クラゲみたいな君

 

 

「来週の金曜、お昼から天文館行かない?」

 優実ゆうみは電話越しに俺に問いかけた。俺の予定が空いているのを確信しているみたいに、はっきりとした口調で。

「来週の金曜っていうのはつまり、放課後ってこと?」

 隣の部屋で寝静まっている両親に聞かれないよう、いつの日かの修学旅行の夜みたいに、布団にもぐって声をひそめる。

「そういうこと。ほら、来週会議があるとかで、午前中解散だって先生が言ってた」

 カレンダーを頭の中に思い浮かべてみる。たしか、市内の先生たちが校内に集められ、大掛かりな研究会が開催されるとかで、授業が午前中で終わる。グラウンドも使えないから、部活もせずに帰れる日だったはずだ。……ってことは。

「え、あり。めっちゃあり! 優実、天才かよ!」

 どう考えたって最高になるとしか思えない放課後デートの誘いに、壁一枚挟んだ向こうの存在を忘れて大きな声を出してしまう。

「やったあ! いや、実は私って天才なんだよね!」

 久しぶりに優実と長く一緒にいられる。今一度反芻はんすうすると、クーラーをつけているのに体温が二、三度上がった気がした。身体に溜まった熱を冷まそうと窓を開けてつま先にサンダルを引っかける。ベランダの柵にもたれかかると、隅にある排水管に昼間桜島が噴火したときの火山灰が積もっているのが見えた。

「天才の優実さんは、行きたいところはもう決まってるの?」

「とりあえず、商店街の近くの喫茶店でサンドウィッチとカフェオレのランチのセットが食べたい。あとは、水族館で期間限定のクラゲの展示があるから、そこも見てみたいの」

 隙のないスケジュールに、思わず唸ってしまう。

「いいね、最高」

「まだまだ終わらないよ。UFOキャッチャーでクラゲのぬいぐるみも欲しいし、カラオケも行きたい。あ、でもカラオケは前行ったからいいかなあ」

「欲張りセット最高。でも、全部行ける余裕あるかなー」

「やりたいことは、言葉にしないと叶わないんだよ?」

 優実のやりたいことリストがゆるい風に乗って夜空に溶けていく。優実は、やりたいと心で決めたことは、たとえそれが自分たちの手に負えないようなことでも、神様に祈る類いのものでも躊躇なく口に出して、そしてそれを必ず叶える天才だ。優実のはっきりとした物言いには、言葉を現実にしてしまう不思議な力がある。

 

 今から三ヵ月くらい前のことだ。

 三月三十一日。駅前のファミリーレストランで優実とすることもなくダベッていた。

 軽音部に所属する彼女に連れられる形で、カラオケで三時間半熱唱し終えた俺たちは、一番値段の安いドリンクバーで喉を潤す。特別したいこともないけど、まだ帰りたくもない。だらだらと身体を涼しい店内に押し留めていた。

「間違い、何個見つかった?」

 ストローに唇をつける優実。

「合わせて、九個。やっぱり、一個見つかんないわ」

 テーブルの脇にある、メニューの表紙も兼ねた間違い探しが不敵に笑う。最初こそ勢いよく挑んでみたものの、終盤はどれだけ見比べても間違いが見つからない。

「十個目の間違いがない、というのが最後の間違いなのでは」

 半ば諦めの入った指摘は、「それはないでしょ」と優実に一蹴された。

 優実が両指で目頭をつまむ。

「私はもう眼精疲労がやばいから。タケヒロに任せる」

「そんな卑怯な。もうネットで調べちゃう?」

「それはダメ。自分たちの目で確かめないと、絶対後悔する」

 そう言いながら、彼女は間違い探しには飽きてしまっているようだった。それでも、十個目の間違いが見つからないおかげで店を出ない口実にもなっているわけだから、このまま見つからなくてもいいな、なんて思ったりもする。

「さっき優実が最後に歌ってたの、なんて曲だっけ」

「SaucyDogの『魔法にかけられて』だよ」

 彼女が歌っていた楽曲を音楽アプリのプレイリストに打ち込む。これも彼女と付き合ってからのルーティーンで、プレイリストにある楽曲が増えるほど、たしかに二人の関係値が深まっていく感じがしてたまらない。

 優実はコーラがなみなみと注がれたコップを手にする。

「明日から三年って言われて、信じられる?」

「信じられない。あと一年で卒業って、早すぎる。何も決まってないのに」

「私らもそろそろ考えなくちゃいけないよね。将来のことだって」

「そうだよな。でもそんな遠い将来のことより、優実と同じクラスになれるかが不安でしかないよ、俺。気が気じゃなくて、夜しか眠れない」

 ふざけて言ってみるけど、あながち嘘じゃなかった。

 同じクラス同士で付き合ったカップルは、始業式のクラス替えで離される、という噂が学校中まことしやかに流れていた。噂といっても、過去に同級生でそのクラス替えの餌食になったやつもいて、不気味なリアリティがあった。恐ろしくて仕方がなかった。

「クラスが変わると、普段から顔を合わせることも少なくなるから、なんとなく疎遠になんだよ」

 彼女と別れた友達の切ない表情が、呪いのように脳裏にこびりついていた。

 でも優実はまるでクラス名簿を直接確かめたみたいに、あっけらかんと言う。

「大丈夫。また同じクラスになれるよ」

「なれるかな?」

「うん。なれる。タケヒロは気にしすぎだよ。不安とか心配って、口に出せば出すほど大きくなって、現実にも嫌な影響ばかり及ぼすの。だから、どんなに怖くても、できるだけ言葉にしたらだめ。その代わり、こうなるはず! なってほしい! って希望は、積極的に口に出そう? そうしたら、願いは叶うから」

 口に出せば出すほど、願いが現実に影響を及ぼす。原理もよく分からないし、完全に納得がいったわけではなかったけど、絶対優実と同じクラスになれる、なれるに決まってると口に出してみる。出してみると、不思議とそれは現実になるような気がした。その調子だ、と優実は頬杖をつきながら大人っぽい顔つきでこちらを見ていた。

 次の日、正面口で発表されたクラス名簿には、俺と優実の名前が同じ場所に示されていた。教室へ走っていき、新しいクラスメイトたちの視線も気にせず、彼女と手を合わせて喜んだ。

「ね? 言ったでしょ」

 こともなげに頷く優実の背中にはギターケースがあって、それがなにかの魔法の道具のように思えて、彼女はどんな魔法を使ったんだろうと本気で疑った。

 優実は、間違い探しの十個目は見つけようとしない少し怠惰な魔法使いだけど、あれから俺はその不思議な力をずっと信じ続けている。

 

 ベランダから見える明かりの少ない見慣れた風景が好きだ。田んぼの周りをぐるっと囲うように置かれた、少し頼りない街灯。遠くには大きな山が二つそびえていて、大きな丸い月がぽんと浮いている。庭にある小さな畑では、毎年大きなナスとトマトがとれる。昔から何も変わらなくて心地いい。

 同級生は、「こんな田舎抜け出して、早く博多に出てやる」なんて文句を言っていたりもするけれど、俺はこの町が嫌いになれない。高校までは自転車で三十分、天文館まで出るにはバスで一時間はかかる。火山灰は年中、空気中を舞っているし、制服も外には干せないし、夜になればコンビニは閉まるし、夏はカエルが鳴いてうるさい。近所には大きなパチンコ店しかないけど、それでも、この町が嫌いじゃない。

 隣に優実がいてくれれば、それでいい。

「ちょっと、タケヒロ、話聞いてる?」

「ごめん、なんだっけ、聞いてなかった」

 スマートフォンの向こう側に意識を集中し直す。

「もう。そうやってすぐ空想に浸る癖直さないと、考え事してる間に私、どこか行っちゃうよ」

「ごめん。天文館行くの、楽しみすぎて」

 もう、と優実は困ったような声を出す。

「とにかく、金曜は授業終わったらすぐ校門に集合。ちゃんと着替えも忘れずに持ってきてね」

「着替え?」

 なんで必要なんだろう。制服で天文館を歩くと、何か不都合でもあるのだろうか。

「なんも聞いてないなあ、君は。ほら、先生とかに制服見られて通報されたりしたら面倒でしょ」

 そうか。はしゃぎながらも実は冷静沈着な彼女が、頼もしくて仕方ない。

「あと一週間先か、なんか遠く感じる」

「一週間なんて、すぐだよ」

 俺のじれったさを、彼女の落ち着いた声色がいつも溶かしてくれる。彼女が一つ言葉を口にすれば、波ができていた心の中はふっと静まる。たしかに、一週間なんてあっという間かもしれない。そう思わせてくれる優実は、やっぱり魔法使いなのかもしれないな。

 

「トラウマも君を好きだった輝き」は全3回で連日公開予定