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遼平の帰還

 

   1


 つくみが忽然と姿を消したのは、いまから半年余り前、二〇一五年(平成二十七年)の九月二十二日のことだった。
 去年のシルバーウィークは十九日(土曜日)から二十三日(秋分の日)までの五連休だったが、その期間に大手のクライアントが主催するゴルフ大会が静岡県の川奈で開かれることになって、遼平は、三泊四日の泊まり込みで手伝いに駆り出されたのだった。
「それじゃあ、せっかくの連休が全滅じゃん」
 とすこぶる不満顔のつくみを、「この埋め合わせは必ずするから」と拝み倒して彼は現地に向かったのだ。
 帰宅したのは二十二日(国民の休日)の午後九時過ぎ。もちろん帰りの時間もLINEで伝えてあったし、つくみからも「気をつけて帰って来てね」という返信を受け取っていた。ところが吾妻橋の家(その前年の七月、遼平たちは横浜の洋光台から墨田区吾妻橋三丁目のマンションに転居していた)に着いてみると、つくみはいなかった。
 近くのコンビニにでも行ってるのではないかと携帯を鳴らしたが、例の「おかけになった電話は……」のアナウンスが流れて一向に繋がらない。
 ――やられたな。
 一時間経っても帰って来ないし電話も繋がらないとなって、遼平は初めて気づいた。連休に自分を放ったらかしにした仕返しに横浜にある実家に帰ってしまったのだろう。以前にも似たようなことがあり、そのときは実家に連絡しても繋がらず、翌日迎えに行ってみれば、ちょうど一泊の温泉旅行から義父母とつくみの三人が戻ってくるのに出会したのだった。
 というわけで実家に電話したが、今回も誰も出なかった。案の定だと遼平は独り合点して、その晩はさっさと風呂に入って早めに寝てしまったのだ。
 翌朝、七時過ぎには起き出して着替えを済ませ、横浜市磯子区磯子台にあるつくみの実家へと出掛けた。実家は磯子台の住宅街のなかにある一戸建てで、父親はその自宅兼事務所で司法書士をやっていた。母親は専業主婦。つくみはこの二人の間に生まれた一人娘だ。
 両親ともに穏やかな好人物で、いきなり愛娘が連れて来た結婚相手を快く迎えてくれたし、友莉とのこともあって挙式は控えたいと申し出たときも、ちっとも嫌な顔を見せなかった。
 早くに母親を亡くした遼平は、そのあとは板倉の人たちが家族みたいなもので、仕事人間の父親とは淡々とした関係でしかなかったが、つくみの場合も両親とはそれほど“熱い家族”ではなさそうだった。「遼ちゃんがいてくれたら、他の人は全員のっぺらぼうでいい」という口癖の「全員」には両親も含まれている。彼女が実家に帰るのは、だから、今回のように遼平が不在のときが大半なのだった。
「本所吾妻橋」駅で地下鉄に乗って、京急、JRと乗り継いで京浜東北線の「磯子」駅で降りる。駅から実家までは徒歩十五分ほどだった。実家の前に着いたのは午前九時半。だが、いつもはあるカーポートのプリウスがなかった。どうやらまたつくみたちは連休を利用して旅行に出ているようだった。呼び鈴を押したが反応はなく、人の気配もない。
 家の前で電話をしたが相変わらず通じなかった。よほど山奥の温泉場にでも出掛けているのだろうか? 自分が昨夜、帰宅したのは知っているはずだ。ということは、こちらの想像以上につくみはご立腹というわけか……。
 遼平はげっそりした気分で吾妻橋のマンションに戻り、それからは何度も電話を掛けながら彼女の連絡と帰りを待ちつづけたのだった。
 本格的に失踪を疑い始めたのは、翌二十四日木曜日からだった。連休最終日の二十三日(秋分の日)もつくみは戻らず、翌朝、横浜の実家にも連絡したが誰も電話には出なかった。夕方まで営業回りをこなし、遼平は夜になってもう一度、磯子台へと向かった。
 二日前と同じようにカーポートに車はなく、家は無人だった。玄関灯も灯っていない。すでに午後八時を回っていたが、遼平は隣家のインターホンを鳴らしてみた。
「夜分に申し訳ありません。お隣の隠善さんのお宅を訪ねてきた者なのですが、隠善さんがどちらに行かれたかご存じではないでしょうか?」
 親しければ旅先くらい聞いているかもしれないと思ったのだ。だが、インターホン越しに聞こえてきたのは驚くような一言だった。
「あら、隠善さんならもう一ヵ月以上前にお引っ越しされましたよ」
 遼平は自分が娘婿であることを告げて、その隣家の夫人を玄関先まで呼び出して詳しく話を聞いた。
 お盆明けの十八日、義母が、突然訪ねてきて「二人一緒にしばらく家を空けることになったので、よろしくお願いします」と告げたのだという。「しばらくって、どれくらい?」と問うと、「二、三年はかかるかしらねえ」と義母はのんびりした口調で答えたのだそうだ。
 遼平は唖然呆然となった。つくみはそんなことは一切話してくれなかったのだ。
 義父母(つまりは隠善家)に何かよほどの事態が出来し、それで娘のつくみ共々、急遽世間から身を隠さなくてはならなくなったのか?
 いよいよつくみたちの失踪が明確になってきて、遼平は最初はそんなふうに推理してみた。だが、磯子台の自宅の登記簿やつくみの戸籍を洗っても、義父の仕事仲間(司法書士の人たち)に話を訊いてみても、日舞を習っていた義母の稽古仲間に会っても、彼らがいきなり姿を消さねばならないような事情は何一つ浮かび上がってこなかった。
 そもそも、だからといって娘のつくみまで道連れにする必要があったかどうかがはなはだ疑問であった。当然、つくみに関しては失踪すべき何らかの難題を抱えていた素振りは皆無だった。そこは一緒に暮らしていた遼平が一番よく分かっている。
 それでも、大学の後輩の財前君などには探索を依頼すると同時に、蒸発の理由に心当たりがないかを確かめてもみた。だが、彼も困惑顔で首を横に振るのみだった。
 神隠しにでもあったのか? はたまた宇宙人に三人とも攫われたのか?
 何らかの犯罪に隠善一家が巻き込まれた可能性はさらに希薄だった。
 警察に相談して、磯子台の自宅のなかを一通り家捜しはした。書き置き一つ残されてはおらず、だが、立ち会ってくれた警察官は、「通帳類や現金などは一切見当たらないし、かといって荒らされた形跡も皆無です。洗濯物もきちんと収納されていますし、旅行カバンのたぐいはどこにもありません。ご家族は計画的にこの家を出たと考えるのが妥当だと思います」とはっきりとした見立てを口にしたのだった。
「立つ鳥跡を濁さず」の様子を実見して、そこは、遼平も同意するほかなかった。
 義父母が磯子台の家を離れる直前、お盆の中日にはつくみと二人で実家を訪ね、夕食を共にしていた。彼らに変わった様子は見られなかったし、つくみにも何ら変わった気配は感じられなかった。だが、それから一ヵ月余りで彼女もまた消えたこと、その間、義父母の失踪について一切騒ぎ立てることがなかった点からしても、つくみは二人と示し合わせて姿をくらませたと考えるのが順当だった。
 ちゃんと結婚もし、二年以上の日々を一緒に暮らした妻が、何の素振りも何の予兆も窺わせぬままにある日、姿を消してしまった。そして、その理由を推測できるような手がかりは一切残されていない。
 余りにも奇っ怪な事態に直面した遼平には、現実を飲み込むことなど到底できるはずもなかったのである。


  2


 結局、警察に相談しても埒は明かなかった。
 誘拐の恐れ、生活維持困難の心配がない行方不明者の場合(つくみや義父母はそれに該当)、「一般家出人」の扱いとなり、警察が特別に捜索に乗り出してくれることはない。一応、「捜索願」は受理されたが、「一般家出人」は、警察のデータベースに登録され、たとえば変死体が見つかったときに本人照会が迅速に行なわれるといったところがせいぜいだと思われた。
 警察が動いてくれない以上、自分で捜すしかないのだが、日々の勤務もあるなかで一意専心することもできず、仮に時間があったとしても遼平一人で出来ることなどたかがしれていた。
 心配してくれた小田が、付き合いのある有働探偵事務所の有働所長を紹介してくれて、そこに探索を依頼した。だが、一ヵ月ほど過ぎたところで受けた報告は芳しくなかった。つくみたちの行方を示唆するような情報は何一つ見つからなかったのだ。
「これだけ一ヵ所(横浜近辺)で長期間に亘る生活歴がありながら、ここまで追跡のヒントになる情報が少ない事例は、ちょっとめずらしいとしか言いようがないですね」
 有働所長も、半ば呆れ顔でそう言っていた。
 この調査結果の報告を受けたのは十一月四日で、新宿にある探偵事務所には小田も一緒についてきてくれた。帰りに新宿駅西口地下の蕎麦屋で遅い昼食を二人で食べたとき、小田がふと思いついたように、
「松谷、近いうちに京極のママのところへ行ってみたらどうだ?」
 と言ったのだった。
「京極のママって、洋子ママのことですか?」
「ああ。この前、あそこで杉下と二人で昼飯を食ったときに奥さんの話をちょっとしてみたんだよ。そしたらママもびっくりして、お前のことを心配してたんだけど、そのときの話だとつくみさんはお前と一緒になったあともちょくちょく京極に来てご飯を食べていたらしい。あのママは、ああ見えて慧眼の持ち主だし、松谷が直接、今回の件について心当たりはないかって訊きに行ったら、案外、何か思い出してくれるかもしれない」
「なるほど」
 つくみが都内に出たとき、たまに駿河台の「京極」を訪ねていたのは遼平も知っていた。だが、いまのいままで洋子ママに話を聞いてみようとは思いもしなかったのだ。
「部長、ありがとうございます。是非行ってみます」
 遼平は箸を置いて頭を下げる。
「有働さんとこも空振りだったしな。何にも役に立てなくて悪いと思っているよ」
 小田は本当に申し訳なさそうな表情になってそう言ったのだった。
 三日後の土曜日、遼平は前日にアポを取ったうえで「京極」を訪ねた。
「京極」は土日も営業し、休みは年末年始だけの店だ。じっくり話を聞きたかったので、「昼休憩のときの方がありがたいわね」とのママの希望に従い、休憩の始まる午後三時を十分ほど過ぎた頃に店のドアを引いた。
 洋子ママは店の隅っこのテーブル席の一つに座っていて、遼平が入ってくるとすぐに右手を挙げて手招きしてくる。
「遼平さん、たいへんね」
 開口一番そう言いながら向かいの席への着席を促す。
 遼平が座ると、若い店員がすぐにコップ二つと瓶ビール、それにオードブルの盛られた銀皿を持って席にやってきた。「今日はお酒は……」と遠慮したのだが、「車なの?」と訊かれて首を振ると、「だったらまずは一杯やってちょうだい」とコップを渡される。
 注いでもらったビールを卓上に置いて、「じゃあ、僕が」とビール瓶を取ろうとしたが、「気を遣わなくていいから」とママは手酌でビールを注いだ。
「じゃ」
 互いに軽く乾杯の仕草をしてビールに口をつけた。
 なんとなくやけくそな気分が首をもたげて、気づくと一息でコップを空にしていた。すぐにママが二杯目を注いでくれる。
「だいぶ痩せちゃったね。小田さんが心配してた通りだ」
 と言いながら彼女が小さな笑みを浮かべる。
「今日は時間はいっぱいあるから。それじゃあ、最初から詳しい話を聞かせてちょうだい」
 自分のコップも空にして、ママは言う。
 かいつまんで状況を説明し、遼平が皿のオードブルの方に手を伸ばすと、ママが割り箸を割って渡してくれる。ママに話しているうちに、これまでなかったほどの安心感を遼平は覚えていた。
 なぜだろう? ママの醸し出す雰囲気がそうさせるのかもしれない。
「ちょっと雲を掴むような成り行きだね」
 ママは遼平のコップにビールを注ぎ足しながら言った。遼平の話を聞いているあいだに彼女も何度か手酌でおかわりして、新しいビールも追加していた。
「すみません」
「遼平さんが謝ることじゃないでしょ」
 ママがまた小さく笑う。
「つくみちゃんが遼平さんのことを好きだっていうのは、あなたたちが付き合うだいぶ前に聞いていたんだよ」
「だいぶ前?」
「そう。小田さんに連れられて彼女が来たのが最初で、そのときは他の何人かと一緒だった。彼女の歓迎会だって言ってたけど、遼平さんはいなかったね」
 言われて、遼平は合点がいく。新しいバイトの女性が入ると小田は律儀に「京極」で歓迎会を開くのだが、遼平は仕事優先で滅多に参加しなかった。つくみのときもそうだったのだろう。
「そしたらね、一週間くらいして彼女が一人で来たのよ。で、『仕事には慣れた?』って話しかけたら、彼女がいきなり『ママ、松谷さんって人のことどう思いますか?』って訊いてきたんだよね」
「は」
 そんな話は一度もつくみはしなかった。
「で、『彼はとっても仕事が出来て小田さんのお気に入りでもあるけど、その松谷さんがどうしたの?』って訊き返したわけ。まさかとは思ったけど、遼平さんと何か彼女がトラブルでも起こしたのかと心配になっちゃってね」
「はい」
「そしたら、彼女が、『私、松谷さんが好きなんです』って言って、『ほんとに好きなんです』ってもう一度言ったのよ」
 遼平は何も言葉を返さずに黙っている。つくみが自分のことを「ほんとに好き」であるのは間違いない。この二年間、彼は日々、その深い愛情を感じつづけて生きてきた。
 ――なのに俺は、仕事にかまけてつくみのために何にもしてやれなかった……。
 彼女が失踪して以来、遼平はそのことを悔やみつづけているのだった。
「それから、ちょくちょくうちに来るようになって仲良しになっていったわけ。だから、二人が結婚したときは私もすごく嬉しかったよ。大好きな人と一緒になれたつくみちゃんもだけど、あんなに好きになられて結婚できた遼平さんは果報者だと思ったよ」
「そうだったんですか……」
 堪えないと涙が溢れてきそうだった。
 ここで大泣きできたらどれだけ心が軽くなるだろうとふと思ったりする。
「それでなんだけどね」
 そういう遼平の感情の機微に活を入れるようにママが居住まいを正す。
「昨日、電話を貰ったあとずっと考えてたわけ。何か遼平さんに伝えられる有益な情報ってあるのかなあって。つまりつくみちゃんの行き先の手がかりになるようなこと」
「はい」
 瞳の表面に滲み出していた涙を抑えて、遼平もきっぱりとした声を出す。
「でね、実はほとんど何もないのよ。ごめんね」
 とママは言った。
「はい」
 そう言われても、その口調から遼平は微かな手応えを感じていた。
「一つだけ思い出したのはね、何かの話題で、私はもともと佐渡島の生まれなんだよって言ったらね、『うちもご先祖さまは島の人なんです』って彼女が返してきたの。『へー、どのあたりの?』って訊いたら『うちは九州の方です』って。この話、遼平さんは知ってた?」
「いえ」
 先祖が九州の島の出だなんて、つくみからも義父母からも聞いたことがなかった。洋子ママが佐渡の出身だというのもいま初めて知ったのだが。
「ただ、それだけなんだけど、だからつくみちゃん一家がどこかに身を隠すとしたら、ご先祖が暮らしたその九州のどこかの島かもしれないなあって昨日の夜、ふと思ったわけ。まあ、これも雲を掴むような話でしかないんだけどね」
「九州の島……」
 遼平が呟くと、
「何か心当たりがある?」
 ママが訊いてくる。
「いや、全然」
「そっか」
 それから二人ともしばらく黙り込んでしまった。
「あと、もう一つあるの」
 不意にママがふたたび口を開く。
「こっちは私の直感だから、事実かどうか分からないんだけどね。ただ、もしかしたら遼平さんも気づいてたのかもしれないと思って、確認の意味も込めて話すんだけど」
「はい」
 遼平はママの顔を直視する。
「つくみちゃん、妊娠してたんじゃないかと思うのよ」
 その口から驚くような言葉が飛び出した。
「妊娠?」
「そう。彼女が最後にここに来たのは七月の末だったんだけどね、そのとき注文したシーフードフライ定食を少し残したのよ。つくみちゃんって典型的な痩せの大食いでしょう。そんな彼女がいままでうちの料理を残したことなんて一度もなくてね。だからそのときピンときたわけ。赤ちゃんができたんじゃないかって」
「まさか」
 想像もしないようなことを持ち出されて、遼平の頭は小さく混乱する。
 仮につくみが妊娠していたのであれば、なぜそのことを自分に告げなかったのか? そもそも身重の状態でどうして彼女は夫の前から消えなくてはならなかったのか?
「じゃあ、遼平さんはそんなふうには感じてなかった?」
「はい。まったく」
 遼平は言い、
「もし子供ができたんだったら、僕を置いてこんなふうに出て行くなんてあり得ないと思います」
 と付け加える。
「それはそうだよね。でも、さっきは事実かどうか分からないって前置きしたけど、私のそういう直感って九分九厘、当たっているんだよね。つまり、彼女は自分が妊娠したと気づいて、それで遼平さんのもとを離れたんじゃないか――そんな気がしているの」
「どうしてですか? たとえばお腹の子が僕の子じゃないとかですか? つくみに限ってそういうことは絶対にありません」
「そんなの私だってよく分かっているよ」
 ママがちょっと心外そうに返してくる。
「そうじゃなくて、遼平さんの子供を身ごもったからこそ彼女は家を出て行ったんじゃないかって私は言いたいわけ」
「僕の子供を身ごもったからこそ?」
「そう。遼平さんと結婚した目的はそれで、その目的を達したからつくみちゃんは姿を消した……」
「つまり結婚するのが目的ではなく、僕の子供を産むことが目的だったと?」
「まあ、そうだね」
「ですが、結婚と出産は同じようなものでしょう。それをわざわざ分ける必要なんてないですよ」
「だから、つくみちゃんに限っては、それを分けなきゃいけない何らかの理由があったんじゃないの」
「うーん」
 遼平には洋子ママの言わんとしていることがまるで飲み込めない。そもそもつくみの妊娠自体もいまひとつ真に受けられない気がするのだった。

 

(つづく)