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七輪優作の逆襲

 

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 普段、宝くじなんて買ったためしがありません。僕はそういうことで運を使いたくないタイプの人間ですから。だけど、あの日、宝くじドリーム館の前を歩いていると窓口に並んでいる矢玉さんの後ろ姿が目に飛び込んできた。こんな譬えはちょっとヘンなんだけど、行列に並んでいる人たちの中で矢玉さんだけが光って見えたんです。それに吸い寄せられるようにして、気がついたら自分も後ろに並んで順番待ちをしていた。別に宝くじが買いたいわけじゃなかった。ただ、矢玉さんの姿をもっと間近で見たいと思っただけでした。実際に後ろに立ってみると、もう光は見えなかった。ああ、錯覚だったのかと思ったとき、彼のポケットの携帯が鳴り出したんです。電話に出ながら矢玉さんが僕に順番を譲ってくれて、後ろにも列は伸びていたし、矢玉さんの厚意を無下にもできなくて、仕方なく宝くじを買いました。バラで五枚。千五百円。くじを買って列を離れたらまだ矢玉さんは電話中で、そばに寄って口パクで御礼だけ伝えて会社に帰ったんです。
 奇妙な寄り道をしてしまったせいで次の約束まで時間がなくなっていました。用意していた営業資料を会社でピックアップするとすぐに新橋駅に向かった。次の約束場所は浅草でした。ただ、地下鉄銀座線の二番ホームに着いたときはもう間に合わないくらいだった。待ち合わせ時間を遅らせてもらうことにして、スマホを取り出しながら人気の少ないホームの端まで行ったんです。ふだんは端っこで電車を待つなんてしたこともありません。で、三十分くらい遅れると先方に伝えて電話を切った直後でした。浅草行きの電車が近づいてくる音が聞こえ始めると若い女性が僕の背後からいきなり現われて、ふらふらした足取りでホームの方へと近づいて行ったんです。
 こりゃいけない! ――一瞬で背筋が冷たくなった。迫ってくる電車に彼女が飛び込もうとしているのは一目瞭然でした。僕は慌ててスマホをポケットにしまい、彼女の背中に追いすがった。彼女がホームからダイブしようとしたのと、僕がその身体を羽交い締めにして止めたのはほぼ同時。目の前を電車が通り過ぎていった。ほんとうに間一髪でした。
 もちろんそのまま彼女を放っておくなんてできなかった。こう言っちゃなんですが、商売柄、いろんな事情を抱えた女の子をずっと見てきましたからね。これは、ちゃんと話して、二度とこんな真似をしないようにしなくちゃと思いましたね。
 もう、お分かりですよね。そのときの若い女性というのが友莉さんでした。
 これはあくまでリアルな話として聞いてもらいたいのですが、あのとき僕が止めていなかったら友莉さんは確実に電車に飛び込んで死んでいたと思います。その一命を救ったのは、間違いなく僕です。
 次の約束をキャンセルして、彼女をここに連れて来ました。さっき言った下の狭い会議室で話をじっくりと聞いた。ほとんどが遼平さんとのことです。これもあくまでリアルな話ですが、彼女が自殺を試みたのは、遼平さんに捨てられたからです。あげく浮気相手の女性と遼平さんがあっと言う間に結婚したと知って、友莉さんは絶望した。死ぬしかないと思い詰めてしまった。
 あの日もいろいろと話をして、彼女が帰って行ったのは夜でした。
 自殺未遂者はまた同じことをするのが常ですが、当分は大丈夫だと感じながら送り出した。そして、今度死にたくなったときは必ず僕に連絡するようにと約束しました。彼女と深い縁があるのは明白だった。それはそうですよね。昼間、矢玉さんの後ろ姿が光って見えて、僕が、宝くじドリーム館に寄っていなければ、銀座線のホームで彼女のいのちを救うことなんてできなかったわけですから。
 そこから先は、遼平さんもご存じでしょう。
 そうやって彼女を助けた日に買った宝くじが当選して二千万円に化けた。その御礼をしたくて矢玉社長を探し出してみたら、矢玉さんが清兵衛に案内してくれ、そこでまた友莉さんと会ったんです。清兵衛で彼女を見た瞬間に、ああ、これはまた死のうとしているなと分かりました。さっきも言ったように、そういう女の人をたくさん見てきましたからね。もちろん僕も友莉さんも社長や大将、おかみさんの前では、初対面のように振舞ってはいましたが。次の日、僕は友莉さんをここに呼んで話しました。「やっぱり死ぬしかないと思っていたら、七輪さんがうちのお店にやってきてビックリ仰天しました」と彼女は笑っていましたよ。「呆れてものが言えないって感じでした」ってね。
「どうしても死にたいという気持ちを手放せない。吹っ切りたくても吹っ切れない。遼平さんの裏切りも許せないけど、あの夜、一目だけ見た相手の女の姿がどうにも脳裏に焼き付いて消えない」
 彼女はそう言ってさめざめと泣いたんです。
 そんな状態になってしまった女性の心を変えるのは本当に難しいんです。僕はそういう女性たちのお世話をずっとしてきたので誰よりもそのことを知っています。だから、友莉さんにうちで働かないかと誘ったのです。うちで働いて、心身共にまったく別の人間に生まれ変わって、新しい人生を掴み取りなさいって。
 こういう言い方が賛否両論あるのは百も承知ですが、女性が生まれ変わるには男という存在を自分の中から完全に追い払うしかない。お祓いならぬ男祓いです。なぜなら若い女性が苦しむのはほとんどすべてが男のせいだからです。友莉さんもそう。彼女を傷つけ、死の淵まで追い込んだ犯人は遼平さん、あなたです。だけど本当の犯人は遼平さんではない。遼平さんに代表される男という生き物、それが若い女性である彼女を追い詰めたんです。自分の中から男を追い払うというのはそういう意味です。
 僕は子供のときから男で苦労して身を持ち崩した女たちを山ほど見てきた。というより母の深町あやめが面倒を見ていたそういう女性たちが、母に代わって僕を育ててくれた。
 男に人生を左右されない、いや、思い切り男たちを利用して生きるしたたかさを身につけるのが女の真の自立だと僕は信じています。だから、僕はうちで働いている女性たちにはみんなそうなって欲しいと願っている。むろん友莉さんもそうです。
 遼平さんも、友莉さんから三千万円の話はお聞きになりましたよね?
 僕は、彼女に三千万円をそっくり渡そうと思っている。最初からそうするつもりで、友莉さんをいまの仕事に勧誘したんです。
 友莉さんが身体を許した相手は六人です。この六人は、僕が厳選したうちの最優良顧客たちです。彼らはそれぞれ友莉さんと二回だけセックスができる。料金は二回で五百万円。合計で三千万円。そうやって稼いだお金は全部友莉さんのものです。六人と彼女はすでに一回ずつ寝ました。これからあと一回ずつ寝る。三千万円を得て、彼女はいまの仕事から足を洗います。胸を大きくしたのは、そのための手段です。ちなみに、一回目は元の胸のままでした。
 世の中には想像もつかないような途方もない金持ちが大勢いるんです。彼らにすれば友莉さんのような美しい女性と寝るのに五百万円くらい出すのは何でもない。しかも、豊胸前と豊胸後の友莉さんを抱いて味比べができるというんですから安いくらいでしょう。僕が持ちかけると、六人とも何の躊躇いもなく支払いを快諾してくれました。もちろん、先週の土曜日、遼平さんが友莉さんとふたたび縒りを戻すと決めたのであれば、そのときは六人との二回目は無しになるはずでした。違約金は発生しますが、まあ半返しってところでしょう。彼らは友莉さんと一度ずつは寝ているわけですから。それは僕が負担するつもりでした。五人で千五百万円。矢玉さんが譲ってくれた宝くじの当選金を回せば何とでもなる金額です。
 連休明けから友莉さんは六人と二度目のセックスをこなします。せいぜい十日かそこらで終了するでしょう。そしたら三千万円を手にしてうちの会社を退職する。じきにご両親の許へも戻るでしょう。彼女が三千万円でこれから何を始めるかは彼女次第です。でも、友莉さんなら新しい人生をスタートさせるために最も有益な使い道を考えつくと思う。僕はそう信じている。うちを辞めた女性たちの多くが、そうやって、男に決して弄ばれることのない自立した人生を歩んでいるわけですから……。
 そうそう。老婆心ながら一つだけ遼平さんに僕から忠告があります。
 あの隠善つくみという女とは別れた方がいい。友莉さんも言ったかも知れませんが遼平さんは彼女にたぶらかされている。冷静になってよくよく考えてみることです。隠善つくみがただならない女だというのは、その端々に窺われ、きっと遼平さんご自身もそのことにとっくに気づいているはずですから。
 遼平さん、あの女はただの女ではありません。
 それだけは、肝に銘じておくべしです。

 

(つづく)