プロローグ──文化祭前夜
* * 午前〇時三十分
うまく眠れない。
枕元のペンギンの目覚まし時計は十二時をとうに回っていた。あたしはもともと寝つきが良い方ではないけれど、特に今日は眼が冴えていた。それは多分、もうすぐ文化祭が始まるから。それ以外に理由はない。
やるべきことは、全てやった。
軽音楽部には根回しをしたし、放送部も快諾してくれた。自然科学部にいたっては、足りない費用は全て自分たちで何とかする、とまで言ってくれた。だからきっと、うん。大丈夫。
あとは、あたしの問題だ。
もう何度目か分からない寝返りをうって、諦めて勉強机のライトをつけた。相棒の白いシャープペンシルをノックすると、弛んだ空気がぴんと張った気がした。落ち着こうとして参考書を開くあたり、受験勉強に侵されてるな、と我ながら情けなくなる。けれど、こうして正解のある問題と向き合っていると、心が落ち着くのだから仕方がない。
等比数列の問題を解いていると、三問目で眠気が忍び寄ってきた。陸上部のきつい反復トレーニングに似た疲労感が、脳の中でも起こっているのを感じる。
ようし、今なら眠れそう。
ベッドにすばやく滑り込む時、右手が無意識にスマートフォンを叩いていた。もちろんこんな時間に連絡なんて来ていなくて、それは当たり前のことなのに、物足りなく思っている自分を見出す。本当、我ながら情けない。ため息がでそうになる。けれど、この情けない自分こそ、自分なのだった。
枕に頭をあずけて、目を閉じる。
文化祭があってくれてよかった。はしゃいでバカ騒ぎして非日常を味わって……。そういう風に酔えないと、あたしみたいな人間にはできないこともある。
明日から色々、うまくいくと良い。
うまくいって、そうしたら──。
隠れていた睡魔が急にやってきて、あたしの思考の糸はそこで切れた。
文化祭一日目
*市ヶ谷のぞみ* 午前七時三十五分
その文字を見上げて私の胸が澄んだのは、秋の風が肺に入り込んだからだ。
第六十五回八津丘高校文化祭。
いつもはそっけない校門も、今日は色とりどりの化粧がほどこされていた。花飾りやリボンはふわりと揺れ、その隣には嘘みたいに大きいフクロウの造り物が鎮座している。アーチ状に掲げられた文化祭の看板を仰ぎ見ていると、胸の奥の爽やかさに、ビターな味が混ざった。
言うまでもなく、文化祭は楽しみだ。けど、高校三年生の私にとって最後の文化祭なわけで。最後、という響きは、いつだって人を切なくさせる。
「のぞみじゃん。なにしてんの?」
登校する生徒の一人が、のんびりとした声で私を呼んだ。
「あ、おはよ。えっと……」
高校最後の文化祭だから感傷に浸っていた、と説明するのはなんだかためらわれた。だって、まだ始まってもいない文化祭を前にしてたそがれるっていうのは、やっぱりちょっと恥ずかしい。
私は照れ隠しに肩をすくめた。早起きして巻いた栗色の毛を首元にあてがうと、甘いピーチの香りがふわりと漂った。
「一応、私は文化祭実行委員だからさ。最後のチェックしとこうかなって」
「へー。のぞみって案外、そういう真面目なところあるよね」
「案外って何よ」
「いや、褒めてるんだけどね」
友人はまじまじと私を見つめる。普段はさばさばしている彼女も、今日はカラーコンタクトを入れていた。そういえば、クラスの出し物で大正時代をイメージしたカフェをするとか言ってたっけ。この子も給仕をしたりするんだろうか。
「私もやる時はやるってば。やっぱ、高校最後の文化祭だしさ。変なとこでケチがついたら嫌じゃない?」
私がふくれてみせると、友人は感心したように何度か頷いた。
「あんたが生徒だけじゃなくて教師からも信頼される理由がわかるわ。あんたみたいなのがそうやって頑張ってくれてるから、わたしみたいな能天気が楽しめるわけだねえ」
南無南無、と友人は両手を合わせてみせる。大げさだなあと思うけど、褒められているんだし悪い気はしない。
ところでさ、と友人が子どものように無邪気な顔になった。そっと耳打ちをしてくる。
「……今年の文化祭、誰か何かするのかな?」
「……」
うちの高校は、公立のわりに文化祭に力を入れている方だと思う。学校が、というより生徒が。イベントの規模は普通の高校のそれと変わらないけど、生徒の熱量はかなりのものだ。
昔はバリケードを張って泊まり込んだり、勝手にキャンプファイヤーをして消防車が駆けつけたり、そんなことがあったらしい。もちろんそれは何十年も前の話で、しかしその「学校側の計画にないことを何とか行おう」という精神だけはなぜか受け継がれて、ゲリラライブをしたり、校内放送をジャックしたり、そういうサプライズが伝統になっていた。学校側も半ば諦めていて、黙認する形になっていた。
……うーん。けど、今年はどうだろう?
友人は私の渋い顔で察したようだった。彼女は隅々まで晴れ渡った空をくしゃりと睨んで首を振った。
「ま、二年前のこともあるし。何もないのかな」
「んー、かもね」
「面白いことがどんどんなくなっていくのは、世の定めなのかねえ。バカなことをやるってのも、通過儀礼の一つだと思うのはわたしだけなのかなあ」
いや、私もそう思う。
十代に友達と青春らしいことをして、自分の好みや性格を知って、大人になっていく。文化祭はそのための格好の装置でしょ?
けど、そう言える立場でもなかった。なんせ私は文化祭実行委員なのだ。ゲリラ活動を許容していい立場ではない。無言で同意を示す。
そんな会話のさなか、友人のお団子頭がぴょこんと揺れた。彼女の視線が一瞬、私の後方へ向けられる。
「ん。そろそろわたしは教室に行くわ。のぞみは実行委員の会議だっけ?」
「あ、うん」
「じゃ、あとで」
彼女は私の背後に意味ありげな笑みを残して颯爽と去った。取り残された私は、何のことかよく分からない。
振り返ると、同じクラスの男子生徒が前髪をつまみながら立っていた。クラスの中心人物で、わりとよく話す子だった。「おはよ」と、私は声をかける。
「うす。あのさ、市ヶ谷ってさぁ……文化祭って誰かと回る感じ?」
なるほど、そういうこと。
先ほど友人が残した笑みの意味を理解する。彼、私に話しかけるタイミングを待ってくれてたんだ。それはそれは。
「あー、うん。文化祭実行委員だからさ、あんまり時間なくて」
「でも、少しは時間あるんじゃねえの?」
大きな手で学生服のボタンをそわそわと撫で始める。いつもよりワックスの量が多くて、髪の毛が朝日を浴びてつやつやしていた。あと、片方の眉を剃りすぎてる。気合を入れた男の子がやりがちだ。もう少しナチュラルな感じでいいのに、と思う。
「そうかもしんないけど。そこらへん、ちょっと分かんなくてさ」
「文化祭実行委員長には、俺から言っとくからさぁ。一緒に回んない? 委員長って、二年の藤堂だろ? 俺が言ったら大丈夫だって」
そのセリフで、どうしようか心が決まった。
「私さ、空いている時間はクラスの女友達と約束してて。ごめんね」
「でも……」
「また埋め合わせはするからさ。ごめんっ」
手を合わせて、上目遣いで首をかしげる。彼は目を逸らして「しゃーねえなあ」とようやく引き下がってくれた。胸の前で小さく手を振りながら、埋め合わせって言ったって、自販機のジュースを買ってあげるくらいの想定だよ、と心の中で呟く。
文化祭で浮き立つのは、とてもいいことだと思う。けど、こういう風に好きでもない人からやんわりと好意を伝えられることが今年もあることを想像すると、億劫だなとも思う。
それが好きな人からだったら、即答するけどさあ。
ローファーの先っぽで石ころを蹴る。石は傾斜を転がって、止まった先に見慣れた顔があった。同級生の佐竹優希だった。彼女は肩の上で髪を外に跳ねさせ、元陸上部の長い脚を眠そうに引きずっている。佐竹も文化祭実行委員だから、目的地は一緒だ。黄色く色づいたポプラの並木の下を小走りに近づいて、肩を並べる。
「どうしたの佐竹、眠そうだね」
佐竹は目の下を親指でこする。
「昨日上手く寝れなくてね」
「せっかく高校最後の文化祭なんだし。明るくいかないと」
「最後ねえ」
そこで、佐竹はふっと俯いた。
「……うまくいくといいけどなあ。色々と」
うまくいくも何も、佐竹が文化祭で何か大きな担当をしていると聞いた覚えはない。何のことを言っているのか聞こうかとも思ったけど、佐竹に尋ねてすっきりする回答を得られるとは思えなかった。佐竹はいつだって、なんだか捉えどころがない。
「大丈夫だよ!」
と、私は不必要に大きく頷いてみせる。「あれだけ、準備も頑張ったんだし」
そうだねえ、と佐竹はへらっと表情を崩した。目がかまぼこの形にきゅっと歪む。「さすがのぞみちゃん。こんな日でもしっかりしてるねえ」
「あれ、もしかして茶化してる?」
「まっさかあ。本心本心」
「言葉を繰り返す時って、大抵の人は本心じゃないらしいよ。昨日テレビで見た」
「誰よそんなこと言う奴。根拠のない言いがかりだなあ」
校舎が近づくにつれて、生徒も増えてくる。
腕まくりをして慌ただしく駆ける生徒は、きっと一年生だろう。私も一年生の頃は、当日でも準備が終わってなくて焦ったっけな。裏門近くのコンビニに走っていろいろかき集めたり。飛び交う声はどれも、青春の色を帯びていた。
昇降口に入って目の前にある大きな掲示板も、各部活やクラスの案内が貼り出されていてにぎやかだった。私たち実行委員会が制作した文化祭の告知ポスターは、隅っこに追いやられてしまっている。
文化祭は今日と明日開催される。二日目の夕方に展示や演目は終了し、そのあと後夜祭としてフォークダンスがある。後夜祭は生徒会の運営で、私たち文化祭実行委員の目下の使命は、文化祭全演目の終了まで滞りなく工程をこなすことだ。
その本部である文化祭実行委員会室は、東棟三階の一番北側の隅っこにある。町の公民館のような、古い匂いのする部屋だ。
「お、ちょうどいいとこに来たな」
入るやいなや、尾崎先生の軽快な声が室内に響いた。
細身のスーツにつやつやの革靴という、いつものいで立ちだった。声も綺麗でよく通るし、日本史の教師っていうより、「自称二十八歳の場末のホスト」という感じに見える。彫りは深いけど、目の配置が惜しい。オールバックなのも、若作りしてる感がある。かつては予備校の人気講師だったという噂だけど、いかにもそれっぽい。
「おはようございます。何かあったんですか?」
「このポスター、見てくれよ」
尾崎先生が二つに折られたポスターを広げた。
ざわり、と胸が震えた。
その横長のポスターには、横書きで『BE YOURSELF』という文字が堂々と踊っていた。胸の震えの正体は懐かしさであり、そして何より祭りの前の興奮だった。
あれ? と隣で佐竹が素っ頓狂な声を上げた。
「それって、二年前のやつじゃないですか? 懐かしいですねえ」
そう、これは二年前の文化祭のポスターなのだ。例の出来事のあった、二年前の。
なぜ今、こんなものが尾崎先生の手にあるのだろう?
尾崎先生は急に荒っぽい口調になって、佐竹に返事をする。
「懐かしいですねえ、なんて呑気なことを言ってる場合じゃないんだよ。これがどこに貼ってあったと思う?」
「さあ?」
「昇降口の前にある掲示板だよ。佐竹、これは二年前のポスターだぞ?」
「さっき、そう言いましたけど」
「二年前といえば、ほら、お前……」
一瞬ためらって「あの事件があったのは、二年前の文化祭だろうが」と先生は言う。
しかし佐竹は朗らかに笑っただけだった。
「ああ。それも懐かしいですねえ。あたしもテレビに映っちゃいましたし」
打っても響かない佐竹を早々に見限ったらしい。尾崎先生は私に救いを求めるような眼差しを向けてくる。目じりの皺の量のわりに、その表情は幼い。
「市ヶ谷ぁ、このポスターが掲示板に貼ってあったんだぞ。どう思う?」
はいはい。
一歩下がって、再度ポスターを見つめた。
『BE YOURSELF』
ビーユアセルフ。自分らしくあれ、かな。意訳すると。
いい言葉だな、と素直に思う。
特に、『BE』という文字の語感がたまらない。原形というか、本物というか、堂々たる雰囲気を身にまとっている。こう、独立、自立している感じに聞こえる。好きだな、私は。そういう芯のある強さ。
……なんて回答を、尾崎先生は求めているわけではないだろう。
腕を組んで、唸ってみせた。
「まだ終わらないで、文化祭」は全4回で連日公開予定