耕平の入学
3
二〇〇五(平成十七)年の八月十四日日曜日。
前日から耕平はバイク仲間とツーリングに出かけていた。お盆休みでサッカーの練習もなかったし、仕事を持っている年長の友人たちとも久々に一緒に走ることができた。メンバー七人で房総半島を縦断し、土曜日は銚子のペンションにみんなで泊まった。翌朝は夜明けと共に出発して海沿いの道を走った。途中、九十九里の浜で泳ぎ、勝浦、鴨川、野島崎、洲崎、木更津と半島をほぼ半周して、木更津で仲間たちに別れを告げた。彼らはもう一日、気ままなドライブをつづける予定だった。耕平は、十五日にサッカー部の練習が入っていたので切り上げるしかなかったのだ。
東京湾アクアラインを通って都内に戻ったのは夜だった。
木場の自宅に直帰でもよかったのだが、その日はあまりに美しい月が夜空に浮かんでいた。日暮れと共に暑気も去り、東京湾から吹き寄せる風が心地いい。
本当は友人たちと一緒にもう一日、ツーリングを楽しみたかったのだ。
だが、主将としてチームを引っ張るべき立場の自分が、夏練の初日を欠席というわけにもいかなかった。
――サッカーなんてやっても仕方がないのにな……。
空の真ん中に浮かぶ上弦の月を目指すようにバイクを走らせながら、そう思ったことをいまでもはっきりと憶えている。
東京湾沿いの道を走って大森海岸の方まで足を延ばし、そこからふたたび湾岸沿いに都心へと戻った。事故現場の築地市場あたりに差しかかった頃には午前零時を回っていた。大森からの帰りはさすがに疲れが出ていた。しかも、運の悪いことに品川を過ぎた頃から小雨が降り始めた。あんなにきれいだった月も雲に隠れて見えなくなっていた。
とはいえ道は空いていたし、悪路というわけでもない。普通だったら絶対に事故ったりはしなかっただろう。
ちょうど市場の正門まで来たところで、目の前の路上に白いものが落ちているのに気づいた。あれ、何だろうと思った瞬間、バイクのヘッドライトに照らされて青い二つの瞳がはっきりと光った。
それは真っ白な猫だったのだ。
道の真ん中にうずくまるようにして猫はいた。けたたましいバイクの音に跳ねるように駆け出すどころか、全身の毛を逆立て、光る両の瞳でこちらを見つめるばかりだ――そういう場面をほんの一秒かそこらで耕平は正確に捉えたのだった。
彼はハンドルを左に切った。ようやく猫が右の対向車線側に跳躍する気配を見せたからだった。
ところが衝突の寸前、驚いたことに猫は身体をねじり、舗道の街路樹を目指して左側へとジャンプしたのだ。咄嗟に耕平はハンドルを左から右に旋回させた。
サッカーで研ぎ澄まされた天性の彼の動体視力がものを言ったのである。
その超人的なハンドルさばきが、しかし、大事故につながった。
無理矢理、右に回された前輪は、雨で濡れた路面を完全に噛むことができなかった。激しくスリップし、ハンドルを取られた耕平のバイクは歩道に突っ込み、シートから放り出された彼は、築地市場の正門脇のコンクリート製のフェンスに激突してしまったのだった。
その瞬間の記憶はほとんどなかった。ただ一点、
――絶対死ぬ。
と思ったことだけは鮮明に憶えている。だから、聖路加国際病院のベッドで意識を取り戻したとき、彼は、自分がいまだにこの世界に留まっていることに非常なる違和と驚きを感じたのだ。
退院後、耕平は木場の家には寄りつかず、バイク仲間の部屋を泊まり歩いていたが、私物を取りに誰もいない自宅に戻った日、たまたま暁美叔母からの電話を受けたのだった。善弥さんが末期がんで大分市内の病院に入院しているのだが、持って年内いっぱいだろうと叔母さんは言い、
「この前、遼ちゃんにも話したんだけどさ、遼ちゃんや耕ちゃんの名前をよく口にしてねー。懐かしそうにしてるんだよ。耕ちゃんも忙しいとは思うけど、一度会いにきてくれると善ちゃんもきっと喜ぶと思うよ」
暁美叔母は耕平が大怪我を負ったことなど知らなかった。
「そうなんだ。じゃあ、近いうちに必ず顔を出すよ。そんときはおばちゃんに電話するね」
と耕平は言って受話器を置いた。
善弥さんの福々しい温顔を久しぶりに脳裏に思い浮かべて、明日にでも出かけようとすぐに思ったのだ。ちょうど数日前に松葉杖が取れたばかりだった。
翌々日、飛行機で大分に向かい、善弥さんを見舞った。
シロという猫が井戸に身を投げて瀕死の兄貴を救ったという話を聞いたのはそのときのことだ。
暁美叔母の家は大分市内だったので、一泊させてもらって翌日昼間の飛行機で耕平は東京へと戻った。帰りの飛行機の中で、痩せ細ってはいても声も嗄れず、頭もはっきりしていた前日の善弥さんの話をつらつら反芻しているうちに、八月のバイク事故に関してもう一つだけ思い出したことがあった。
きっとシロの話に触発されて、意識の片隅にうずくまっていた記憶が首をもたげたのだと思う。
コンクリート壁に激突した直後、バイクから振り落とされて路上に投げ出された耕平は、左膝の激痛に耐えながらしばらくは意識を保持していた。すると、濡れた路面にうつ伏せに顔をつけて呻いている彼のもとへ一匹の白い猫がやって来て、怪我をした右手を舐めたのだ。裂傷を負って血が滲んだ手の甲や二の腕を猫はぺろぺろと舐め、
「大丈夫ですか!」
と叫びながら誰かが近づいてくる足音を察すると、猫はその方向へと一瞥をくれたあとすーっとどこかへ行ってしまった。
白い猫は耕平が轢き殺しかけた猫だった。自分を避けて壁に突っ込んでしまった耕平を気遣って彼女は、事故現場に帰ってきたのだ――きっとそうに違いなかった。
耕平は、近頃の珠子を見ていると、ときどき彼女があの白猫の生まれ変わりではないかと思うことがある。
まだ兄貴がつくみねえさんと結婚する前、そういえば兄貴もおねえさんに対して似たようなことを言っていた。
「むかしからの知り合いのような気がする」と言い、「むかしからっていつよ?」と耕平が訊くと「小さい頃。まだお前が産まれる前」と答えた。そしてそのあと、耕平が井戸に身を投げたシロの話を持ち出すと、兄貴はひどく驚いた顔をして、一方で、何か深く納得するような面持ちにもなったのだった。
その様子を見ながら、
――兄貴は、隠善つくみという女のことをシロの生まれ変わりと思っているんじゃないか?
耕平はそう感じた。
いま、耕平はあのときの兄貴と同じような心地になっている気がする。
心臓に難病を抱えていながら珠子はユーチューバーとして精力的に活動していた。あれよあれよという間に業界を代表する売れっ子になり、最近はメディアにもしばしば登場して新しいファンを増やしている。そのくせ彼女は、他の男には目もくれず、女友達さえ作ろうとしない。さして贅沢するでもなく(機材を設置できる“スタジオ”が必要になって、同じ錦糸町の別のマンションの広い部屋に転居はしたが……)、稼いだ金は、すべて耕平の管理に任せている。
彼女はただひたすら耕平だけを見つめて生きているのだ。
――つくみねえさんがそうだったように、珠子もいずれは消えちまうのか……。
耕平はたまに嘆息する。
拡張型心筋症の珠子は、いつ死んだっておかしくはないのだ。そういう点では失踪したつくみねえさんよりもさらに完璧に、彼女は耕平の前から消え去ることができる。
いまから半年前(二〇一五年九月)、つくみねえさんは突然、兄貴の前から姿を消した。
思えば、耕平が、珠子のことをあの白猫の生まれ変わりだと感じるようになったのは、その頃からであったような気がする。
4
「やっぱタケル兄は耕ちゃんのことよく分かってるねー。さすがだよ」
追加で揚げたエビフライをバットに山のように盛って、珠子が食卓に戻ってきた。
「今度はエビを開いて揚げてみた。衣にミックスナッツを混ぜてあるよ」
向かいの席に座ると、空になった耕平の皿に次々とエビフライを載せていく。
珠子は週に一度は、耕平の好物のエビフライを作ってくれる。暮らし始めた頃は冷凍のエビを使っていたが、最近は、生の大きなエビを買ってきて丁寧に下ごしらえをし、自分で挽いたパン粉で揚げるようになっていた。
タルタルソースもお手製だ。珠子のタルタルは大葉のみじん切りをたっぷりと入れて、隠し味に練乳を少量加えているのだが、これがとてもエビフライに合うのだった。
珠子はタケルのことを「タケル兄」と呼ぶ。
「コットン」で腹ごしらえしたあと、江東橋の行きつけのパチンコ屋で玉を弾いて、今日は午後五時頃に解散した。隣同士の台に並んで打っているあいだもタケルは、看護学校行きをしきりに勧めてきて、店の喧騒の中でその声を聞いているうちに耕平もだんだんその気になってきたのだった。
別れ際に彼は、
「じゃあ、さっそく堀切に頼んで学校を決めておくよ。明日か明後日には連絡する」
と告げ、耕平はその言葉に曖昧に頷いただけだった。
自分でもどうしたいのかよく分からなかった。
これまでも肝腎の場面でいつもそんな感じだったので、耕平にとっては曖昧な意思表示は「YES」と似たようなものだし、その辺はタケルもよく心得ている。
――へぇー、俺って看護師になるのか……。
タケルの後ろ姿を見送りながら、彼はぼんやりとそう思っていた。
差し向かいでエビフライを食べ始めたところで、珠子にその話を持ち出した。タケルが来月から日暮里にある美容師の専門学校に通い始めると伝え、
「俺は看護専門学校に入って、看護師になればいいってタケルが言うんだよ。さっそく救世会グループの堀切理事長に頼んで、来月から入れる学校を見つけてやるって」
と話した。
「で、耕ちゃんは何て返事したの」
「返事も何も、あいつが一方的にそうしろって言うばかりだからね」
「そうなんだ」
珠子は、じっと耕平の顔を見て、
「耕ちゃんは、看護師は向いていると思うよ。心が根っこからやさしい人だから。お店でも、女の子たちはみんなそう言ってたしね」
と言ったのである。
ナッツ入りの衣で揚げたエビフライは絶品だった。
「それ、タルタルもいいけど、お醤油で食べたらすごく美味しいよ」
珠子に言われて醤油をかけると、さらにナッツの風味が際立つ。
「醤油もいいね」
耕平が言うと、
「耕ちゃん」
珠子が箸を止めて、もう一度じっと彼を見る。
「タケル兄が看護学校を見つけてきたら、ちゃんと通ってね。いまだったらお金の余裕もあるし、三年くらいなんとでもなるよ」
「看護学校って三年もかかんの?」
耕平はそれさえ知らなかった。
「そうだよ。私も中学までは看護師になろうかなんて思ってたからね」
「そうなんだ」
初耳だった。
「まあね。でも、私の場合は、看護する方じゃなくて、される方に回っちゃったけどね」
珠子は苦笑する。
「耕ちゃん」
珠子はまた耕平の名前を呼んだ。
「分かっていると思うけど、私はそんなに長くは生きられないし、私が死んだあとの耕ちゃんのことが心配だよ。三年間、しっかり学校に通って看護師の資格を取ってくれたら、安心して死ねると思う。私のためと思って、だから、しっかり勉強してちょうだいね」
「何だよ、それ。お前はそんなに早くは死なないっていつも言ってるだろう。そういう俺の勘は当たるんだよ」
「ほんとにほんと? だったら三年後とは言わないけど五年後も、私がこうして生きているって耕ちゃんはほんとに思ってる? 断言できる?」
「五年後なんて、そんなの誰だって分からないよ。俺だって五年後どうなってるか知れたもんじゃない」
「誤魔化さないで。耕ちゃんお得意の直感で、五年後、私が生きているかどうか想像してみてよ」
「今日はやけに詰めてくるんだな」
「そりゃそうだよ。耕ちゃんにとっても私にとっても大事なことでしょう。耕ちゃんが看護学校にちゃんと通うかどうかって話は。タケル兄だって、きっと自分のこと以上に耕ちゃんの将来を考えてくれてるんだと思うよ」
「うーん」
にわかに話がシリアスな方向へと流れて、耕平は困惑する。
例によってまた瞳を潤ませている珠子を見ていささかうんざりだった。
「まあ、五分五分ってところかな」
茶化すように返してみる。
「五分五分? じゃあ学校に行かないつもりなの?」
珠子が手の甲で涙を拭い、今度は詰問するような口調になった。こういう起伏の激しい気質は彼女の病気がそうさせたのか、それとも生まれつきなのか――耕平は後者だろうと思っていた。
「そっちじゃないよ」
「そっちじゃない?」
「だから、五年後にお前が生きているかどうか答えろって、さっき訊いたじゃん。俺の直感だと五分五分ってこと」
彼女の濡れた瞳を覗いてみて、耕平は直感的にそう感じたのだった。嘘や誤魔化しで五分五分と言ったわけではない。
「だったら看護学校には行くんだね」
珠子がさらに詰めてくる。
「まあね。タケルが学校を見つけてくれたら行くしかないよね。あいつだって美容師の学校に行くんだし、一人ぼっちにされたって時間の潰しようがないからね」
ちょっとふてくされたように耕平が言うと、
「えらい! やっぱり私の大好きな耕ちゃんだ! さすが!」
今度は派手にガッツポーズを決めている。
まったく、と耕平はため息をつきつつ、しかし、この珠子がほんとに死んでしまったら俺は一体どうなるんだろう、と思ったりもする。