真藤社長の秘密
第3回
(承前)
「そんなことがあったんですか……」
遼平はとりあえず相槌を打つように呟く。
だが、そのことと今回の一件にどのような関連があるのかいまひとつ見えない。
「先週、きみがテナントの話を持ち込んできたときは気にならなかったんだ。だけど、真一郎から報告を受けて、そういえば鶴丸ビルに入居するのが美容院というのは、ちょっとまずいんじゃないかと思うようになった。妻の耳にそのことが入ったら、また一悶着起きそうな予感がしたんだ」
社長がさらに言葉を足してくる。
「一悶着ですか?」
それでもやっぱり遼平にはうまく飲み込めなかった。
「彼とのことがあって以来、妻とは表向きの夫婦に過ぎなくなった。彼女は恐ろしくプライドの高い女性でね、夫の過ちを決して許さないタイプの人間なんだ。おまけにそれ以降の僕の一挙手一投足をずっと監視しつづけている。いまでも、定期的に探偵を雇って僕の行動をしらみつぶしに調べている。そのことは数年前に次男がこっそり教えてくれたよ。『うちのおかあさんは明らかに異常者だよ』ってね。長男の真一郎もかげでは似たようなことを言っている。だからね、うちの持ちビルに美容院を入居させたと妻に知れたら、またあらぬことを妄想しかねないような気がするんだ。というわけで、今回はきみたちには誠に申し訳ないんだけど、鶴丸ビルにその美容院を入れるのはなかったことにして貰いたいんだよ」
ちょうどそこで秘書がビールを持って社長室に入ってきた。
キリンラガーの中瓶が二本とグラス、あとはチーズとサラミ、クラッカーが盛られた大きな皿が一枚。いつものように遼平がビール瓶を手にして、社長と自分のグラスにビールを注ぐ。
社長はそのグラスを持つと、「じゃあ」と小さく言ってビールを飲んだ。
このあとは手酌にするのが普段の流儀だった。遼平もビールを手にして、今日は、一息でそれを飲み干してみせる。社長の方がちょっとばかり意外そうな表情を作る。
「で、その彼氏さんはいまは何をしていらっしゃるんですか?」
美容院が入るといっても、今回の店主は末次新菜だった。場合によってはスタッフを全員女性で固めて貰うという手もある。それくらいは彼女に頼めば了承してくれると思われた。
「それから数年経ったところで、死んでしまったんだ。僕と別れたあと、彼は上野の店を辞めて九州の郷里に戻った。実を言うと、しばらくは連絡を取り合って、大阪や神戸で逢瀬を重ねていた。だけど、四年ほど経ったところで音信不通になってね。それで彼のいる大分県の津久見という町に人をやって調べて貰ったら、その半年ほど前に彼が事故で亡くなったのを知ったんだよ」
「事故?」
「そう。川で釣りをしていて流されたらしい。下流で遺体が見つかったのは一週間後だったという話だった」
「そうだったんですか……」
と言いながら、遼平は内心で驚いていた。
大分県の津久見市は、亡くなった母、満代の生まれ故郷だ。子供の頃は遼平も耕平もその母とともに祖父母の家に帰省して、夏休みの半分以上を津久見で過ごしていたのだ。
「先月、九州に出かけたときも、仕事は福岡だったんだが大分まで足を伸ばして彼の墓参りをしてきた。それもあってあの大雪にぶつかってしまったんだよ」
と社長は言った。
「そうだったんですか」
遼平は同じ言葉を繰り返しながら自分の想念を整える。なんだかモヤモヤしたものが胸に湧き上がっていた。
「僕は別に女性より男性の方が好きだというわけじゃない。妻と表面上の夫婦になったあと、男と付き合ったことは一度もないし、後腐れのないセックスで欲望を消化するためにその筋の人たちとも関係を持ってきたが、相手はみんな女性だ。でもね、彼のことは一日たりとも忘れたことがない。心から愛していたんだ。本当に好きだった。彼と一緒にいるときだけは、自分がおんなだったらよかったと心底感じていたものだよ」
社長はそう言って、手元のグラスにビールを注ぎ足すと、それをゆっくりと飲み干した。遼平も同じようにして、もう一度グラスを空にしてみせる。
「僕は思うんだ。人間、どんな人の心の中にも男の自分と女の自分が存在する。その割合はそれぞれなんだが、僕の場合は、彼だけが僕の“女の自分”を目覚めさせる相手だったんだと思う。大概の人はそうした経験をせずに異性との関わりのみで人生を終わらせるけれど、実際のところ、それは自分の中のもう一人の自分をずっと眠らせたままで生きているというに過ぎないんじゃないかな」
真藤社長は自らに言い聞かせるようにそう付け加えた。
「社長」
遼平は語調を強めて呼びかける。
「社長は、奥様のことを怖がり過ぎです」
とはっきり言った。
真藤社長がきょとんとした顔で彼を見ている。
「そもそも三十年前から社長は何一つ悪いことなんてしてやしません。恥ずかしいこともいかがわしいこともしていない。誰かが誰かを好きになるのは仕方がないことだし、理屈や暴力でたとえそれを無理矢理止めたところで、そんなのは所詮、ただむなしいだけの行為です。奥様はそうやってねちねち社長に圧迫を加えつづけるのではなくて、社長のしたことがどうしても耐えられないのであれば即刻離婚すればよかったんです。離婚したって彼女が二人の息子の母親であることに変わりはないんですから。要するに、奥様は三十年来の恨みをずっと抱えて、社長にいまも復讐しているんです。でも、それって奥様ばかりに罪があるわけじゃない。社長自身がその罪を甘んじて受け入れ、耐えているからこそ復讐は途切れることなくつづいている。社長自身がどこかで変わるべきなんだと僕は思います」
別に酔いが回って大胆な気持ちになっているわけではなかった。
社長の細君の長年の猜疑心にも呆れるが、それをまともに食らって、自分の会社の持ちビルに美容院一軒でさえ入居させることのできない社長自身のひ弱さが遼平にはどうにも情けなかったのだ。
「うーん」
いきなり強い調子で言われて、真藤社長は尚更困った表情になっていた。
「とにかく、是非、もう一度この案件について検討して下さい。それでもどうしても社長が今回は難しいということでしたら僕たちは潔くあきらめます。明日、この時間に社長の携帯に電話を入れさせていただきますから、そのとき返事を承らせて下さい」
遼平は畳みかけるように言った。
「いかがでしょう? よろしいでしょうか?」
相手の思わぬ反応に社長は、
「うーん」
と考え込むばかりだ。
「ところで、社長」
遼平はグラスにビールを注いで、また一息で飲み干し、社長の方へとぐいと身を乗り出すようにした。
「その彼氏さんが故郷の川で亡くなったという話、ちょっと気になるんです。というのも、死んだ母の実家も同じ大分県の津久見市で、僕も子供の頃は母に連れられて頻繁に津久見の祖父の家に行っていたものですから……」
この遼平の言葉に、真藤社長はにわかに真顔になった。
3
先月の五日、矢玉木材の矢玉社長に面会を求め、七輪優作との付き合いが始まった経緯を詳しく聞いたあと、遼平はその日のうちに友莉に連絡を取ったのだった。
彼女の携帯を鳴らすと、耕平が板倉のおじさんたちに予言していた通り、友莉はすぐに電話口に出た。
「久しぶり」
さすがに遼平の声は詰まり気味だった。
「遼ちゃん、お久しぶり」
友莉の方は、遼平からの電話に動揺した様子は窺われない。
「急なんだけど、すぐに会えないかな」
単刀直入に用件を切り出す。
「私も遼ちゃんに会いたいと思ってたんだ」
友莉は予想外な言葉を口にした。
「どうして?」とも「いまさら?」とも彼女は言わなかった。
おじさんたちが話していた「自分に火を付けたのが誰だかちゃんと分かっているんだから、その火付け役とは絶対に会うはずだ」という、これもまた耕平の予言が遼平の脳裏を過った。
「じゃあ、さっそくだけど明日とかどう?」
「遼ちゃん、ごめん。会いたいのはやまやまなんだけど、すぐはちょっと無理なんだ」
そこで友莉は言葉を切らずに、
「実は私、いま海外なんだよ」
と言ったのである。
ここから先の彼女とのやりとりは、およそ遼平の想像を超えるものだった。
「海外? いまどこにいるの?」
「アジアだよ」
「アジアのどこ?」
「それは内緒。いまその国で合宿中なんだよ」
「合宿? 何の合宿?」
「すごく重要なことを体験しているんだよ」
「体験? 重要なこと?」
遼平には友莉が何を言っているのか皆目見当がつかなかった。
だが、その口振りは彼をからかっているふうでもなければ、煙に巻こうとしている感じでもない。
「詳しくは日本に帰ってから話すよ。私も遼ちゃんに会おうと思っていたから」
「あとどれくらいそっちにいるの?」
遼平は彼女の機嫌を損ねないよう柔らかな口調を崩さない。
「一ヵ月ちょっとかな。帰国したらすぐに連絡する」
「おじさんとおばさんがすごく心配しているよ。友莉に電話しても全然出てくれないって」
「私は全然大丈夫。超元気にしているから心配しないでって伝えておいてね。帰国したらちゃんと説明しに行くつもりだからって」
友莉は板倉の両親のことについては微妙にずれた答え方をして、二人からの連絡を黙殺している理由は語らなかった。
「合宿って、七輪社長も一緒なわけ?」
あくまでさりげなく訊いた。
「なんで?」
「いや、ちょっと気になったから」
「社長はとっくに帰国しているよ。会社の仕事があるでしょう」
「じゃあ、いまは友莉ひとりなんだ?」
そう言うと、
「なわけないじゃん。バンケットの仲間たちと一緒だよ。最初に合宿だって言ったじゃない」
友莉が面白そうに笑う。
「とにかく、何も問題はないし、来月戻ったら遼ちゃんにはすぐ連絡するから。会っていろいろ話したいこともあるしね。約束する」
「じゃあ来月の今頃ってことだね」
「遅くても三月の半ばには帰るから。それまで少し待っててね」
友莉は快活にそう言うと、「じゃあね」と告げて自分からあっさり通話を打ち切ってしまったのである。