最初から読む

 

七輪優作の逆襲

 

   1

 友莉のあとについて階段を上がった。
 その後ろ姿は、記憶のなかの友莉よりもずっとほっそりしている。もとからお尻は大きな方だったから、スタイルのメリハリが際立っていて、現在のバストとあいまっての肉感的な印象はかつての彼女にはまるでなかったものだった。
 背中を追いながら全身を巡る血液が熱を帯びていくのを感じる。
「じゃあ、私が合宿で何をしてきたのか教えてあげるね」
 そう言って友莉は、遼平についてくるように目線で促したのだ。遼平は無言でダイニングテーブルの席から立ち上がり、彼女のあとにつづいたのである。
「合宿」の中身が何であるのかすでに予想はついている。合宿で得たという「重要な体験」とはあの大きくなった胸に関係することなのだろう。
 友莉は東南アジアのどこかの国で豊胸手術を受けたのに違いない。
 胸に入れたシリコンバッグが身体に馴染み、ダウンタイムが終わるまで、だから彼女は一ヵ月以上も現地に滞在する必要があったのだ。
 階段を上がりきった友莉が、左手の部屋のドアの方へと歩みを進める。
 ゆっくりとドアを開けると、振り返りもせずに室内へと入っていった。むろんドアは開け放したままだった。遼平もそこをくぐる。
「閉めて」
 明かりを灯し、分厚いカーテンを閉じながら友莉が強い口調で言う。
 慌てて後ろ手で真鍮製のノブを握ってドアを閉じる。
 部屋は広かった。十五畳以上はありそうだ。緋色のジュータンが敷き詰められている。カーテンはクリーム色。中央にキングサイズのベッドが鎮座し、窓側の壁際にカーテンと同じクリーム色の細長いコンソールキャビネットが一つ。あとは何もなかった。
 友莉のキャリーケースやバッグは見当たらない。部屋にはクローゼットもない。荷物や衣服はもう一つの部屋に置いてあるのだろう。
 カーテンを閉め終わると友莉が目の前にやってくる。一度、しっかりとした瞳で遼平を見つめた。そして、何も言わずに服を脱ぎ始める。芥子色のカーディガンを脱ぎ捨て、白いカットソーを脱ぐ。巨大なバストが紫色の小さなブラジャーで申し訳程度に隠されている。
 カーディガンと同系色のロングスカートの下にはブラジャーと同じ紫色のTバックを穿いていた。
「遼ちゃんも早く脱いで」
 そう言いながら、友莉はフロントホックに手を掛けてあっさりとブラジャーを取った。ブラジャーで押さえられていた巨大な乳房がぷるんと音を立てるように目の前に出現した。
 遼平は、文字通り生唾を飲む。
 小ぶりになった顔との対比で、その乳房の巨大さが視界を圧倒してくる。片側だけでも友莉の顔と変わらないくらいの大きさに見えた。
「早く」
 床を鞭で叩くような口調で友莉が言う。
 遼平はグレーのポロシャツを脱ぎ、ズボンのベルトを外してズボンも脱ぐ。
「全部脱いで」
 友莉はそう言いながら最後の下着をあっと言う間に取ってしまう。
 恥毛はきれいに処理されて下腹部に小さく貼り付いているだけだ。もとから毛は薄い方だったが、それにしてもそういう友莉の下半身を見たのは初めてだった。アンダーシャツを脱ぎ、言われるままに遼平はトランクスも脱いで全裸になった。
 脳裏をちらりとつくみの顔がよぎる。
「来て」
 友莉が両腕を広げて手招きする。
「遼ちゃんのために、私、すごく頑張ったんだよ」
 巨大なバストが小さく揺れながら誘っている。
 ――あの深い胸の谷間に思い切り顔を埋めたい……。
 火が付いたような意識で遼平は思う。それははっきりとした言葉となって頭の中でこだまする。
 一糸まとわぬ姿で一歩前へと踏み出そうとしたその刹那だった。
 階下からけたたましい音が響いてきた。
 眼前の友莉が、一気に表情を険しくする。
 玄関のチャイムの音だった。一度鳴って、それから立てつづけに鳴らされる。
「遼ちゃん、私を騙したんだね」
 ぞっとするほど冷たい口調だ。
「俺は何も知らない。宅急便か何かだろう」
 遼平は断言した。チャイムを無視して、
「なんでそんなことをしたんだよ」
 友莉の巨大な乳房を見つめながら訊ねた。
「お金のために決まっているじゃん」
 意外な答えが返ってくる。
「金のため?」
「これで三千万円が手に入るんだよ。生まれ変わるために一番必要なのはお金だって七輪社長が教えてくれたんだよ」
「三千万?」
 友莉が何を言っているのかまるで分からない。
「でも、遼ちゃんのためだけに生まれ変われるんなら、私にとっては、それが一番よかったのに……」
 友莉は呟き、
「なのに、よくも騙してくれたわね」
 容赦のない口振りで言い放つ。
 階段を誰かが駆け上がってくる足音が、その鋭い叱責にかぶさるように聞こえてきた。
「俺は、絶対に友莉を騙してなんかいない」
 遼平も声を高くして言い返す。
 その瞬間、勢いよく背後のドアが開く音がした。
 遼平は全裸のまま振り返る。


   2

 つくみと目が合った途端、彼女は一目散にこちらへと近づき、
「何をやっているのよ!」
 と叫ぶや否や、遼平の左頬を右手で思い切り張ったのだった。
 バチンという派手な音が立つと同時に顎から左耳にかけて強烈な痛みが走った。
「なんで?」
 という自らの声がうまく聞き分けられない。
 だが、平手打ちを食らって傾いた頭を起こし、つくみを睨みつけようとしたときにはもう彼女の姿は目の前から消えていた。
「ふざけた真似をするんじゃないよ!」
 その絶叫に慌てて振り返ると、つくみがちょうど真っ裸の友莉に躍りかかるところだった。
「きゃー」
 という悲鳴が室内に響き渡る。
 友莉にしても突然、つくみが部屋に飛び込んできて、遼平に平手打ちをくれたかと思うと今度はいきなり自分に襲いかかってきたのだ。悲鳴を上げるのは当たり前だろう。
 つくみは友莉の首に手を回し、ちょうどヘッドロックをかますような恰好で中央のベッドへと彼女を追い詰めていき、そこに押し倒した。友莉はほとんど抵抗できずにされるがままだった。
 靴を履いたままベッドに飛び乗ると、仰向けになった友莉につくみは馬乗りになった。
「遼平は私のものなんだよ。最初からお前に勝ち目なんてないんだ。お前だってそれくらい分かっているだろう。だからあの日も、お前は戻ってきて私と勝負できなかったんだ。逃げ出したのはお前の方なんだよ」
 つくみはこれまで耳にしたこともないようなドスの利いた声を出し、尻に敷いた友莉の顔を平手打ちし始める。両手を使って交互に友莉の左右の頬を張っていた。そのたびにパシンパシンという小気味のいい音が立ち、友莉の悲鳴が連続する。
 情け容赦のない一方的な仕打ちだった。
 つくみの口にした「あの日」というのが、清澄のマンションで友莉に現場を押さえられた夜を指しているのは容易に分かった。あの晩、手にしていたレジ袋を床に落として、友莉は何も言わずに遼平の部屋を出て行った。慌てて彼女を追おうとした遼平をつくみはもの凄い力で引き止め、「行っちゃ駄目!」「あの人は絶対に大丈夫」と確信の籠もった声で告げたのだ。だが、たったいまの友莉への脅し文句で、つくみが本心で何を思っていたのかが分かった気がした。
 彼女は、友莉が舞い戻ってきた場面まで想定し、そのときはいまのように友莉と対決する覚悟を固めていたのだろう。
 友莉の頬をこれでもかと打ちつづけているつくみの姿を、半ば空恐ろしい心地で見つめながら、遼平は頭の隅でもう一つの場面も思い出していた。
 去年の五月、会社の後輩の杉下が、上半身に無数についた爪痕を見せながら呆れたようにこう言ったのだ。
「あの女、化け物ですよ。ものすごくすばしっこくて凶暴で、見て下さい、このざまですよ。被害者がどっちか、これを見れば松谷さんだってよく分かるでしょう」
 さらに彼は、
「あの女、そんなヤワな玉じゃないっすよ」
 と薄笑いを浮かべたのだ。
 杉下がはしなくも口にした「凶暴」という一語が遼平の脳裏で明瞭な想念となって眼前の光景と重なっていく。
 友莉の悲鳴が徐々にか細くなってきたところで、彼はようやく正常な判断力を取り戻したのだった。
 ベッドに駆け寄り、
「つくみ、もうやめるんだ」
 大声を出す。
 つくみはそんな遼平に無表情な一瞥をくれたものの、手を休めることなく友莉の頬を叩きつづけている。
「いい加減にするんだ」
 遼平もベッドに上がって、つくみの身体を友莉から引き剥がす。
 男の全力に、さすがにつくみも抵抗はできなかった。羽交い締めの形で抱き取って、二人でベッドから降りる。腕の中でつくみが何度も荒い呼吸を繰り返している。
 友莉の方は身体が自由になるとむっくりと上体を起こし、遼平たちの方へ顔を向けた。
 その両頬が真っ赤に腫れ上がっている。つぶらな瞳も半分ほどが塞がっている。
「遼ちゃん」
 分厚くなった唇から友莉のものとも思えぬ嗄れ声が洩れる。
「遼ちゃんはね、最初からその女にたぶらかされているんだよ。だから、私は、遼ちゃんを取り戻したかった。本当はね、私が変わったんじゃない。遼ちゃんの方がすっかり変わってしまったんだよ」
 声音のせいもあってか、友莉の言葉には深い失望の色合いが込められているように感じた。
「友莉、ごめん。まさかこんなことになるとは思ってもいなかったんだ」
「もういいよ」
 友莉はそう言うとベッドの向こう側へと下りた。くびれた腰回りと真っ白な尻が魅惑的な光を放っている。
 すっかり変わってしまったのは、やはり友莉の方だと遼平は思う。
 友莉は窓際まで進んで、分厚い両開きのカーテンの片方を勢いよく右端まで引いた。
 まばゆいほどの陽光が一気に部屋に射し込んでくる。
 いまは腕の中で静かになっていたつくみが、「うっ」と短い声を上げると、遼平の腕から上半身を抜いて反転させ、両手を彼の首に回してしがみついてきた。
 つくみの身体は猫のようにしなやかで柔らかい。
 羽交い締めにしたところで、彼女が本気になれば、あっと言う間に抜け出せるのだ。
「二人とも出て行って」
 友莉がこちらを向いて言う。
「もううんざり」
 と吐き捨てる。
 腫れ上がってしまった面貌とその見事な巨乳があまりにもちぐはぐだった。ただ、頬や唇の腫れを除けば大きな怪我はなさそうだ。
「遼ちゃん、行こう」
 遼平から身を離したつくみが、すかさず彼の背後に回り込んで小さく呟く。さきほどの凶暴さはすっかり影を潜めてしまっていた。
「だけど……」
 行くも何も、いまの遼平は素っ裸なのだ。すると、つくみは屈んで、緋色のジュータンに散らばっていた彼の衣服を拾い集める。
「さ、行こう。こんなところに長居は禁物だよ」
 集めた服を押しつけられると、つくみに背中を押されるようにして遼平は全裸のまま部屋を出たのだった。
 一階のリビングに戻って急いで服を身につける。
「どうしてここが分かったんだ?」
 服を着ながら遼平は訊いた。
「耕平さんに連絡を貰ったから」
「いつ?」
「今朝、遼ちゃんが出て行ったあとすぐ」
「そうか……」
 突然のつくみの登場に、友莉は、つくみと遼平が示し合わせて自分を騙したと捉えたようだが、それは違っていた。遼平自身もつくみがこの別荘にやってくることなどまるで知らなかったのだ。さらに言えば、友莉に向かって口にした、
「友莉を取り戻すためだったら、俺はつくみと別れて友莉と一緒になるよ」
 という言葉も虚言ではなかった。
 友莉を奪還するためなら手段を選ばない――遼平はここへ単身で乗り込むと決めたときからそう腹をくくっていたのである。
 ただ、友莉に対して「つくみと別れて友莉と一緒になる」と言ったとしても、さらにはかつての恋人である友莉と肉体関係を復活させる展開が待っていたとしても、それでも最終的にはそういう現実は起きないだろうと予想していた。
 仮に自分がその方向へと流されそうになっても、つくみが決して許すはずがない――という確信が彼にはあったのだ。
 つくみとの結婚は運命だったと遼平は信じている。
 でなければ、あんなふうにあれよという間に結婚することはなかったし、友莉をひどく傷つけると最初から分かっていながら彼女を捨てたりはしなかった。
 人間の人生には抗うことの不可能な事象がある。
 たとえば、母の満代の死がそうだった。あんなに元気だった母が四十歳の若さで急死したとき、遼平は人生のままならなさをつくづく思い知ったものだ。母の死を乗り越えることができずに耕平がやがて身を持ち崩してしまったことも、ある意味で不可抗力の産物だったと彼は考えていた。
 そして、昨日、その耕平にだけ明日、一人で友莉の待つ那須に向かうことを伝えたのだった。つくみには仕事だと告げて出てきたのだ。
 ただ、耕平がつくみに今日のことを連絡するだろうとは予想していた。なぜかは分からないが、彼はそうするだろうと。そして、連絡を受けたつくみがどのような行動を取るかも、ぼんやりとではあるが想像はついていた。
 だが、まさかあんなふうに友莉と自分が全裸になって「さあ交わろう」という寸前に彼女が寝室に飛び込んでくるとは思いも寄らなかったのだ。
 そもそも、彼女は呼び鈴を押しても誰も出ないと知って、一体どうやって玄関のドアを開けて入ってきたのか? 来客など想定していないわけだから、最初からドアの鍵は開いていたのだろうか? しかし、玄関先に出てきた友莉のあとを追ってこの別荘に上がるとき、遼平自身が施錠したという記憶はあった。だとすればつくみが簡単に侵入できるはずはない。
 ――ということは、鍵を掛けた記憶が間違っていたのか? それともどこかのタイミングで友莉が鍵をふたたび開けておいたのだろうか?
 服を身に着け終わると、
「行きましょう」
 つくみがせかしてくる。二階の寝室からは物音一つしなかった。もう一度、友莉の様子を確かめなくていいのだろうか?
「あいつは大丈夫。あれでも手加減をしておいたから」
 遼平の思いを察したつくみがきっぱりと言った。
「さあ、遼ちゃん、行くよ」
 と言って、開けっぱなしのリビングのドアへと向かう。遼平もあとにつづく。だが、ドアの手前で不意につくみは立ち止まった。慌てたようにダイニングテーブルの方へと引き返す。
 つくみは、テーブルの端に置いてあった紙袋を取り上げて戻ってきたのだった。
「それ……」
 友莉へのお土産に買ってきたマドレーヌだった。
「どうせここに置いていったって、あの女に捨てられるだけでしょう。これ、美味しいのにもったいないじゃん」
 つくみが、今日初めての笑顔になっている。

 

(つづく)