耕平の入学
6
乾杯のあと、しばらくはこれからのタケルや耕平の学校生活についてみんなで話した。タケルの方は新菜がかつて通った同じ学校だったから、おおよそのことは把握しているようだ。一方、耕平の方は何もかもが初めてで皆目分からなかった。
「明日から何するの?」
タケルに訊ねられて、耕平は上着のポケットにしまっていたプリントを取り出して広げる。今日、歓迎会のあとに配られたスケジュール表だ。
「明日はオリエンテーションだね。朝の八時半集合だってさ。で、明後日が健康診断で……」
そこで、耕平はため息をつく。
「それで、金曜日からもう授業が始まるよー」
「正直、美容師より看護師の方が倍はたいへんだろうね」
新菜があっさりと言う。
「まあね。美容師も人様に刃物を向けるんだから訓練はたいへんだけど、看護師は何しろいのちに直接関わる仕事だもんね」
珠子が追い打ちをかけてくる。
「まあ、耕平だったら大丈夫でしょ。見かけによらずガッツはあるからね、こいつは」
タケルがにやにやしながら言った。
「ガッツねえ……。俺からすればお前のせいで借金背負わされただけだけどね」
そもそもタケルと耕平が知り合ったのは、耕平がスカウトした琴美という名前のキャバ嬢がタケルに入れ上げて三百万円も借金を作ったからだった。取り立てにタケルが店まで乗り込んできて、そのとき琴美に泣きつかれて間に入ったのが耕平だった。
組の関係者と一緒にやってきたタケルと話し合い、とりあえず会社の金庫から半金の百五十万円を取ってきて彼に渡した。残りの百五十万円は耕平が保証人になって琴美が月賦返済する手筈になったのだが、当の琴美は翌月には蒸発してしまい、結局、会社の分も含めて三百万円を丸々、耕平が引っ被るしかなくなったのである。
耕平はタケルには何も言わなかったし、琴美が失踪したことも口外しないよう店の経営者に釘を刺し、同僚だったキャバ嬢たちにも箝口令を敷いた。組が絡んでいる以上、逃げた女がどんな制裁を受けるか知れたものではなかった。そのため琴美の借金を耕平が全額肩代わりしたとタケルが知ったのは、返済が終わってかなりの時日が過ぎてからだったのだ。
ある日、タケルがふらっと耕平の会社を訪ねてきて、「ちょっと顔を貸してよ」と誘ってきた。一緒に飲みに行ったところで、
「俺、松谷さんのことは信用するよ」
彼はそれだけ言って、以降、しばしば連絡してくるようになったのだった。
タケルが言う耕平の「ガッツ」というのは、要するにその手のことなのだ。
四人で飲み始めて一時間ほどが過ぎた頃だった。
店のドアが開いて、背広姿の男が入ってきた。大きな花束を二つ両手に抱えて顔が見えない。その男がすいすいと窓際の耕平たちの席へと歩み寄ってくる。四人の前に立つと、
「おめでとう!」
二つの花束の間から細長い顔が現われた。
地味な背広姿やひょろっとした背格好からそうだとは思ったが、やはり七輪優作だった。
「えー、誰が呼んだんだよ」
新菜が素っ頓狂な声を上げる。
「俺だよ」
タケルがぼそりと言った。
「タケル君、耕平君、ご入学おめでとう」
そう言って七輪はまず耕平に花束を差し出す。耕平は立ち上がって、
「ありがとうございます」
頭を下げながら花束を受け取る。
「じゃあ、はい、次はタケル君」
タケルも同じように立って、照れたように黙礼して花束を貰った。
「社長、さあ、こっちへどうぞ」
先ほどの言葉とは裏腹に満面笑みの新菜が七輪を自分の隣の席へと誘った。新菜はどういうわけか七輪に対してはいつも好意的なのだ。
七輪が加わったことで座は一気に盛り上がる。
とにもかくにも七輪という男はいつも明るく元気で、溌剌として、そして驚くほどあけっぴろげで博識だった。「黄昏族」の深町あやめに育てられた幼少期、あやめが逮捕収監され、乳がんで獄中死したあと、「黄昏族」の元メンバー(つまりはコールガール)たちに面倒を見てもらった少年期、そして海外放浪、帰国後の起業、クルバンの設立などなど彼の一代記はところどころを聞きかじるだけでも、その面白さについ聞き惚れてしまう。
「生まれながらの詐欺師」と自称するだけあって、彼の話術は天才的だった。
深町あやめも男に騙されつづけた女だったようだ。七輪の父親も、そうやって彼女を騙した男の一人だった。男に食い物にされる女たち――母親も含めてそんな女たちをずっと観察しながら成長した彼は、彼女たちが本物の力を持つにはどうすればいいのかを考えつづけた。体力でも世間智においても、大多数の女は、男を打ち負かすことができない。だとすれば、女が等し並みに使える究極の武器とは一体何か?
そうやって思案しつづけた末に辿り着いた答えがクルバンであった。
母も母の組織で働いていたコールガールたちも、実はかなりいい線まで行っていたのだ――七輪はある日、はたとそう気づいたのだという。
女には美しさ、色香という武器がある。男は、女の美しさ、色香にはまったく無抵抗だ。その弱みを衝かないでどうやって男に勝つというのだ? 男に食い物にされるのではなく、男を食い物にする。どっちがどっちを食っているか、その構図を反転させる。そのために何より女にとって必要なのは、自分の肉体の魅力が男に対していかに攻撃的なものであるかを覚ることだ。
「この世界には、幾らでも女に金を注ぎ込みたいという男が山ほどいるんですよ。彼らはそれを人生の目的としている。あれこれ動き回って、ご大層な仕事をしているように見せかけていても、一皮剥けばね、彼らが本当に欲しいのは女なんですよ。男というのは本質的にそういう習性を持った生き物なんです。美しい女にだったらなんぼでも金を出す。売春? そんなことを僕はうちのコンパニオンたちにやらせちゃいませんよ。彼女たちは自らの人生を豊かにするために金持ちの男をたぶらかして貢がせているだけです。向こうもそれで満足なんです。まさにウインウインの関係です。友莉さんはおっぱいをふくらませて、六人の男から合計三千万円を引き出しました。もちろん手術費用はうちの会社持ちでした。そういうことのために法外な年会費を会員たちから徴収しているわけですから。友莉さんがそうしたように胸はいつでも元通りにできる。元通りにしてまた豊胸することも可能です。コンパニオンのなかにはそれを三度も繰り返して、五千万円近くを稼いだ猛者もいますよ。彼女は別に美人ってわけじゃなかった。それでもおっぱいを大きくしたり小さくしたりするだけで、男はよだれを垂らして幾らでも群がってくる。いまは郷里の鳥取に帰って、炉端焼きの店を開いて大成功していますよ。もちろん、うちのクルーズ船が境港に寄港したときは、乗客たちをいの一番に彼女の店に案内しています。外国人の船客にも大好評でね。みるみる口コミが広がって、最近は、世界中からお客さんが押し寄せているんだそうです」
七輪はこういう考えの持ち主で、その是非はともかくも耕平は、彼の言うことに大いに共感せざるを得なかった。そのへんはタケルも新菜も、そして“生まれながらのキャバ嬢”だった珠子も同じだと思う。だからこそ、あるとき友莉ネェに七輪を紹介されて、四人とも彼に魅了されたのだ。何しろ七輪は「しあわせ配達人」と平気で自称するような男である。いががわしいのは確かだが、でも、本当に面白い人物だった。
しばらくワイワイやったあと、改めて五人で乾杯する。
「だけど、なんでタケル兄は今日のことを社長に教えたの?」
ふと思い出したような口調で珠子が言った。
「え、珠子さんは僕が来て迷惑でしたか?」
七輪が途端にさみしそうな顔をした。
「そんなことないですよー。私、社長のこと大好きだもん」
珠子が、キャバ嬢に戻ったような声色を作る。
「なんだよ、その声」
そこで、新菜が珠子の方を指さして面白そうに笑った。
「いや、それがさ」
タケルが、手にしていたジンジャーエールのグラスをコースターに戻して、少し身を乗り出した。彼は最初の乾杯だけはワインに口をつけたが、あとはいつも通りソフトドリンクだった。
「一昨日、野暮用で七輪さんに電話したら、耕平にちょっと話したいことがあるっていうんだよ。それなら今日、みんなで集まるから来ませんかって誘ってみたわけ」
「俺に話したいこと、ですか?」
耕平が七輪を見た。
「そうなんだよ」
七輪がハイボールのグラスをテーブルに戻して頷いた。
「実は、先週の金曜日に久しぶりに遼平さんが来たんだよ」
「来たって?」
「夕方、電話があってね。ちょっと話したいことがあるんでうちの会社にお邪魔していいかって言うから、それで来てもらったんだよ」
「兄貴が社長に話?」
耕平は首を傾げる。
友莉ネェの一件のあと、こうして耕平やタケルたちは友莉ネェの仲介もあって七輪と親しく交わるようになっているが、しかし、兄の遼平はそうではなかった。
それどころか、つくみねえさんが姿を消してからは、耕平たちにもあまり連絡を寄越さなくなっている。昨年の九月におねえさんが行方不明だと連絡をくれて以降、何度かやりとりはあったものの、今年に入ってからは梨のつぶてだった。タケルのところにも一切連絡はないらしい。
「で、兄貴は社長にどんな話をしたんですか?」
訊いたのはタケルだった。
全員の視線が、七輪に集まっている。
「それがねえ……」
七輪はちょっと困ったような表情を作り、それぞれの顔を順番に見回すようにして話し始めた。