七輪優作の逆襲
5
次の週の火曜日、遼平は仕事を抜け出して開店準備中の「清兵衛」を訪ねた。
友莉と会うことができたらすぐに報告すると約束していた以上、内容がどんなものであっても二人にはちゃんと伝える義務があった。
友莉がいまは七輪社長の下でコールガールをやっていること、そのために海外で豊胸手術を受けて、先週帰国したこと、友莉と久々に顔を合わせて、あまりの変貌ぶりに驚いたことなど、那須の別荘の二階で起きたこと以外は全部、本当のことを遼平は話した。
その話を聞いて、おじさんたちは文字通り絶句していた。
「こうなったら警察に相談するしかないよね」
長い間、苦悶の表情で沈黙していた茜おばさんがおじさんに向かって呟き、
「警察……」
智司おじさんは途方に暮れたように天井を睨む。
「おばちゃん、それは、もう少しだけ待ってよ」
遼平は言った。
二人がすがるような瞳で同時に彼を見た。
「この際、俺が七輪に会って来るよ。警察に駆け込むのはそれからでも遅くないと思う。とりあえず友莉の身に生命の危険が迫っているわけじゃないし、こちらとしては彼女を奪還できればそれでいいんだから。そういう意味では、騒ぎを大きくする前に直接、七輪と交渉する方が得策だと思うんだ」
一昨日、耕平は「向こうから何らかのアクション」があるのを待てばいいと言っていたが、昨日一日考えて、そんな悠長なことを言っている場合ではないと遼平は結論づけたのだった。
「だけど、七輪社長と会ったり、まして交渉したりなんてできるのかしら?」
おばさんがもっともな疑問を口にする。
「やれる可能性はあるよ。そもそも七輪は自分の別荘で友莉と俺が会うのをセッティングしたくらいだからね。友莉から土曜日の顛末も聞かされているだろうし、俺が乗り込んでくるのは織り込み済みかもしれない」
この言い草は、耕平の受け売りのようなものだった。
「そういうもんかねえ」
おばさんが不安そうにため息をつく。
「とにかく今週いっぱい、俺に時間をくれないかな。そのあいだにやれることはやってみるから」
二十一日金曜日が春分の日なので週末は三連休だった。連休は仕事を気にせずに自由に動ける。むろん最初は正面から面会を求めるつもりだが、七輪が応じなければ数少ない手がかりを辿るしかない。
たとえば、友莉がいま住んでいるという流山市の独身寮を見つけ出せれば、七輪を炙り出すこともできるかもしれない。
堀切愛美に頼んで、「じゃぱん・クルーズバンケット」の顧客となっている医師たちを紹介してもらい、彼らから七輪に繋いでもらうという手もある。
さらには、かつてアメリカンスクールで同級生だったという堀切本人に七輪の自宅住所を調べてもらうなり、直接連絡を取ってもらうという方法もなくはなかった。
真藤社長は、「浅草鶴丸ビル」への末次新菜の美容院の入居を受け入れたのだった。
というのも、社長に再考を求めたあと、遼平が披露した母の故郷の話で遼平も社長も驚くべき事実を発見したのだ。
津久見市内の川で亡くなった社長の恋人は「六波羅光彦」という名前だった。
この「六波羅」という苗字は、母の満代の旧姓なのだ。まずはその一致にびっくりして遼平が六波羅光彦の生れ故郷を訊ねると、なんとそれは母の故郷と同じ津久見市の「爪島村」だったのである。
そして、彼が釣りに出かけて溺死した川は、子供の頃、遼平が耕平や善弥さんと一緒に川遊びを楽しんだ「爪島川」だった。
爪島村の「六波羅」姓となれば、光彦が母の満代と血縁関係にあったことはほぼ間違いなかった。というのも爪島村で「六波羅」を名乗るのは満代の実家、つまりは遼平の祖父の一族だけだったのである。
「こんな偶然があるとは信じがたいね」
真藤社長は呆れたような声を上げ、すぐに自らの要求を撤回したのだった。
思えば、鶴丸ビルの案件で粘って正解だった――遼平は改めて痛感する。こうして堀切愛美を当てにできるのも、彼女とタケルとの関係を何とか取り持つことができたからで、その鍵は新菜の新店舗を鶴丸ビルに入居させられるかどうかにかかっていたのだ。
「遼ちゃん、頼むよ。何としてでも友莉をあの七輪から取り返してくれ」
無言だったおじさんが、睨むような目で一度遼平を見たあと、深く頭を下げる。
「遼ちゃん、お願いします」
おばさんもそれにつづいた。
「やるだけやってみるよ」
遼平はそう繰り返すしかない。
6
三月二十日木曜日。
午後七時を回って、自分の席で帰り支度をしているときにスマホが鳴った。
明日から三連休とあって部署のみんなはすでに引きあげ、営業部のシマに残っているのは遼平一人だった。
着信表示は「板倉友莉」。
断ってくるなら友莉を通して――という予感もあったから遼平は落胆気味に着信画面をタップする。
「なんで余計なことをするのよ」
という友莉の不愉快そうな声が脳裏に浮かぶ。
「じゃぱん・クルーズバンケット」に電話したのは昨日の午後だった。「七輪社長をお願いします」と言うと、電話に出た女性が「七輪はいま出張に出ています」と言った。「いつお戻りですか?」「明日には戻ると思います」というやりとりのあと、遼平は名前と勤務先を告げて、「板倉友莉さんのことで是非、七輪社長にお目にかかりたいのですが」と面会を申し入れたのだ。
電話口の女性は実に丁寧親切で、「承知しました。今日中に七輪に連絡をつけて、七輪から、面会の諾否も含めて松谷さま宛てに電話かメールでお返事するようにいたします。お電話番号かメールアドレスをお願いいたします」と言い、それを受けて遼平は自分のスマホの番号を教えたのだった。
昨日は音沙汰無く、そしたら丸一日以上が過ぎたこの時間になって友莉が電話を寄越してきた。これは面会拒否の意思表示と見て間違いあるまい。
「もしもし」
スマホを耳に当てると、しかし聞こえてきたのは男の声だった。
「松谷さんですか。初めまして。七輪優作です。申し訳ありません。友莉さんのスマホから電話しちゃってびっくりされたと思います。実は、僕、自分のスマホを会社に置き忘れてきちゃって、それで友莉さんに借りたんです。さっき大阪から戻って、ちょっと流山に寄ったもんだから。出張に行くのにスマホを忘れるなんて阿呆みたいですよね。でも、僕、そういうことがしょっちゅうなんですよ。誠に申し訳ない。でもスマホって無いなら無いで案外、大丈夫なもんですよ。これほんとうです」
一気にまくしたてて「七輪」と名乗った男は愉快そうに電話口の向こうで笑っている。
「初めまして」
遼平はそう口にした後、二の句が継げなかった。まさか「友莉がいつもお世話になっています」とも言えない。
「友莉さんのことではいろいろ心配をおかけしているようで申し訳ありません。僕の方も是非、松谷さんに会いたいと思っていたので、電話をいただいて嬉しかったです。昨日は大阪で会議や会食があって連絡できずにすみませんでした」
口調を改めて、七輪は言った。
正直なところ、その言葉遣いや話し振りは非常に感じがいい。
遼平もしばしば取引先から「松谷さんの電話って、ほんと感じがいいですよね」と言われるのだが、七輪こそがまさしくそれだった。女性であれば「電話美人」とか言われるようなタイプだ。
その印象に、遼平は心を引き締める。
自分もそうかもしれないが、とかく話し方にトゲがなさ過ぎる相手は「曲者」と見做した方が安全だろう。
「お忙しいとは思いますが、そういうことならこの連休中にお時間を下さい。その代わり、時間も場所も七輪さんのご都合に合わせますので」
遼平も持ち前の「気さくさ」を装いつつ、丁寧な口調も心がける。
「そうですか。でしたら、お言葉に甘えて、明日の午後三時にうちの会社でいかがでしょう? 明日はうちも休みなので、僕一人しかいませんし、ちょうどいいと思うんです。いかがですか?」
「もちろんOKです。それでしたら、明日の十五時に新橋の『じゃぱん・クルーズバンケット』に伺います。何卒よろしくお願い申し上げます」
「うちの会社の場所とかは大丈夫ですか?」
「はい。ホームページで確認してから伺います」
「OK。松谷さんにはいろいろとお話ししたいこともあるので、じゃあ、明日、お目にかかれるのを楽しみにしています」
そう言って、七輪はさっさと通話を打ち切った。
結局、友莉が電話口に出てくることはなかったのだ。
7
横浜駅で京浜東北線から東海道線に乗り換えてJR新橋駅に着いたのは午後二時半過ぎだった。「じゃぱん・クルーズバンケット」本社は西新橋二丁目にあるので「烏森口」を出て、烏森通りを真っ直ぐに歩く。
住所は、「西新橋2-11 ニューゴーイングビル4階」。地図で確かめると「区立南桜公園」の管理事務所と道を隔てて向かい合うオフィスビルの中だった。
三連休の初日とあっていつもはサラリーマンで賑わう新橋駅前も閑散としている。
西新橋二丁目の交差点を過ぎる頃には周囲は純然たるオフィス街となり、ますます人の姿はまばらになった。八馬建設本社がある八重洲近辺とは異なり、この辺のオフィスビルはこぢんまりとしている。高層ビルはほとんど見当たらず、上野の真藤興業と似たり寄ったりの年季の入ったビルがひしめくように立ち並んでいるのだ。
真っ直ぐ虎ノ門まで進めば、街の様子はまた一変するのだが、新橋界隈は昭和の風情をいまだに残す中小企業の街なのである。
そんな街の風景をのんびり観察しながら歩いたものの、それでも十分余りでニューゴーイングビルの前に着いてしまった。
時刻は二時四十五分。約束の時間にはまだ十五分あった。
見上げたビルは六階建て。お世辞にも立派とは言えなかった。真藤興業のビルと比べてもどっこいどっこいのレベルだろう。コールガール組織という裏の顔はともかく、クルーズ事業という表の顔からしても、こんなに小さくて地味なビルに本社を構えているのは不思議だ。裏の顔を見えなくするためのカムフラージュを狙うなら、もう少し見栄えのするビルに看板を掲げておいた方が得策ではないのか?
「じゃぱん・クルーズバンケット」の富裕層相手の事業内容や売上げ規模からしても、この本社は不釣り合いなほど貧相だった。
――そういえば、あの那須の別荘もごくごく普通だったな……。
昨日の七輪の話では、友莉はどうやら流山の寮に戻っているようだった。
通話を終えたあと、ふと思ったのは、わざわざ七輪が友莉のスマホを使って電話を掛けてきたのは、それを遼平に伝えるためだったのではないかということだった。
七輪優作という男は一体どんな人物なのか? 昨日の電話以降、遼平は彼の人間像をあれこれと思い描いているのだが、どうにも掴み所がなかった。この質素過ぎるビルを目の前にするとますますその感が強くなってくる。
――今日は、会社には七輪しかいないと言っていた。多少早くても構わないだろう。
遼平は古びたガラスドアを引いてビルの中へと入っていく。
エレベーターで四階に上がると、左右にドアが並び、ドアの数は六つ。それぞれのドアに社名を記したプラスチックのプレートが貼り付けられている。
「じゃぱん・クルーズバンケット」は右から二番目のドアだった。
典型的な「雑居ビル企業」といったところか。
スタートアップ企業ならともかく、二十五年にわたって世界中で豪華客船クルーズを運航している会社の本社がこんなところというのは幾ら何でもあり得ないと思う。
遼平は警戒心を一層高めて、ドアの横についたインターホンのボタンを押した。
すぐに「どうぞー」という明るい声が聞こえ、それはあの電話の声と同じだった。「失礼します」と言いながらドアを開ける。ドアの向こうにはちょうど遼平の所属する営業部と同じくらいの数のデスクと椅子が三列の配置で並んでいた。
各々の列にパソコンを載せたデスクが七、八席。
それとは別に一番奥の窓を背負ってもう一脚、両袖付きのデスクがあった。八馬建設営業部だとその席に部長の小田が座っているのだが、いまは面長のすらりと背の高い男がこちらに笑顔を向けて、ちょうど椅子から立ち上がろうとしているところだった。
遼平はノーネクタイながらも一応、ジャケットを羽織ってきたのだが、七輪は襟付きの薄いブルーのシャツにブルゾンという気楽な恰好だ。
「どうぞ、どうぞ。お待ちしていました」
と言って手招きする。一番近くの席の回転椅子を引っ張り出して、彼は自分の席の向かいに移動させた。
「ちょっとここに座ってて下さい。いま飲物を取ってきます」
そう言うと背を向けて部屋の隅に置かれている冷蔵庫へと行き、ペットボトルを二本持って戻ってきた。
「こんなものしかないんですけど」
そのうちの一本を差し出す。伊藤園の「お~いお茶」だった。
遼平は椅子の近くに立ったままそれを受け取り、一度、隣のデスクにペットボトルを置いてジャケットのポケットから名刺を取り出した。
「ああ」
七輪は呟き、自席の上に置かれていた名刺の箱から一枚取り出して、先に差し出してくる。
「初めまして。七輪優作と申します」
改まった口調で名乗り、遼平の名刺を受け取ると、
「あー、司馬遼太郎さんの遼だったんですね」
感心したような声を出した。
「いや、遼平さんのお名前は友莉さんから聞いていたんですが、文字までは分からなくて……」
と付け加える。
「さ、どうぞ」
着席を促しながら彼が先に椅子に座る。遼平もつづいた。膝つき合わせるようにして初対面の七輪と面と向かう。
「いや、下の階に会議なんかで使う部屋が一つあるんですが、今日は誰もいませんし、ここでお話しした方がいいと思いまして。というのも、その会議室は狭くて窓も小さいんですよ」
昨日の電話と変わらず、七輪は饒舌だった。
「いえ、どこでも大丈夫です」
と言って遼平は口籠もる。
友莉を食い物にしている男に「貴重な時間をいただきありがとうございます」とへりくだるわけにもいかなかった。
そこで、七輪はいきなり「ふーっ」と大きく息を吐いた。
その突拍子もない反応に遼平は一瞬、面食らう。急いで隣の机に置いたペットボトルを取ってキャップを開けて一口飲んだ。すると七輪も同じようにお茶を一口飲む。
ペットボトルを手に持ったまま、
「松谷さんにもいろいろと腹ふくるる思いがあるのは承知しています。一度は結婚の約束をした幼馴染みの友莉さんが僕のような男にひっかかって食い物にされている。あの男は断じて許せない。何としても友莉さんをあいつから取り戻したい――松谷さんも、そして友莉さんのご両親もそう思っておられるのでしょう。それはある意味で当然だと思う」
と七輪が言った。
「本当に申し訳ないと思っています」
そして、ペットボトルを机に戻すと彼は深々と頭を下げる。
「これまでのことは……」
遼平は言った。
「もう済んでしまったことですからとやかく言いません。僕や友莉の両親の希望はたった一つ……」
そこまで口にしたところで、
「遼平さん、待って下さい」
これまた突然、顔を上げていた七輪は話を遮るように右手を目の前に突き出してくる。
面長だと思った顔は近くで見るとそうでもない。大きな瞳に太い眉。鼻は多少団子状だが低くはない。総じて整った面貌だった。一番特徴的なのはやはり黒目がちの瞳で、実に人懐っこい印象だ。四十八歳のはずだが、すらりとした体型とその童顔のせいもあって、とてもそんな年齢には見えなかった。
「遼平さんたちのご希望はあとでお聞きします。その前に、どうか僕の話を聞いて下さい。僕がどうして友莉さんをうちの仕事に誘ったのか、そのへんの事情をちゃんと話しておかないと今日のやりとりの前提が成立しないと思うんです」
そう言って、七輪は「どうかお願いします」とまた頭を下げる。
「やりとりの前提?」
「はい」
七輪が頷く。
「僕と友莉さんがどうやって知り合ったか、遼平さんはご存じですか?」
さっきから彼は「遼平さん」と言っている。これも詐欺師めいた懐柔術に違いない。
「矢玉社長から詳しく聞いています」
とだけ答えた。
「実はそうじゃないんです」
そこで七輪は意外なことを言った。
「そうじゃない?」
問い返すほかはない。
「はい。矢玉さんと一緒に清兵衛に出かけて、そこで友莉さんと顔を合わせたのは事実ですが、でも、それが初めてだったわけじゃない。あんなふうに偶然に再会して、僕も彼女も大層びっくりしたんです」
「偶然に再会?」
「そうなんです。僕と友莉さんは清兵衛で会う二ヵ月前にこの新橋で出会っているんです。あれは忘れもしません。去年の七月十日水曜日。そうそう。きっと矢玉さんも話したと思いますが、京橋の宝くじドリーム館で僕が彼に順番を譲ってもらって『二〇〇〇万サマーくじ』を買った、そのちょうど同じ日の午後のことだったんです」
七月十日? 宝くじドリーム館? 二〇〇〇万サマーくじ? ――確かに覚えはあるが、友莉の話だというのに思いもかけぬ単語が七輪の口からポンポン飛び出す。
「あの日、僕は取引先との打ち合わせで京橋に足を運びました。その帰りにドリーム館の前を通りかかったら、矢玉さんの後ろ姿がふと目に入ったんです……」
それから七輪が語ったことは、およそ信じがたいようなストーリーだったが、しかし聞けば聞くほど彼が虚言を弄しているようには思えないのだった。