私には私の花暦がある。場所は自分の家の庭とその近所。虫暦もある。でもそんなものには一般性がない。

 どちらもかなり狂ってきている気がする。ボケが先に咲いて、やがて桜が咲くと思っていたら、近頃は逆になってきた。7月になると、ヤマユリとイワタバコが咲く。いまはどちらも6月に咲くようになった。

 3月の終わりに出てくる虫は決まっていたが、それが近年は出てこない。今年はイタドリハムシが一匹も庭に出現しなかった。近所を歩いても、見られなかった。6月はじめに佐渡に行ったら、山ほどいた。庭の異変は世界の異変ではない。

 いい本を読んだ。ゲイブ・ブラウン『土を育てる』NHK出版である。著者はアメリカの農民で、自分の畑をやって、農業、畜産業を営んでいる。不耕起で、化学肥料、殺虫剤、除草剤は使わない。それで農業を成り立たせ、採算を採っている。これが重要で、有機農業を信念としてやる場合、採算を度外視すると、産業ではなくて、信仰に近くなってしまう。要するに土を自然に戻してやればいい、というのが著者の結論だが、農業の素人としては、ここで呆れるしかない。農業成立以来1万年、額に汗して畑を耕してきたのは、なんだったのか。働くフリか。

 口絵の写真が13枚あって、そのうち2枚が説得力がある。1枚には「うちの畑では、ジャガイモを育てるときさえ耕さない。地表にそのまま種イモを並べ、上にアルファルファの干し草を広げる」とある。次に「収穫時期が来たら、干し草をめくるだけ。土を掘る手間、ゼロ!」とある。確かに丸いジャガイモが畑の表面にただ並んでいる。イモを掘らずに収穫するなんて、なんだかバチが当たりそうな気がするのは、私だけか。日本人一般の感性か。

 アメリカでは不耕起の農業が広がっているという話は、しばらく前から聞いている。確か1割ほどの農地が不耕起だとその頃に聞いた。広大な農地を人工的に維持しようとするのがアメリカ農業だから、自然破壊も大規模になる。それを目前にしている農民が問題に気づかないはずがない。日本で言うなら「木村さんのリンゴ」である。なにもしない。自然のままで育てる。それなのに、木村さんの場合は、そこまで行くのに首を吊ろうと思うまで苦労する。

 その苦労の大半は、家族を含めた対人関係である。自然を相手にするときには、無理をしないほうがいい。自然はひとりでに「なるようになる」。

 リサ・フェルドマン・バレット『情動はこうしてつくられる』紀伊國屋書店でも似たことを感じた。あらゆる文献を参照し、さらに自分でもさまざまな実験を行い、特定の情動が発現するときの脳の一般的な状態を確認しようとする。その最終的な解答は「ヒトそれぞれ違う、一般解はない」というものだった。そんなことなら、実験をする前からわかっているじゃないか。感情の現れは、一人一人違うに決まっているだろ。農民が土を掘り返すのと、神経科学者が脳の状態を科学的に測定するのと、似たような努力である。さんざん努力した挙句の果てに、フリダシに戻る。

 ここで当然、努力にも価値があると頑張る人と、出発点が間違っているとダメだからよく考えなさい、という人に分かれるんじゃないかと思う。もちろん畑の場合も脳研究の場合も、努力した分だけは、なにかを学んでいるはずである。ただしその学びは、当初の目的からは全く離れてしまっている。こういうことに関心が向くのは、おそらく私が歳をとったせいではないかと思う。80歳を過ぎれば、もう努力もできないし、学んでもたかが知れている。それなら無駄な努力はしないほうがいい。考え方がそちらに傾く。

 そういえば、モンテーニュのエセーの中に「あはれこの人、一大努力をもって一大愚論をなす」という引用があった記憶がある。ローマの詩人の言葉であろう。

 6月初めには、佐渡に行った。雑誌の取材があり、虫採りを兼ねて勇んで出かけた。ちょうどトビシマカンゾウの最盛期で、名所の大野亀に限らず、海岸縁の崖地にはあちこちにカンゾウの橙色の花が咲いていた。不思議に虫は少ない島で、私は自然の代表として虫を見るので、自然がつかみにくい島だと感じた。本州であれば、高標高地に育つ植物が比較的低地に下っている点は、隠岐に似ているなあと思った。カンゾウは要するにキスゲの仲間で、本州では子どものころから長野県の霧ケ峰とか、日光の戦場ヶ原とかで見てきたような花なので、それが低標高の海岸で育つというのは奇異な感じだった。虫が少なく思えたのは、島ではどこに行っても海が近いせいかもしれない。虫は潮風を嫌うらしく、私は海辺の鎌倉の育ちだから、内陸部で見るような虫にあまり出会わずに育った。だから生まれて初めて長野の高原に虫を採りに行ったときは、初めてお目にかかる虫が多くて、まことに興奮した。

 島にはその島で特化した型の虫がいる。佐渡ではサドマイマイカブリが有名である。マイマイカブリは日本中どこでも見られる虫だが、名称の通りカタツムリに食い込んでそれを食べる。佐渡の型はやや形が違うので、古くからサドマイマイカブリとして知られてきた。収集家はこういうものはどうしても欲しくなるのである。でも私はもっていない。今回は残念ながら採ることができなかった。サドコメツキモドキになると、凝り過ぎでその道の人でも知らないことが多い。これはヤマモトイという種小名(学名)がつけられているが、このヤマモトは私の中学生時代の恩師、生物学を教えておられた山本玄先生にちなんでつけられたものである。これも見つからなかった。

 虫採りというのは、特定の相手を決めると、なかなか見つからないものである。とにかく種類が多いので、とくに当てもなく探したほうが面白いものが見つかる場合が多い。今回はヒゲボソゾウムシの仲間を探しに行ったのだが、いかにもいそうなのに、あまりいなかった。なぜ「いそう」なのかというと、広葉樹が主体の自然樹林がよく保たれていたからで、そういう環境でなら本州のほかの場所では捨てたくなるほど採れるはずの虫なのである。下草もよく茂っていた。これはシカ、イノシシなどの大型獣が佐渡にはいないからで、現在の西日本の山林は、下草が主にシカに食われて全滅に近い状態になっている。

 ほかにも佐渡に特有とされる虫はあるが、あまりにもオタク的なので、もう触れない。島でなぜ虫が特化するかというと、島内という限定された場所で繁殖するからで、小集団では特殊な遺伝的変異が集積されやすいのである。

 佐渡でやや大型の動物といえば、もちろんトキである。保護して人工繁殖させた個体を放鳥している。野生でも繁殖が見られているらしい。『土を育てる』のように、農業をできるだけ自然状態で行うようになれば、トキはひとりでに増えるはずである。田んぼに生き物が少なくなってしまうような状況では、またいついなくなるかと、ハラハラしていなければならない。トキがいなくなっても、だれも困らないだろうというのが、大方の人の本音かもしれないが、やがてそれがヒトの運命かもしれないと気づいていないだけのことかもしれない。現に何もしていないのに、都会では子どもの数が減少している。人口の減少だけなら問題は少ないが、人口全体が減少しても少子化が続くようなら、まさに日本が「ひとりでに」滅びるわけである。10代から30代までの日本人の死因の第1位は自殺である。防衛費増額と首相が言っても、私がなんだかシラけるのは、こういう事実を知るためである。

 水辺の生き物が減ってしまったことは、いまさらいうまでもなく、昨年は赤トンボがあまり見られなくなって、私としてはトキ以上に心配だった。自然農法で稲作をやれば、水辺の環境は維持され、動物も増えるはずである。田んぼは上から水を引くから、上流で薬をまけば、どうしても下流に影響を与える。なんであれ、人為的にやらなきゃ気が済まない。そういう人たちが増えたのかもしれない。AI社会は考え方の上でそれを加速しているのではないか。メタバースで人間行動は再現可能かもしれないが、田んぼや虫は再現できまい。まして目に見えない地下の生物、とくに菌類などは無理であろう。人とは厄介な生き物で、与えられた環境ではなかなか自足しない。世界は網の目だから、どれか一本の糸を引くと、たくさんの糸に影響してしまう。その結果としてやることが際限なく増える。忙しくてたまらない。それで肝心な部分が見えなくなって、そこで大事なことに対して手が抜ける。すでに述べた農業と似たようなことであろう。一生懸命働いたんだから、これでいいはずだ。皆がそう思ってやって来たら、国連がSDGsなんて言い出す世界が生まれてきた。

 私が歳をとったのは「ひとりでに」そうなったので、別に歳をとろうと意図したわけではない。しかし誰であれ、ひとりでに歳をとることは間違いない。デビッド・A・シンクレア『LIFESPAN 老いなき世界』東洋経済新報社では、老化は病気だから治療できると説いているが、「どこまで」という問題が永遠に続くはずである。私も上手に歳をとろうなどと、余計なことを考えているが、結論はなるようにしかならない、というものである。何をしたとしても一長一短、だからどうした、という結果になるのは目に見えている。