フェルディナント・フォン・シーラッハの作品は、あれこれ言わずにまず読む。今回は『刑罰』(創元推理文庫)。全体に簡潔で、ほとんど物語の「あらすじ」みたいな書き方だが、弁護士という著者ならではの表現ともいえよう。テレビなどのメディアでふだん慣らされている饒舌や余計な感想がまったくないのが、爽快である。主人公の心理描写なんて、ほぼない。読者が想像するしかない。そこに深みが生じる。短編集だが、底を流れる主題は現代人の孤独であろう。孤独であったゆえに、主人公は奇矯な行動に走る。それが犯罪とそれゆえの刑罰に結び付く。

 ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)も母親と兄弟に捨てられた、学校にも行こうとしない娘の孤独から始まるが、帯に「本屋大賞翻訳小説部門第1位」とあるから、孤独は現代人にはなはだ人気があるらしい。孤独それ自体で1冊の本になる主題なのである。池田清彦『孤独という病』(宝島社)、 生物学者が生存戦略の視点から説く、現代人のための「孤独の飼い慣らし方」とある。孤独を文字通り周囲に人がいない日常と受け取るなら、家族の問題になって、それならエマニュエル・トッドの出番である。『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上下』(文藝春秋)。私は「封建的」なものが「進歩的」なものにどんどん置き換えられていく時代の育ちだったから、アングロサクソン流の核家族とは、もっとも原初的な家族の形態だというトッドの記述を読んで笑ってしまった。

 池田にせよ、トッドにせよ、勉強すれば、孤独の成因の理解はできるだろうが、病因の判明とその病気の治療の間には、結核でも半世紀のずれがあった。孤独という病の治療はもっと時間がかかるかもしれないと思う。先日、11歳年上の姉がなくなった。これで親兄弟は全部いなくなったので、その意味では私はまさに孤独である。昔話の相手がもういない。友人は訃報ばかりで、面白くない。明日も友人の葬儀になったので、仕事の予定を変更しなければならない。子どものいない夫婦の、旦那のほうが亡くなったが、コロナのせいで面会ができず、終末期の看取りができなかったと奥さんはこぼす。現代医療は死ぬことに焦点を当てすぎて、「生きること」をおろそかにしているように思う。医療界は「死ななきゃいいんだろ」と開き直っているような気がしないでもない。それならワクチンと超過死亡の関係にもっと注意を向けるべきだと考えるが、この話題は一般の報道には表れない。

 死は人為的に、つまり意識的に、きっちり定義できているから、好まれる。「生きる」方は簡単な定義ができない。政治家も官僚もジャーナリズムも、意識の中に埋没しているから、意識から外れた「生きること」自体を考えることはない。タバコと同じかもしれない。なぜタバコを吸うかはよくわからないが、禁煙はよくわかる。禁煙なら意識主体で、吸うほうは無意識により近い。特段の立派な理由もなく、ただなんとなく吸っているからである。そういう行為はいうなれば原始的であって、文明的でも文化的でもないと見なされる。あんなこと、やめればいいじゃないか。

 孤独の治療なら共同体の復活で、内田樹『コモンの再生』(文藝春秋)がある。タイトルに合わない論考がたくさん入っているが、こういうタイトルがつくということは、著者の内田がコモンを重視しているということであろう。すでに述べたことだが、私自身はコモンの復活というより、コモンの新生を2038年の南海トラフ地震に懸けたい。この本の中で、内田はいまの日本に未来がなくなったことをさまざまな面から論じる。そんなことはない。東南海地震という立派な(?)未来が待っている。首都圏直下型地震も富士山の噴火も、いつ起こってもおかしくないとされている。内田は人文系なので、自然系の未来については関心が薄いのであろう。

 それにしても孤独という主題を思いついて机の周囲を探しただけで、次々に参考資料が見つかる。驚くべき時代になった。私自身が多少参加しているのは、孤独が主題ではないが、城島明彦訳『超約版 方丈記』(ウェッジ)である。鴨長明こそ孤独の典型ではないか。鴨長明が死んだときは、現代でいう孤独死だったであろう。帯には「コロナ禍で注目 災害文学の叡智」とある。長明には家族はないし、家はいわば段ボールハウス、家財道具は持ち運びが簡単な程度しかない。ほとんどの人はいまはそんな生活はできないというだろうが、地震が来たらどうか。できるもできないもない。そうするしかない。

 この国でいまさら孤独を論じる気がしないのは、こういう先達がいることを、多くの人が知っているからであろう。日本文化では、孤独はむしろ前提なのである。鎌倉時代なら西行だって似たようなものだから、「孤独? フーン」でおしまい。江戸期になれば、芭蕉なら「この道や行く人なしに秋の暮」だし、林子平、六無斎なら「親も無し妻無し子無し板木無し金も無けれど死にたくも無し」。若い時から、なぜかこの歌が好きだった。葬式がにぎやかになっても仕方がない。それもあって、家族葬が増えたのか。

 この11月で、私は85歳になった。それがどうした、というようなものだが、自分にとってみれば、それなりの感慨はある。私事だが、11月11日の私の誕生日は高知でNPO「日本に健全な森をつくり直す委員会」の会員たちが、レストランを借り切って誕生日のお祝いをしてくれた。ケーキのローソクを吹き消して、食べる余力が残っている出席者が食べて、めでたく終わった。翌日は高知工科大学を会場にして「地震を怖がらずに、地震についてもっと勉強しよう」というシンポジウムが開かれた。大学の庭には、CLTで造られた仮設住宅の1棟が展示され、高知県はこれから何棟も準備するということであった。南海地震はさすがに地元ではすでに現実の未来として受け止められ、対策が進んでいる。高知県知事、黒潮町町長も出席されて、黒潮町では津波の最大予想値34メートルということなので、避難場所の指定はもとより、高齢者、移動困難者のために津波タワーの建設が進んでいるという発表もあった。町長は死者数ゼロを目指すとしている。

 すでに書いたように、私が重視するのは地震そのものによる人的物的被害ではない。その後のいわゆる復興に関することである。我が国は100年に一度は、この種の大きな自然災害に見舞われるはずなので、災害の前後の措置を十分に考えておく必要があろう。

 来年で100年を迎える関東大震災の教訓はいかがであろうか。震災の後、いわゆる虎の門事件というテロが発生し、治安維持法が強化され、昭和2年には田中義一内閣が成立し、以後の昭和史は軍部一色に染められることになる。大正デモクラシーや竹久夢二のポスターが示すような消費型の自由社会志向が、一転して軍国に変わっていくのに、震災の影響がなかったとは言えまい。

 さらに遡って、安政の江戸大地震は、東南海地震に伴っており、前々年の嘉永6年のペリー来航が歴史書では最も大きな徳川時代の社会変化の要因と見なされている。平穏を謳歌した江戸時代は、ペリー来航を機に倒幕運動へ動いていったのか、大地震を契機としてそうなったのか。いずれにせよ、大きな自然災害が、人心に与える影響は無視できまい。この国では、それがいわば常態というべきであろう。

 歴史家は主として人事を扱う。そこでは自然災害は攪乱要因としてのみ扱われる。人事と政治、経済はつきものだから、歴史の叙述の主流は必然的にそちらになる。日本社会は「空気で動く」とよく否定的に言われる。空気は規定しがたいために、まじめに扱われることはない。とはいえ自然災害によって、いわゆる世間の空気が変わることは、おそらく否定できないであろう。その空気で世間が動いたのでは、理性的、合理的思考を旨とする学者は困るであろうが、世間は学者の都合で動くわけではない。

 次の震災後に、新しいコモンが生じることを、私は期待する。それは偉い人が掛け声をかけて成立するようなものではない。そうならざるを得ないから、そうなる。それが国連のいうSDGsを「自然に」満たすものであることを期待するのは、望みすぎであろうか。そうならざるを得ないなら、ひとりでにそうなるはずであって、そこでどう人事を尽くせばいいのか、私にはわからないというしかない。ただ各人に要求される資質がなにか、それなら多少わかるように思う。何事も人頼みにしないという意味での自立、可能な範囲で満足する自足であろう。これらはあらためて言うような立派な指針ではない。平時であっても、いわば当然のことだからである。

 ここで私が言うコモンとは、立地環境を含めた共同体である。べつに山岸会みたいなものを想定しているわけではない。世界全体との交流は現状通り自由であり、ネット環境が確保されていれば問題ないはずである。問題にしているのは、落合陽一流に言えば「質量のある世界」、つまりモノの世界のことである。情報の世界は「質量のない」世界だから、ここで特に問題にすることはない。環境問題は質量のある世界の問題なのである。この2つの世界の関係は、よく整理されているとは言えない。これから考えてみたい主題の1つである。

 2038年には私は101歳のはずだから、もう死んでいるか、生きていたとしても、ほぼ完全にへたばっているであろう。日本の行く先を見られないのは残念である。高知のシンポジウムに出席された2038年説の地震学者、尾池和夫先生は、京都から静岡に移られた。いつ起こってもおかしくないと言われる富士山の噴火が、やはり見たいらしい。それでこそ学者であろう。