地震の話を書いてきたが、日本史の専門家が天災について触れないはずがない。近年では磯田道史『天災から日本史を読みなおす』(中公新書)が歴史学者の天災観をよく伝えている。この本は秀吉を足止めした天正の地震から書き始めているが、前回私はそれには触れなかった。手近な書物で天正地震に触れたものがなかったからである。平安の貴族政治が滅びて、武家政権が成立し、江戸幕府が終わるまでの間、日本を統治してきたのは武力である。その始まりは東島誠『幕府とは何か』(NHKブックス)に丁寧に書かれている。平安末期になぜ武力が重視されたか、うかつな話だが、私はこの本で初めて気づいた。海賊、山賊が横行し、京の都はきわめて危うい状態にあったという。鴨長明の『方丈記』に書かれるように「都のものはすべて田舎を源にする」のに、流通路が途絶えてしまえば、都は飢えるしかない。その流通を確保するのが武力だった。

 そのような状況は当然時代とともに変化する。それに伴って、武士と武力の意味も違ってきたであろう。しかし武家政権のはじめと終わりを画すのが天災であることはここまで述べてきたとおりであろう。それが世間の常識にかならずしもならないのは、人心の変化と絡んでいて、そんなものは理性的な解析に向かないからである。山本七平に『空気の研究』がある。とにかくあれだけ理性的に戦中の雰囲気を解析できた人が、空気というものを根本的には解析できなかった(といっていいであろう)。その後ものごとが「空気で決まる」というのは「正しくない」という「常識」(空気?)みたいなものができたと思う。「空気で決まる」ことを実感としてその時代を生きた山本を後世が理性的に超えられるだろうか。空気とはその時、その場限りのもので、それを解析するとは、とことんデテールにこだわることになるはずである。それは一般論としての学問的な取扱いに向くはずがない。

 歴史を扱おうとすると、いつも思い浮かぶ出来事がある。東大医学部の講義で、進化という主題を扱った時のことである。講義の終ったあとで、聞いていた大学院生の一人が「進化なんて、そんな済んでしまったことを考えて何になりますか」と私に質問した。これには意表を突かれたが、今思えば、「今だけ、金だけ、自分だけ」という空気が世間を覆いだした最初のころだったと思う。今だけの世界に歴史は不要である。この学生は優秀な男で、のちに若くして国立大学の教授になって、早逝したが、今生きていたら、なんというであろうか。

 私は人文学にかかわることを避けてきたが、80代の半ばを超えると存在するものを無視してもしょうがないと素直に思うようになって来た。とくに自分の人生のかなりの部分がいわば「歴史」に組み込まれてしまうと、歴史は無視できない。これを書いているのは8月初頭だが、何しろむやみに暑い。「8月は6日、9日、15日」、つまり広島、長崎、敗戦だという句を読売新聞が引用していたが、ロクな思い出がない。しょうがないから虫取りに出るが、あんまり暑いので虫も活動が制限を受ける。この夏は仕事を含めて、まず佐渡に行き、続いて山梨県大菩薩、黒姫のアファンの森、福島県田村市、宮城県村田町、長崎県対馬、栃木県茂木などに出かけたが、採集の成果ははかばかしくなかった。なにせ暑いので葉っぱに虫がついていないのである。唯一、例年通りに近かったのは大菩薩で、ここは標高が1500メートルくらいあったから、暑さの影響が少なかった可能性がある。

 さて話は歴史に戻る。自然を相手にしていると、あるものはしょうがないと思うようになる。歴史についても同じことで、起こったことは仕方がないのである。それを事後的に整理して、きちんと決着をつけなければならない。わかった人はそういうが、私はとてもそんな気にはならない。

 虫がいるとか、いないとか、それも様々な要因で結果的に決まってくるのだから、あれこれ言ってもしょうがないと思う癖がついている。むろん人事はそうではない。「あってはならない」などとメディアはよく書く。そうはいっても、地震、津波、台風、猛暑のような自然現象はしょうがないではないか。それでも災害は人災だと頑張る人がいて、その気持ちもわからないではない。なにごとも「仕方がない」では人間の出番がない。元気が出ないのであろう。歴史はすべてやむを得ない必然だったとしても、そこに人間の意志なり行為なりを少しでも加えたい。歴史を記すという行為には、そういうはかない望みがあるのかもしれない。

 今西錦司の進化論は「なるべくしてなる」というものだった。ダーウィンとワレスの進化論はむろん自然淘汰説である。この二つは違うようで、深いところに共通点があるように思われる。偶然の動きが状況によって選択されて進化が生じるというのは、偶然から必然が生まれることである。物理学では似た考え方が熱力学を誕生させた、と思う。乱暴な要約ではあるが、そんな風に考えていると、以下同様となって、より高次のレベルでも物事は同じように進行するのではないかという気がしてくる。

 8月になると、戦争の話がメディアを賑わせる。昨年は広島のテレビで高校生に原爆の話をしろと言われて、往生した。戦争を忘れるなとメディアは言うが、意識化できないものは伝えようがない。実際に経験するしか方法がないからである。歴史については、それは無理というもの。戦争の記憶を伝えるというけれど、聞いた本人は「察する」だけで、それでは十分に「伝える」ことにはならないであろう。小幡敏『忘れられた戦争の記憶』(ビジネス社)を入手して読んでしまった。著者は最初に書く必然性がないものを書くから本が増えて困るといった内容のことを記す。確かに戦争に関する書物は汗牛充棟、私自身も何冊も読んだ覚えがある。ただし本当は読みたくなかった。それでも小幡のこの作品はすらりと読めてしまった。作品の質もあるが、私自身が変わったのである。起こったことはしょうがないのだから、悲惨だろうが、重たかろうが、読む。起こったことが、誰かのせいだというのは、読み飛ばす。そんなこと、今更考えてもしょうがないと感じるようになった。そこをちゃんと考えることが戦争を防止することにつながる。そういう意見があることは知っている。でも私はそんなことは信じていない。

 7月の初めに台湾に行った。メディアはなにかというとすぐ台湾有事をいうが、虫取りには関係がない。中学時代の私の虫の先生は、敗戦後すぐに満州から台湾に渡り、1年間帰ってこなかったという。家族は本人が死んだかと思っていた。虫屋とはそんなもので、戦争やその時の社会状況とはあまり関係を持たないのである。そうなると、状況によっては、反社会的とみなされることになり、生存も危うくなる。鹿野忠雄がそうだったのではないかと疑う。ボルネオで終戦時に帰還命令を無視したとして、憲兵に射殺されたといううわさがある。社会的にはとくに害はない人のはずだが、それがそう思われない社会状況があるということである。

 そういうこと全体をひっくるめて、私はいわゆる大東亜戦争全体を忌避してきた。だから関連の本も読みたくなかったのである。なぜか山本七平は別だった。山本七平には戦争に対する情動的な態度が欠けていたからだと思う。それが最近では、なんとも思わなくなってきた。恨みつらみを含めて、戦争に関する記録をとくに避けたいとは思わなくなってきた。おそらく年齢のせいだと思うが、いわば「どうでもいい」に近づいたらしい。ただしまだきちんと総括しようなんて気は毛頭ない。そんな元気もあるはずがない。年だから当たり前ではないか。

 先週は鎌倉市内の小学生相手に、私が生まれた年に盧溝橋事件が勃発した、と教えてきた。虫について、あれこれ自由に質問を受けたのだけれど、話がウクライナの戦争になったら、今の小学生は途端に反応が良くなったので、ロシアがウクライナに侵攻した時のいわゆる国際世論は、日本が盧溝橋から中国本土に侵攻した時の反応とよく似ていたんじゃないかと話した。小学生はぽかんとしていたが、これは私の本音である。「かといって、私はプーチンの暴挙を是認するわけではありませんが」と枕詞をつけるのが、ロシアびいきと思われそうな発言をする人たちの常だが、やっぱりまたか、と感じることが多くなった。すでに「空気」は醸成されている。それに論理的、実質的な根拠があるのだろうか。

 炎上云々も現代的な空気の醸成とでもいうべきかもしれない。若い世代にはそれを上手に利用する人も出始めているようである。けがをしなけりゃいいが、と年寄りは余計な心配をするばかりである。

 8月は虫が夏枯れするだけではなく、私にとっては嫌な月である。暑くて、着るものの心配が少ないのはありがたいが、ただでさえ眠れない年寄りがますます寝苦しくなる。冷房の効いた部屋で顕微鏡をのぞきながら昆虫の標本を作っているのがなにより楽しい。おかげさまで生きていられる。ヤマザキマリさんの『CARPE DIEM』がそばに置いてある。もう読了した。自伝風の軽い内容で、肯定的なのがいい。タイトルはその日を掴め、しっかり今を生きろ、ということで、修道院のあいさつでは memento mori と対句になっていたそうである。なるほど後の句は省略した方がいい。

 ベッドの脇には、ビジョルドの「魔術師ペンリック」シリーズの1冊が置いてある。読みながら寝よう。