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七輪優作の逆襲

 

   3

 那須からの帰途はつくみに運転を任せて友莉に何度か電話をしたが出なかった。帰宅後も掛けたが反応はなく、耕平に連絡して、七輪の別荘での一部始終を報告すると共に彼からも友莉に電話してみるように依頼したのだった。
「分かったよ。兄貴はもう掛けないでくれ。そのことを友莉ネェの留守録に入れてまずは安心させて、その上で俺に電話をくれるよう頼んでみるよ。気が向いたら連絡を寄越すと思うからさ」
 と耕平は言い、
「まあ、その感じだと友莉ネェは大丈夫だよ。おねえさんに乗り込まれて、思い切り頬を張られて、案外、吹っ切れたんじゃないかな。もとから兄貴を取り戻せるなんて、友莉ネェだって本気で信じてたはずはないからね」
 耕平は意外なほど楽観的だった。そして、
「そうそう。よかったら明日、うちに来ない? 日曜日で俺も休みだし、珠子もおねえさんにまたいろいろ相談したいみたいだからさ。そんとき友莉ネェのことをもう一度、詳しく聞かせて貰うよ」
 と言ったのである。
 で、翌三月十六日の日曜日。つくみと二人でふたたび錦糸町に出向くことになった。耕平の部屋を訪ねるのは先月の二十二日以来、二度目だったが、つくみの方は先々週、YouTubeのチャンネル開設の打ち合わせで、大学の後輩の財前君を連れて珠子を訪ねていた。ただ、そのときは耕平は仕事で不在だったそうだ。
 夕方、耕平宅に着くと耕平と珠子が笑顔で出迎えてくれる。
 つくみと珠子はすっかり打ち解けて、「おねえさん」、「珠ちゃん」と長年の知己のように呼び合っていた。
「友莉から連絡はあった?」
 顔を見た途端に耕平に聞いたが、「まだないよ」と彼は首を振る。
 あんな状態であんな人里離れた別荘に置き去りにしてきたが、友莉は本当に大丈夫なのだろうか?
 珠子とじゃれ合っているつくみや、そこに茶々を入れて笑顔を作っている耕平の姿をながめながら遼平はますます不安になる。昨夜だって、友莉のことが気がかりでうまく眠れなかった。
 つくみの方は、家に帰ると友莉のことはもうすっかり忘れたように普段通りで、
「心配し過ぎだよ。あいつは絶対大丈夫だから」
 と以前と同じセリフを繰り返した。だが、いまとなっては彼女のその言葉を額面通りに受け取ることはできなかった。
 夕食は、珠子がお好み焼きを焼いてくれた。
 前回と同様、四人でダイニングテーブルを囲み、真ん中においたホットプレートで珠子が、用意していた生地を大きなコテを両手に持って焼き上げていく。その手際は見事で、
「珠ちゃん、プロみたい」
 つくみが言うと、
「お好み焼きは安上がりで美味しいでしょう。前も話した田部井さんっていう新宿時代の先輩が真っ先に作り方を教えてくれたのがこれだったんです」
「ああ、田部井さんって、流山でお蕎麦屋さんやっている人だね」
 つくみが何気に返して、流山と言えば友莉がいま住んでいる「じゃぱん・クルーズバンケット」の独身寮も流山だったな、と遼平は思う。
 昨日、七輪の別荘で振る舞ってくれたビーフシチューも、肉やバゲットは寮の近くのスーパーで調達してきたと友莉は言っていた。
 この前のミルフィーユ鍋もなかなかの出来だったが、珠子のお好み焼きは別格の旨さだった。
「なんでこんなに美味しいの? 何か特別なものを入れてるの?」
 例によってつくみは旺盛な食欲でお好み焼きを頬張りながら訊ねる。
「やまといもを使っているのと、あと、一番は出汁ですかね」
 珠子が言う。
「出汁?」
「珠子は、しょっちゅう自分で出汁を取って、それを冷凍庫にストックしてるんですよ」
 代わりに耕平が答える。
「昆布、鰹節、鯖節、煮干し、焼きあご、それにキノコ――バリエーションも結構すごいんです」
「出汁さえとっておけば、安い材料で美味しい料理ができるって、これも田部井さんが教えてくれました」
 珠子が付言する。
「へー。珠ちゃんやるじゃん」
 つくみは珠子に向かって両手でグーサインしてみせた。
 〆は焼きそばだったが、これにも自家製の出汁を使ったので味は抜群だった。
「料理のプロだね、珠ちゃん」
 またつくみが絶賛すると、
「そんなことないですよ。人様に出せるような料理は数えるほどだから」
 と謙遜したが、まんざらでもなさそうだ。
 一向に友莉の話題にはならず、三人の会話がごくごく当たり前に広がっていく。そういう流れに遼平はどうにも乗り切れないものを感じていた。
「で、登録者数はどんな感じ?」
 ホットプレートが片づけられ、昨日那須から持ち帰ってきたマドレーヌと耕平の淹れたコーヒーでデザートとなったところでつくみが訊いた。
「今日のお昼にようやく五百人を突破しました」
「やったじゃん!」
 つくみがまたグーサインを出す。
「だけど、まだまだ収益化にはほど遠いですから」
「あとどれくらいでお金になるわけ?」
 耕平がさほど関心がありそうでもなく珠子に訊ねる。
「最低千人。ま、ほかにも視聴時間だとか視聴回数だとかの条件もあるんだけどね」
 答えたのはつくみだった。
「千人かあ。まだまだ道半ばだねー」
「耕平さん、そんなことないんだよ。始めて一ヵ月も経ってないのに五百人ってすごいことなんだからね」
「そうなんですか?」
「そうだよ」
「で、千人になったら幾らくらい広告収入が入るわけ」
 さすがに遼平も気になって訊ねる。
「どうだろ? ぜんぜん分かんないけど二、三万くらいにはなるんじゃないの」
「やっぱりそんなものなんだねー」
 これは耕平のセリフ。
「だけど、登録者数が増えてくればネズミ算式に広告収入がアップしてくるから。一ヵ月足らずで五百人なら今後に大いに希望が持てるよ」
 つくみはそう言って、
「って、この前、財前君が言ってたよね」
 と珠子に同意を求めた。
「なーんだ。おねえさんの話は財前君の受け売りってことか」
 耕平が苦笑する。
「それでね、おねえさん」
 耕平の発言は完全スルーして珠子が真剣な表情でつくみに話しかける。
「実は、おねえさんに折り入ってお願いしたいことがあるんです」
「え、なに?」
 コーヒーをすすっていたつくみがカップをソーサーに戻した。
「おねえさんにモデルをお願いできないかと思って」
 珠子の口調は真剣だった。
「私なんか、ぜんぜんだよ」
 つくみが胸前でひらひらと手のひらを振ってみせた。
「そんなことないんです。てか、ぶっちゃけ、おねえさんが一番化粧映えするタイプの顔なんですよね。おねえさんのメイクアップ動画をアップしたら、きっと大反響を呼べると思うんですよ」
「それって、私の目が小さいからってこと?」
 つくみが言う。
「違います。そうじゃなくて、本当はすごく大きな目をメイクで思い切り表現できるってことです」
「ふーん。ものは言いようだよね」
 つくみは笑って、
「でも、もちろん私でよかったらじゃんじゃん使ってちょうだい。そもそも私がYouTubeをやろうって勧めたんだしね」
 と言い、
「だめ?」
 遼平の方へ顔を向けて了解を求めてきた。
「つくみがいいんなら、いいんじゃない」
 遼平は答える。
 つくみの顔がネットで拡散するのは気が進まないが、しかし、いまの遼平は少しやけっぱちだった。こういう言い方は間違いかもしれないが、友莉があんなふうに豊胸手術まで受けて自分の身体を大勢の男に提供しているのなら、つくみだって世間に顔を晒すくらいのことはやってしかるべきではないか。彼女にだって自分にだって、それくらいの犠牲は必要だ――という気がするのだ。
「じゃあ、おねえさんにもう一度ご足労いただくのも申し訳ないし、さっそくいまからスタジオで撮影を始めちゃいましょう」
「スタジオ?」
 遼平が口にすると、
「玄関脇の部屋をきれいに片づけて撮影部屋にしたんだよ」
 と耕平が言った。
「いまから?」とつくみは戸惑い気味だったが、珠子は立ち上がるとそばまで寄ってきて、「さあさあ、おねえさん」と促す。
 今夜の珠子は溌剌としていて、前回会ったときより顔の色艶もぐんと良くなっている。心臓に難病を抱えているとは到底思えない印象だった。
「じゃあ、やりますか」
 珠子に手を取られ、つくみも腰を上げたのだった。


   4

「彼女、ずいぶん元気そうに見えるけど……」
 つくみと珠子が“スタジオ”に入って耕平と二人きりになると、
「お前、一体いつまで一緒に暮らすつもりなんだ?」
 と訊ねた。
 友莉の件を持ち出す前に話しておきたいことだった。
「さあねー」
 二個目のマドレーヌを囓りながら他人事のように耕平が呟く。
「まさか結婚するわけじゃないんだろう?」
 珠子が結婚できる相手でないのは誰にでも分かることだ。
 耕平は渋い顔でマドレーヌを食べつづけている。
「そもそも……」
 と遼平はさらに踏み込む。
「夜はどうしているんだ? セックスはしてるのか?」
 拡張型心筋症で、ちょっと無理をすればすぐに心不全を起こす相手とセックスなんてできるものなのか?
 すると、食べかけのマドレーヌを皿に戻して、耕平が椅子に座ったまま身体を斜めに傾ける。両腕で布団でも抱えるような恰好になり、腰の辺りを前後に動かす。
「こんな感じかな」
 どうやら側位のジェスチャーのようだった。
「それもまあ、おっかなびっくりだよ。激しいやつはヤバいしね」
 耕平はため息をついた。
 セックスで絶頂に達したときというのは「ダッシュで階段を三階まで駆け上がったくらいの運動量」と何かで読んだ記憶がある。だとすれば、仮に側位で交わったとしても珠子にかかる肉体的な負担は決して軽くはあるまい。
「上に乗ったり、乗せたりはとても無理だね。すぐに呼吸がおかしくなるから」
「入院するまでは?」
「ぜんぜん」
 耕平は強い調子になり、
「とは言ってもこっちが気づかなかっただけで、珠子はたまに呼吸が苦しかったらしいよ。よがってるんだって俺が勝手に勘違いしてただけでね」
「そうなんだ……」
 遼平には返す言葉がない。
「もし、お前が彼女とずっと一緒にいたいと考えているんだったら、いっそのこと心臓移植の道を探ってみたらどうかな。移植すれば彼女の体調も改善するだろうし」
「移植ねえ……」
 耕平は皿に置いた食べかけのマドレーヌをまた取り上げ、今度はパクパクと食べ切った。昔から食物は大事にするタイプで、食事を残すことは滅多になかったのだ。そういう律儀さが耕平にはある。そこは父親の富士夫に似たのかもしれなかった。
「兄貴、この国で去年、何件の心臓移植が行なわれたか知ってる?」
 冷めてしまったコーヒーをすすったあと耕平が訊いてきた。
「いや」
 首を振ってみせる。
「四十五件。一昨年なんて三十件。移植希望者はその十倍くらいいるんだよ。日本での移植はかなり難しいよ。それに、いまの珠子の状態だと移植希望者登録がすんなりできるかどうかも微妙だし、だいいち、当の本人が移植なんて絶対したくないって言い張ってるからね」
「珠子さんはなんで移植が嫌なわけ?」
 遼平も残りのコーヒーを飲み干してから言う。
「早く死んで、俺を解放してあげたいんだってさ。ずっと自分みたいな病人につきまとわれるのは気の毒だって」
「なんだよ、それ」
 呆れた声を出すと、
「確かにふざけた言い草だと思うけどね。でも、それがあいつの本音だってのもよく分かるんだよ」
 耕平が言い、
「だけど、どうしたのよ、急にそんな話を持ち出して?」
 とつづけてきた。
「いや、別にどうしたってわけじゃないんだけどね。友莉のことを考えていたら、何となく珠子さんのことが思い浮かんだんだよ。二人ともこの先、一体どうするんだろうってね」
「友莉ネェのことは、そんなに心配しなくていいよ。別人みたいな美女に変貌してたんだろう。俺が会ったときもびっくりするくらいきれいだったけど、おっぱいまで大きくしたんならその倍、三倍に磨きをかけたってことでしょう。もとから賢い人だし、兄貴のことなんて振り切って、自分の人生を掴み取ってくれるよ。俺は仕事柄、いろんな女を見てきたからね。友莉ネェみたいなタイプは大方、てっぺんまで這い上がるもんだよ」
「そんなこと言ったって、お前の知っている女たちはコールガールってわけじゃないだろう。友莉が踏み込んだのは、まったく次元の違う世界だよ」
「そうでもないよ。俺の住んでいる世界だって、女たちはみんな自前の身体を張って必死で生きているからね」
「うーん」
 夜の街の水にどっぷり浸かって生きてきた耕平の言葉だけに説得力はある。
「だけど、昨日、友莉が奇妙なことを言っていたんだよ」
 いよいよ本題に入る。
「奇妙なこと?」
 耕平が崩していた姿勢をにわかに改めた。
「どうして豊胸手術なんかしたんだって訊いたら、『お金のために決まってるじゃん』って言うんだ。これで三千万円が手に入るって。社長の七輪にそう言われているみたいだった」
「三千万……」
 さすがに耕平も驚いた声を出す。
「そりゃやけに額が太いね」
 と言う。
「どうして胸を大きくしただけでそんな大金が転がり込むんだよ。あり得ないだろう」
「よほどの裏があるのは間違いないね」
 面妖な顔つきになっている。
「というより詐欺でしょ。七輪にまるごと騙されてるってことだろ」
 遼平が指摘すると、
「うーん。それはどうか分からないけどね。あれだけの売春組織を長年操ってるわけだからね。そんな見え透いた嘘で商売道具の女たちを騙したりはしないと思うね。そんなことしたら、とうの昔にタレ込まれて、警察の摘発を食らっているよ」
 と返してきた。
「なるほど」
 だとすると、友莉は三千万円という巨額を稼ぐまで、あの「じゃぱん・クルーズバンケット」でコールガールとして働かされつづけるということなのだろうか?
 だが、彼女の物言いは、いかにもすぐに三千万円が懐に転がり込んでくるような印象だった。
「まあ、しばらく静観しているしかないね。このままおさまるって話でもないだろうし、いずれ向こうから何らかのアクションがあるんじゃない?」
 耕平が相変わらず暢気な口調で言う。
「何らかのアクションって?」
「さあ、それが何かは分からないけど。友莉ネェや七輪は兄貴に手の内をすべて明かすような真似をしているわけでしょう。となると、少なくとも七輪には何か別の思惑があるのかもしれないよね」
「別の思惑?」
 遼平には、耕平の言っていることがうまく理解できない。
「どんな思惑だよ?」
「さあね。ただ、俺には、何となくそういう気がするんだよね」
 彼は昔からときどきそういう予言めいた物言いをする男で、それが案外当たっていたりするのだった。

 

(つづく)