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【第八夜】誰なの?

 

イメージ写真:shutterstock

 

 フリーの文芸編集者、根本さん(五十代・男性)が、まだ出版社に勤務していた二〇〇〇年前後に体験した話。

 

 ある日、人通りの多い道を歩いていると、向こうから歩いてきた六十代くらいの男性が、おや、という顔をした。

 

「君、根本君じゃない?」

「はい、そうですが……」

 

 と応じたものの、根本さんはその男性に見覚えがなかった。

 

「やっぱり。俺だよ、俺、サハシだよ」

 

 名前を聞いてもまったくピンとこない。するとサハシと名乗った彼は、

 

「あー覚えてないか。仕方ないね。じゃ」

 

 手を振って、人ごみに消えていった。

 

 仕事の関係者だろうと思い、会社に帰っていろんなところでもらった名刺を一枚一枚確認してみたが、それらしき人物のものは見当たらなかった。

 

 

 

 それから一年ほどが経ったある日、根本さんは交差点で信号待ちをしていた。ぽんぽんと肩を叩かれたので振り返ると、三十代半ばくらいのスーツ姿の男性だった。

 

「ああやっぱりそうだ。根本さんですよね?」

「そうですが……」

 

 見覚えのない彼はにこやかに笑っている。

 

「ほら、私ですよ。キノシタです」

 

 名前を言われても思い出せない。すると彼は残念そうな表情になり、

 

「覚えていませんか。そうですよね、仕方ないです」

 

 そのときちょうど信号が青になった。

 

「それでは」

 

 彼はスタスタと、横断歩道を渡っていってしまった。

 

 

 

 同じような経験を、根本さんはもう一度、しているという。

 

 三回とも見知らぬ男性で、確実に「根本」という名前を言いながら話しかけてきて、自分の名を名乗る。根本さんが覚えていないそぶりを見せると、「仕方ないですね」と言い残して去っていく。後になって振り返っても、誰だったの? という感覚に陥るだけだ。

 

 相手がこちらを覚えているのに、こちらは相手を覚えていない──パーティーの多い出版業界では珍しくないことだ。だがその場合でも、

 

「ほら、去年の暮れ、○○先生の忘年会でお会いした、××社の▲▲です」

 

 といったように詳しく素性を言って思い出してもらう努力をするはずだ。愛想よく話しかけてきて、名前まで名乗ったくせに、「覚えていないのは仕方ないですね」とだけ言い残して去っていくことは考えにくい。

 

 そしてもう一つ、この三回の経験には奇妙な共通点がある。

 

 三回とも、場所は銀座なのだそうだ。

 

 根本さんは二十年以上経った今日にいたるまで、三人の誰とも、再会していない。

 

 

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