個々のリンゴは赤、青、黄色それぞれである。人はそれをリンゴとして「同じ」にする。そこへミカンを持ち込むと、「同じ」ことが起こる。個々のミカンはそれぞれだが、ミカンとして「同じ」である。リンゴとミカンを一緒にするには、果物という概念を作ればよろしい。ただし果物はリンゴやミカンとは一階層上になる。こうして積み重ねた概念の最上位はただ一つの概念となる。それが唯一絶対の神である。

 こう考えていくと、私の中では議論のつじつまが合ってくるが、皆さんがそうだという保証はない。だから結局、私にとっても皆さんにとっても、どうでもいいという結論になって、あとは悟りの問題になる。

 東洋的に言えば、自然とは「自ずから然り」であって、なるようになる、ひとりでにそうなる、という意味である。外的な実在という意味はとくにはない。「なせばなる」というが、私は「ひとりでにそうなる」方がいいと思っている。万事はひとりでにそうなったんだから仕方がない。そう思うようにしている。それで何が悪い、としばしば開き直る。いまさら「乃公だいこう出でずんば」などと力んでみても、手足がいうことを聞かない。こうなっては、悟るしかありませんなあ。あとは万事余計なお世話。

 悟りに近づこうと思って、散歩に出る。スマホを忘れたので、取りに戻って、アプリを開こうとすると、代金を振り込めという指示が出る。メールのパスワードを要求されるので、それを入れると、反応しない。パスワードが違っているらしい。年中忘れるので、先日変更したばかりである。その変更がまだ有効になってないな。おかげでイライラして、また悟りから遠くなった。私もいろいろ面倒だが、「日本の進む道」も容易ではないな。やっぱりなるようにしかならないでしょうね。