真藤社長の秘密
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食卓には野菜サラダ、スモークサーモンのカルパッチョ、パン籠に山盛りのバゲット、そして深皿にたっぷりと盛られたビーフシチューが並んでいた。飲物は赤ワイン。サラダ用の野菜とワインは那須塩原駅のそばにある食料品店で買い、肉やサーモン、パンはいま友莉が住んでいる千葉県流山市の「独身寮」の近くにある大型スーパーで買って、わざわざこの別荘に持ち込んだのだそうだ。
ゆうべから一晩じっくり煮込んだというビーフシチューは舌がとろけそうなほどの旨さだった。飲食店が稼業の家で育ったこともあって、もとから友莉は料理上手だったが、彼女の手料理はそれほどたくさん食べてこなかった。
子供の頃から茜おばさんや智司おじさんの作ったご飯を一緒に食べてきた経緯もあり、友莉と二人で食事をするときはもっぱら外食か、出来合いのものを買って済ませるようにしていたのだ。
そうすることで兄妹のような親密度を少しでも薄める方がいいと、遼平も友莉も暗黙のうちに認め合っていた。
だが、こうして結婚した身として友莉と面と向かい、彼女の手料理を口にすると以前とは異なる非日常感が感じられる。
友莉が恋人だったこと、幼馴染みだったことなどは遠い過去の出来事で、いま遼平は、まったく新しい相手として彼女と対峙しているような気にさえなっていた。むろん、友莉の容姿がすっかり変貌しているのもその大きな理由ではあろう。
友莉は、驚くほどに美しくなっていた。
まずもって顔の大きさが三分の二くらいになっている。メイクの効果もあるのだろうが、やはりダイエットの成果だろう。可愛らしい顔立ちだったのが、いまは美しい顔立ちに変わっている。フェイスラインが鋭角になるだけでここまで顔の印象が変わるとは想像もつかない。
目や鼻や頬、顎などを整形したわけでないのは一目瞭然だ。それらはどこもかつてと違うところはない。にもかかわらずその造作のどれもが愛らしさから美しさへと見事に洗練されている。これまでの“往年のアイドルっぽさ”は影を潜め、いまは美しさだけが際立っているのだった。
遼平は、友莉を眺めながら、耕平の彼女、珠子が言っていたことを思い出していた。
珠子はつくみの熱心な勧めもあって、あのあとすぐにYouTubeに自前のチャンネルを開設して動画配信を始めたのだった。
チャンネル名は「亜里砂のマジカルメイキャップ 超実践編」。
「亜里砂」は珠子のキャバ嬢時代の源氏名だった。
内容は、珠子のお店の仲間たちや、チャンネル運営をサポートしている財前一朗君の大学の同級生などに片っ端から声を掛けて、珠子のメイクテクで彼女たちを見違えるほどの美女に変身させていくというものだが、まだ開設から半月足らずとはいえ、登録者数は日々、着実に増えているらしい。
そして、珠子がその動画のなかで毎回枕に振っているのが、次のような決まり文句なのだった。
〈こんにちは亜里砂です。
女性には、誰にでも自分なりの美の頂点というのがあります。それは、ダイエット、お化粧、ヘアメイク、そして若さによって作られるもの。
でも、その四つだけで本当の頂点に上り詰めることはできないんです。
いまの自分が、自分の歴史のなかで最も美しいという自信を持つことで初めて美の頂点がわたしたちの前に姿をあらわします。
そうなんです。
みなさん、みなさんは絶対に美しくなれる。まずはそれを信じて下さい。
その信念が正しいことは、亜里砂が人生をかけて保証します。
この世界にある美の法則はたった一つ。
それは、『美しくなることをあきらめた人だけが、美しくなれない』ということなのです。
では、今日もさっそく「亜里砂のマジカルメイキャップ 超実践編」を始めていきましょう。 レッツ・スタート!〉
動画のなかで珠子は毎回、「いまの自分が、自分の歴史のなかで最も美しいという自信」が「美の頂点」に駆け上がる最後の鍵だと力説しているが、こうして目の前で自信たっぷりな様子の友莉を見ていると、その言葉の意味が身にしみて分かるような気がした。
友莉は余り食事には手をつけずに、遼平が食べているのを見ている。
「美味しい?」
と訊かれて、
「すごく」
遼平は答える。
こんなふうに二人で食卓に向かい合っていると恋人同士だった頃の空気感が次第によみがえってくる。
まして美しく変貌した友莉を前にすると何かしらの魔法をかけられてしまったかのような、ちょっと上ずった感覚が胸に湧き上がってくる。
そして……。
遼平がそんなふうになってしまうのにはもう一つ大きな理由があった。
熱々のシチューを盛った皿が置かれ、友莉は向かいの席に立つと、それまで身につけていた胸当てエプロンを外してきれいに畳み、隣の椅子の背に掛けた。
身なりは、芥子色のロングスカートに白のカットソー、スカートと同系色のカーディガンという地味な取り合わせだった。そのシンプルな装いがいまの友莉にはよく似合っている。
彼女は立ったまま、ワインオープナーを使って赤ワインのボトルを開栓する。
それぞれのワイングラスになみなみとワインを注ぎ、一つを遼平の前へと差し向けてきた。
一連の動作に接しながら、エプロンを外した友莉の胸元に遼平は目が釘付けになっていた。カットソーの上からでも分かるそのバストは、彼が知っている友莉のそれとはまるでボリュームが違っていたのだ。
久しぶりの再会ともあって、食事を始めてしばらくは通り一遍のやりとりをした。昨日の友莉のこの別荘までの行程や、今日、レンタカーで走ってきた東北道の状況、道々の天気や景色の話など。
シチューを半分ほど食べ進めたところで、
「先月、電話で『合宿』って言ってたけど、一体どこの国で何をしていたの?」
遼平はようやく本題を持ち出した。
友莉は小さく微笑んで、
「それはまだ内緒。あとで詳しく話すから」
思わせぶりなことを言う。
「それより、遼ちゃん、つくみさんとは仲良くやっているの?」
友莉の方もいよいよ本題、という雰囲気で訊いてくる。
「うん」
遼平は頷く。
「彼女と結婚して正解だった?」
「うん」
もう一度強く頷いてみせた。
「でもさ……」
呟くように言って、友莉はワイングラスを手にする。一口ワインをすすってグラスを卓上に戻すと、
「でもさ、遼ちゃん、私のことが嫌いになったわけじゃなかったんだよね」
小首を傾げるようにして言った。
「彼女のことが私よりももっと好きになっただけだよね」
と言葉を重ねてくる。
遼平はすっかり美しくなった友莉の顔をじっと見る。一体何のためにそんなことを確かめたいのか真意は分からなかった。が、ここは誠実に応じるしかないと感じた。
「そうだね。友莉を嫌いになったわけじゃなかったよ」
友莉が、やっぱりという表情になる。
「いまでも?」
少し身を乗り出すようにして彼女が言う。
たわわなバストが否応なく目に飛び込んでくる。じっくり観察したところ、友莉の胸はブラパッドで大きくしているものではなさそうだった。彼女の動きにしっくりと馴染んで自然に揺れているのだ。
「いまでもって?」
なぜだが、遼平はドギマギした気分で訊き返す。
「だから、こうして久しぶりに会ってみて、私と別れたことが失敗だったって思ってないかなって。いまでもつくみさんの方がいいのかなって」
遼平はまじまじと友莉を見た。彼女は真剣な表情でこちらを見つめている。
「私、遼ちゃんに捨てられて、すごく反省したんだよ。考えてみたら、小さい頃からずっと兄妹みたいにして育ってきて、それが恋人同士になって、でも、遼ちゃんからすれば私って、女としての魅力に乏しい相手だったんだろうなって。飽きられて捨てられたのも、ある意味、当然だったんだろうなって」
「友莉……」
遼平には返す言葉が見つからない。
つくみとの結婚は、自分にとって決して避けることのできない運命だった、と心の中で呟く。
「七輪社長に言われたんだよ。一番悪いのはきみ自身なんだって。許嫁という立場にあぐらをかいて、父親が病気で倒れたことを理由にせっかくの結婚を先延ばしにして、そのあいだの自分磨きも怠って、そんなんじゃあ、魅力的な新しい女性が現われたら相手の男性はひとたまりもないに決まっているじゃないかって。きみを見ていると歯がゆい。まずもって自分自身の魅力にまったく気づいていない――そんなふうに叱られたの」
友莉の物言いからは彼女の七輪への心酔ぶりが窺われる。
「僕とつくみが結婚したのは、運命だったんだと思う。こういう言い方は友莉に対して失礼かもしれないけど、つくみは僕にとって特別な存在なんだよ」
遼平は、ちゃんと本当のことを口にする。
「結婚したばかりのときは、誰だってそんなふうに言うものよ。彼女は特別だ、彼は特別だって。でもそうやって夫婦になっても、多くの人たちが別れてしまうんだよ」
だが、友莉はきっぱりとした口調で言い返してくる。
「結婚なんてすぐにできるし、離婚だってあっと言う間にできるんだよ」
友莉はさらに身を乗り出すようにして言う。
「遼ちゃんが、どうして私に会いたいと言い出したのか。理由はちゃんと分かっているよ」
その胸のふくらみがますます視野を占領してくるようだった。
「お父さんたちに頼まれたんでしょう? 私がいかがわしい仕事をしているから、それを止めるよう遼ちゃんから説得して欲しいって」
友莉は相変わらず自信たっぷりの笑みを浮かべている。
「それは事実だよ」
彼女はあっさりと言った。
「じゃぱん・クルーズバンケットはね、お父さんたちや遼ちゃんが想像しているような会社だよ。あの会社で船上コンパニオンとして働いている女の子のほとんどは、お客さまへのセックスも提供しているの。富裕層相手の売春組織だっていう業界の噂は事実だし、いまは、私もそのメンバーの一人として働いている」
友莉はまるで自慢でもするような口調で、その驚くべき告白をした。
遼平は、まさかこんなふうに彼女が簡単に事実を認めるとは思ってもいなかった。
「遼ちゃんは、私をそんな仕事から足抜けさせたくて、今日、ここに来たんでしょう? お父さんやお母さんにも、何とかしてくれって泣きつかれたんでしょう?」
友莉は、こちらの顔を覗き込むようにして言う。
と思ったら、前屈みになっていた身体を不意に真っ直ぐに戻して、
「ねえ、遼ちゃん」
強い調子で言った。
「さっきから、ちらちらと一体どこを見てるの? 自分が捨てた女のおっぱいがこんなに大きくなって、それで目が離せないってわけ?」
からかうような物言いだった。
「どうしたんだよ、その胸?」
遼平も率直に言い返す。
「そのことはあとで話すって言ったでしょう。それより、コールガールみたいないまの仕事を止めさせたくて、そのために来たんだよね?」
質問には答えず、友莉はさっきと同じセリフを繰り返してきた。
「もちろん、そのつもりで来たんだよ。そんなの当たり前じゃないか」
意外な話の流れに戸惑いながらも、遼平は答える。
「やっぱりそうなんだ……」
なぜか友莉はホッとした表情を作る。
「いいよ、コールガールやめても」
そして、また予想外の反応を見せた。
「だけど一つだけ条件がある」
と付け加える。
「条件?」
「そう」
友莉は頷き、
「もし、遼ちゃんが私と結婚してくれるなら、私はあの会社を抜ける。社長も『それなら、それが一番いい』って言ってくれてるから」
と言った。
――これは、やはり俺への復讐なのだ。
遼平はさっきからそう思っていた。アジアのどこかの国で「合宿」し「重要な体験」をしながら、友莉は自分を捨てた男にどうやって仕返しをすべきか、ずっと思案を重ねてきたのに違いない。
「社長に遼ちゃんとのことを打ち明けたらね、もっと女を磨け、もっともっといい女になって彼氏を取り戻してみろって言われたんだよ。そのために、お前はいろんな男、それもこの世界で活躍しているハイレベルな男たちにたくさん抱かれた方がいいって。優れた男というのがどんな人間なのかを自分自身の目と耳と肌で理解して、彼らを利用できるスキルを身につけろって。うちの歴代コンパニオンたちもみんなそうやって女を磨いて、新しい人生を掴み取ってきたんだって」
熱に浮かされたような口調になっている。
「どうする? 遼ちゃん」
そして、残っていた自分のグラスのワインをゆっくりと飲み干すと、彼女は、静かに立ち上がった。
「七輪社長にそそのかされて、コールガールなんてやっている私を救い出したくて、ここまで迎えに来たんでしょう。それはそうだよね。私をこんなふうにしてしまったのは他ならぬ遼ちゃんなんだから」
友莉は座ったままの遼平を見下ろす。
「すべては遼ちゃんの選択次第だよ。あの女と離婚して、私のもとへ戻ってきてくれるんだったら私はすぐにでも『じゃぱん・クルーズバンケット』を辞めて、お父さんとお母さんが待っている家に帰る」
そう言って、
「どうする? 遼ちゃん」
と、さらに畳みかけてくる。
遼平はその強い瞳を見返すようにして、一つ息をついた。
「分かったよ。友莉がそれで七輪社長と手を切ってくれるんだったら、俺は友莉の言う通りにするよ」
と答えた。
「ほんとに?」
彼女の驚きが直に伝わってくる。
「友莉を取り戻すためだったら、俺はつくみと別れて友莉と一緒になるよ」
遼平も静かに椅子から立ち上がった。