真藤社長の秘密
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三月七日金曜日。
真藤社長に指定された時間、午後二時きっかりに遼平は上野駅の正面、入谷口通りにある真藤興業本社を訪ねた。
入谷口通りは、首都高一号線が走る片側三車線の幹線道路・国道四号線と巨大な上野駅舎とのあいだに挟まれた一方通行の細い路地である。
入谷口を出て、徒歩一分。ホテルや店舗が並ぶその道沿いに、まるで駅のホームと対峙するかのように年季の入った四階建ての煉瓦タイルのビルが建っている。
そこが「真藤興業」の本社ビルだった。
こんなちっぽけなビルに本社を構える会社が、上野、浅草界隈に数多くの商業ビルを所有して、さらには、その中にある数十店舗のレストランやバーの経営にも携わる「上野の不動産王」だと想像できる者は皆無に近いだろう。
ガラスドアの玄関を入って、すぐ左手にある四人も乗れば満杯になる小さなエレベーターに乗ると遼平は四階に上がった。そこが会社の受付フロアであり、社長室、役員室、それに秘書室のある役員フロアでもあった。役員室と言っても部屋は二つで、一つは社長の長男である専務の部屋、もう一つは先代の頃から仕えている熊代さんという番頭さんの部屋だった。だが、高齢の熊代取締役は遼平がここに通い出した頃にはもうほとんど出社していなかった。
熊代さんの姿を見たのは、小田に連れられて取締役室で挨拶をしたのと、たまたま部屋を出てきた彼と鉢合わせしたときの二度しかない。
会社の差配は社長の純一郎氏と専務の真一郎氏が分担し、ビル管理は社長が、飲食店事業やテナント関連は専務が取り仕切っている。
新築や改築、補修など八馬建設が絡む案件は、すべて社長の領分とあって遼平が真一郎専務と顔を合わせたのも数えるほどだった。
エレベーターを降りると目の前が受付台だ。
台の上の電話で「7」番を押すと奥のドアが開いて秘書が顔を見せる。アポの有る無しにかかわらずそうするのが手順だった。
遼平は古めかしいプッシュホンの受話器を持ち上げて「7」を押した。
いつもの秘書がすぐに出てきて、「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」と型通りの言葉を口にし、向かって左の廊下へと誘導する。
彼女について真っ白な絨毯敷きの廊下を十メートルほど進むと左手にドアがあった。そこが社長室だ。専務の部屋と熊代さんの部屋は受付台の右手側で、そちらには絨毯は敷かれていない。
白い絨毯はいつも真っ白で染みひとつない。
「社長室を訪ねる人間なんて、俺たちくらいってことさ」
毎回、小田はそんなことを言っているが、そういうわけでもないだろう。
この絨毯の白さには、真藤社長の社長ならではの心根が表現されているように遼平は感じている。
「亜美ちゃん」で酔っ払って、「あたし、どうしてこんなみじめな人生になっちゃったのかしら」といつも愚痴る社長の姿が思い浮かんできて、
――この真っ白な絨毯は、今の自分は本当の自分ではないという社長の自己主張なのかもしれないな……。
と、遼平はここを通るたびに思うのだった。
社長から携帯に電話がきたのは昨日の昼間だった。そんなことは滅多にないので遼平はびっくりした。よほどの急用かと思いきや、
「ちょっと相談したいことがあるんだけど、明日か明後日にでも会えないかな」
社長はいつもの穏やかな声で言い、
「でしたら明日、お邪魔します。何時がいいですか?」
遼平が訊ねると、「じゃあ、二時くらいにしようか」とのんびりと返してきたのだった。
相談とは一体何だろう? 所有するビルの化粧直しや、駐車場のビル転用などの話もこんな感じで社長から依頼があるのだが、それにしても遼平のスマホにわざわざ掛けてきたのは異例ではあった。
先に立つ秘書がドアをノックする。「どうぞ」という声が聞こえて、彼女がドアを開ける。
「松谷さんがいらっしゃいました」
という声と同時に遼平は社長室に足を踏み入れる。
正面の執務机に座っている真藤が、笑顔になって席を立った。
「コーヒーを二つお願いします」
真藤が言い、それを合図に「失礼します」と一礼して秘書が部屋を出て行った。
秘書が去ると、真藤は部屋の中央に置かれた応接セットの方へと移動する。奥の壁を背負った定位置の一人掛けソファに座り、遼平はローテーブルを挟んだ向かいの四人掛けのソファに腰を下ろした。
遼平はカバンと一緒に提げてきた紙袋をテーブルに載せて真藤の方へと差し向ける。
「これ、秘書室のみなさんに」
洋光台に店を構えるケーキ屋の焼き菓子だった。有名店ではないが、近所では美味しいと評判の店だ。
「いつも、ありがとう」
真藤が紙袋を受け取り、それを右隣の一人掛けソファに置いた。
遼平は取引先や建築現場に出向くときは手土産を欠かさない。取引先にはできるだけめずらしいものを持参するし、現場に行くときは当然ながら量を優先する。
しばらく、先月中旬に東日本を襲った大雪の話(前日から社長はたまたま九州に出かけていて、当日は飛行機の欠航で帰京できずに福岡市内のホテルに一泊したという)などしているとコーヒーが届いた。さっそく菓子の入った紙袋を社長が手渡し、秘書が遼平に礼を言って引きあげていく。
「それでなんだけどね……」
コーヒーを一口すすってカップをソーサーに戻し、社長が話を切り出す。
「はい」
遼平はコーヒーには手をつけず、少し前かがみの姿勢を作った。
「例の鶴丸ビルの件なんだけど、白紙に戻してくれないかな」
意外な言葉が社長の口から飛び出した。
「白紙ですか?」
思わず聞き返していた。
「そうなんだ。あそこを美容院として貸し出すのはやめたいんだ。申し訳ない話なんだが……」
そう言って社長がほんとうに申し訳なさそうな表情になる。
一週間前の同じ金曜日、八馬建設本社で大和タケルと面談し、タケルは遼平たちの要望を受け入れてくれた。翌日には末次新菜の同意も得たとタケルから電話が入り、遼平は週明けすぐに真藤社長に面会を求めて、浅草、上野界隈で美容院が開けるような空き店舗を見つけてくれるよう依頼したのだった。
社長はその場でテナント事業を管掌する真一郎専務に話を通し、火曜日にはテナント事業部の担当者から新菜宛てに連絡が入ったのだった。
タケルと新菜はさっそく担当者と共に数カ所の物件を回り、浅草駅から徒歩五分、馬道通り沿いに建つ真藤興業所有の「浅草鶴丸ビル」一階の空き店舗を借りることに決めた。それが一昨日、水曜日のことだった。遼平のところへは新菜から直接、お礼の電話が来たが、
「思い描いていたベストの場所です。ほんとうにありがとうございました」
彼女は、タケルにどのように言い含められたのか知らないが、興奮気味に何度も礼の言葉を口にして、とにかくすごく喜んでくれていたのである。
もちろん、遼平はさっそく新菜から聞いたテナント事業部の女性担当者に電話を入れて仔細を確認し、あらためて向こう三年間の賃貸料は八馬建設が負担するむねを彼女に伝えたのだった。
空きテナントにはもとはトリミングサロンが入居していて、それなら美容院への転用にうってつけだろうというのも鶴丸ビルがチョイスされた理由の一つだった。
「そうですか……」
遼平は呟いて、コーヒーカップを持ち上げる。一口すすって音を立てずにカップをソーサーに戻した。
「失礼な物言いに聞こえてしまうかもしれないんですが、賃料のことでしたら二倍でも三倍でもうちが負担させていただきます。どうしてもお願いしたい物件なんです」
顔を上げて、遼平は言った。
新菜があれほど気に入ってくれているのだ。昨日の今日で反故にしてしまえば、彼女の気持ちだってどう転ぶか分からなかった。そこはタケルについても同様だろう。
「やっぱり無理でした、とは先方にどうしても言えない事情があります」
いかなる理由で真藤社長が「白紙」と言い出したのか? 理由を具体的に聞いてしまえば条件交渉ができない可能性がある。仕事では隙を見せたことのない社長が、しかも専務に委ねた案件についてこうして事後に口出ししてくるということは、何らかの個人的な事情が絡んでいると遼平は睨んでいた。
「うーん」
社長がますます申し訳なさそうな顔つきになった。
「だったらうちと付き合いのある不動産屋に当たって、早急にめぼしい物件を幾つか見つけて貰うようにするよ。それで仕切り直しということにして貰えないかね。ここ二、三日でこれという物件を紹介できるようにするから」
社長が言った。そこは最初からその腹づもりだったように見受けられる。
「ありがとうございます」
遼平は一度、頭を下げてみせる。
「ただ、うちとしてはどうしても鶴丸ビルの一階で話をまとめていただきたいんです。賃料や他の条件面のことでしたらいかようにでも対応させていただきますので」
もう一押しする。
テナント事業部の担当者と電話で話したあと、遼平はすぐに手付金をテナント事業部宛に振り込んだ。つまりはすでに鶴丸ビルの物件の賃貸借契約は仮契約済みなのだ。たとえ社長の鶴の一声とはいえ、それをひっくり返すのはよほどの理由が必要だった。
だからこそ、真藤社長もこうしてわざわざ遼平を呼び出し、自ら契約の破棄を伝えることにしたのだろう。
「うーん」
ふたたび社長が困った顔を作る。
「だけど、なぜそこまであの物件にこだわるのかね? そもそもきみの会社が三年分の家賃を負担するというのも奇妙な話だしね。駄目になったと『先方にどうしても言えない事情』って一体何なの?」
この反応から察するに、まだ交渉の余地はありそうだと遼平は受け止めた。
「ここだけの話にしていただけますか?」
遼平はもう一口コーヒーを飲んで、社長の顔を正面から見つめる。
「もちろんだよ」
真藤社長が興味ありげな様子になって深く頷く。
2
「そんな事情があったわけか……」
遼平の話を聞き終えると社長は、感じ入ったような口調でそう言った。
「しかし、松谷君たちもたいへんだなあ。建設会社の営業というのはそんなことまでしなくてはならんのかね」
今度は、ちょっと呆れたような口振りになっている。
その言葉を聞きながら、遼平は「社長だって……」と内心で思う。
むろん、堀切愛美の名前も「救世会」の名前も出したわけではない。そこは「重要な顧客」としたものの、あとは包み隠さず話したのだった。
「そういう事情なので、何としてでも一昨日決まった物件で決着させたいんです。ここで話がまた宙に浮くと、彼女だって、そのタケルという彼氏だって気が変わってしまうかもしれません。それはうちにとっては商売上の大きなリスクなんです」
「なるほどね」
真藤社長は考え込むような仕草をしてみせる。
「社長が、今回の話を白紙にしたいというのは一体どういう理由なんでしょうか? もっと義理のある取引先が、どうしてもあそこを借りたいと言ってきたとか、そういうことなんでしょうか?」
多分、そうではあるまいと思いつつ遼平は訊ねてみた。
「他ならぬ松谷君だしね……」
社長は思案顔をこちらに向け、
「だったらこの際、僕の事情も打ち明けておくよ。もちろん他言無用で頼むよ。小田部長にもこの話は伝えないでくれ。これは、連れ立って『亜美ちゃん』に行く僕たちの仲だから話すんだ」
と言った。
「承知しました。決して口外はしないと約束します」
遼平はきっぱりと言う。
社長は残っていた冷めたコーヒーで一度、喉を潤し、ローテーブルに置かれたインターホンのボタンを押して、
「悪いけどビールを持ってきてくれないか。つまみはチーズとクラッカーくらいでいいから」
と秘書に命じた。
小田と一緒に訪ねたときもたまにビールが振る舞われることがあった。大体は新築や改築の契約が交わされたり、新しいビルが完成したときそうやって内輪で乾杯の儀式を行なうのだ。
だが、今日はちょっと勝手が違った。社長と二人きりでここでビールを飲んだこともない。
「実はね、昔、付き合っていた人が美容師だったんだ」
社長が言った。
「というか、この近所の美容院で僕の髪を切ってくれていた人がいて、その人と付き合うようになった。僕が三十歳のときだから、もう三十年も前の話だ。もちろん僕は結婚していたし、息子たちも生まれていたよ。彼の方は二歳年下で、独身だった」
社長は「彼」という言葉を少し強めの語調にしていた。
「それまで、自分がまさか男性と付き合うなんて想像さえしたことはなかった。だけどね、彼とは特別だったんだ。正直、初めて見たときから惹かれるものを感じた。一年くらい髪を切って貰っているうちに、この自分の感情を何かに譬えるとすれば恋愛感情が一番ぴったりだと気づいたんだ。彼の方は、若い頃から恋愛対象は同性だったみたいだ。僕と会った瞬間に、いずれはそういう関係になると分かっていたとあとから話してくれたよ」
思いがけない告白だったが、遼平は、ずっと胸に抱えてきた疑問が氷解するのを感じた。「亜美ちゃん」で酔った社長がなぜあんなふうに人が変わったようになるのか、その理由の一端がようやく分かった気がしたのだ。
「二年弱付き合った。誰にも気づかれないよう細心の注意を払っているつもりだった。当時はまだ先代も生きていたし、もしそんなことが露見したらエラいことになると案じていたからね。いまとは時代も全然違っていた。ところが、先代ではなくて女房に見つかってしまったんだ。彼女は探偵を使って、僕たちの密会の様子をつぶさに調べ上げてね、有無を言わせぬ形で僕に突きつけてきた。これ以上、こんな“破廉恥でいかがわしい関係”をつづけるなら離婚も辞さないし、僕の父にも言いつけるっていうんだ。それで、僕たちは別れた。もちろん彼は別れたくないと言ったし、僕自身も同じだった。でも、どうしようもなかったんだよ」