どういうわけか知らないが、たまたま自著の出版が続いている。昨年末から『養老先生のさかさま人間学』(ぞうさん出版)、『養老先生、病院へ行く』(エクスナレッジ)、『ヒトの壁』(新潮新書)、『まる ありがとう』(西日本出版社)、いちばん新しいのは『子どもが心配』(PHP新書)で4人の専門家に子どもについての話を聞いた対談集である。同時に毎日新聞出版から書評集『〈自分〉を知りたい君たちへ』も刊行された。コロナのせいで、出版社が本業にかける時間が増えたのかもしれない。

 並行してテレビに出たり、ラジオに出たり、広報が忙しくなった。家内の知り合いの勧めで YouTube を始めたので、これも時間をとる。80歳を超えた老爺が「子どもの心配」をしてもしょうがないが、いろいろな機会に子どもたちの質問を受けることがあって、時代の変化をしみじみと感じる。

 自殺について話すと、「なぜ死んではいけないんですか」という反応が来る。こうした疑問に直接回答はできないが、前提はわかる。「自分の人生を自分の思うようにして、なにがいけないんですか」と考えているに違いない。なぜ直接に返答してはいけないかというと、こういう問題を言葉の上で解決できる、あるいは「答えられる」という錯覚を与えるからである。人生の問題は言葉で片付けられるようなものではない。人生は時間を含むが、言葉は時間を消去することを思えばすぐにわかる。100年のプロセスを「人生」の一言にしてしまう。現代はこうした言葉の難点が前提から消えてしまった時代なのである。すべてが情報化され、情報化されたものがすべてだからである。

 小学生の質問に「良い人生といわれるけれど、良い人生ってどういう人生ですか」というのもあった。質問者の10歳という年齢を考えると、これは人生というより「生き方」を尋ねているな、と判断される。それなら人類の発祥以来、夥しい数の人たちが尋ねてきたことであろう。その回答は古代ギリシャやローマなら哲学者の仕事で、普通の社会なら聖職者の受け持ちである。それを私に訊くのが現代で、たくさん本を書くと、こういう副作用が生じる。

 根本問題は人生の良い、悪いを判断するのがだれか、である。小学生なら「自分だ」と思っているであろうが、私の場合ならまだ人生が終わっていない。それならただ今現在での判断しかできない。死んだら、自分の判断はできない。でも死ぬまで待たないと人生の全体像はつかめない。古代メソポタミアの人はうがった解答を出したと思う。キリスト教、イスラム教では「最後の審判」というものがある。世界の終末でないと、各人の世界への貢献は判断できないからであろう。しかもその判断は神による。人智を超えるのである。古代中国なら「正史に名を遺す」のが、他人による人生の判断であろう。中国は徹底した政治的な社会で、なぜそうなのか、私にはわからない。長年の疑問である。

 若者の質問は、質問自体よりその背景が興味深い。さまざまなことを考えさせられる。「最後の審判」も小学生の質問がなければ、考えなかったに違いない。それまでは最後の審判に出るのは、いつの私だという疑問しかなかったからである。「最後の審判」はきわめて抽象度の高い概念である。古人のたわごとと片付けていいような話ではない。誰かが世間に与えた影響は、世間そのものが滅びるまでは正確にはわからない。これだから歳を重ねると困るので、知っていると思っていたことが、じつは知らないことだったりするのである。

 良い生き方を考えるときに、いちばん参考になるのは文学であろう。右の質問者が高校生以上であれば、最近のものでぜひ勧めたい作品がある。マリアンヌ・クローニン『レニーとマーゴで100歳』(新潮社)がそれで、レニーは17歳、マーゴは83歳、合わせてちょうど100歳。二人は同じ病院に入院しており、レニーは不治の病で、その種の患者が入る病棟にいる。レニーはもはや命がないことを自分でも知っている。しかし非常に魅力的なキャラクターで、院内に80歳以上の患者のための絵画教室が開かれるというのでルール違反でそこに参加する。マーゴと知り合い、レニーの発案で二人で合わせて100枚の絵を描く約束をする。マーゴは長く生きてきたので、83枚、レニーは17枚ということになる。

 レニーはおそらく著者の分身であり、17歳の少女の気分を見事に描いている。レニーとマーゴの人生が絵とともに思い出話として書かれ、上手な構成になっている。レニーの生き生きした感じが「良い人生」とはなんだ、という宙に浮くような疑問を吹き飛ばしてしまう。ほかに登場する人物たちも特別な人ではなく、ごく平凡な人生を送っているが、まさに「生きている」というしかない。

 著者はイギリス人だが、私は19世紀のイギリス文学が大好きである。ディッケンズやジェイン・オースティンはいまでも読むし、時間があればまた読みたいと思う。結局は抽象に偏らず、原理原則に縛られず、具体的で面白いからである。人間関係の距離の取り方が、まさに微妙で、あまり立ち入らずに遠ざける分、相手の気持ちに対する想像力の訓練になるのではないだろうかと思う。レニーの母親はおそらく精神の病で娘と生き別れになっており、父親はたまに面会に来るだけである。レニーはスウェーデンで7歳まで育ち、その後イギリスに来たので、子ども時代から孤独であり、気持ちの上では自立している。この自立した感じが、日本ではなかなか得られない。

 日本の文学では夏目漱石の作品がある。私が漱石の作品に惹かれるのも、個人の自立と関係するのかもしれない。日本の世間は、若者の自立をできるだけ阻害しているように見える。安定した職場に就職して、寄らば大樹の蔭、それを家族一同が望む。結果としてはそれでいいわけだが、そこで落ちるものがある。それはそこに至るプロセスである。人生はプロセスで、そもそもどうなったら自立なのか、それもわからない。成人式がもめるわけであろう。自分の人生は自分のものだから、自殺してもいい。そう思うくらいなら、自分の人生は自分のものとして自立すればいいじゃないか。その自立とは、なにも経済には限らない。この辺りになると、なんとも厄介な議論をしなければならないし、具体的な事例で考える必要がある。だから文学が参考になる。

 右の小説の例でいうなら、17歳の少女と、83歳の老女がよく生きるためには、両者が自立していなければならない。そうでないと、不健康な相互依存関係になる。母親の介護をしていた息子が、母親が死んだあと、医師や介護の人たちを死傷した事件があった。詳細は知らないが、息子が医師に蘇生術を強制したと伝えられている。母親が生きていることが息子の生の絶対条件になってしまっていたらしい。ここにも人間関係の距離の問題が顕著に表れている。医師や他の介護者という第三者が入り込んだ時に、問題が起こる。息子は胃瘻を強く望んだけれども、医師が拒んだという報道もあった。医師が関与した時点で、すでに息子の母親依存は進行していたはずで、問題は息子の自立にあったと思えば、医師に打つ手はなかったはずである。

 私は権力がわからない。他人が自分に依存するのは、気味が悪いという感じしかない。だから政治は苦手だと公言している。医療で深刻な問題が生じるのは、本人が不在の場合である。大学紛争の時、医学部では小児科と精神科がいちばんもめた。両分野ともに、いわば本人が不在で、代弁者しかいないからである。日本の場合、代弁者はずいぶん極端な主張をすることがある。先の医師が撃ち殺された例が典型である。母親は胃瘻にせよ蘇生術にせよ、治療はもうたくさんだと主張したかもしれないが、その主張がないと、代弁者の意見がエスカレートする。「自分の思うように」しようとするわけだが、これは一種の権力欲ではないだろうか。権力欲はふだんは隠されていて、目に見えないが、ある局面でだしぬけに表に出る。

 この例はあまりにも極端だと思われるかもしれない。以前「貧乏人の子だくさん」を権力欲と関係しないか、と論じたことがある。貧乏だということは、社会的にあまり「思うようにならない」ことを意味する。ただ子どもに対しては、強い権力を持つことができる。職人が貧乏でもあんがい大丈夫なのは、モノを「思うようにする」からかもしれない。

 私がいちばん理解できないと思う人たちは、金正日、トランプ、習近平、プーチンなどである。君子の三楽という孟子の言があって、その続きは「而王天下、不与存焉」(しこうして、天下に王たるはあずかり存せず)となる。わざわざそれをいうのは、孟子も「天下に王たる」を一般的な人の望みとして、意識していたということであろう。

「思うようにする」ことを「欲」と捉えれば、「欲を去れ」という仏教の教えになるのかもしれない。普通の欲を去っては、生きるのに困るかもしれないが、そこに権力欲は含まれないであろう。去っても困らないと思うからである。日本では思うに任せぬものとして、白河天皇の「賀茂川の水、双六の賽、山法師」が知られるが、前二者は自然現象である。

 私は世界を「どうこうしよう」とは思わない。「どうなってるんだ」と思うことのほうが多い。調べ始めると、世界は驚異に満ちている。どうなっているのか、調べるので精一杯である。このところ、保存してある古くて硬くなった虫を、柔らかくして、きちんとした標本にしている。この時にマイタケを水に漬けて、その水に虫を漬ける。そうすると、カチカチになっていた虫が軟らかくなる。マイタケにはタンパクの分解酵素が含まれているからだという。これを発案したのは九州大学の大学院生だが、北海道のジビエ料理の番組で、シカ肉をマイタケと一緒に焼くと、柔らかくおいしくなるというのを見て、思いついたという。マイタケを食べているだけの間は、そんな用途があるとはまったく気づかなかった。