歳をとって、何か変わったことがありますか。よくそう訊かれる。とくにないと言えばないが、理屈を言うのが面倒になった。以前からだが、日常生活ではあまり理屈を言わない。言ったところで、どうせ家族は聞いていない。以前『十八史略』で「書は以て姓名を記せば足る、剣は一人の敵のみ」というのを読まされた覚えがある。これは項羽の伝説らしいが、いまでも覚えているところを見ると、若いころだから、あんまり勉強したって仕方がないよ、という意味に読んだらしい。いかにも項羽らしい乱暴な逸話だが、そう思うのもおそらく書かれた知識に基づく偏見であろう。原典は『史記』列伝であろう。

 6月4日には例年通り、虫供養を鎌倉の建長寺でおこなった。玄侑宗久師が来てくださり、「虫能天」というお話をされた。「虫よく天たり」と読み下せるが、まあ虫は自然に従って、こざかしい人為がない、という意味だと勝手に解釈した。自然そのものだと言ってもいいであろう。原典は『荘子』とのことだった。

 ほとんどコロナ明けのせいか、このところ人出がむやみに多い。おかげで虫供養も大勢の方が参加してくださった。今回で6回目になるが、毎回ゲストになにかお話をいただいて、あとは私と対談という段取りになっている。それが終わると、虫塚で供養となって、お坊さんたちの読経に焼香となる。私は祭壇のわきに座っていて、お葬式なら遺族席になるから、焼香後に皆さんが私の方を見て挨拶される。私はニコニコして挨拶を返すが、これだけは普通のお葬式ではできない。葬式ならニコニコするわけにはいかない。思えば、平和なものである。とりあえず日本には天災も戦争もないから、虫の供養なんかができるわけで、言うなれば虫供養は平和の象徴みたいなものか。

 6月13日の朝、散歩に出たら、家のすぐ下の「やぐら」の前でカラスが一羽、死んでいた。「やぐら」とは小さな人工の古い洞窟で、鎌倉には多い。2メートルほど離れた路上に10センチほどの長さの羽が10本くらい、ほぼ輪状に落ちていたので、そこが殺害現場かもしれないと思った。仲間の犯行か、鳶のような猛禽によるものかと思ったが、猛禽なら死体を放置しないであろう。カラスの死体は生まれて初めて見た。目にしたり、鳴き声をよく聞く割には、死体を見かけないということが有名な鳥である。たとえカラスであっても、こうした不慮の死を見てしまうと、さまざまな想いが生じてしまう。都会の生活はこうしたできごとに出会うことをできる限り避けるようにしつらえられている。できるだけ「想わない」ことを意図するからであろう。このカラスの死体も散歩の帰りにはごみ収集の車が来て、片付けられてしまった。ちょうど前日にはヨシタケシンスケの絵本『メメンとモリ』(KADOKAWA)を読んだところだった。

 6月11日に岡山の長泉寺のご住職の仲介で、岡山で佐々井秀嶺師にお会いすることができた。師はインド仏教のトップを務められており、私より2歳年長である。山陽新聞の対談ということだったが、話すことはほとんどない。佐々井師もインドでは大声で説法するらしいが、本来の教えは説法ではなく、「すること」だという。私もまったく同感なので、これでは対談にならない。文章を書きながらいつも思うことだが、現代は言葉が多すぎる。言葉に使う時間だけ、行動にうつせば、世の中はずいぶん変わるはずである。SNSもツイッターも、要するに言葉である。インドの人は深く考えていて、よく話すと佐々井師は言う。聞く方もその分、集中して聞かなければならないから、精力を取られる。言葉が多くなるとは、じつは大変なことなのである。だから前回、31文字か17文字で済まないか、と書いた。言葉を減らそうとしても「この道や行く人なしに秋の暮れ」状態で、言葉はますますいや増すに違いない。なにしろチャットGPTではないか。計算機が言葉の再生産を始めたくらいですからね。

 佐々井秀嶺の半生は、山際素男『破天 インド仏教徒の頂点に立つ日本人』(光文社新書)に詳しい。さらに佐々井の師B.R.アンベードカルについては同じ著者の訳『ブッダとそのダンマ』(光文社新書)がある。佐々井のような人物をどう考えるかは、日本人には意外に難しい課題であろう。6月に入って中村哲『中村哲 思索と行動 上』(ペシャワール会)を送っていただいた。中村も佐々井も、まさに世界的な業績を挙げた人たちだが、これをどう位置づけるかについて、ほとんどの日本人が困ると思う。「位置づける」にはもちろん座標が必要である。現代の日本はこうした人物をどう評価するかについて、まさに無座標なのである。グローバルなどという言葉は散々書き立てるが、アフガンもインドも日本人の思う「世界」から除外されているらしい。ハテこのお二人をどう評価したらいいのか。仕方がないから、現代の豪傑と呼んでおこう。これは杉田玄白が解剖学の先人として、山脇東洋と荻生徂徠を評した言葉である。解剖学は「学」であるとともに社会的行動を伴っている。徂徠には当てはまらないが、その程度のことは無視しておくことにする。

 80の半ばを越えて、なんとなく社会に目が向くようになってきた。選挙などで、高齢者の行動が云々されるけれども、実際に高齢になってみると、やっと社会に関心が向いてくるのである。対抗上か、若者に選挙権を与えたりしているけれど、自然な動きには対抗できないであろう。若者は社会には無関心で当然なのである。中年まではどうしても個人の利害が問題になってしまう。周囲を考えるにしても、身近な人事が中心であろう。インドの不可触賤民もアフガンの農民もまったくの赤の他人である。赤の他人までは目が届かず、そんな人たちのことまで考えるには、実感が伴わない。

 並んでユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』(河出文庫)を読む。未来論から始まるが、中村や佐々井と違って、視線がいわば上空からである。高踏派というべきか。それに対して、中村や佐々井はいわば地面に張り付いている。欧米型の文明には先行きが予測しやすいという利点がある。だから高踏派になる。明治維新が富国強兵から始まるのも、両分野が予測と統御が可能つまりシミュレーションがしやすかったからに違いない。私自身はシミュレーションできる未来にあまり関心が向かない。これは実は若い時からで、年齢のせいではないと思う。なにごとも先が見えたら面白くない。中村も佐々井も、自分がここまでやれるとか、どうとか、考えていなかったに違いないと思う。その場に置かれて、現に必要と信じることを行ってきただけであろう。平たく言えば行き当たりばったりということになるが、多かれ少なかれ、人生とはそういうものかもしれない。年齢とともにそう思うようになってきた。

 成り行きとか、行きがかりとかの表現を使うことが多くなったと思う。信念を貫くなんてことは、薬にしたくてもない。小学校四年生の時から昆虫標本を作り続けているが、べつにどこかに信念があったというわけではない。80歳の半ばを越えるまで、なんとなく続けてきただけのことである。これではなんだか気勢が上がらない。若い人向けの話は未来に向けて頑張れというのが普通だろうが、行きがかりで行け、とか成り行きに任せろ、ではまさに話にならない。じつはそれで困っている。

 ヨシタケシンスケの『メメンとモリ』は絵本だから、主人公は子どもで、メメンはお姉ちゃん、モリは弟という設定だが、memento mori は老人と若者では受け取り方がだいぶ違うのではないか。同じようなラテン語で carpe diem というのがある。その日を摘め、というのが原意のようだが、今を生きろという意味でメメントモリに続いて使われる。この言葉なら老人でも若者でも、同じように通用する。老人には特に切実だと思う。なにしろ老人には後がない。そういうタイトルのゲームをやっていると、ヤマザキマリさんに言ったら、そういうタイトルの作品を考えているとの返事があった。行き当たりばったりより、このほうが表現としてはいいと思う。中村も佐々井もカルペディエムなので、目前のことに集中できることが「生きる」ことなのである。

 生涯学習について語れという注文が来たから、生きている限り人は学ぶもので、それが「学習」として分離するのは、十分に生きていないからだ、といわば喧嘩を売ってしまった。必死で生きていれば、人はそこから学ぶに決まっているので、それが学ぶことなのである。私が言葉を嫌うというのも、人生を言葉でとらえる傾向になるのを警戒するからである。解剖も昆虫採集も、言葉からでは学べない。いわばひたすらやるしかない。そうに決まっているではないか。

 学習がヘンな形に理解されているのは、間違いなく学校教育のせいであろう。日本では教わるのが学習なのである。解剖も昆虫採集も人から教わるものではなく、自分でするものである。教わる方が早く、上手にできる可能性があるが、所詮は応用が利かないし、身につくわけではない。東京大学の大学院で私が受けた教育は結局はそれだった。なにしろ自分でやれというのである。教わった方が早いことがあるのは確かだが、それはどこか本当ではない。筋肉の研究でノーベル賞を受けたハックスレーは偏光顕微鏡を自分で作ってしまった。わたしなんかは、顕微鏡は買ってきて使うものだと思っていたから、ダメだったのである。ヒトの作ったものを上手に利用するのは、それでいい。しかし、自家薬籠中のものにするには、自分でやるしかない。算数の問題は自分で考えて解くもので、解き方を先生から教わるものではない。誰もが数学者になるわけではないから、試験のために解き方を教わるのも一案である。しかし、それは自分自身が生きるためにはならないことを銘記すべきであろう。コンピュータが「学習」して、人間が学習しない世界を作って、どうしようというのか。