真藤社長の秘密
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矢玉木材の矢玉幹夫社長が、「じゃぱん・クルーズバンケット」の七輪優作と出会ったのは、まったくの偶然だったという。
ただ、それが正真正銘の偶然だったのかどうか、七輪社長の裏の顔を知ったあとの矢玉社長は、いささか疑わしく感じたようだった。とはいえ、遼平自身も矢玉社長の話をつぶさに聞き取ってみて、もしも、七輪が矢玉社長への接近を目論んで、偶然を装った出会いを演出したとしても、しかし、その先に彼が見据えていた目的が一体何だったのかがよく分からない気がした。
矢玉社長とよしみを通じて、「清兵衛」の常連となり、友莉を自分の会社に誘い込むのが最終目的だった――というのは幾らなんでもあり得ないように思えたのだ。
だとすると、疑わしくはあれども社長と七輪との出会いは、社長がまさしく言っていたように「彼が最初から何か悪巧みをしていたとは到底思えない」「偶然の産物」に過ぎなかったのかもしれない。
社長が七輪と親しくなったのは去年の夏、二〇一三年の八月のことだが、七輪を最初に見たのはその一ヵ月半ほど前、七月十日水曜日のことだった。
場所は京橋にある「宝くじドリーム館」。時刻は午前十一時頃。
どうしてそんな場所で二人が出会ったのかというと、矢玉社長は長年、宝くじの発売日にこのドリーム館で宝くじを買うのを習慣としていたからだった。
もともとそれを趣味にしていたのは、七年前に亡くなった社長夫人の雪子さんで、彼女の幼馴染みがドリーム館で働いていて、雪子さんは宝くじの発売日になるとたびたび出向いて、宝くじを購入したあと、その親友とお昼ご飯を食べるのをたのしみにしていたのだった。
で、夫人が病気で亡くなって以降は社長が、それを引き継ぐような形になったのだ。
「といっても、妻が亡くなる前にその親友はドリーム館をやめていたから別に僕は彼女との昼飯目当てで通うようになったわけじゃないよ。ドリーム館が出来て以来ずっと、それこそ三十年以上も妻はせっせと宝くじを買いに行っていたからね。木場から京橋までは歩いて一時間足らずで、季節のいい時期は恰好の散歩コースだったんだ。だから、たまに僕も妻と一緒にドリーム館まで歩くこともあった。僕たち夫婦にとってはあそこは思い出の場所でもあるんだよ」
と社長は言っていた。
資産家夫人の雪子さんが宝くじのファンだというのも意外だったが、
「あの人は結構くじ運のいい人でね、百万円単位の高額当選を何度かしていたんじゃないかな。小さい頃からそんな感じで、『外れくじを引いたのはあなたと結婚した一度きりだ』なんて、よく僕に向かって毒づいていたよ」
と社長は笑いながら話してくれた。
七月十日は、「二〇〇〇万サマーくじ」の発売日だった。
「妻は、何億円も当たるようなジャンボくじにはあまり手を出さなくてね、そのサマーくじみたいな地味なくじを狙って買っていたんだ。だから僕もずっとそのひそみにならっていた。で、発売日に出かけたら、例によって窓口の前はちょっとした行列でね、いつものように列に加わったんだ」
五分ほど並んで、前の人が購入を終えて、さあ、自分の番だと思ったとき、
「ポケットの携帯が鳴ったんだ。着信相手を見たら大事な取引先だったから、後ろにいた人に順番を譲って列からすぐに外れたんだよ。後ろの人は『え、いいんですか?』って顔をして、『すみません』って何度も会釈をしていた。すごく感じのいい人だったんだ」
その「感じのいい人」が、七輪優作だったのである。
「十五分くらいの長電話になったんだけど、彼はくじを買ったあと、近くで電話している僕のそばにまできて無言で丁寧にお辞儀をして帰って行ったんだ。いまどき律儀な人だととても印象に残ったよ」
むろん通話を終えると社長は、ふたたび列に加わって宝くじを買ってから帰途についたのだった。
この「二〇〇〇万サマーくじ」の発表は八月十三日。社長の買ったくじはすべて外れだったという。
七輪と再会したのは、八月二十八日。矢玉社長が前回と同じように午前十一時頃にドリーム館に足を運び、その日発売開始の「宝くじの日記念くじ」を買って、窓口を離れようとしたときだった。横合いから近づいてきた七輪に声を掛けられたのである。
「僕のこと、憶えていらっしゃいますか?」
と言われて、社長はすぐに思い出したのだった。「ええ、もちろん」と返事をすると、
「こんなふうにいきなり声を掛けて申し訳ないのですが、実は、あなたにどうしても御礼を言いたくて今日は、ここでお待ちしていたんです」
と七輪はつづけた。
口調も丁寧で物腰も柔らかく、七輪は相変わらず「感じのいい人」であった。
だが、「御礼を言いたくて」という彼の用向きが一体何の御礼なのか、矢玉社長には皆目見当がつかなかった。
すると、七輪は「ちょっとこちらへ」と矢玉社長を窓口から離れたドリーム館の建物の端に招き寄せ、声を小さくしてこう言ったのである。
「いや、実は先月、あなたに順番を譲って貰って買ったサマーくじが見事、一等当選だったのです。僕の会社は新橋にあるんですが、あの日はたまたまこの近所のお得意さんに顔を出した帰りで、そしたら小さな行列ができていて、ふと見るとあなたの後ろ姿が見えて、何となく吸い寄せられるように僕も後ろに並んだんです。それまで宝くじなんて滅多に買ったことはなかったんですが」
この話にはさすがに社長も驚いたのだった。
「じゃあ、あなた、一等二千万円が当たったんですか?」
思わず確認すると、
「そうなんです。そんなことが起きたのも、順番を譲って下さったあなたのおかげなので、どうしてもこうしてお目にかかって御礼を伝えたかったんです」
七輪は満面の笑みを浮かべてそう言い、上着のポケットから名刺を抜いて、
「私はこういう者です。決して怪しいものではありません」
冗談めかした口調で言いながら、名刺を社長に渡してきたのだった。
社長も慌ててクラッチバッグから自分の名刺を一枚取り出して、七輪に差し出した。
お互い素性が知れたところで、
「ちょっとその辺でコーヒーでもどうですか?」
持ちかけてきたのは七輪だった。社長も喜んで応じた。
「いや、だって、何しろ二千万円が当たったというんだからね。そんな人にはそうそうお目に掛かれないし、詳しい話を聞かせて貰いたくなったんだよ」
と社長は言っていた。
ドリーム館の近くの喫茶店に二人で入り、コーヒーが届いたところで七輪は、
「いろいろ考えたんですが、やっぱり二千万円を独り占めするのは居心地が悪くていけません。なので、二人で一千万円ずつ折半ってことにさせて貰えませんか? 本当だったら矢玉さんが当たりくじを引いていたはずだったんですから」
と言い出したのだった。
「で、社長は何とおっしゃったのですか?」
遼平が訊くと、
「そんな突拍子もないことを言い出されても困るからね。もちろん、そういうわけにはいかないとはっきり断ったよ。そしたら、彼が、『それじゃあ、僕の気持ちがどうしても済まない。何か御礼をさせて欲しい』って引き下がらなくてね」
しかも七輪は、
「繰り返しますが、あのとき、矢玉さんの背中を見て、なぜか吸い寄せられるように列に並んだんです。これもきっと何かのご縁だし、矢玉さんとは良いご縁のような気がしてなりません。これを機会に是非、親しくお付き合いさせて欲しいんです」
と熱心に社長を口説いてきたのだった。
「彼がせめて何かご馳走くらいさせてくれないかっていうんで、それならってことで次の週に『清兵衛』に連れて行ったんだよ」
以来、社長と七輪は「清兵衛」や七輪の行きつけの料理屋などでしばしば酒を酌み交わす仲となった。もちろん勘定はすべて七輪持ちなのだそうだ。
「いまどき珍しいくらい気っ風のいい男でね、僕には絶対に出させないんだ。彼の仕事のやり方もいろいろと聞いてね。実は感心させられることもたくさんあったんだよ。自分のような業界は基本的に富裕層相手の商売だから、とにかく金持ちのご機嫌を取ることばかり考えていて、たとえばコンパニオンの女性たちの待遇なんて、表向きの派手なイメージとはかけ離れて、それはひどいもんだって言うんだよ。使い捨てみたいなものだってね。だけど自分の会社はそうじゃない。自分はたくさんの人を幸福にするために事業をやっているから、客と従業員の区別なんてない。むしろ、自分と一緒に働いている仲間たちの幸福を最優先に考えて会社を発展させるのが人生の目的なんだっていつも言っているんだ。そんな自分が矢玉さんには幸運を授けて貰った。矢玉さんは僕のお師匠様みたいなものだってね。だから、正直、彼がコンパニオンの女性たちを幸福にするどころか食い物にするような、そんな大それた裏稼業に手を染めているなんて、僕にはにわかに信じがたい話でもあるんだよ」
と矢玉社長が語るほどに二人は急速に昵懇の間柄となっていったのである。
5
三月十四日金曜日。
午前中で外回りは終わらせ、その日は午後からずっと会社のデスクで書類仕事に精出していた。午後休憩を終えた三時過ぎ。飲み残しのコーヒーを捨てに給湯室に入ったところでポケットのスマホが鳴った。
着信表示は「板倉友莉」だった。去年、別れたあと、「友莉携帯」を「板倉友莉」に変更したのである。
コーヒーが残ったままのマグカップを給湯室のキッチンに置きっぱにし、遼平は通話ボタンをタップして急いで廊下に出た。一番奥にある非常口の方へと歩きながら、
「もしもし」
と言う。
「遼ちゃん、いま大丈夫?」
むかし、勤務中の遼平に連絡を寄越したときと同じように、おずおずとした声の友莉がスマホの向こうにいる。
「全然大丈夫。電話を待っていたよ」
「遅くなってごめんね。水曜日に日本に戻ってきたの」
「そうだったんだ」
水曜日ということは一昨日だった。
「それでね、早速で悪いんだけど明日か明後日、二人で会えないかな?」
「もちろんいいよ。だったら、明日にしよう」
「仕事は大丈夫?」
「土曜日だし、休めると思う」
「そっか……」
遼平の返事に、しかし、友莉の反応はそれほど弾んだものではなかった。先月初めにやりとりしたときのような快活さは影を潜めている。
「実はね、いま私、那須にいるの。七輪社長の別荘」
「七輪の別荘?」
思わず「七輪」と呼び捨てになってしまう。二日前に帰国したばかりの友莉が、どうして七輪の別荘なんかにいるのか?
「だから明日は、那須まで会いに来てほしいの。ご足労かけて悪いんだけど」
「てことは、社長も一緒ってことなのか?」
「ううん。社長はいないよ。私一人。日本に帰ったらすぐに遼ちゃんに会いたいって社長に話したら、『そういうことなら僕の別荘でゆっくり話せばいい』って鍵を渡してくれたんだよ。それで、今日、新幹線でここまで来たの」
「一人で?」
「うん。那須塩原駅からだとタクシーで三十分くらいかかるけど、車だったら那須インターから十分程度だと思う。だからレンタカーで来て貰った方が便利だと思うよ」
「じゃあ、友莉は今夜は一人でその別荘で過ごすってこと?」
三月半ばとはいえ、那須の夜はまだまだ冷え込むに違いない。
「それは心配ないよ。暖房も完備しているし、食べ物や飲物はしっかり用意してきているから」
「だけど……」
だからといって、どうしてわざわざそんな場所で友莉と会わなくてはならないのか?
遼平には友莉が何を考えているのか、七輪はいかなる意図があって自分の別荘を使わせようとしているのか、まるでちんぷんかんぷんだ。
「もし、明日、遼ちゃんが那須に来てくれるんだったら、いまからここの住所を送るけど……。車だったら駐車場は広いのが付いてるよ。時間は遼ちゃんに任せる。私はどこにも出かける予定はないから」
しかし、せっかくの誘いを断る選択肢は、いまの遼平にはない。
「分かった。じゃあ、レンタカーで行くよ。横浜からだから少し時間はかかるけど、明日の午後早くには着くようにする」
「ありがとう。じゃあメールで住所を送るね。久しぶりに会えるのをたのしみにしてる」
友莉はホッとしたような気配を見せ、それから、
「あと一つ、遼ちゃんにお願いがある」
と言った。
「なに?」
「遼ちゃん一人で来てね。奥さんとか耕ちゃんとか、うちの親とか絶対に一緒に連れてこないでね」
それまでとは打って変わって、友莉は、かつて一度も耳にしたことのないようなドスの利いた声でそう言ったのだった。
「洋光台」の隣駅「新杉田」にあるレンタカーショップで車を借りて、那須町にある七輪優作の別荘へと向かったのが午前十時過ぎ。
ナビの到着時刻表示は午後一時四十八分になっていた。
高速に乗る前に一度、車を止めて友莉にはその時刻をメールで伝えた。
〈ゆっくりでいいからね。安全運転で来て下さい。たのしみにしています〉
という返事がすぐに届く。
東北自動車道はスムーズに流れていた。
出発時の横浜は薄曇りだったが、佐野藤岡のインターチェンジを通過したあたりから空は真っ青に晴れ渡り、日射しも春めいたあたたかさに変わった。これだったら昨夜の那須もさほど寒くはなかっただろうと思う。
久々の運転が楽しくて、少しスピードを上げたこともあって午後一時半きっかりに七輪の別荘前に到着した。
那須インターで降りたあと那須高原へとつづくゆるやかな山道を十分ほど走ると、「ダイヤモンドバレー」という看板を掲げた別荘地のゲートがあり、そのゲートをくぐって点在するそれぞれの別荘のあいだの道を抜けると、ゲートから五分ほどの場所に七輪の別荘が建っていた。
よほど豪華なものかと予想していたが、屋根無しの駐車スペースに車を置いて外に出ると、正面の建物は途中で見てきた他の別荘と似たり寄ったりだった。富裕層が軽井沢や八ヶ岳に構える豪華な山荘とは違う、いわゆる平均的な二階建てのコテージだ。
一階にリビングと客間、吹き抜けの二階に寝室が二室――ざっとそんな間取りだろうとは仕事柄、当たりがつく。築二十年は過ぎていそうだが、メンテナンスはしっかりとなされている。外壁も青いスレート屋根も塗り直されてまだ間がない感じだった。
建物の左側には庇付きのウッドデッキが設置され、テーブルと椅子が置かれている。落ち葉や枯れ枝は溜まっておらず、掃除が行き届いているのが分かる。
ダイヤモンドバレーのシリーズは、大手のデベロッパーが手がけた分譲別荘だから、管理もそれなりにしっかりとやっているようだった。
石畳のアプローチを伝って青いドアのある玄関前に立つ。
手土産に何を持ってくればいいのか分からなかったので、とりあえず友莉の好物のマドレーヌを洋光台の例のケーキ屋で買ってきていた。それが入った紙袋を左手に提げ、右手を伸ばしてインターホンのボタンを押した。
「はーい」
チャイムが鳴ってすぐにドア越しに明るい声が聞こえる。あっと言う間にドアが開いて友莉が顔を出す。
「早かったね」
久々に見る笑顔だ。
「どうぞ入って。キッチンの火を弱くしてくるから、ちょっと待っててね」
と息を弾ませるように言うと、彼女は踵を返して玄関ホールの左手にあるドアの奥へと消えていった。
遼平は、一度小さく首を傾げてから靴を脱ぎ、広いホールに上がる。ホールは天井まで吹き抜けになっていて、見上げると二階の左右にドアが二枚。予想したとおりの間取りのようだ。
式台に出してあったスリッパを履いて、友莉が開け放していったドアを抜ける。そこは、二十畳以上はありそうなリビングダイニングで、先ほど見たウッドデッキにつながる大きなベランダの窓や、対面キッチンと向かい合う形でダイニングテーブルを据えたスペースに嵌め込まれた出窓から透明に澄み切った光がさんさんと射し込んでいる。
そんな心地よい空間に、いかにも美味しそうな匂いがあふれていた。
友莉はキッチンの向こうに立って、大きな鍋をかきまぜているところだった。
その姿を見て、初めて、彼女が胸当てエプロンを着けているのに遼平は気づいたのだった。先ほどは顔にばかり注意が引き寄せられて、服装までは目がいかなかった。
遼平が上着を脱いでいると、
「その空いている椅子にでも掛けておいて。あとでハンガーを持ってくるから」
お玉の手を止めた友莉が面を上げて言う。
遼平は、持参したマドレーヌの紙袋をダイニングテーブルの隅に置き、言われた通りに椅子の背に上着を掛けた。椅子は片側三脚ずつ。六人掛けの大きなテーブルだった。
「お昼、まだだよね」
友莉がお玉を置いて、鍋に蓋をしながら訊いてくる。
「うん」
「よかった」
明るい日射しを受けて、笑みを浮かべたその顔が輝いて見えた。
彼女は確かに、遼平が幼い頃から知っている板倉友莉だった。本人に間違いはない。
だが、一方で、彼女はこれまで一度も会ったことのないまったく別人の友莉だった。
遼平はついつい友莉の顔を食い入るように見つめてしまう。
それを知ってか知らずか、目が合う度に彼女は、笑みを浮かべた顔をこちらに向けてくる。
「どこでもいいから座ってて」
また輝くような笑顔で友莉が言う。声までが輝いているようだった。
――有名な女優さんになった中学時代の同級生と、十年ぶりくらいに再会したらこんな感じだろうか?
ふと、そんな言葉が脳裏に浮かんできた。