猛暑が続く。こういう時は仕事は休みにすべきだろうと思うが、なぜかそうならない。池田清彦『バカの災厄』(宝島社新書)によれば、「小学校から始まるバカ化教育」のせいだということになるかもしれない。脳はやたらにエネルギーを食う器官なので、働けば発熱する。その脳をどう冷やすかは、哺乳類があれこれ工夫をするところである。だから脳は省エネをもって旨としている(はずである)。あんまり暑いと、頭を使いたくなくなるのは、そのせいに違いない。身体は暑さに対処するエネルギーを使う上に、考えるという行為をすれば、脳自体が発熱する。働くから熱が出るので、現代人はそれをクーラーで冷やして、さらに働くというバカなことをする。暑い時にはじっとしているのが動物の通例である。

 人間は動物ではない。そう言われそうだが、それでも基本は動物なのである。娘のマンションがリフォーム工事だというので、娘が飼い猫を2匹連れて、実家に帰ってきた。そのうち1頭が、新しい場所に来たので興奮したのか、涼しい朝のうちに走り回って熱中症になったらしく、せわしくハアハア息をしながら、横になってひたすら寝ていた。それで覚えたらしく、以後はあまり走らなくなった。暑い時にはじっとしていろと、ネコでも1回で覚える。

『土を育てる』(NHK出版)は最近大いに気に入っている本である。不耕起で、化学肥料はまかない、除草剤、殺虫剤は使用しない、これで近隣の農家に太刀打ちできる収穫を挙げている。これが暑さとどう関係するのかというと、なにしろ耕さないのである。口絵にジャガイモの収穫の写真があるが、タネイモを畑に一列に置いて行く。その上に牧草の枯れ草をかぶせる。収穫時にはこの枯れ草を除く。そうすると、立派に育ったジャガイモが並んでいる。普通なら畑をほじくり返して、タネイモを植える。それでジャガイモが収穫できると、ほじくった甲斐があるというものである。それが不耕起では、気が抜けてしまう。何で放っておいたのに、勝手に育つんだ。自然とはそういうものである。自分が「額に汗して」働いたから、この収穫がある。農民はそう思いたいのであろう。クソ暑いのに、頑張って働いたから、成果が出る。そんなわけないだろう。とは思わない。

 浜崎洋介『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)と同じ著者の『ぼんやりとした不安の近代日本』(ビジネス社)が前後して出た。前者は小林秀雄論で、後者は近代日本論である。明治維新でむりやり「文明開化」して、その結果が大東亜戦争になって、負けてまた無理やりアメリカ化した。その無理が今出ている、と私は思う。そんなに頑張らず、不耕起でもよかったはずなのである。実は私の人生も、この無理に対する格闘だったという思いが強い。これでも現役の時には、いわゆる理系の研究者だったから、論文は英語で書かなければならない。そんなこと、だれが決めたんだと思うが、そうなってるんだから仕方がない。とりあえずなんとかつじつまを合わせて、あれこれ苦労してきたけれど、やっぱり不耕起でもいいんじゃないかと50代になって気づいてしまった。以後は考えることを日本語という母語に任せて、できるだけ英語は使わないことにした。今は YouTube なんかやっているが、そこで英語で話せと言われると、腹が立つ。そんなことで怒っても始まらないと思うから、英語でしゃべるが、俺の考えることが英語になるわけなんかないじゃん、と感じてしまう。本気で、いわば全人的に表現行為をしようとしたら、母語に頼るしかない。そんなこと、当たり前だろうが。それでも世間は幼稚園から英語を教えるという。幼稚園の5割が英語を教えているそうである。この国の人の頭が変になったのは、浜崎洋介に訊くまでもなく、文明開化以来だから、仕方がない。

 プーチンのロシアがウクライナに侵攻したというニュースに続く報道を見ていて、私が生まれた年に起こった盧溝橋事件を思い出した。あの時の日本に対する欧米の態度が、現在のロシアに対する欧米の態度なんだなあ。本当はいちばんプーチンを理解するのが日本人であっていいはずなのである。浜崎洋介のおかげで、なぜ盧溝橋事件を思い出したか、それが理解できた。とくに『小林秀雄』の中のドストエフスキー論である。ロシアもいうなれば上から無理やり西欧化させられたわけで、その矛盾を内部に抱えたまま行動するから、外から見ると「何を考えているか、わからない」ということになる。19世紀のロシア文学が日本で人気があったのは、「同病相憐れむ」なのかもしれない。

 奈倉有理『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス)、副題が「文学を探しにロシアに行く」だから、ここでの今の話題にピッタリである。しかし、むしろそういうことではなく、この作品そのものにはたしかに「文学」としての強い力がある。普遍性に到達するには、比較によって話を横に広げていく方法と、自分の心を掘り下げて行く方法の2つがあると思う。文学は本来後者の典型であろう。その意味でこの作品は文学そのものというべきかもしれない。「日本へ帰ってきて大学院に入ってから、{初めから日本の院に入るつもりで計画的にロシアに行ったのか}と訊かれたことが何度かあるが、そんなことはない。初めてロシアへ渡ったとき、私は何も考えていなかった。ただ勉強がしたかった。文学が好きだった。そのためにすべてを捧げられる崖っぷちの環境を探していた。」こういう理想的な学生はめったにいるものではない。「ただ勉強がしたいだけ」で大学に来る学生がどれだけいるだろうか。本来はそれで当然であるはずなのに。

 大学の存在意義が問われるようになり、池田清彦に戻ると、「バカ化教育」のせいだということになるけれど、幼稚園、小学校以来の習慣があるから、若者を責められない。成績さえよければ、やる気がなくても入学できる。それが東大医学部で私の現役時代に起こったことだった。「君の実力なら理Ⅲに入れる」と高校の教師に言われて、「受けました、受かりました」という学生では、解剖なんかまともに勉強する気にはならないであろう。面接で解剖学の試験をしてみて、よくわかったが、すっかりやる気がないのである。自分の手で解剖をして、そこから何かを身につけることの意味なんて、一度も教わってこなかったに違いない。高度な文明都市社会では、手足を動かして何かをするのは、低級な仕事なのである。いまはエッセンシャル・ワーカーなんて、横文字でごまかして持ち上げているつもりらしいけれどね(ここは池田清彦の口調が伝染してしまった)。

 「本当の自分」とか「自分探し」とかいう、まさに世迷いごとが流布する背景は、身体を介する勉強を排したからであろう。勉強で身体といえば、体育だろうと信じ込んでいる。脳も身体のうちで、脳のはたらきは身体活動の一種である。身体と脳の働きは別だというのは、意識がそう教え込んでいるだけで、意識はそれが存在する限り「自分が偉い、主だ」と思い込んでいる。そのくせ意識自体の存否に関しては、まったく主体性がない。意識が生じるのも、消えるのも、意識のせいではない。毎日寝ていることを考えたら、すぐにわかるはずである。意識的に寝ることはできないし、起きるためには、前日に意識があるうちに目覚ましをかけなければならない。その意識を主体に立てるなら、おかしなことが起こると覚悟する必要がある。だから現におかしなことが起こっているのである。

 模範になるはずはないけれど、私は暇さえあれば、虫の標本を作製している。虫には大きさや形がいろいろあって、しかも標本にするのは死んだ虫だから、乾いてカチカチに固まっていたり、まだいくらか柔らかかったりする。同じ標本にするといっても、相手次第でやり方をあれこれ変えなければならない。なんであれ、針を刺せばいいかというと、あまり小さい虫には針は刺せない。そういう虫は台紙にノリで貼り付ける。台紙の大きさや形もいろいろあって、相手次第で選ばなくてはならない。背中側から針を刺して、刺しどころが悪いと、腹側に針が出るときにたまたま足の付け根だったりすることがある。そうなると足が取れてしまうので、ただ針を刺せばいいというものでもない。私が標本にするのはほとんどがゾウムシだが、ゾウムシにはカタゾウムシというのがあるくらいで、あんまり堅いので、針が簡単には刺さらない。これは台紙に貼り付ける。小さい虫だけを台紙に貼るというわけではない。要するに、具体的な事例はそれぞれで、臨機応変でなければならない。現代は横並び一列、対象が揃っていれば取り扱いが簡単で、効率的だと考える時代である。虫を扱っていると、それはとんでもない間違いで、生きものに対しては、たとえ死んでいても、そういう扱いはできないとわかる。個々の事例にそれぞれ対応するという、お役所がいちばん嫌がることをすることになる。医療も全く同じだとおわかりであろう。

 個々の事例に、それぞれいちいち対応するのは、いまでは効率的でないとされる。それはもちろん効率優先が前提だからである。ここで何が間違っているかというと、不耕起の場合と同じように、生きものの世界はかならずしも効率優先が前提ではないからである。生きていくのにギリギリの状況を想定すれば、それはすぐにわかる。渇いて死にそうなら、効率もくそもない。なにがなんでも一杯の水を手に入れる必要がある。その水を入手する機会が複数あって、そこで初めて効率が問題になる。生存競争 struggle for existence を私は「生きるための必死のあがき」と訳すべきだとしたことがあるが、この「あがき」はかならずしも相手との競争とは限らない。なんとかして生きのびることの、「なんとかして」がいわば必死なのである。それだと、水源までの距離1センチの違いですら、生死を分ける可能性がある。

 余裕がないと言いつつ、現代人はその意味では十分な余裕を持つから、必死ではなく、効率を問題にする。それで自然つまり生きものとしての存在からどんどん遠ざかる。他人の顔ばかり見て暮らしているから、生存競争が他者との競争だけになって、必死で生きることそれ自体だとは、思いもしない。挙句の果てに生きていることの意味が不明になってしまうのである。