耕平の入学
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翌三月三十日水曜日。午前中にさっそくタケルから電話があった。
亀戸にある「救世会江東看護専門学校」への耕平の入学許可が下りたので、今日にでも学校の学生課に出向いて入学手続きを行なってくれというのだった。
「運が良かったよ。堀切に耕平のことを話したら、『あら、錦糸町だったら隣駅の亀戸にうちの看護学校があるよ』だってさ。しかも、この学校、なんと今年から男子学生の募集を始めたらしいよ。堀切が『松谷さんの弟さんにくれぐれもよろしく』って」
「えー。今日、もう入学手続き?」
余りに早い事の運びに耕平がうろたえていると、
「今週中に手続きしてくれって堀切は暢気なこと言ってたけどね。入学式が四月五日だから一刻も早くやんないと間に合わないだろ」
「四月五日!」
週明けの火曜日だった。今日を入れても一週間もないという話である。
「ちなみに俺の入学式もその日だから、耕平の式には出てやれないんだけどね」
愉快そうな口調でタケルが言う。
「だけど……」
さすがにあと一週間足らずで看護学校に入学など想像もできなかった。そもそも何一つ試験も受けずに入学するなんてあっていいはずがない。
「ま、俺も同じだけど周りは女子ばかりだからね。耕平にすればいままでと大して変わんない環境でしょ」
タケルは堀切以上に暢気なことを口走る。
「そうそう。今朝、早くに珠ちゃんから電話貰ってさ。『タケル兄には一生頭が上がりません。このご恩はどんな形でもお返ししますからお金のことでも何でも、なにか兄や新菜さんが困ったときはいつでも私に言って下さい』って、えらい恐縮ぶりだったよ」
タケルはそう言うと、
「とにかく今日か明日には入学手続きしに行けよ。ちゃんと手続きしたかどうか堀切に確認させるからな。じゃあな」
と付け加えて自分からさっさと通話を打ち切ったのである。
耕平は広いリビングスペースのソファに座って呆然とする。淹れたばかりのコーヒーをローテーブルから取って一口すする。レースのカーテン越しに明るい光が部屋に射し込んでいた。今朝は、珠子は早くから他のユーチューバーとのコラボ撮影で出かけていた。
このマンションに引っ越したのは去年の今頃だった。三十二階建てのタワーマンションの二十八階。リビングだけで二十畳以上あって、他に部屋が三つ。最も広い一部屋は珠子の“スタジオ”で、あとは寝室と耕平のための“書斎”だった。
思えば、「耕ちゃんの書斎がいるでしょう。耕ちゃん、本もいっぱい持ってるし」と言って3LDKを選んだときから珠子はいずれ、こんなふうに彼を何かの学校に通わせる魂胆だったのではないか? だとすると今回の看護学校の件は、案外珠子がタケルに持ちかけたのかもしれない。
ここの月々の家賃は四十万円。つい向こう隣に建っているあの古巣と比較すれば三倍近い値段だった。だが、現在の珠子の収入ならば四十万なんて訳もない。
耕平は大きく一つ息を吐いて、広い部屋を見渡す。
いまの収入だったら億ションを買うことだって珠子にはできる。それでもこんな高い家賃を払っているのは、いずれは自身がこの世界から消えてしまうと考えているからだろう。
確かに、と耕平は思う。
珠子がいなくなってしまえば、自分一人でこんな広い部屋に住んでも、たださみしいばかりだ。
四月五日火曜日。
救世会江東看護専門学校の入学式の会場は、有明のイベントホールだった。開始時刻は「式典」が午後二時。「歓迎会」が午後三時。終了時刻は午後三時四十分。会場の最寄り駅はゆりかもめの「有明テニスの森」。
看護学科の入学者八十名の中で男子はわずか七名。まして三十歳間近のオッサンなんて耕平一人だった。高校を卒業したばかりの女子たちに交じってスーツ姿の彼が新入生席に腰を下ろすと当然ながら四方八方から好奇の目が向けられてくる。
彼女たちは、最初は耕平のことを学校の職員か教師だと勘違いしていたらしく、それが自分たちの輪の中にいきなり入ってきたので驚いているふうだった。
仕方がないので、手当たり次第に近づいて自己紹介を行なった。そこはそれ、この年代の女子たち相手に長年仕事をしてきただけあって、照れや気後れは皆無だ。最初は「えーっ、そうなんですかー」と戸惑い気味だった彼女たちも、開式の頃にはすっかり打ち解けた雰囲気になっていた。
一年ぶりくらいで珠子以外の若い子たちと接してみて、耕平はまんざらでもない気分になった。
水商売にどっぷり浸かって、女性に対する幻想は完全に消え去っていた。それでも耕平は女という生き物が大好きだった。彼女たちは、生来の残虐さを決して捨て去ることのできない男とは別種の生命体なのだ。女の強さは弱さの裏返しだが、男の強さは身体的暴力性の裏返しだった。夜の世界に身を投じてみて、彼はそのことを骨身にしみて知ったのである。
式を終えた頃に珠子が車で迎えに来てくれた。
最初は家でこなしていたユーチューバーの仕事だったが、近頃はイベントに出たり、他のユーチューバーとのコラボをやってみたり、TVや雑誌の取材を受けたりで外出も増えていた。彼女の身体への負担を考えて、今年の初めに車を一台購入したのだ。それまでの移動はもっぱらタクシーだったが、車が来てからは自分で運転して各々の現場に通っている。
運転を代わって珠子を助手席に座らせる。
「入学式どうだった?」
さっそく訊いてくる。
「うーん」
耕平はちょっと間を置き、
「悪くなかったよ」
と答える。
「耕ちゃん、浮気は目をつぶるけど、絶対に私のところに戻ってきてね」
珠子がまたいつものセリフを口にする。
入学手続きを済ませた三月三十日以来、彼女はことあるごとにそう繰り返しているのだった。そんなことなら看護学校なんて勧めなければよかったのにとつくづく感じる。
「そうじゃないと私、死んじゃうからね」
決めゼリフも毎回同じだ。
「あのさ、珠子」
耕平は辟易しながら珠子を見る。
「俺がお前以外、店の子に手を出したことあるか?」
耕平のこのセリフもいまや決まり文句だった。
「あの子たちからすれば、俺なんてただのオッサンだよ」
フロントガラスの向こうをスーツ姿の女子たちがぞろぞろと駅へと向かっていた。中には何人か車の中の耕平を見つけて、笑顔で手を振ってくれる女子もいる。
「ピンクジャガーでも半分の子が耕ちゃんのこと好きだったよ」
「そんなわけないだろ」
このやりとりも定番ではあった。
手を振ってくる女性に、珠子は一々笑顔で手を振り返している。
お願いだから、そういうのはやめてくれよ――と内心で耕平は思っていた。
一度マンションに帰って着替え、耕平と珠子はふたたび部屋をあとにする。京葉道路に出てタクシーを拾った。行き先は浅草の「ブラッド」。「ブラッド」はあの末次新菜が経営している美容院だった。
同じように今日が入学式だったタケルや新菜と店で待ち合わせて、「ブラッド」と同じ浅草鶴丸ビルの三階にある「ピット」というイタリア料理店でささやかな入学祝いをやる予定になっているのだ。
五時頃に到着すると、「CLOSED」のプレートが掛かったドアの向こうでタケルと新菜が店の掃除の最中だった。火曜日はもとから「ブラッド」の定休日なのだ。
ドアを開けると、二人が揃ってこちらに顔を向ける。
「やあ、いらっしゃい」
という声が二人の口から同時に出た。いつもそんな感じだから耕平も珠子も彼らのユニゾンには慣れっこだ。
十分ほど、雑談を交わしながら掃除が終わるのを待ってみんなで店を出る。狭いエレベーターでぎゅうぎゅうになりながら三階の「ピット」に上がった。
それにしても、一階が「ブラッド」で、三階の、いまや行きつけとなった店が「ピット」。これには笑ってしまう。
「初めてここを内覧に来て、三階が『ピット』だと知って、マジでピピッときたよ」
とは新菜が「ピット」に来る度に口にするセリフ。そもそも、店名の「ブラッド(Brad)」自体が大ファンのブラッドピットにちなんだものだというから、まあ、彼女が「ピピッときた」のもむべなるかなではあった。
珠子が初めてタケルに会ったとき、「わっ、ブラピじゃん」と思わず発したくらいだし、新菜にとってタケルは理想の男性だったことになる。
いつもの窓際の広い席に二対二で腰掛ける。「予約席」のプレートを取り外しながらオーナーの若命さんが、
「いつものワインでいいですか?」
と笑顔で訊いてきた。
「はい」
新菜が笑顔で返す。
胸の名札の「若命」という珍しい苗字が気になって、新菜は初めてこの店にタケルと来たときに、
「若命さんって、ひょっとして大分県の日田出身ですか?」
と訊ねたそうだ。というのも、新菜の小学校時代の親友が同じ「若命」という姓だったからだった。
「えっ」
すると若命さんが驚いて、「どうしてご存じなんですか?」と答え、同級生の名前を出して説明すると、なんと彼女はその親友の従姉で、今度は新菜がびっくり仰天する番だったのだ。
こっちの若命さんは東京生まれで、彼女の父親が親友の父親と兄弟だったのである。
「いろんなことが繋がり合って、僕は、この場所にやって来られたわけです」
以前、ここでその話題を披露したとき、新菜は、今日のように隣に座っているタケルの顔をじっと見つめながら、しみじみとした口調でそう言ったのだった。
確かに彼女にとってタケルとの「繋がり」こそは何よりも特別なことだった。
新菜の両親が交通事故で亡くなったのは、彼女が北千住にある美大の二年生のときだ。日田市内の国道で、両親の車は逆走してきたトラックと正面衝突し、運転席の父親も助手席の母親も死んだ。即死だったという。一人娘だった新菜はいっぺんで二親を失い天涯孤独の身となってしまった。
葬儀を終えて東京に戻ると、当時住んでいた町屋のアパートに引き籠もってろくに大学に行くこともなくなった。まあ、それくらいは当たり前だろう。親の死は十月だったが、年が明けても彼女は学業を再開する気にはなれず、外に出るとしたら昼間に近くの隅田川沿いの遊歩道を散歩するくらいのものだった。
年が明けて間もない二〇〇五(平成十七)年の一月四日、その遊歩道のベンチに青ざめた顔でうずくまるようにして腰を下ろしていたのがタケルだった。身を切るような川風が吹きつける日で、太陽も雲に隠れ、遊歩道を歩く人の姿はほとんどなかった。くたびれた薄いコートを羽織り、じっと身じろぎもせずに座っている痩せた青年の姿を新菜は目に留め、何度かその前を往復した後、思い切って声を掛けたのだった。
「大丈夫ですか?」
という問いかけに青年は顔を上げた。
返事はせずに彼は黙って新菜を見つめてきた。その顔を見た瞬間、「わっ、ブラピじゃん」と新菜も思ったのだった。それも、もう何度観たか知れない「ジョー・ブラックをよろしく」に出てくるブラピにそっくりだった(当時、タケルは髪を金色に染めていたから本当に瓜二つだった)。
「うちに来ますか?」
どこか具合が悪いのですか? 救急車を呼びますか? お家はどこですか? そんな言葉のたぐいは一つも思いもつかず、彼女はいきなりそう言った。彼はまだ十代と思しく、どう見ても自分より二つ三つは年下に見えた。
新菜の言葉に、タケルは眉を小さく動かし、はっきりと頷いた。
「はい」
それから一週間、新菜は自分のアパートでタケルの面倒を見た。
ちょうど一週間後、久しぶりに大学に行って帰宅してみるとタケルは消えていた。タンスに入れていた通帳と印鑑、僅かなアクセサリー類、それに両親が若い頃に営んでいた食堂でお守り代わりに置いていた純金の猫の置物など金目のモノは一切合切なくなっていた。ことに、純金の置物は末次の家で代々受け継がれてきたもので百万円は下らない工芸品だった。
結局、その年の春に新菜は大学を中退した。
四月になって、死んだ両親の多額の生命保険金が入ったので、彼女はしばらく何もせずに暮らし、そのあとかねて興味があったへアメイクをやりたくて日暮里の美容専門学校に入ったのである。
新菜が男装を始めたのは専門学校に入った頃からだった。
彼女は幼い時分から自分の性に違和感を抱えていた。同じ年頃の女の子たちが興味を持つものには一切関心を持てず、むしろ男の子が好む遊びやスポーツに惹かれた。中学生になるとそうした違和感はよりくっきりとしてきて、自分はいわゆる「性同一性障害」の持ち主であると自覚した。以来、ずっと男装に憧れてきたのだった。東京の美大に入学し、親元を離れた時点で男装に変えようかと迷ったが、経済的に依存した状態で、そんなふうに親の期待を裏切るのは憚られた。
だが、その両親があっと言う間に亡くなってしまい、もう誰の目も気にする必要はなくなった。河原で拾った美しい男に財産を根こそぎ持ち逃げされた経験も大きかった。ああやって当時の全財産を持って彼が消えたのを知ったとき、新菜は一切怒りの感情を持たず、逆に驚くほどすがすがしい気持ちになれたのだ。
――ああ、これで私は、立ち直れるかもしれない。
そう感じた。
あの青年はきっと私にとっての「ジョー・ブラック」だったに違いないと心から思ったのである。
新菜がタケルと再会したのはそれから八年後のことだ。
美容学校入学からあとは彼女はずっと男装で通していたが、ただ、恋愛対象は男性だった。男性として男性を愛する――彼女にとってそれがもっともしっくりする性の感覚だったのだ。
美容師として稼げるようになり、何人かの客と関係を結んだ。最初は面白がって付き合っていた男たちも、しかし、新菜の男装が趣味ではないと分かるとみんな離れていった。二十五歳のときに本気の恋愛をした。この男とは二年ほどつづき、向こうもありのままの新菜を受け入れてくれた。だが、どうしても結婚したいと彼が言い出したせいで破局した。ウエディングドレスを着て普通に結婚式を挙げることも、妻となって彼の子供を産むことも新菜にはまるで想像できなかったのだ。
錦糸町の「鼠」は、彼女が初めて行ったホストクラブだ。ホストにはまっていた仕事仲間に誘われて冷やかし半分で足を運んだ。そして、そこでタケルと再会した。八年前は「正太」と名乗っていた青年は、いまはタケルと名乗った。新菜の方はすぐに彼だと気づいたが、タケルはまるで気づいていないようだった。それはそうだろう。アパートで一週間を共に過ごした、その頃の新菜とは外見も言葉遣いもまったく違っているのだ。日本画を勉強していた彼女が、美容師になっているというのも思いも寄らないことだったに違いない。
新菜はタケルに会うために繁く「鼠」に通い詰め、わずかな期間で保険金の半分以上を彼に注ぎ込んだ。タケルのために大金をはたくことに一切のためらいはなかった。何しろ、彼は彼女にとっての「ジョー・ブラック」なのだから。いまの自分を作ってくれたのは彼だった。
タケルが新菜の正体に気づいたのは、一年ほど過ぎてからだ。その頃には新菜のマンションに入り浸り、他の客同様、彼女を徹底的に弄んでいた。ある日、タケルが部屋に入るとリビングルームのキャビネットに金色の置物が置かれていた。前回、訪ねたときにはなかったものだった。
「これどうしたの?」
タケルはずっしりと重い、その猫の置物を手にしながら訊いた。
「ヤフオクで買ったんだよ」
新菜は何でもないことのように言った。
「へぇー」
そう言ってタケルは新菜を見る。
「むかし、それとそっくりの置物を盗まれたことがあったんだよ。僕がまだこんな恰好になる前なんだけどね」
「むかしっていつ?」
タケルの顔つきが明らかに変わっていた。
「いつだろう? 七年か八年くらい前。と言っても、盗まれたのは純金製で、そんなにちゃっちくはないんだけどね。こっちはたったの一万円だったからね」
ヤフオクで見つけたのは事実だったが、実際は百四十万円だった。これまでもいろんなネットオークションで捜しつづけ、ようやく見つけ出したのだ。写真を見た瞬間、本物だと新菜は確信した。いよいよタケルに本当のことを告げるときがきたと、同時に彼女は思ったのだった。
「ふーん」
しかし、タケルの反応は薄かった。何も思い出してはいないようにさえ見受けられた。だが、新菜には分かっていた。彼はいま八年前の記憶をはっきりとよみがえらせたのだと……。