そのことに気づいたのは、三週間ほど前だった。
 気づいたというのもいささかニュアンスが異なるような気がする。
 どちらかというと、
 ――なんとなくそういう気がした。
 の方がまだ正しいような……。
 もちろん、最初は、馬鹿馬鹿しい妄想だと思った。
 日常的に起こる、いわゆる既視感、デジャヴュというやつだ。初めての場所なのに、以前訪れたことがあるように感ずるとか、驚くような体験をした直後に、こういう体験をすると知っていたような錯覚に見舞われるとか、初対面の人を見て、この人とどこかで会ったことがあるように思うとか、そういうたぐいのよくよくある感覚の一つだと考えた。
 ただ、その感覚は、ふつうの既視感とはほんの少しだけ違っていた。
 四月二十六日金曜日。部の懇親会の席でそれは起きた。
 そうだ。
「気づいた」とか「そういう気がした」というよりも、まさしく何かが「起きた」という印象だった。物事が生起したというのではなく、文字通り、いままで遼平の意識の中で眠りつづけていた何か(それはある種の記憶のようなもの)が、ふいに目を覚ました――そんな感じだった。
 八馬建設東京本社営業部の宴会は、駿河台にある「レストラン京極」で必ず開かれることになっている。この日のような部長肝煎りの懇親会に限らず、歓送迎会、忘年会、新年会その他もろもろ、小田営業部長が主催するときの会場はいつも「レストラン京極」と決まっていた。
 居酒屋でも割烹でもビアホールでも中華やイタリアンでもなく、どうして「レストラン」とは名ばかりの学生食堂が毎度毎度、宴会場として貸し切られるのか? その理由は誰も知らない。
 小田部長の通った大学が御茶ノ水界隈にあって、その頃からの馴染みの店、というのなら分かり易いが、東北出身の部長は岩手大卒だった。ならば就職後、駿河台近辺に住んだことでもあるのかというと、それもそうではないらしかった。
「レストラン京極」は、「洋子ママ」と呼ばれる、なかなか魅力的な女性がコックやバイトの学生を使って一人で切り盛りしている。せめて、この洋子ママが、部長の親戚とか同郷とか、かつての恋人とか、目下の愛人とかであれば、「道理で……」ともなるのだが、そういうわけでもないらしい。
 遼平は小田部長のお気に入りの一人だったので、ずいぶん前、接待帰りに二人きりで飲んだとき、本人に直接確かめたことがあった。
「京極のママさんって部長のむかしの恋人とかですか?」
 部長はきょとんとした顔を作り、
「なわけないだろう」
 一笑に付した。
「じゃあ、どうやって知り合ったんですか?」
 深追いかなとは思ったが、訊かずにはいられなかった。
「どうやってって、ちょうど、あのあたりに営業かけて、腹が減ってたから遅い昼めしを食いにあの店に入ったんだよ。そしたら洋子ママがいたってわけさ」
「それっていつ頃の話ですか?」
「俺が、千代田営業所にいた時期だから、ざっと十五年くらい前かな。いまの松谷と似たような年回りの頃だ」
 遼平は今年三十一だった。部長は先月四十六になったばかりだから、なるほど同い年だ――と思う。
「顔見知りとかだったんですかね」
 たまたま昼めしを食べに入った店で、そこの女主人と昵懇になるなんて、凄腕営業マンの部長にしてもさすがに難しいだろう。
「いや」
 あっさりと部長は言う。
「じゃあ、どうして?」
 当然の疑問を口にした。
「そりゃ、お前、ぴんときたんだよ」
「は」
「飛び込んでさ、店のたたずまいをみて、洋子ママと二言三言話してみて、で、ぴんときたんだよ。ちょうどうちの女房と会ったときみたいなもんさ。方向性が全然違うってだけでね」
「はあ」
 またそれか、と思いながら遼平は聞いていた。何しろ小田部長は「営業の仕事は直感勝負。恋愛とまるきり一緒だ」が口癖なのだ。おまけに超のつく愛妻家として聞こえていた。小田夫人は東京本社の受付嬢で、受付台に座ってたった三ヵ月でいなくなった。評判の美人だったから、男性社員全員が非常な落胆に襲われていたところ、三十半ばを過ぎていまだ独身で、仕事の虫(または鬼)と言われていた小田課長代理がモノにしたらしいと噂が立って、社内騒然となったのだという。
 遼平は何度か部長の家に行っているが、たしかに夫人の早紀子さんはとてもきれいで親切な人だった。
「東洋堂さんの紹介で、明大通りにあるセキヤ楽器を訪ねた帰りでさ、手応えがいまいちだったんでちょっと気落ちしててな。そいで何となくふらっとあの洋食屋に入ったんだよ。そしたらはたと気づいたんだ。店の内装とママの顔を見てさ、ここのとんかつ食ったらきっと仕事が取れるってね」
「とんかつ、ですか」
 東洋堂というのは駿河台下にある大きな文具屋で、セキヤ楽器はその親戚筋だったはずだ。どちらの店舗建て替え工事も部長が取ってきた仕事だと聞いている。
「そうそう」
 部長は半分笑いながら頷く。何となく煙に巻かれたようなあんばいだった。
 二十六日の懇親会でも、東京本社営業部の総勢二十人が「レストラン京極」に顔を揃えて、夕方から貸し切りでどんちゃん騒ぎをした。
 建設会社の営業といえば酒に強い面々ばかりだ。といって酔い乱れる者はひとりもいない。何しろ、ビル一棟、マンション一棟を請け負う仕事だから、取引先はすべて大口で、契約金額は常に億を超える。つまりは酒席といえども決して粗相は許されない。酔っ払って大事な金主に絡むような酒癖の持ち主では“土建屋営業”は断じて務まらないのだ。
 飲み会はいつも和気藹々、たのしい宴だった。ふだん取引先への接待で神経をすり減らす酒ばかり飲んでいる遼平たちにとって部会は干天の慈雨的なイベントでもある。むろんボスである小田部長の人柄あってこその話だから、会場が相も変わらず「レストラン京極」であることに文句をつける部員は誰もいなかった。実際、京極の飲み放題付きの宴会料理は存外うまいし、何より安くつく。
 テーブル席が四つ作られて、それぞれの卓に五人ずつ着席した。
 中央のメインテーブルには、救世会病院浜田山分院の建設工事を受注したばかりの遼平と杉下のコンビが小田部長と一緒に座り、あとは事務の女性が二人。一人はベテランの事務員の橋本さんで、もう一人はアルバイトの女の子だった。
 名前は隠善つくみという。年齢は二十三歳。本当の名前も年齢もこの日初めて遼平は知ったのだったが……。
「隠善さんってつぐみじゃないんだよね」
 乾杯が終わって、各テーブルに並んだ料理にみんなが箸をつけ始めると、向かいに座っている彼女に杉下が声をかけた。杉下は遼平より三期下で、まだ二十八だが離婚経験者だった。学生時代はボートを漕いでいて、ボート部のマネージャーだった女の子と付き合い、彼女の卒業を待ってすぐに式を挙げたらしいが、本人曰く「ままごとみたいな結婚だったんですよね、結局。半年も暮らしてたら、二人とも息が詰まってしまって」というわけで、一年足らずで破局したようだ。以来、やたら遊んでいるともっぱらの噂だが、遼平はそっち方面には聞き耳を立てない主義なので、実際どうなのかはよく知らなかった。
 話しかけられた隠善さんの方は、明らかに「またか」という顔で杉下を見返し、
「そうなんです。みなさんつぐみだって思い込んじゃうんですけど、ほんとはつくみなんです」
 と抑揚のない声で答えた。
「つくみってどういう意味なの?」
 杉下は彼女の反応にはお構いなしの口調で問い返す。
 しかし、隣に座っていた遼平は、このやりとりに耳を留めていた。彼もいままでてっきり「つぐみ」だと思っていたのだ。
「別に意味なんてないんです」
 隠善さんは面白くなさそうに言う。
「ていうと?」
 つい横合いから遼平は口を挟んでいた。思えばもうそのあたりから、奇妙な気分になり始めていた気がする。
「父が出生届を出したときにうっかりして、つくみって書いてたそうなんです。で、市役所の係の人が、これ、濁点が抜けてるんじゃないですかって教えてくれたらしいんですが、父はそのとき、つくみという名前を見て、つぐみよりつくみの方がいいんじゃないかって思ったみたいなんです」
「それで、つくみのまま届けちゃったってこと?」
 杉下が言う。
「はい」
 無表情のまま隠善さんは頷いた。
 隠善さんは半年ほど前にアルバイト事務員として営業部にやって来た人だ。
 前のアルバイトさんが夫の転勤を機に辞めることになり、小田部長が総務に申請して新しい人を雇った。仕事は雑用全般で、資料のコピーやキャビネットの整理、給茶機の茶葉や水の取り換え、簡単な書類作りなどで、八時半から五時半までの勤務になっている。土日はむろん休みだった。そういうわけで、彼女は二十人近くいる部員の誰とでも関わるが、かといって誰かと組んで込み入った仕事をするわけでもない。
 簡単に言えば、必要ではあるが重要ではない存在ということになる。
 彼女が初めてやって来たとき異彩を放っていたのは、その若さだった。この日、まだ二十三歳だと知って、遼平には少し意外だったが、それにしても二十代のアルバイトさんが来たことはいまだかつてなかった。遼平は横浜営業所に一度出たきりで、あとはずっと本社営業部だが、これまでは、子供の手がかからなくなった八馬建設のOBが、家計の足しにと働く例がほとんどだった。
 二十三の割にはずいぶん落ち着いている、と改めて彼女の様子を眺めながら遼平は感じた。てっきり二十五、六だろうと思っていたのだ。
 飲みながら部長や橋本さんも交えて隠善さんといろいろ喋った。
 そうやってしかじか彼女と話すのは初めてだった。仕事はそつなくこなす人だったが、どことなく気安く話しかけにくい雰囲気だったし、日中の外回りを終えて遼平がオフィスに戻る頃には大体、彼女は帰ってしまっていた。
 隠善さんはとびきりのやせっぽちだ。
 身長は一六〇ちょっとはありそうだったが、体重はおそらく四十キロを切っているのではないか? 体脂肪率なんてほとんどゼロだろうという痩せ方だった。ただ、病的な感じは余りしない。顔がとっても小さいのだ。そのせいでパッと見のバランスに違和感はなかった。すーっとしなやかな体つきに見える。だが、よくよく見てみると、とにかく細くて細くて仕方がない体型なのだった。
 さらに、もう一つ特徴があった。隠善さんはすごく首が長いのだ。長い首に小さな頭がちょこんと乗っている。
 顔立ちは整っているが、不思議な切れ長の目をしていた。瞼を閉じているときは目頭から目尻までが長くて、いかにも大きな瞳のように思うのだが、見開かれてみると案外細い。瞳の大きな人が眠たそうにしているときのような、そういう霞んだ目つきをしている。
 とっつきにくい雰囲気のおおもとはこの目だな――遼平はその晩、彼女を観察しながら思っていた。
 大学を出て小さな広告会社に入ったものの、あっという間に倒産して、たまたま知人のツテで知ったアルバイト事務員の募集に応募したのだと隠善さんは言った。
「なんで、うちみたいな建設会社で働きたいと思ったの?」
 橋本さんが訊ねると、
「面接では、子供の頃から建物に興味があったって答えたんですけど、本当は一度、丸の内で働いてみたかったんです。私、大学も最初の会社も横浜だったから、東京に出ることってほとんどなかったし」
 隠善さんはしごく正直で平凡な理由を口にした。
「そうなんだ……」
 ほかの三人はただ相槌を打っただけだ。
 だが、遼平はそうやって話している隠善さんを見ながら、
 ――この人は俺に会いに来たんじゃないかな……。
 と感じていたのだった。
 いままで長いあいだ隔たっていた二人が、ようやく再会を果たす。そのために彼女が八馬建設東京本社営業部のアルバイト募集に応じてやって来てくれた――というのではなくて、ふだんから付き合っている相手が、会社にまで訪ねて来たという感じ。
 たとえて言えば、恋女房が今朝ダイニングテーブルの上に置き忘れて行った昼のお弁当を届けに来てくれた――そういうニュアンスで、目の前の隠善つくみが自分に会いに来たような、そんな気がなぜかしたのだった。



 あれから三週間余り。
 隠善さんに対して抱いた奇妙な感情は、一過性どころか遼平の中でどんどん大きく膨らんできていた。もちろん、だからといって目立った行動に出たわけではない。表向きはいままで通りで、隠善さんとも別に親しくなってはいないし、会話の量が増えたということもなかった。
 それでも、気づいたら彼女の姿をいつも目で追っている。
 遼平は毎日七時きっかりに会社に着く。もう五年近く住んでいる清澄の1LDKのマンションから丸の内の八馬建設東京本社までは、東京メトロ半蔵門線を使って約二十五分。六時半に自室を出れば余裕だった。
 七時半には部長の小田が出てくる。三々五々、部員たちが出社してくる八時過ぎまでの三十分間は小田と二人きりでいろんな話をする。八時を回ると担当役員や他部門のスタッフのあいだを回って各案件について調整作業を行ない、九時ちょうどには客先へと出発する。
「営業の仕事には土日も祝日もない。ヒマができたら本を読もう、映画を観ようなんて言ってたら年間五冊、映画三本って体たらくにすぐになる。結婚して子供でもできたら、それさえままならない。一度そうなったら、もう人間の幅も何もあったもんじゃない」
 四十歳になるまでの十五年間、小田は毎日、最低一時間の読書は欠かしたことがなかったと言っていた。
 通勤時間が長ければ電車の中での読書も可能だが、清澄白河―大手町の所要時間はわずか七分。となれば別の時間を設定するしかない。
 遼平の場合、営業先への移動時間はすべて読書にあてているし、休日や帰宅後もタブレットにダウンロードしておいた映画やテレビドラマをできるだけ観るようにしていた。一日に均して最低一時間は純然たるプライベートのために使う――という小田の教えを遼平はこれまで忠実に守ってきた。
 ところが、その貴重な一時間が最近はどうもはかばかしくなかった。
 活字を追っても、イヤホンをはめてタブレットの画面に見入っても、ついつい心はそこから離れていってしまう。
 オフィスにいるときと同様、いつの間にか隠善つくみのことを考えているのだった。
 ちょっとどうかしているな、と自分でも思う。
 いわゆるストーカー行為というのはこんなふうにして始まるのだろうか? 別世界の話だと思っていたものが不意に自らに降りかかってきたような薄気味悪さもあった。
 この半年間、意識の端にのぼったこともなく、何かのきっかけで興味関心がにわかに高まったのでもなく、突然、物狂おしい気持ちが胸中から溢れ出てきたというのでもない。にもかかわらず、遼平は隠善つくみという女性のことが気になってどうしようもない。
 恋い焦がれるとかそういった感情ではなかった。
 彼女とはこれまでずっと付き合っていて、同棲したこともあったし、いまでもどこかに彼女と一緒に借りた部屋がそのままある――なぜだか、そんな気がするのだ。自分はそういった彼女とのもろもろの記憶をあるときすっぽり失くしてしまい、あの日、その事実にはたと気づいてしまった……。
 いまの遼平の心の中にはそういう確固としたストーリーが出来上がっていた。
 もちろんそれが丸ごと妄想だとは重々承知しているつもりだ。
 人生のどこをどう切り取っても、八歳も年下の隠善さんと付き合った事実はないし、まして同棲なんてあり得なかった。彼女とは半年前、正真正銘初めて出会ったのだし、深い関係など現在まで一切ない。失われた記憶を取り戻しただなんて単なる思い込みに過ぎなかった。
 遼平は決して夢見がちな男ではない。どちらかといえば現実派だと思っている。惚れっぽい性格でもなかった。若い頃からアイドルや女優に入れ込んだおぼえもないし、恋多き男とは正反対の人生を送ってきた。
 恋人の板倉友莉とはもう二十数年来の付き合いだ。というのも、友莉は三つ下の幼馴染みで、正式に付き合い始めたのは彼女が高校生になって以降だが、その前から半ば兄妹のような間柄だった。学生時代に同じ剣道サークルの女の子に告白されて、何度かデートしたことはあったが、友莉に後ろめたくてその先までは行けなかった。
 遼平の交際経験は後にも先にもその二人きりだ。
 五つ下の弟の耕平からは、「兄貴は人間として嘘くさい」といつも批判されていた。そのあまりに貧弱な女性関係が、耕平のように平気でおんなを食い物にできる男には却って信用ならなく見えるのだろう。遼平だって、たとえば小田部長と早紀子さんのなれ初めなどを耳にすると、胸の奥の深い部分が小さく疼いたりはする。
 ただ、ドラマに出てくるような恋愛を心から欲したことは一度もなかった。
 できればずっと無病息災で暮らしたいとか、お金でほとほと困るような事態は避けたいとか、会社で重きを置かれる存在になりたいとか、そういうさまざまな望みと似たようなレベルで、感動的な恋をしたいという希望は彼にだってある。しかし、それを是が非でも手にしたいとは思わないし、「健康」と「燃える恋」のどちらかを選べと言われたら即座に「健康」と答えると思う。彼はそういう点ですこぶる現実派だった。
 だからこそ今回の奇妙な心の乱れは意想外であった。
 せめて一目惚れしたとかであれば多少の納得もできるのだが、そうではなくて、隠善つくみを見るたびに「俺は、この人と深い関係にあったはずだ」という奇妙な確信をおぼえてしまうのだ。幾らその“幻の記憶”を振り払おうとしても、あの懇親会の日に起き上がった意識はどうしても彼の頭から消え去ってはくれないのだった。



 五月十八日土曜日。
 大きな地震で目を覚ました。深く寝入っていたはずだが、ベッドが揺さぶられる直前、ゴーッという地鳴りのような音を聞いた気がする。直後に激しい揺れが来て、遼平は飛び起きた。
 遼平の部屋は十階だが、下の階から突き上げてくるような縦揺れだった。一瞬、階下の部屋でガス爆発でも起きたのかと思ったくらいだ。揺れは一分ほど続いた。
 書棚の棚板にはみ出すように載せていた本や雑誌が床に落ち、キッチンの方で食器か何かが割れる音がした。このマンションは八馬建設が手掛けた建物で、五年ほど前、竣工と同時に入居した。十一階建ての全戸1LDKの独身者用マンションだったが、制震には優れた設計になっている。それがこれだけ揺れたとなるとかなりの地震に違いない。
 ベッドから降り、部屋の明かりを灯して、テレビをつけた。
 時刻は六時五分。NHKの画面の地図にはすでに各地の震度が表示され、関東・東北地域にはびっしり数字が並んでいた。東京の震度は「5強」となっている。
 震度5強は、東日本大震災以来の大きさではないだろうか?
 五月の半ばを過ぎて、四時を回ると日がのぼる。カーテンの向こうはすでに明るかった。遼平はベランダの方へと近づいてカーテンを引く。このマンションは清澄公園に隣接しているので、公園や清澄庭園の緑を眼下に見下ろせる。その緑の向こうには門前仲町の街並み、さらに遠くには越中島、豊洲の風景が広がっていた。
 土曜日早朝の街は静かだった。どこからも煙は上がっていないし、東日本大震災のときのように通りが人で溢れているわけでもない。消防車や救急車のサイレンも聞こえなかった。
 震源は千葉県北東部とアナウンサーが伝えている。「津波の心配はありません」と繰り返していた。
 五月晴れのすっきりした空だ。雲の姿はほとんどない。
 遼平は窓を開けて、外の空気を招き入れる。新緑の甘い匂いが流れ込んできた。
 東日本大震災の日は、晴海の現場にいた。冷凍倉庫の新築工事で、基礎が終わって鉄骨を組み始めたところだったが、ものすごい揺れにその場にいた人たちはわらわらと現場横の空き地へと飛び出した。フックで釣り上げていた鉄骨が大きく揺れ、そのせいでクレーンのブームがミシミシと音立てて左右に振られていた。さいわい破壊や故障には至らなかったが、あれはいま思い出してもぞっとするような光景だった。
 いつもながら「余震に警戒して下さい」とアナウンサーが言っている。震源に近い銚子や神栖では震度6弱の揺れを観測したらしい。
 リビングに戻ってテレビを注視すると、銚子市内の崩れたブロック塀やひび割れた路面などの映像が次々に画面に映し出され始めた。
 遼平はまずキッチンに行って、割れたグラスを片づけた。昨夜、ビールを飲んだあとそのまま調理台に置いておいたグラスが床に落ちてしまったのだ。他には破損したものはないようだった。
 それから書棚の整理をした。要らない本や雑誌を選り分けて荷造り紐で結束し、棚から何もはみ出さないように本を揃え直す。
 一段落したところでパンを焼き、コーヒーを淹れて簡単な朝食をとった。
 最近はもっぱらジャムトーストだった。友莉がバレンタインデーにくれたセゾンファクトリーの苺ジャムが美味しくて気に入り、せっせとネット通販で買い足していた。こんがり焼いた食パンにたっぷりマーガリンを塗って、その上にこれまたたっぷりの苺ジャムを載せて大口で頬張る。もう三ヵ月余りつづけていたが、ちっとも飽きがこない。
 洗い物を済ませると七時を回っていた。
 急いで身支度をする。今日はめったにない休日だったが、事情が変わってしまった。
 七時半にマンションを出て、まずは会社に行った。土曜日とあって小田もまだ出て来ていない。というより彼は椎名町の自宅から作業所や関係部署に連絡を入れ、まずは情報の共有に努めているのだろう。被害状況によっては本社内に対策本部を起ち上げる必要がある。
 遼平はチェックしていた何本かのメールに返事を書き、地図でこれから回る場所の順番を吟味した。一番気になる神田小川町の現場を皮切りにルートを決めて、九時ちょうどに会社を出る。
 今日は夕方から友莉と久々に食事をする約束になっていた。それまでは掃除や洗濯、買い物などでたまの休日をのんびり過ごすつもりだったのだが、まあ、仕方がない。
 途中で差し入れの最中を買って、小川町の現場に着いたのは九時半だった。
 事務所に顔を出すと、現場監督の徳永も監督代理の佐伯も当然ながら顔を揃えている。地震の影響を訊ねると、存置しているクレーンの点検程度で済みそうだと佐伯が言った。彼とは入社同期で気心も知れている。この小川町の現場はさほどの規模ではないが、古いビルが立て込んだ一画に細長いマンションを建てているので、設置した重機類が地震で傾いたり倒れでもすれば通行人や車、左右の建物に甚大な被害が出る可能性がある。
 今朝の揺れで真っ先に気になったのが、この現場だった。すぐそばに神田警察署もあるから、もし事故でも起こせばあっという間にテレビや新聞の記者たちに知られてしまう。派手に報道されれば会社の信用問題にも発展しかねない。
 ベテランの徳永と工事部のエースである佐伯が仕切っているだけにさすがに現場管理はしっかりしているようだ。まだ着工して間がないのだが、すでにぴりっとした雰囲気が現場全体に漂っている。彼らに任せておけば、よほどのことがない限り納期で悩まされることもない。そういう点では安心な現場だが、工事自体の難度は相当に高いから、地震や台風などの天災は一番の心配の種ではあった。
 一時間ほど佐伯たちと雑談をして現場事務所をあとにした。千葉では小さな余震が起きているようだが、都内は今のところ静かだった。
 次の現場は芝公園の近くで、そのあと東雲の現場、晴海の現場と回る予定だ。時間があるので神保町まで歩いて都営三田線を使うことにした。靖国通りまで出て、向かって右側の歩道をのんびりと歩く。十時を過ぎて通り沿いの店舗は当たり前に店を開け始めている。地震の影響はほとんどなかったのだろう。
 百メートルも行ったところで右脇の路地から若い二人連れが不意に目の前に姿をあらわした。地震の被害を確認したくて建物ばかり見ていたので、遼平は彼らと鉢合わせのような恰好になってしまった。
「あっ」
 と最初に声を出したのは隠善つくみの方だった。
 身体をかわしたあと振り返るような形で遼平は足を止めた。
「やあ、どうしたの?」
 ぼーっと歩いていたと思われたに違いない気まずさもあって、余計に張り切った声になった。
「こんにちは」
 つくみが笑みを浮かべてお辞儀をした。隣に立っている背の高い青年に、「私が働いている会社の松谷主任」と話しかける。
「はじめまして。財前と申します」
 なるほどという表情のあと、青年も丁寧に頭を下げてきた。大学生くらいだろうか。色白でなかなかの二枚目だ。身長も一七五センチの遼平よりかなり高い。
「松谷です」
 遼平も会釈を返し、
「こんな早くからどうしたの?」
 つくみの方に声をかける。つくみは横浜の実家住まいのはずだった。
「毎週、土曜日は手話を習ってるんです」
「手話?」
「はい。教室がすぐそこなんです」
「そうなんだ」
 そこで遼平は時計を見た。十時四十五分になろうとしている。
「あ、もう終わって、彼とお茶でもしようと思ってたところだったんです」
 つくみが先回りしてくれた。これから教室ならあまり引き止めるわけにもいかないと思って時間を確かめたのだ。
「松谷主任は現場回りですか?」
「ああ。今朝、かなり揺れたからね」
「お疲れさまです」
 ふだん会社で見るよりも断然打ち解けた感じで話しかけてくる。
「じゃあ、これから別の現場ですね」
「うん」
「そうですか……」
 つくみは含みのある口調になった。
「何か僕に話でもあるの?」
 この三週間余りずっと気になっていた相手だけに、こんなところで偶然に遭遇して、遼平は内心かなり動揺していた。「僕に話でもあるの?」などと踏み込んでしまったことを咄嗟に後悔する。
「実は、主任にちょっとご相談したいことがあって……」
 しかし、隠善つくみは本当に話したいことがあるようだった。
「そうなんだ」
 どんな相談にしろ、ちょっと嬉しい。
「じゃあ、月曜日にランチでもしようか」
「できれば仕事が終わってからの方が……。少し込み入った話なので」
 浮かない顔でもないが、真剣な瞳でつくみは遼平を見る。それにしても小顔だなあ、とあらためて感心してしまう。
「ごめん。来週は夜は全部埋まってるんだ」
 平日の夜は、このところすべて会合で潰れている。施主への接待、社内各部門のスタッフとの飲み会、それに救世会病院グループの堀切理事長に夜中に呼び出されることもしょっちゅうだった。
「そうですか」
 つくみは残念そうにして、
「いまからは駄目ですよね?」
 窺うような目線で訊いてきた。
「駄目じゃないけど、でも、彼もいるし」
 遼平が言うと、つくみは財前の方を向いて、
「財前君、お茶は今度でもいいよね」
 気安く持ちかけた。微妙な距離で遼平たちのやり取りを聞いていた財前は、
「うん、いいよ」
 あっさりと頷く。
「じゃあ、今日は、ここで解散」
 つくみが手を振ると、彼は「失礼しまーす」と言って、さっさと淡路町方向へと去って行ったのだった。



 駿河台下まで歩いて、結局、「レストラン京極」に入った。
「どうせなら昼飯でも食べようか」
 遼平が言うと、つくみはすぐに賛成した。そして、「だったら京極に行きませんか? 私、あのお店大好きなんです」と言ってきたのだ。
 京極は開店したばかりで、遼平たちが最初の客のようだった。
 洋子ママが出て来て、「あら」と意外そうにする。部会以外で遼平がここに来ることは滅多にないが、しばしば幹事役をやっているので顔はおぼえてくれていた。
 小田部長のいつぞやの言葉が頭に浮かんで、遼平はとんかつ定食を、つくみはシーフードフライ定食を頼んだ。
 びっくりだったのは、ママと彼女がとても親しそうにしていることだった。
「隠善さん、ここ、よく来てるの?」
 届いた水を一口飲んで遼平が訊くと、
「たまにですけど。私、洋子ママが大好きなんです」
 と言う。会社では無口でおとなしい人だが、本当の彼女はそれとはだいぶ違うようだと遼平は感じていた。
「どうして?」
 突っ込むと、
「そんなのママを一目見れば分かるじゃないですか」
 つくみはおもしろそうに笑った。「そりゃ、お前、ぴんときたんだよ」という小田部長の言葉がふたたび脳裏によみがえってくる。
「だけど、どうして手話を?」
 話題を変える。
 相談事のときは相手が切り出すのを待つのが鉄則だ。
「これっていう理由はないんです。なんか別の言葉が学びたいなって……」
「別の言葉って、英語とかじゃなくて?」
「はい。言葉っていうか、別の声を、かな」
「別の声?」
「はい。手話って言葉であると同時に声のような気がするから」
「そうかなあ……」
 遼平にはいまひとつぴんとこなかった。つくみの方もそれ以上は喋らない。
「今朝の地震、大丈夫だった?」
 さらに話題を変えながら、そういえばこの店はどうだったのだろうと見回す。何も変わった気配はない。
「はい。電車も止まってなかったし」
 つくみはさらっと言う。
 なかなか話の接ぎ穂が見つからなかった。自分が常になく緊張しているせいだろうか、と遼平は思う。彼女の方は淡々とした様子だ。
「東日本大震災のときは隠善さんはどこにいたの?」
「あの日は、大学にいて、ちょうど木に登っていて……」
 つくみは天井を見るような目つきになった。細い目がますます細くなる。鼻は小さくて鼻筋が通っていた。顎から頬にかけてのラインもすっきりしている。肌は白く、ほぼノーメークなのだろうがつやつやしていた。これで目が大きければたいそうな美人だろう。
「木に登る?」
 そんなことを思いながら、遼平は訊く。
「はい。木登り研究会に入っていたんで、よくキャンパスの木に登ってたんです」
「木登り研究会って、そんなのあるの」
「はい。木登りってれっきとしたスポーツなんですよ」
「そうなの?」
「欧米ではツリーイングとかツリークライミングとかいって、結構盛んなんですよ」
「へぇー」
 ちょうどそこへ料理が届いた。大きな皿にたくさんのフライと山盛りのキャベツ、それにナポリタンが添えられている。溶き卵のコンソメとどんぶりのご飯がついて、シーフードフライ定食が八百八十円、とんかつ定食が九百円はやっぱり安い。
 つくみは嬉しそうな顔になって「いただきます」と手を合わせたあと箸をつかむ。
 遼平も手を合わせてから自分の箸をとった。
「で、木に登ってて、それでどうしたの?」
 肉汁たっぷりのロースカツを頬張りながら訊ねた。
 エビフライにタルタルソースをつけていたつくみが、顔を上げる。
「すっごい揺れて、振り落とされそうになって、必死で木にしがみついてました」
「それはめちゃ怖いね」
 遼平が言うと、
「うーん。地面にいた人の方が怖かったかも」
「だけど木の上の方が揺れたと思うよ」
「でも、私、木に登ってると安心できるんですよ」
「え、なんで?」
 するとつくみは、エビフライにかぶりついたあと、
「うーん、どうしてだろう。全体的にそんな感じなんで、理由は別にないんですけど」
 と言い、「おいしーい」と満面に笑みを浮かべた。
 二人とも食べ終わったところで、洋子ママがやって来た。
「いらっしゃい。つくみちゃん、いつもありがとうね」
「こちらこそ」
 洋子ママはいかにも嬉しそうに頷く。するとアルバイトの男の子がプリンを持ってきた。
「これ、サービスよ」
 ママはプリンを遼平とつくみの前に置いてくれ、
「ゆっくりしていってね」
 と背中を向けようとした。そこへつくみが「洋子ママ」と声をかける。ママがつくみを見た。
「ママ、小田部長とはどうやって知り合ったんですか?」
 つくみは訊いた。
 さきほどまで、その話を二人でしていたのだった。「ママを一目見た瞬間にぴんときたって部長は言ってたけど、なんかはぐらかされた感じだったんだよね」と遼平は語ったのだが、まさかこんなにあっさり本人に確かめるとは思わなかった。
「小田さんとは、神田駅前のスナックで知り合ったのよ。私も彼もその店の常連だったの。もうなくなっちゃったけど」
「へぇー」
 遼平とつくみが同時に声を出す。
「ママの彼氏なの?」
 いともたやすくつくみは言った。遼平は内心ぎょっとする。
「さあ、どうだかしら」
 ママは面白そうに笑みを浮かべる。
「じゃあ、むかしのよしみって感じ?」
 するとママはちょっと考えるようにして、
「そうねえ、そういう感じかな」
 と言った。そして、
「でも、あの小田洋祐って男はひとかどの男だと、私は思ってるよ」
 と付け加えたのだった。
 プリンを食べ終えたあともつくみは何も言わないので、
「ところで相談したいことって何なの?」
 さすがに遼平の方から問いかけた。すると、彼女は、
「主任とこうやってご飯食べたら何だかすっきりしたんで、もういいんです。そんなにたいしたことでもなかったし……」
 と言った。
「そうなんだ」
 何だか肩透かしを食った気分だったが、別に不愉快ではなかった。
「次の現場はどこですか?」
 と訊かれ、
「次は芝公園の近く」
 答えると、
「仕事の途中にお引き止めしちゃって、今日はすみませんでした」
 隠善つくみは丁寧にお辞儀をして、自分から席を立った。



 友莉と食事をしながらも、時折、昼間会った隠善つくみの言葉や表情が脳裏によみがえってきた。愛おしいとか恋しいというのではないが、ああやって二人きりで面と向かってみれば、やはり彼女とは特別なつながりがあるような気がしてならなかった。さほど打ち解けたわけでもないし、つくみがよほどの親愛の情を示してきたわけでもない。
 それでも彼女と一緒にいるとやけに気持ちが落ち着いた。げんに目の前の、幼馴染みで、付き合い出してからも十数年になる友莉と比べても、気の置けなさに遜色はない。
 友莉は「清兵衛」に導入するフライヤーの話をえんえんと続けていた。
「いまのはもう十年以上も使ってるし、何とか買い替えには賛成してくれたんだけど、次もガスにしたいって言ってきかないの。身体のためにも電気にしようってお母さんも私も言ってるんだけど、なかなか首を縦に振らないのよ」
 友莉の説明では、ガスよりも電気フライヤーの方が熱効率が高く、排熱も少ないのだという。「ガスだと熱効率は五割くらいで、残りの熱は全部あの狭い厨房にいっちゃうんだよ。揚げ物のときは冬だって汗だらだらなんだから」と言っていた。
 友莉の父の板倉智司は二年前に心筋梗塞で一度倒れていた。勤めていた信用金庫を退職した友莉が、長年、両親で切り盛りしていた門前仲町の居酒屋「清兵衛」を手伝うようになったのはそのときからだ。「清兵衛」は門仲の駅を出て徒歩数分の場所にある繁盛店だった。
 当時、遼平は二十九、友莉は二十六。そろそろ一緒になろうかと話していた矢先に智司が入院し、友莉もそれどころではなくなって、いつの間にか結婚の件は沙汰やみになってしまった。
 遼平は、友莉が店のことをあれこれ喋るのを黙って聞きながら、お気に入りのレモンハイを飲んでいる時間が好きだった。
 気立てのいい友莉は信金でも人気者で、退職するときは同僚たちからずいぶん惜しまれたらしいが、遼平の見るところ「清兵衛」で働くようになって肩の力がずいぶん抜け、自然体になった気がしていた。そういう点では、智司の発病は彼女にとってはもっけの幸いだったと思うし、そのことは友莉本人にも言ったことがあった。
 友莉を見ながら、こいつとは長い付き合いだな、と思う。
 家が隣同士で、母親たちがとびきりの仲良しだったから友莉とは兄妹同然に育った。本当の兄妹でもよかったが、幸か不幸か血のつながりがなかったため、男女としての仲に変化することになった。それが発展だったか後退だったかは、結局、結婚してみなければ答えは出ないと遼平は考えている。
 ただ、幼い頃から彼女と夫婦になるのが当たり前だと思ってきたし、そのことに抵抗はなかった。友莉にしても気持ちは同じだったろう。
 遼平が中学のときに母の満代が亡くなり、以降は父に代わって板倉の両親が弟の耕平ともども世話してくれた。おかげで、兄弟二人、多感な時期をさみしい思いもせずに通り抜けることができた。
 耕平の方はいまやすっかり身を持ち崩しているが、それは母の死が原因でもないし、まして板倉の両親と折り合いが悪かったせいでもない。すべては彼自身の問題だった。
「清兵衛」から目と鼻の先にある炉端焼きの店で夕方から飲み食いし、十一時過ぎに外に出た。門仲の街を手を繋いでぶらぶら歩く。遼平の実家も友莉の家も変わらず木場にあった。高速9号深川線の塩浜インターの近くだが、いまは向かいに深川ギャザリアという巨大な複合施設ができていて、子供の頃には想像できなかったほどに開けている。
 友莉はそこに両親と住んでいるが、遼平の家は空き家だった。
 遼平が清澄に移って一人暮らしになっていた父の富士夫が、三年前の四月に上海郊外の工場へ赴任してしまったのだ。富士夫は自動車部品メーカーのエンジニアだった。
 あぶない会社を渡り歩いているらしい弟の耕平はもとから実家には寄り付きもしない。
 五月の夜風は生ぬるかった。酔いの回った身体には少しべたついて感じられる。永代通りへは戻らず、葛西橋通りを木場公園の方へと二人で歩いた。
 今夜は公園の先にあるホテルイースト21に部屋を予約している。友莉が清澄に泊まることもあるが、たまにこのホテルを使うこともあった。
「この前、耕ちゃんが店に来たよ」
 木場公園の南北をつなぐ木場公園大橋の下を歩いているとき、思い出したように友莉が言った。
「いつ?」
 耕平とはかれこれ半年近く会っていなかった。
「一昨日の木曜日かな。看板直前に男の人と一緒に来て、すぐ帰っちゃったけど」
「何しに来たんだ?」
「分かんない。二人でビール三本空けて、エビフライ食べて、一時間くらいで出て行ったよ」
 エビフライは子供の頃からの耕平の好物だった。
「何か話した?」
「別に。遼ちゃんとは会ってるのって訊いたら、全然って言ってた。よろしく伝えてくれって」
「ふーん」
 呟くように言って、
「一緒にいた男って、どんなやつ?」
 ふと気になって訊ねる。
「茶髪で背が高くって、めっちゃイケメンだった。歳は耕ちゃんくらいかな、たぶん」
 長身で茶髪のイケメン――タケルに違いなかった。
 しかし、タケルを連れて木曜日の晩になぜ耕平はわざわざ「清兵衛」に顔を出したのだろう? 看板間際といえば十二時近くだ。タケルは店を休んだのか。
 彼とは連休明けに一度会っていた。
 救世会病院の堀切理事長に夜中に呼び出され、その場で連絡させられたのだ。タケルは渋々、堀切理事長の住む三田のマンションにやって来た。入れ違いで遼平はさっさと退散したから、二言三言話しただけだったが。
 ホテルの部屋に入ると、交代でシャワーを浴びてベッドに入った。
 部屋は空調が効き過ぎて寒いくらいだったが、薄い毛布の下で素っ裸の身体を合わせているとみるまにあたたかくなってくる。遼平の股の間になめらかな友莉の太ももがすべりこんでくる。足がからまり、遼平は強い力で彼女を抱き寄せた。豊かな胸のふにゃりとした感触も心地よかった。
 抱くのは半月ぶりくらいだ。前回、部屋に泊まっていったときは生理中でできなかった。
 明かりを落とさずに、友莉を組み伏せる。
 友莉は目を閉じて、小さな唇を半開きにしている。すでに感じ始めているようだった。
 覆いかぶさり、感じやすい各部に舌を這わせ、あっあっという間欠的な喘ぎを耳にするうちに遼平はいつになく興奮してきた。
 脳裏には昼間会った隠善つくみの顔が浮かんでいた。
 腕立て伏せの要領で身体を浮かせて友莉の顔を見る。
 くりっとした瞳と丸顔が特徴で、若い頃のキョンキョンに似ているとよく言われる。その見慣れた顔が次第に隠善つくみの顔とだぶってくる。小顔で首が長く、切れ長の目がいつもぼうっとかすんでいるつくみと友莉とでは似ても似つかないはずなのだが、それがだんだん一つに重なっていくのを不思議な心地で遼平は眺めていた。
 下半身は激しく脈打ち、すでにはちきれんばかりになっていた。
 右手を添えてぐいと分け入った瞬間、友莉の顔が消えていく。
 終わると、友莉はすぐに静かな寝息を立てはじめた。しばらく腕枕していたが、寝返りを打って背中を向けたところで、遼平は起き上がり、ベッドから降りた。目が冴えてまったく眠くなかった。
 シャツとパンツを着け、窓辺に行って、一人掛けのソファに座る。小さな窓の向こうはのっぺりとした闇で、明かりの一つも見えない。時間を確かめる。午前一時半を回ったところだった。
 窓に映る自身の顔を見つめた。
 それがさきほどのように隠善つくみの顔に変わっていくことはなかった。ただ、いかにも困った顔つきに、おいおいどうしたんだと声をかけたくなる。
 何かがずっと頭に引っかかっている気がした。
 一体、何だろう?
 心の中でそう言葉にした瞬間、勢いよく幕が上がって、一つの光景が目の前にあらわれてきた。
 そこは白壁の塀で囲まれた広い庭で、たくさんの木々が植えられていた。正門につづく道にはつつじやこぶし、庭の入口から東面の白壁にかけては数本の桜、北側にはさざんか、そして、庭の真ん中に一本の太いクスノキがすっくと立って四方に枝を広げていた。西の山を背にして、長い廊下と縁側を持った平屋の古い民家が建っている。
 遼平はその民家の縁側に腰を下ろして中央のクスの巨木を見上げていた。
「おーい」
 とクスが話しかけてくる。
 空は真っ青な夏空で、遠く豊後水道の方角にはソフトクリームのような雲が浮いていた。
「りょうちゃーん」
 クスが遼平の名前を呼ぶ。
 その声に向かって遼平は手を振った。強く振りたかったが力が籠らず、肩のあたりまで腕を上げるのが精一杯だ。ひらひらと手を動かすだけで息苦しさが胸に迫ってくる。
 背後では赤ん坊の泣き声が聞こえ、誰かがあやす声もうっすらと耳に届いていた。
 泣いているのは生まれたばかりの耕平だった。そして、耕平をあやしているのはむろん母の満代だ。
 ということは俺はまだ四歳くらいか……。
 忘れていた記憶がだんだんによみがえってくる。
 目を凝らすと、繁った葉々の隙間に人影が見える。白シャツ姿の小柄な男性が張り出した太い枝にちょこんと腰かけていた。ずいぶんと高いところだった。
 そうだった。
 目が覚めたように遼平は善弥さんのことを思い出した。
 善弥さんは、よくクスノキに登って下界の景色を眺めていた。
 彼は母方の実家で面倒を見ていた人だった。祖父が校長を務めた小学校の生徒で、鉄砲水で身寄りを失くしてからは近在の地主だった祖父の家に引き取られ、畑仕事などを手伝いながらずっと一緒に暮らしていた。
 当時は、大人なのにまるで子供みたいな善弥さんが幼心にもちょっと不思議だった。ただ、その分、たまに帰省すると遼平たちといつも一緒に遊んでくれた。
 その善弥さんには特技が二つあって、一つは動物を巧みに手なずけることで、もう一つが木登りだった。
 善弥さんは祖父の家で飼っていた犬や猫の世話を一手に引き受けていた。口笛を吹いて、空を飛んでいる鳥を呼ぶことだってできた。
 彼の動物好きはきっと重宝されたことだろうが、木登りの方はどうしてそんなことをするのか誰もよく分かっていなかったに違いない。遼平だっていまのいままで善弥さんがしょっちゅう木に登っていたことをすっかり忘れていたくらいなのだから。
 遼平は長い縁側に座って日に当たっていた。ようやく床払いして、身体を起こせるようになったばかりだった。夏休みに入って大分にある母の実家に里帰りした。お盆の中日の夜からひどい熱が出て、二日目に往診を頼むと、診療所の先生に肺炎の疑いがあると言われた。山間の僻村とはいえ現在だったらドクターヘリでも飛ばすところだろうが、当時はのんきなものだった。毎日往診してもらっても、町の病院へ入院することはなかった。
 そういうもろもろの話は、長じて母に聞かされたことで、遼平自身はほとんど記憶がない。さらに三日三晩高熱がつづき、先生もこのまま解熱しないようであれば市民病院に運びましょうと言っていたそうだ。生前の祖父母も、お盆休みで後乗りしてきた父も深刻に見える病状に気が気ではなかったという。
 ところが医者がそう告げて帰った翌日、熱は嘘のように下がったのだった。
 あの日――。
 耕平が泣き止んでほどなく、母が、切りたてのすいかをお盆に載せて持ってきた。
 それを見た善弥さんもクスノキから急いで降りてきて、一緒に縁側に座ってすいかを食べた。
「りょうちゃん、よかったなあ、元気になって」
 彼はすいかを頬張りながら「これのおかげやねえ」と手にしたすいかを掲げてみせた。
 その場面を遼平はいま、くっきりと脳裏に再現させていた。
 たしかに数日前、熱にうかされていた遼平に、母が井戸で冷やしたすいかを持って来て、そっとそのひとかけらを口に入れた。甘くて水っぽいすいかの汁をひと飲みしたとたん、全身にしがみついていた熱がすーっと発散されていくのを幼い遼平は感じた。その瞬間の感触もいま同時に思い出していた。
「このすいかは魔法のすいかや。どんどん食べりぃ」
 善弥さんが言った。
 彼は、そう言いながらぽろぽろぽろぽろ大粒の涙を流したのだった。
 どうして善弥さんはあんなに泣いていたんだろう?
 二十数年ぶりにあのときの光景をありありと想起して遼平は訝しく思う。
 それほどに肺炎が重かったのだろうか。だから奇跡的に回復したことに、心のやさしい善弥さんは感極まって泣いてしまったのだろうか?
 よく分からなかった。
 小学校低学年の頃に、祖父母が相次いで亡くなり、中学で母の満代も死んで、大分の母の実家からはすっかり足が遠のいてしまった。大学四年のときに親戚から善弥さんが入院していると聞いた。ほどなく訃報も受け取ったが、血の繋がりのある人ではなかったし、父も遼平たちも葬儀には出向かなかった。
 昼間の隠善つくみの言葉が引っかかっていたのは、彼女の木登りの話を受けて、木登り名人の善弥さんのことが意識の表面すれすれまで浮上していたからだろう。
 祖父母の家は大分県の津久見市の山側にあった。東は豊後水道の豊かな海に接する風光明媚な土地だった。
 つくみと津久見。
 三週間以上も経って、ようやく二つの一致に遼平は思い至った。



 地震があった土曜日から六日後の五月二十四日金曜日。
 今月いっぱいで隠善つくみが退職するとの告知が部内に回ってきた。遼平は夕方、営業から戻って来てそのことを知った。すでに彼女は帰ったあとだった。
 翌土曜日、朝から出社して報告書作りをやっていると、昼前に小田部長が出てきた。
 さいわい二人きりなのでさっそく、つくみの退職の理由を部長に訊ねてみた。
「それがよく分からないんだよ。本人が先週、直接人事に申し出て、俺も人事からいきなり告げられただけだからな」
 小田は困惑気味に言った。
「人事からは何も聞いてないんですか?」
「ああ。一身上の都合ってことらしい。何しろバイトだから、それ以上は聞く必要もないってことだろう」
「そうですか」
 先週の土曜日、相談したいことがあると言っていたのを部長に話すべきかどうか迷ったが、遼平は黙っていた。たしかあのときつくみは「少し込み入った話」とも言っていたはずだ。
 結局、「もういいんです。そんなにたいしたことでもなかったし」という言葉の方を優先して、この一週間、何も相談に乗ってやらなかった。だが、彼女が辞めると決めた理由は、その「たいしたことでもなかった」ことだったに違いない。
 どうすればいいんだろう?
 昨日から悩んでいることを今日も遼平は悩む。
 理由など詮索せず、このまま隠善つくみを辞めさせてしまうべきなのか?
 そうすればあと一週間で彼女は自分の前からいなくなる。もう二度と関わることもないだろう。ここ一ヵ月間の原因不明の不穏な心理状態からも解放される。
 すべてが丸くおさまる。
 毎年、休みに出かけていた津久見の祖父の家や、そこで働いていた善弥さんのことを久々に意識にのぼらせてからというもの、遼平は小さかった頃のあれこれをじわじわと思い出し始めていた。
 善弥さんに上から引っ張られるようにして自分もあの大きなクスノキに何度となく登ったこと。いつもは「あぶない、あぶない」と何事にも口うるさかった母が、なぜだか、木登りだけは黙認してくれていたこと。祖父一家総出で四浦半島の先っぽにある海水浴場に毎年出かけていたこと。善弥さんがたいそうな泳ぎ上手で、その大きな背中に乗せて貰って遼平も耕平も波乗り遊びに興じたこと。早朝に起き出し、善弥さんと一緒に山に入って虫かごからあふれるほどのカブトムシやクワガタを採集してきたこと……。
 だが、そうした郷愁を誘う思い出とは趣を異にする思いがけない記憶も見つかった。
 実のところ遼平が心をふるわせていたのは、その記憶の方だった。
 今週、従前通りに注意を払いながらも、隠善つくみにさらに接近するのを控えていたのは、そのせいでもあった。
 思い出してみれば、どうしていまのいままで忘れていたのか、その方が不思議なくらいだった。五歳になる年、肺炎で死線をさまよったあの夏に途切れたせいで、記憶が奥深くへと畳み込まれてしまったのかもしれない。ただ、引っ張り出してみれば、中学までつづいた津久見の夏の思い出の中でも、これほどに鮮明に気持ちや情景を再現させることのできるものは他になかった。
 初めてシロに出会ったのは、まだ遼平が三歳の頃だった。
 庭に急に姿を見せて、遼平の座る縁側にすっと上がってきた。遼平は昼寝から目覚めたばかりだったと思う。シロはごく当たり前のようにかたわらにやって来て、胡坐を組んでいた膝小僧の匂いをくんくんと嗅いだかと思うと、遼平の左足にぺたっと身を寄せて毛づくろいを始めたのだった。
 そのときの光景を、遼平はまるで昨日のことのように思い出した。
 あれは夏ではなく、秋も深まった時期だったと思う。庭の隅に植わっていたかえでの葉が真っ赤に染まっていたのをよく憶えている。なぜ大分に行っていたのか、理由はいまではもう分からない。
 祖父の家には犬や猫がいっぱいいて、善弥さんが面倒を見ていたが、その真っ白な猫を見るのは初めてだった。
 東京の家では動物に縁がなかったが、そうやって母の実家に戻るたびに犬や猫、鶏たちと触れ合っていたから、遼平は動物や鳥が大好きだった。津久見では善弥さんと一緒に犬の散歩にも行ったし、冬場は猫と一緒に眠ったりもした。
 だが、シロとの出会いは他の動物たちとのそれとは明らかに違っていた。何がどう違ったのか言葉にするのはむずかしいが、非常に特別なものだった。そのことは遼平もすぐに察したし、当のシロはむろんだったろう。でなければ、あんなふうに出会いがしらにすり寄ってくるような真似を彼女がするはずがなかった。
 シロは長い間、遼平の身体に我が身をくっつけて毛づくろいし、そのあとも離れることなく身体を丸めてうずくまった。たまに首を回して遼平の顔を見上げ、声を上げずに小さく口を開けてみせた。遼平はそんなシロの美しい顔を見つめ、ただ、彼女が去って行かないようにとじっとしていた。
 三十分もした頃だろうか、庭を回って善弥さんが現われた。それまでは家内に物音一つしなかったから、祖父母や母たちは幼い遼平を置いて外出していたのだろう。いつものように善弥さんがお守り役だったに違いない。
 遼平の傍らでまどろんでいるシロを見つけると、
「ほぅ」
 善弥さんは小さく声を上げた。
「これはめずらしかぁ。シロ、お前、りょうちゃんば気に入ったんかぁ」
 そう言うと、遼平の方へ善弥さんはこぼれるような笑みを見せた。
 遼平はこの猫がシロという名前であることを知った。たしかに雪のように真っ白な猫だった。
 善弥さんは縁側のそばまで近づくと、
「こいつは春に子猫を三匹ばかり連れて、ふらっとやって来たんよ。餌ばやるとみんなで食べよるし、子猫たちは平気で母屋にも上がってきよったけど、こいつだけはいっぺんも上がったことはなかったと。そのうちまた子猫たちば連れてふらって消えたとよ。いまのいままでどこで何しちょったんやろか」
 と言った。
 それから毎日、シロは昼どきに庭にやって来て、遼平を見つけると必ず部屋に上がって彼のそばでじっとしていた。遼平が動くとそのあとをついてどこへでも行き、夕方近くになると善弥さんが庭先に用意した餌を食べて、どこへともなく去っていくのだった。
 次の夏も、シロは遼平が来るとどこからともなくやってきた。善弥さんによれば、シロがこの家に寄りつくのは遼平が来たときだけだそうで、
「ほかんときはどこで暮らしてるんだか……。なんでりょうちゃんが来たことが分かるんだか……」
“動物名人”の善弥さんがしきりに首をかしげていた。
 三年目の夏。幼稚園が休みになるとすぐに遼平たちは津久見に帰省した。到着翌日、また例によってシロはどこからともなく現われ、遼平のそばにちょこんと座った。つやつやとした毛並は、なめした革のような光沢を放ち、身体からは香ばしい独特の匂いがした。
 この夏は、夕方になってもシロは帰らなかった。一日中、遼平のそばを離れず、彼が座ると膝の上に乗ってきて動かなくなった。夜は応接間の隅に置かれた椅子の上で眠っていた。
「こん猫は幾つなんやろ。いつまで経っても歳ばとらん猫やね」
 善弥さんが言った。
 シロを撫でることができるのは遼平と善弥さんだけで、耕平や母、祖父母が近づいてくると彼女は遼平の後ろに隠れ、決して身体に触れさせようとはしなかった。
 お盆の中日の夜から熱を出した。翌朝、シロは応接間からやって来て、熱であえいでいる遼平の枕元まで近づくと、すぐに踵を返して縁側から外に出て行った。遼平の方はおぼろにシロの姿を視界にとらえたきりで、声をかける気力さえなかった。
 それがシロとの最後だった。彼女は姿を消して、もう二度と遼平の前には姿を見せなかったのだ。
 遼平が隠善つくみとの距離を縮めようと望みつつも躊躇してしまったのは、このシロのことを思い出してしまったからだった。
 こんなことを言うと他人様に大笑いされるに決まっているが、二十数年ぶりにシロの面影を脳裏にくっきりと思い描いてみて、遼平は、彼女がつくみによく似ているように感じた。
 もしかしたら、隠善つくみはシロの生まれ変わりなんじゃないか……。
 遼平はふと思った。余りに突飛で荒唐無稽な妄想だったが、しかし、そう直感した瞬間、背筋に冷たいものが走ったのは事実だ。
 あのぞっとする感じは忘れられない。
 それからつくみを目にするたびに、どうしても、シロの姿と彼女がダブって見えて仕方なくなった。
 つくみにはこれ以上関わらない方がいい。
 どこからか、そんな声が遼平の耳に聞こえてくるのだ。



 翌週の水曜日の昼過ぎ、杉下浩行を十七階の会議室に呼び出した。
 十七階は会議専用フロアで、エレベーターを降りると真っ直ぐにのびた廊下の左右に大小さまざまな会議室が並んでいる。業務会議や接客だけでなく、社内のサークル活動にも供されているが、各部署の会議が立て込む月曜日や週末を除けば、平日の午後は比較的がらんとしていた。廊下の突き当たりには両開きの重厚な木製ドアがはまっていて、その先は社長の講話や新年会、ちょっとしたレセプションに用いる大講堂だった。
 大講堂の手前にある小会議室で待っていると、杉下がのんきな顔で入って来た。
「先輩どうしたんですか? また堀切愛美がとんでもないことを言ってきたんすか?」
 救世会病院の理事長、堀切愛美は医療法人「救世会」の専制君主だった。病院経営者としては辣腕で鳴らす人物だが、とにかくわがままで自分勝手ときている。そんな彼女の歓心を買うために、小田を筆頭に遼平や杉下は日々きりきり舞いさせられている。
 ただ、いまのところ各地に展開する救世会病院の新築、増築、改築の案件はすべて八馬建設が一手に受注している。その額は毎年莫大で、本社営業部の収益の柱の一つだった。
 愛美は御年四十七歳。二度の結婚にしくじって独身だが、目下は遼平が耕平を通じて紹介したホストのタケルに首っ引きの状態だった。
 三年前、小田に初めて引き合わされた際、
「ホストクラブに連れてって。私好みの男の子のいる店じゃないと駄目よ」
 開口一番、愛美はそう言った。遼平の挨拶など聞いてもいない風情だった。
 ホストクラブと言われても見当もつかず、小田からは「どんな無理な注文でも、理事長のオーダーは24時間以内に結果を出せ」と命じられて、遼平はやむなく弟の耕平に助けを求めたのだった。そして、耕平が紹介してくれたのが錦糸町にあるホストクラブ「鼠」だった。
「鼠」は錦糸町のどん詰まりのような場所にある店だったが、ホスト業界では知られた名店で、働くホストは粒ぞろいだった。
「あの店には、アレの上手いホストが揃ってるから、そんな年増女だったら、一回連れて行けばメロメロだよ」
 耕平は笑いながら言ったが、実際その通りだった。堀切愛美は初回についたナンバー2のタケルにあっという間に籠絡され、この三年間、一途に「鼠」に通いつづけている。
 そのタケルが近頃つれないそぶりのようで、このところの遼平や杉下は、彼女の三田の豪華マンションにしきりに呼びつけられて、タケルを連れて来るように要求されるのだった。
 どうせ思わせぶりな態度で、さらに金を引っ張るつもりだろうと遼平は踏んでいるが、愛美の方は「タケルに別のパトロンができたんじゃない? もしそうだったら、そんな女、さっさと手を切らせてちょうだい」と必死の形相で毎回迫ってくる。
「あの大和君が理事長ほどの方を袖にするなんてあり得ないですよ」
 その度にそう言ってなだめるのだが、実際、堀切愛美以上の金主がタケルの前にあらわれるとはとても想像できなかった。
 八馬建設から堀切愛美への建設費還流分の大半が、あの場末のホストクラブに湯水のように注ぎ込まれているのかと思うと、自分が仕組んだこととはいえ、遼平はどうにもうんざりしてくる。
「今日は堀切理事長の話じゃないよ」
 突っ立ったままの杉下に座るように目で促す。遼平はテーブルを挟んだ向かいの一人掛けの肘掛け椅子に座っていた。杉下も黙って座る。
「お前が隠善さんを捨てたんで、彼女が会社を辞めることになったって噂は本当か?」
 のっけから用件を切り出した。一瞬、杉下の顔面が硬直した。尖った耳がびくっと震える。
 噂は先週後半に一気に部内に広がったようだった。遼平が知ったのは今週の月曜日で、事務の橋本さんに耳打ちされた。月、火で噂の出所を調べ上げ、今日、杉下を呼び出すことにしたのだ。
「ただの根も葉もない噂話ですよ」
 杉下が薄笑いを浮かべながら言う。
「松谷さんも、そんな噂、真に受けないで下さいよ」
「じゃあ、その根も葉もない話をどうしてお前自身がみんなにべらべら喋りまくってるんだよ」
 遼平は腹の底から低い声を出した。
 土建営業の仕事には表もあれば裏もあった。むろんその筋の人たちとの付き合いも避けては通れない。小田が遼平を買ってくれているのは、見かけによらず腹が据わっているからでもあった。人格者として通っている小田もそっち方面では強面だったが、直下にいる遼平も社内では似たような目で見られている。
 遼平にドスのきいた声で詰め寄られれば気の小さい杉下が震え上がるのは最初から分かっている。
 噂のもとを探っていくと、杉下本人が、この数ヵ月のあいだ隠善つくみに付きまとわれてたいへんだったと方々で言い触らしているのが分かった。当然のごとく尾ひれがついて、つくみは杉下に捨てられて退社するのだという筋立てができあがったようだ。
 杉下は俯くこともできずに遼平の顔を見ている。
「まあいい。で、事実はどうなんだよ。お前が彼女を振ったってのは本当なのか?」
 杉下といえども、自分が捨てた女のことを吹聴するほど馬鹿とは思えない。となると腹いせで出鱈目を言い回っていると推理するのが自然だった。
 杉下は黙り込んでいる。
「杉下、何黙ってるんだよ。俺に向かって隠しごとか? それとも御立派な嘘でもいまからつこうって腹づもりか?」
 杉下の口から深いため息が洩れた。
「多少強引には誘いましたよ。まったく乗って来ないから」
 顔を下に向けてぽつりと言う。
「それで」
「そしたら、先々週の日曜日に初めて会うって言ってきたんですよ」
 先々週の日曜日といえば地震があった翌日だ。
「それで」
「会いました」
「で、お前があっさり振られたってわけか」
 察しの通りだと思いつつ遼平は言う。
「違いますよ」
 顔を上げて杉下がかぶりを振った。
「横浜で会って、一緒に飯食って、ランドマークのホテルに誘いました」
 意外なことを言う。
「じゃあ、二人でホテルに行ったのか」
 軽い衝撃を覚えながら遼平は訊いた。あの隠善つくみがこの男と寝たというのか。
「部屋に入って、俺が先にシャワーを浴びて出てきたら、あの女、俺の社員証や携帯を抜いてやがったんです」
「何だよ、それ」
「もう二度と私を誘わないなら返してやるっていうんです。別に、俺だってそこまでしつこくやっちゃいないですよ。そんなヒマ人でもないし、女に不自由してるわけでもないですから。たまに会社で二人きりになったときに声かけたり、何度かメールや電話したってくらいのもんです。あの女、ちょっとどうかしてるんじゃないすか」
「それでどうしたんだよ、お前は」
「頭にきちゃって、あいつが手にしていた携帯と社員証を奪い返そうとしたんですよ。そんなの当然でしょう」
 つくみのことを「あの女」、「あいつ」呼ばわりする杉下に、遼平は自分でも驚くほどの怒りを覚えていた。だが、そんなことはおくびにも出さない。
 十八日の土曜日、つくみが相談したかったのは、この杉下のことだったのだ。きっと先輩社員の遼平から注意してほしいと頼みたかったのだろう。
「それで」
 すると、いきなり杉下は椅子から立ち上がった。
 上着を脱ぎ、ブルーのワイシャツと半袖のシャツも脱いで、彼はあっという間に上半身裸になった。
「見て下さいよ、これ」
 杉下の身体についた傷跡に遼平は息を呑んだ。
 脇腹から胸、背中にかけて無数の引っ掻き傷のようなものがついている。どれも傷口は塞がっているが、細い傷だけでなく、かなり太くて深そうな傷もあった。十日以上経っていることを勘案すると、負わされた直後は血だらけだったに違いなかった。
「あの女、化け物ですよ。ものすごくすばしっこくて凶暴で、見て下さい、このざまですよ。被害者はどっちか、これを見れば松谷さんだってよく分かるでしょう」
 しかし、あのやせっぽちのつくみが、大の男に対してこれほどの爪痕を残せるというのは驚異だった。そんな力があの華奢な身体のどこに秘められているのか?
「もういいから服を着ろよ」
 遼平は言った。杉下は素直に言うことをきく。
「もとはと言えば、お前がストーカーまがいのことをしでかしたからだろう。お前にそういう意識がなかったとしても、彼女はそう感じてたってことだ。ちょっと痛い目にあったからってあんな下卑た噂を流してどうするんだよ。みっともないとは思わないのか」
「腹いせで馬鹿なこと言ったのは反省しています。でもね、別に俺があれこれ喋ったから辞めるって言い出したわけじゃないですよ」
 それはそうかもしれないが、杉下が彼女をそこまで追い詰めたのは確かだ。
「もう、お前とは一緒に働けないってことだろ。そんなことまで起きたんなら、あとあとどういう嫌がらせを受けるか分からないって話だからな」
 遼平が言うと、
「先輩、あの女、そんなヤワな玉じゃないっすよ。さっきの傷見たら分かるでしょう」
 杉下はふたたび薄笑いを浮かべてみせた。
 翌日、五月三十日は会社の創立記念日だった。
 この日ばかりは全社員が仕事を休む。遼平が入社した頃は、会社あげての運動会を都内のグラウンドを借りて催していたが、不況の深刻化とともにやらなくなった。そろそろ復活しようとの機運もあるが、まだ実現にはこぎ着けていない。遼平は剣道とは別に高校まで陸上をやっていたからいつもリレーのメンバーだった。走るのはいまでも大好きだ。たまに仕事の後、自宅の近所をランニングすることもあったし、数年前までは昼休みに皇居の周辺を走っていた。
 弟の耕平は高校三年までサッカーの有名選手だった。三年の夏にバイクの事故で足をやられて、スポーツ推薦が決まっていた大学に入ることができなくなり、それを契機にすっかりやる気をなくして次第に落ちこぼれていった。しかし、短距離を走らせるとかつての耕平は遼平をはるかにしのぐスピードを持っていた。
 夕方、隠善つくみと会った。
 会社では話しかけづらく、昨晩、彼女の携帯にメールした。会いたいむねを伝えると、すぐに了解の返事が来た。都内での用事が夕方までに終わるので、よければその足で遼平の住んでいる清澄白河まで行くという。それならばということで、清澄公園で待ち合わせたのだった。
 約束の時間は五時だったが、五分前に公園入口に着くと、すでにつくみが立っていた。
 清澄公園と清澄庭園はもとの大名屋敷を明治期に岩崎弥太郎が買い取り、隅田川から水を引いて回遊式の林泉庭園に仕立てたものだった。関東大震災で甚大な被害をこうむり、比較的損壊が軽かった東側部分を東京市が庭園として復活させ、西側半分は戦後だいぶ経ってから開放公園として整備し直した。いまは庭園も公園も東京都の持ち物になっている。
 五月も終わりを迎え、入り口から望む公園内は色鮮やかな緑に覆われ、傾きかけた陽にやや鬱蒼とした印象だった。平日のこの時間帯とあって閑散としていた。
 案内板の脇に佇んでいた隠善つくみは、遼平を認めると軽く手を振った。少し早足になって遼平は彼女のそばへ行った。
「素敵な公園ですね」
 つくみが笑顔を見せる。
「休みの日にわざわざ来てもらってすみません」
 遼平はまず頭を下げた。
「そこのベンチで話しませんか?」
 案内板のすぐ近くに木製のベンチが二つ並んでいた。
 つくみが公園側、遼平が入り口側に腰掛けた。目の前に太い幹の大きな木が立っている。繁った葉の様子からクスノキだと知れた。
 近所に住んでいても、ここに来ることは滅多にない。休日に走るときも庭園と公園の周囲を回るだけだった。
「藤も終わっちゃってますね。見たかったなあ」
 芝生広場の手前にある藤棚の方を見つめながらつくみがぽつりと言った。言われて遼平はそっちを見る。藤が咲いていたことも知らなかった。
「杉下もすごく反省しています。もうあいつにヘンな真似はさせません。僕が責任を持ちますから、仕事、辞めないで下さい」
 遼平は言った。
「部長にもちゃんと話して、つづけて貰えるようにしようと思っています。杉下のことは、もっと早く、僕が気づけばよかったと思います。隠善さんには不愉快な思いをさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
 遼平はそう言って座ったまま低頭した。
「杉下さんに対してはちょっとやり過ぎたかなって、私の方こそ反省してるんです。きっとそのこともご存じだと思うんですけど」
 つくみは言った。
「でも、これで隠善さんが辞めるのは筋違いです。杉下の処分にまで事を荒立てるのは本意ではないので、そういう中途半端な対応はご不快かもしれませんが、ここは僕に免じてお許しいただけないでしょうか?」
「別に、私、怒ってないです。自分でちゃんとお返ししたのでスッとしてるし。辞めるのは、このへんが潮時かなって思っただけですから。どうせバイトですし」
「次の仕事は決まってるんですか?」
「これからぼちぼち探そうかって思ってます」
 さばさばしたつくみの物言いに、遼平はこれ以上引き止める理由を見つけられない気がしていた。
「しかし、それじゃあ、幾らなんでも申し訳なさすぎです。よければ仕事先を見つけるのを手伝わせていただけないですか? 都内でも横浜でも、幾つか目星はつけられると思うんです。隠善さんみたいな優秀な人なら、僕も自信を持って紹介することができますから」
「いいですよー。そんなこと主任さんにして貰ったら、それこそ筋違いだと思います」
 つくみは笑って取り合わなかった。
「そうですか……」
 話の接ぎ穂を失ってしまう。
 しばらく二人とも黙っていた。公園の光は徐々に弱まっているが、それでもまだまだ明るい。風もなく、今日は、梅雨を控えて滅多にないというほどの心地よい一日だった。
 つくみはじっと目の前のクスノキを見つめ、それからあたりに視線を投げ始めた。
 ふいに立ち上がって、中村学園側の緑地帯の方へと歩いて行く。
 遼平もあわてて立ち上がり、彼女のあとを追いかけた。
 緑地帯は、二つの部分に分かれていて、手前には灌木や草が茂り、その奥が雑木林になっていた。
 ほとんどがクスノキで、ところどころにユリノキやカエデが見える。 
 石垣が組まれて一段高くなっているその雑木林の中へとつくみは分け入っていった。
 枝ぶりのいい一本のクスノキに向かって真っ直ぐに進んだ。たもとまで来て立ち止まると、幾つにも枝分かれした立派な木を黙って見上げている。
「そそられますよね」
 隣にやって来た遼平につくみは言った。
「何が?」
 問い返すと、もうそのときには一番手近な枝に手をかけていた。手をかけると言っても自分の頭より五十センチ超は上にある枝だった。彼女は垂直跳びで、あっという間に枝にぶら下がったのだ。
「登るの?」
 そう訊いたときには、蹴上がりの要領でその枝に跨っていた。
「あの女、化け物ですよ。ものすごくすばしっこくて」
 という杉下のぼやきが耳朶によみがえってくる。
 つくみはスカートだった。
 すいすいと登っていく彼女を目で追いかけていれば、否応なしにその細くて長い足や白い下着をつけた小さな尻が丸見えになる。
 クスノキは幹の中ほどで大きく二つに枝分かれしていた。より外側へと張り出した左側の太い幹を選んで、なおもずんずん登っていく。さらに二股になった箇所に来てようやく止まった。二股の部分にブランコ座りをすると、遼平を見下ろしてくる。
「主任さんも登ってきませんか? とっても気持ちいいですよ」
 多少、息が上がった感じの声でつくみが言った。



 清洲橋通りまで出て、たまに顔を出す中華屋につくみを案内した。
 小さな店だが、まだ六時前なのでがらがらだ。作業着姿の若い男性が朱塗りのカウンターでたんめんをすすっていた。
 四人掛けのテーブル席に陣取って、生ビールを注文する。届いたジョッキをぶつけて乾杯した。
「木に登ったのなんて子供のとき以来だよ」
 遼平は自分でも少し興奮しているのが分かる。つくみに丁寧な指示を受けながら懸命に登り、右側の幹に何とかたどり着いた。さらに上の枝分かれしている部分で彼女を真似て腰掛けると、すっかり忘れていた景色が目の前に広がっていた。
「亡くなった母親の実家が大分の山村でね、庭におっきなクスノキがあったんだ。帰省したらその木によく登ってた。日頃は口うるさい母親が、どういうわけだか木登りは認めてくれてね。でも、相当高いところまで登ってたし、思えばけっこう危険な遊びだった気がするよ」
「きっと、おかあさんも小さい頃、その木にしょっちゅう登ってたんですよ。女の子だし、いつも見つかって怒られてたんじゃないかしら」
 ビールを半分ほど飲んで、つくみが言う。
「なるほど」
 いまのいままで、あのクスノキに母親が登っていただなんて想像もしなかった。母はそんなことは一度も話してくれなかった気がする。
「気持ちよかったでしょう」
「うん。ちょっとびっくりするくらいだった」
「ですよね」
 炒飯と餃子が美味しい店なので、その二つを頼み、あとはトリの唐揚げとイカとセロリの炒め物にする。
「隠善さんはどうして木登りに興味を持ったの?」
 大学時代に木登りのサークルに入っていたこと、木に登ると安心することなどは聞いたが肝腎のきっかけは訊きそびれていた。
「幼稚園の頃からとにかくジャングルジムが大好きで、いつもジャングルジムの一番上に登って、周りの景色を眺めていたんです。大学に入ったときに木登り研究会っていうのがあるのを知って、ためしに入会してみたら、木登りの面白さはジャングルジムどころじゃなくって」
「へぇー」
 そういえば、と遼平は思い出す。自分も幼い頃はジャングルジムが大好きだった。砂場や園庭でみんなが遊んでいる様子を、一人でジムのてっぺんに座って眺めていた。むかしから、集団行動より単独行動が好きだった。それは営業マンになった現在もさほど変わってはいないと思う。
 つくみはやせっぽちなのにとてもよく食べる。ビールもかなりのピッチでおかわりしていた。
 たんめんの客が出て行ってからは、誰も入って来なかった。貸し切りのような感じで時間が過ぎていく。料理がおおかた片づいたところで、店のおばさんがすいかを持って来てくれた。
「これ、サービスね」
 二枚の皿に大きくカットされたすいかが一つずつのっている。
「わぁ、ありがとうございます!」
 つくみが笑みを浮かべた。
 すいかに目のない遼平は近くの皿にさっそく手をのばす。
 かぶりついていると、
「はい、これもどうぞ」
 彼女が自分の皿を遼平の方へと押し出してきた。
「苦手なの?」
 すいかを持ったまま訊く。
「そうじゃないけど、松谷さん、大好物でしょう」
 初めて彼女は「松谷さん」と口にした。
「何で知ってるの?」
「だって、すっごくおいしそうに食べてるから」
「そんなふうに見えた」
「うん」
 つくみはにこにこしながら遼平を見ている。
「どうしたの? にやにやして」
 ちょっと不思議な心地になって訊ねる。
「別に何でもないですよ」
 つくみはまるで幼い子どもを見るような目つきになっていた。
 細いはずのその瞳がいつの間にかずいぶん大きくなっているのに初めて気づいた。小さな顔の中で、つくみの目はふだんの倍くらいに見開かれている。
 遼平は何度かまばたきを繰り返して、その顔を見つめ直した。まだジョッキ三杯程度しか飲んでいない。それくらいで酔っ払うはずもなかった。
 まるで猫みたいだな。
 またぞろシロのことを思い出してしまう。
 目の前のつくみと記憶の中のシロとを引き比べてみるが、人間と猫に表立っての共通点があるはずもない。
 あの朝、熱にうなされる俺を放って、シロは一体どこへ消えたのだろう?
 次の年もその次の年も、遼平は津久見の家を訪れるたびにシロが戻って来るのを待っていた。その頃の気持ちが胸の内に静かによみがえってくる。
 あれは何時くらいのことだろう。まだ夜が明けて間がない時間帯だった気がする。寝ずの看病をしていた母は隣の布団で寝息を立てていた。
 うつらうつらしていた遼平が、気配を感じて目を開けると、目の前にシロがいた。
 いつものように客間と応接間とを隔てていた襖を自力で開けてやって来たのだろう。
 シロはじっと遼平を見ていた。
 彼女のその真っ黒な瞳に間近に触れ、遼平は「シロ」とかすかに呟いた。だが、のどはすっかり涸れて言葉にはならなかった。
 じわじわと記憶が呼び覚まされてくる。
 ぷいとそっぽを向くように背中を見せ、縁側を通って庭へと駆け下りていくその直前、シロは小さく一度まばたきをした。
 遼平さん、さようなら。
 あの瞬間、シロはたしかにそう言った……。
「松谷さん」
 名前を呼ばれてはっとする。
「どうしたんですか?」
 つくみが心配げな表情になっていた。
「ごめん。ちょっとぼうっとしちゃってた」
「すみません。せっかくの休みの日にお時間を取らせてしまって」
 今度はすまなさそうな顔になった。
「そんなことないよ。迷惑をかけてしまったのはこっちだし」
 それから、つくみの分のすいかを遼平は急いで食べた。
「そろそろ出ましょうか」
 と言われて腕時計を見る。まだ七時半を回ったばかりだ。だが、いまから横浜に帰る彼女をこれ以上引き止めるのも気が引ける。
「そうだね」
 一度首を回して、遼平は椅子から立ち上がった。



 つくみは遼平の部屋に入ると、まるで点検するようにあらゆる場所を見て回った。
 友莉以外の女性をこの部屋に上げたことがなく、女性を自室に招き入れること自体、ほとんど経験がないが、それにしても、こうして洗面所、浴室、キッチン、さらに寝室まで眺めて回るのはめずらしいと思う。
「松谷さんのお部屋、見せて貰ってもいいですか?」
 中華屋を出て地下鉄の入り口に向かっていると、つくみがそう言ってきた。
「えっ」
 返事に詰まると、
「私もそろそろ実家を出たいなと考えてて、いろんな友達のお部屋を見せて貰おうって思ってるんです」
 彼女は言った。
 とはいえ、案内する間もなく勝手に歩き回り、寝室のクロゼットの扉まで開けたのにはさすがに呆れた。遼平は何も言わなかった。
 コーヒーを淹れて二人掛けのダイニングテーブルにマグカップを置く。
「隠善さん、コーヒー」
 浴室から「はーい」という声が響き、ようやくリビングに戻ってきた。促すと小さなカウンターキッチンと向かい合う側の椅子につくみは座った。
「どう、少しは参考になった?」
 遼平もカウンター側に腰掛ける。
「とっても気に入りました」
 つくみはマグカップを手にして笑みを浮かべた。
「都内で探してるの?」
「はい」
 つくみは頷き、
「私、ここに住んでもいいですか?」
 と言った。
「えっ」
 遼平はまた返事に詰まり、自分が勘違いしていることにすぐに気づく。
「どうかなあ。空室があればいいんだけど。このマンション、案外人気があるみたいなんだよね」
 しかし、アルバイトの身の上でとてもここの家賃は支払えないのではないか。
「そうじゃなくって、この部屋に住みたいんですけど」
「は」
 遼平は唖然とする。
「だけど、僕はまだ引越しする気はないよ」
「だからそうじゃなくって」
 彼女は苦笑しながら、
「松谷さんと一緒に住むんですよ。このお部屋なら二人で全然大丈夫だと思います」
 と言った。
「さっき一人暮らしをしたいから参考に部屋を見せて欲しいって言ってたじゃない」
 混乱した頭で何とか言葉をひねり出す。この人は俺をからかっているのだろうか?
「一人暮らしがしたいなんて言ってませんよ」
 当たり前の顔と口振りだった。
「そろそろ実家を出たいって言ったんです」
「だけど、いろんな友達の部屋を見せて貰ってるって……」
「気に入った部屋があればと思ってるだけです。それに、本当に見せて貰ったのはこのお部屋が最初ですから」
 つくみはそこでコーヒーを一口すする。
「だめですか? 私と一緒に暮らすの」
 真っ直ぐに遼平の顔を見つめてくる。その瞳はますます大きく見開かれて、いままで知っているつくみの顔とはまるで別人と言ってもいいくらいだ。
 大きな瞳に身体ごと吸い込まれそうな気がした。
 頭の中では、スカートのまま木に登っていった彼女の白い生足や小さな尻がちらついていた。さらには、杉下の身体に残っていたあの無残な爪痕が思い出されてくる。
 俺の背中にもああしてこの人は鋭い爪を立てるのだろうか?
 想像するだけでぞくぞくしてきた。
「いいですよね、松谷さん」
 当然のような口調で念押しをしてくる。どうしたの、隠善さん、酔っ払ってるの? とはぐらかすことがどうしてもできない。
 これは最初から決まっていたことなんだ。この人とはこれが最初なんかじゃないんだ、という思いが胸に押し寄せてくる。一ヵ月余り前の直感はやはり正しかったのか。
「じゃあ……」
 気づくと声が出ていた。
「今夜から一緒に暮らそうか」
 遼平は言った。
 コーヒーを飲み終えると、ふたたび外に出た。清洲橋を渡って浜町まで二人で歩く。橋の途中でつくみが「わーっ」と叫んで立ち止まった。右手にライトアップされた巨大な東京スカイツリーが見通せた。隅田川にかかるこの清洲橋とその先の新大橋からの景観は「新東京百景」に数えられている。
 浜町にある深夜営業のスーパーでとりあえず必要なものを買いそろえた。歯ブラシや洗面用具、下着、着替え、スニーカー、スウェットなどなど。
「いきなり外泊なんてして平気なの?」
 訊ねると、
「さあ……」
 つくみは曖昧になる。
「明日、昼間に一度帰って、両親にちゃんと話してきます。取ってきたい荷物もあるから」
「そう……」
 今度は遼平が曖昧に頷く。そういえば彼女の家が横浜のどこにあるのかも、両親が何をしているのかも知らなかった。
 セックスの最中にチャイムが鳴った。
 熱中していたために遼平はしばらく気づかなかった。隣の部屋のチャイムだろうと思っていたのだ。下にいたつくみが喘ぎ声を止めて身体を硬くした。
 鳴っているのはこの部屋のチャイムだと初めて知った。こんな真夜中にオートロックを解除して玄関ドアの前まで来ることのできる人物はたった一人だ。
 物音を立てず気配を殺して不在だと思わせるしかない。
 さいわい、三度目の交わりに入る前に部屋の明かりは全部消していた。
 だが、案の定、友莉は引き返さずに鍵穴に合鍵を入れる。午前二時くらいか。遼平が寝入っていると思っているのだ。いつも黙って部屋に上がり、ベッドの隣にすべりこんでくる。朝は先に起きて、そういう日は必ず美味しい朝食を準備してくれた。
 ふだん眠る際は閉じているリビングと寝室とを隔てる間仕切りが、今夜は開けっ放しだった。
 もはや万事休す。覚悟を決める以外になかった。
 廊下の明かりが灯り、レジ袋を揺らしながら友莉が近づいてくる。
 遼平は全裸の半身を起こした。つくみも身体を起こして、彼にしがみつく。
 リビングのドアが開いて、ジーンズ姿の友莉が現われる。背後の明かりにベッド上で抱き合う遼平たちの姿が彼女にははっきりと見えるはずだ。
 提げていたレジ袋が手から離れて落ちた。ガラス瓶か何かが床に当たる鈍い音が響く。
 友莉が口を押さえて、じっとこちらを見ている。三秒くらいだったか。
 踵を返して、よろけるようにして部屋を出て行った。
 あんなふうに人の顔が歪むのを遼平は初めて見た。
 ベッドから降りようとすると、もの凄い力で引き止められた。びっくりしてつくみの方を見やる。
「行っちゃ駄目!」
 鋭い口調だった。
「あの人は絶対に大丈夫」
 確信の籠った声。その瞳は見開かれ、しかも、らんらんと光っていた。

10

 三日後の六月二日日曜日。
 明け方までつくみと交わり、ようやく寝入ったところで携帯が鳴った。慌てて出てみると弟の耕平からだった。彼と話をするのは半年ぶりくらいだ。
「兄貴、今日、顔貸してくれよ」
 のっけから凄味のある声で彼は言った。友莉のことだろうと察しはついた。
「いいよ」
 答えると、
「じゃあ、夕方五時に清澄公園の入り口で待ってるから」
 そう言って一方的に電話は切れた。
 五時に清澄公園か、とひとりごちる。隣でかすかな寝息を立てているつくみとこんなふうになったのも、その時間にあの公園で待ち合わせたせいだった。
 友莉からはあれ以来、何の連絡もない。遼平の方ももはや何一つ言い訳も申し開きも立たない状況だ。次に友莉と会うときは正式に別れ話を切り出すほかはなかった。
 ものごころついた頃から深く付き合ってきた友莉とこれほどに残酷な形で別れるなんて、そんなことが果たして許されるものなのだろうか?
 友莉の歪んだ顔を思い浮かべるたびに遼平の胸は苦しくなってくる。
 いまとなっては、「あの人は絶対に大丈夫」というつくみの一言が唯一の支えと言っても過言ではなかった。
 耕平がどんな話を持ってくるにしろ、友莉と直に対峙せずにすむだけありがたいくらいだ。
 五時きっかりに清澄公園の入り口に着いたが、耕平の姿はなかった。
 入り口のベンチに座って、園内を見回す。先日、つくみと一緒に登ったクスノキを探したが遠目にはどの木だったのか判別がつかなかった。
 十五分ほどして、ダークグレーのスーツに身を固めた耕平が芝生広場の方から近づいてくるのが見えた。
 半年見ないうちにまた少し痩せたようだ。醸し出す雰囲気にますます鋭さが加わっている。クスリでもやっているんじゃないか、と遼平はひそかに疑っている。
 向こうも遼平の姿を認めた。さんざん待たせたというのに早足にもならない。
 ズボンのポケットに突っ込んでいた両手を耕平は抜き、ゆっくりとベンチまで近寄ってくる。遼平は立ち上がって、軽く手をあげた。
 その瞬間、耕平が十メートルほどの間合いをダッシュで詰めて来た。目の前に彼の顔を認めたときには、烈しい衝撃が左頬を襲っていた。
 一瞬、意識が遠のき、遼平はその場に倒れ込みそうになった。かろうじてベンチの背に手をかけて転倒を防ぐ。持ち直すことはむずかしく、何とかベンチに身を投げ出すのが精一杯だった。
 めまいと痛み、顔面の裏側を焼けた鉄球が這い回るような気色悪い感覚。口からは呻きがひとりでに洩れてくる。
 頬を手で押さえながら上目づかいに耕平を見ると、ちょうど煙草に火をつけているところだった。一口吸って、薄曇りの空に向かって煙を吐き出している。
 五分ほどで痛みとめまいはだいぶおさまってきた。左の頬骨のあたりがジンジンしている。もうしばらくすると腫れ上がってくるだろう。
 耕平が吸い終わるまで待った。吸い殻を携帯灰皿に捨てて、上着のポケットにしまうのを見届け、
「友莉に聞いたのか?」
 自分から口を開いた。
「ああ」
 耕平が頷く。近くで見るとやはり痩せている。ただ、顔色は半年前に会ったときよりもむしろ元気そうだった。
 耕平がベンチの隣に腰を下ろした。
「行きずりの女なんかじゃないんだろ」
 前を向いたまま、ぼそりと言う。
「ああ」
「友莉ネェとはもう絶対に無理か?」
「そうだな」
「ひでぇな」
「すまん」
「こういうときは堅気の方がよっぽどひでぇよ」
 遼平には返す言葉がなかった。
「友莉ネェは頑張って店に出てるし、泣いてもいないよ。あの人は誰より兄貴のことが分かってる人だから」
 その言葉に心底ほっとする。耕平にはこういう優しさが子供の頃からある。
 亡くなった母は、「耕ちゃんは本当に優しい子だから、人に騙されないようにしないと」とよく口にしていた。
「その人と一緒になる気なの?」
「そうなるだろうな」
「どこの誰よ?」
「会社のバイトの子」
「いつから?」
「友莉にバレた晩からだよ」
「友莉ネェを袖にするほどの女なのか?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
 そこで耕平の声が波立つ。
「むかしからの知り合いのような気がするんだ」
「誰が?」
「その子が」
「むかしからっていつよ?」
「小さい頃。まだお前が生まれる前だよ」
「何だよ、それ」
「俺のことをずっと待っててくれた人だと思う」
 耕平はふーんと言ってしばらく無言だった。
「津久見のおじいちゃんちのこと、お前、憶えてるか?」
 母が亡くなったとき耕平はたしか小四だった。
「当たり前だろ」
「そうか……」
 自分は何を言いたいんだろう、と思う。まさか、つくみがシロの生まれ変わりのような気がするなんて口にできるわけもない。そもそもシロの存在すら耕平は知らないのだ。
「じいちゃんちで会った人なのか?」
 察して耕平が訊いてくる。
「まさか」
「だよな」
「善弥さんって憶えているか?」
 はぐらかす気分もあってそう言った。
「ああ。いっつも遊んでくれた。忘れられない人だ」
「善弥さんと関係ある人なの?」
「いや、全然」
 そこでまた二人はしばし沈黙した。
「そういえばさ……」
 ふいに耕平がこっちを向いた。思わず、遼平も弟の顔を見る。
「善弥さんが死ぬ前に不思議なこと言ってた」
 耕平がぽつりと言う。
 死ぬ前に? 遼平には言葉の意味が掴めない。
「お前、善弥さんが死ぬ前に会ったのか?」
「会ったよ」
 事もなげに返してくる。
「何で?」
「何でって、がんで大分の病院に入院していて、もう助からないって聞いたからだよ」
「誰に?」
「親父も兄貴も言ってたじゃん。暁美おばちゃんから電話があったって」
 暁美叔母は母の妹だった。
「じゃあ、お前、一人で大分に行ったのか?」
「そうだよ」
「学校は?」
 そう訊いて、あっと思う。
 善弥さんが亡くなったのは大学四年の冬だった。とすれば耕平は高三。夏にバイク事故で足を怪我して、以来、学校にも出なくなり、それどころか家を飛び出して友だち宅を泊まり歩いていた。たまに戻って来た折に善弥さんの件を聞きつけたに違いない。
「善弥さん、あんな福助顔だったのがガリガリに痩せててさ、見る影もなかったよ」
「そうだったのか」
 善弥さんは耕平のこともえらく可愛がってくれていた。
「不思議なことって何だよ」
 話を元に戻す。
「兄貴、俺が生まれたばかりの頃に、肺炎で一度死にかけただろ」
「ああ」
 そのことは父や母がしょっちゅう語っていたので、耕平もよく知っている。年々歳々、話が大袈裟になって、いつの間にか「奇跡的に助かった」という筋書きに変わっていた。もっとも小さかった遼平に正確な記憶はないから、両親の言葉の方が実際に近かったのかもしれない。
「死にかけた兄貴を救ったのは、シロっていう名前の猫なんだってさ」
「えっ」
 耕平の口から「シロ」の名前が出て、遼平は息を呑む。
「兄貴、そのシロのことって憶えてる?」
「もちろん」
 肯く声がかすれていた。
「ヘンな話だよな。ま、あの善弥さんなら言いそうなことだったけど」
 耕平は懐かしそうに笑みを浮かべる。
「そのシロって猫は、兄貴のいのちを助けるために井戸に身を投げたそうだよ」
 あのシロが井戸に……。
 あまりに異様な話に理解が追いついていかない。
 ただ、その一方で、すとんと腑に落ちた感じもあった。だからシロは二度と自分の前に姿を見せなかったのだ。
「三日三晩高熱がつづいたあと、兄貴、その井戸で冷やしたすいかの汁を飲んであっという間に熱が下がったらしいね。シロが井戸に身を投げて自分のいのちを兄貴に与えたからだって善弥さんは言ってた。不意にいなくなったシロを捜し回って、井戸を覗いてみたらシロの死骸が浮いていたそうだよ。それで慌てて掬い上げて、手厚く葬ったんだって。そんなことを兄貴が知ったらどれだけ悲しむか知れないからずっと黙っていたけど、死ぬ前に俺に言い残しておくから、時期が来たら兄貴に伝えてくれって頼まれたんだ。そしたら死んだシロもきっと浮かばれるだろうからって……」

11

 懇意の設計事務所の人たちとの飲み会が終わり、小田と共に社に戻ろうと表参道でタクシー待ちをしているところに堀切愛美から電話が入った。
 まだ十時を回ったくらいで、声の調子も落ち着いている。いつものヒステリーではなさそうだと思いながら、遼平ひとりで三田のマンションに向かうことにした。愛美の電話は「すぐに来てちょうだい」というだけで理由は一切口にしない。いかなる場合、いかなる用件であったとしても駆けつけるのが当然だと思っているのだ。彼女はそうやって自らへの忠誠心を常に量ってくる。誰のことも信用していないし、誰のことも信ずることができない。そういう点では非常に孤独でさみしい人だった。
 遼平は仕事柄、数多の資産家、大金持ちを見てきたが、多かれ少なかれ全員が堀切愛美と同じような資質、身の上の持ち主だった。有り余るカネの強力なパワーに彼らの人生は翻弄されつづけている。
 札の辻の交差点から品川寄りにしばらく行ったところに堀切愛美の住むマンションがある。地上四十二階建ての超高層ビルで、三十二階から上が住居となっていた。
 愛美の部屋は最上階四十二階の角部屋で、ベッドルーム三つに四十畳のリビングがついた二百平米を超える広さだった。家賃は月額百万円を軽く超えているだろう。
 レジデンス用の玄関をくぐって受付台に行く。そこで面会票に氏名や訪問先を記してコンシェルジュに渡すと、彼がその場で愛美の部屋に連絡してくれる。
「了解いたしました」
 と言ってコンシェルジュが受話器を戻す。エレベーター用のカードキーを渡されて遼平はエレベーターホールへとつながるドアをくぐった。
 玄関のチャイムを押すと、すぐにドアが開いた。
「お久しぶりです」
 顔を見せたのは愛美ではなく、バスローブ姿の大和タケルだった。
「来てたの?」
「はい」
 以前はよくこうして一緒にいるところに呼び出されたが、ここ一年くらいはそんなこともなくなっていた。愛美がタケルに対して疑いの目を向けるようになったのはその頃からだった気がする。
 広いリビングに通される。全面絨毯敷きで、北と東の壁はガラス張りになっていた。きらめくような東京の夜景が広がっている。北の窓からはライトアップされた東京タワーの姿がまさに手が届くかのような近さで見えた。
 白い革張りのソファに座る。L字型のソファセットは東側が六人掛け、東京タワーを背負う側には一人掛けのソファが二つ配置され、毛足の長い白いラグが足元に敷かれていた。
 いつものように遼平が一人掛けの方を選び、タケルは六人掛けの真ん中あたりに座った。
 一年ぶりにまた例のショーを見せつけられるのかと思うと、いささかうんざりする。
「すみません。わざわざ来ていただいて」
 タケルが言う。
「別に構わないけど」
 それからしばし二人とも黙っていた。愛美が現われないところをみると、タケルの方にあらためて何か話があるのかもしれない。
「話は日曜日に耕平から聞いたよ」
 とりあえず遼平は切り出した。
「あいつにも言っておいたけど、理事長を説得するなんてとても不可能だよ。俺にそんな力なんてこれっぽっちもない。きみには重々恩義を感じているんだが、それはそれとして、無理なものは無理なんだ。本当に申し訳ない」
 タケルに向かって頭を下げる。
 清澄公園で会ったとき、別れ際に耕平から、
「正太が足を洗いたがってるんだ。あいつ、好きな女ができたみたいでさ。そいつと一緒になるつもりらしいんだよ。困ってるのが、例のおばさんでさ、急に切ったら何をするか分からないってマジで心配してるんだ。兄貴の方から、うまいぐあいにおばさんを説得して欲しいみたいなんだ。何とかしてやってくんないかな。俺からも頼むよ」
 と言われていた。正太というのはタケルのことだった。彼の本名は由良正太という。
「耕平から聞きました。あいつが勝手に気を回してくれただけですから、どうか気にしないで下さい」
 タケルはあっさりと言う。
 何だ、その件ではないのかと遼平はやや肩透かしを食らった感じになった。
 リビングのドアがゆっくりと開いて、堀切愛美が入ってきた。
 ふだんはTバックの下着くらいは身に着けているのだが、今夜は、膝上までの黒網のストッキングを除けば正真正銘の全裸だった。両手と両足を絨毯の床につけて四つん這いの姿勢で近づいてくる。
 太い首には赤い首輪を巻き、首輪のリングからは緑色のリードを垂らしている。口には、これはいつも同様にボールギャグを咥えさせられ、両方の乳首には金色の大きなニップルリングがぶら下がっていた。
 タケルの膝元まで這って来ると、リードの先端を捧げ持って中腰になる。タケルはそのリードを受け取り、無造作に手繰り寄せた。愛美はつんのめるようにしてタケルの足元にひざまずいた。
 タケルは唾液で濡れそぼったギャグを外し、両手で彼女の頭をラグに押しつけると、容赦なく右足でその顔を踏みつける。
 愛美の口から小さな呻きが洩れた。左の足を口元まで寄せると、愛美は顔を踏みつけられたまま赤い舌をのばして、ぺろぺろとタケルの爪先を舐め始めた。
「今日、遼平さんに来て貰ったのは、俺のことじゃなくて耕平のことなんです」
 平然とした顔と口調でタケルは言った。
「耕平がどうかしたんですか」
「ええ」
 タケルは頷く。
 そして、愛美の口から足の指を離すと、その左足で彼女の肩先を蹴飛ばした。ぎゃっという声を上げて彼女がタケルのそばを離れる。
 タケルは右手を振って「シッ」と鋭い声を発する。
 愛美は弾かれたように立ち上がり、また四つん這いになってリビングのドアへと向かった。巨大な尻が遼平の目の前を通過する。
 愛美が部屋を出て行ったのを確認して、
「耕平は友莉ネェのことがずっと好きだったんですよ」
 タケルが言った。
「遼平さん、気づいてました?」
「まさか」
「やっぱり気づいてなかったんですね」
 タケルが苦笑いを浮かべる。
「それで、あいつ、めちゃ混乱しちゃってて」
「混乱?」
「そりゃそうでしょう。小さいときからずっと好きだったおんなが、一目も二目も置いてる兄貴の恋人で、そしたら、その彼女が兄貴に捨てられて泣いてるんですもん。耕平じゃなくたってどうしていいか分かんなくなりますよ」
 耕平が友莉に思いを寄せているなんて遼平は想像したこともなかった。タケルに指摘されてもおよそ現実味が感じられない。
「それ、本当の話?」
 真顔で訊ねた。
「本当ですよ。あいつが家に寄りつかなくなったのも、もとはといえばそれですから。あいつは心の根っこが信じられないくらい優しいんで、そうやって身を引くしかなかったんだと思いますよ。俺とか遼平さんとは人間のできが違いますから」
 タケルは皮肉めいた口調で言う。
「それで、俺にどうすればいいって言うの?」
「別にどうこうってことじゃないんです。ただ、そのことを遼平さんにちゃんと知っておいて欲しいと俺が勝手に考えたもんで」
「そうか」
 呟くように言う。
「タケル君はどうなの? 耕平が言ってた話って本当なの?」
 遼平はタケルの顔を見据えた。
「さあ、どうなんだろうな」
 そこでタケルは身体を伸ばして、ソファの肘掛に置いてある呼び出しベルを鳴らした。
 リーンと澄んだ高い音が部屋中に響く。
 ふたたびドアを開けて、愛美が入ってくる。
 タケルがバスローブの前をはだける。太ももの付け根に長々とした黒いペニスが垂れ下がっていた。
 這い寄ってきた愛美がひざまずき、そのペニスをくわえた。
「こいつもかわいそうな女なんですよね」
 愛美の頭をやさしく撫でつけながらタケルが言った。
 それから十五分ほど二人の行為を見物させられたあと、遼平はマンションを出た。
 腕時計を見ると、時刻は十一時を過ぎたあたりだった。
 来たときとは逆方向、第一京浜を地下鉄三田駅に向かって歩く。
 風は止み、湿気を含んだあたたかな空気が肌にまとわりついてくる。東京ももうすぐ梅雨入りだろう。
 この時間帯でも車はひっきりなしに行き交っている。だが、ビルが立て込む界隈に人通りは少ない。四十二階からだとあんなに間近に見えた東京タワーも地上に降りればどの方角かさえ分からなかった。
 そうか、耕平のやつ、友莉のことが好きだったのか……。
 胸の中で呟いてみた。たしかに耕平は友莉に懐いていたし、友莉も二歳下の彼を弟のように可愛がってはいた。高校を出てからは父や兄に反発して、何を言ってもきかないふうになってしまったが、どういうわけか友莉があいだに入ると素直な一面を見せた。それもこれも友莉に対する深い思いのゆえだったのだろうか?
 言われてみればなるほどそういう気がしないでもない。
 タケルは耕平が「めちゃ混乱」していると言っていた。抑えつけてきた友莉への思慕が一気に噴き出して心の統制が利かないということか。それならそれで友莉に真正面からぶつかっていくしかないだろう。
 いまとなって遼平にできるのは、きれいに別れることだけだった。せっかく隠善つくみが気に入ってくれた部屋だが、早々に引き払うしかあるまい。幾らなんでもあの場所は友莉の家や「清兵衛」と近すぎる。
 遼平はため息を一つついた。
 ああやってタケルの玩具にされることで堀切愛美は束の間の安心を得ている。一方、タケルはタケルで肉体をいためつけるホスト稼業から足を洗って、まともな結婚をしたいと望みながらも愛美の求めに応じて自らの性を提供しつづけている。
 初めて二人の行為を見せつけられたときから、遼平はそれほどの嫌悪感を抱かなかった。今夜久々に痴態を眺め、そのグロテスクさに辟易する気持ちはあるものの、やっぱり不快な感じはあまりしなかった。
 タケルも愛美も、この苦しいばかりの世界で必死に生きているのだと思う。
 人間は互いに苦しみを与え、与えられながら死を迎えるまでの長くもあり、短くもある己が人生をただひたすらに生きていく。単にそれだけのことなのだ。
 四十二階の豪華な部屋から睥睨するように眺める地上の景色よりも、先だって、隠善つくみに導かれるようにして登った清澄公園のクスノキから見下ろした風景の方がずっとずっと心に迫って来るものがあった。あの風景には人々の営みの匂いがしみ込んでいたような気がする。遥か高みからの俯瞰図には、その人間らしさが決定的に欠けている。
 ここ数日、遼平の意識を占めているのは、耕平から聞いた善弥さんの遺言のような言葉だった。
 ――こうへいちゃん、いつか、こんことば、りょうちゃんに知らせてほしか。そしたら死んだシロやってきっと浮かばれるに違いないけんね。
 善弥さんはあの舌足らずな口ぶりできっとそんなふうに言ったのだろう。
 熱が下がって数日後、やっと床上げして縁側で日向ぼっこしながら、母が持って来たすいかを善弥さんと一緒に食べた。
「このすいかは魔法のすいかや。どんどん食べりぃ」
 あのとき善弥さんがどうしてぽろぽろ涙を流したのか、その理由がようやく分かった気がする。
 シロはなぜ俺なんかのためにいのちを投げ出してくれたのだろう?
 幾ら考えても答えなど出るはずがない。
 言えることは一つだけだった。
 シロにとっては遼平のいのちの方が自分のいのちよりも大切だったのだ。

12

 タケルと会った週の土曜日、横浜のつくみの実家に結婚の挨拶に行った。
 両親は相当に面食らっていたが、強く反対したりはしなかった。
 翌日の日曜日、二人で区役所に出かけて婚姻届を提出してきた。
 十日からの週は、つくみが一人で不動産屋を巡った。横浜の磯子区内で幾つかめぼしい物件を見つけてきたので、十五日、十六日の土日にそれらを見て回って新居を決めた。つくみの実家が同じ磯子区にあった。
 上海の父には事後報告のメールを打った。
「びっくり仰天したぞ」
 という電話がかかってきたが、
「いい人なのか?」
 と訊くので、
「すごく」
 と答えると、
「だったらよかったな」
 そう言って、あとは耕平の話をひとしきりして父の方から電話を切った。友莉のことや板倉の人たちについて彼は一言も触れなかった。
 新居は小さな公園のすぐそばで、公園には大きなクスノキが一本立っていた。
 というよりも、そこに決めたのは内覧のとき、ベランダ越しにそのクスノキを見つけたからだった。
「今度、登ってみようか」
 遼平が誘うと、
「もう登ったよ」
 つくみが言った。
「いつ?」
「一人で外観を見に来たとき」
「そうなんだ……」
 幾分がっかりした声だったのだろう。
「見てるだけでいいじゃない」
 つくみはなぐさめるような口調になり、
「こうしてやっと一緒になれたんだから」
 小さな笑みを浮かべたのだった。

 

(「小説推理」9月号〔7月27日発売〕につづく)