「藪てつこさん、ですね」
目の前に座る薄汚い男が言った。
「あきこ」
藪哲子は即座に訂正した。
「失敬。ルビを振ってくれたらいいのに。警察官の名刺はそうはいかないか」
男は合皮が剥がれかけたバッグからICレコーダーを出し、動作確認する。ここは新宿の路地裏の喫茶店内だ。ランチ客が引いて客もまばらになりはじめていた。
「藪さんはいかにも雰囲気が『てつこ』っぽいですよ。なんていうの。鉄の女」
それはイギリスのサッチャー元首相だ。
「見た目もお美しい。身長は僕より高いんじゃないですか。おめめもキリッとしている。さすが警視庁初の女性マル暴刑事ですね」
「それ、男にも言うの?」
「えっ」
「おめめって。男のマル暴刑事にも言うのか。あなたのおめめは鋭いですねって。私が女だから言うんだよね」
藪はまあいいやと手を振った。この手の反論を二十年やってきている。飽きた。手のひらを出す。
「例のもの。早く見せて」
「まあそう焦らずに」
男はICレコーダーのスイッチをオンにした。彼はアングラ雑誌によく投稿するフリーの記者だ。数多の暴力団員のインタビュー記事やノンフィクション、写真集まで出している。
「いよいよ今日ですね」
「そう。今日なんだよ。忙しいから早く」
「もうちょっと雑談させてください。本日、四課消滅の日を迎え――」
「消滅じゃない。名前を変えて再出発するだけ」
「組織は大幅縮小でしょう。三課と四課がいっしょくたにされるなんて」
藪は警視庁組織犯罪対策部に所属している。暴力団や半グレ、海外マフィアなどの、反社会的勢力が起こす事案を担当する部署だ。
昨日まで組織犯罪対策部は六つの課に分かれていた。
一課と二課は不良外国人犯罪、三課は暴力団の規制や排除などの行政手続きを担当してきた。五課は薬物と銃器の取り締まりをしている。
藪が所属する四課は、暴力団員が絡む事案なら殺人だろうが薬物銃器の密輸だろうが万引きだろうが、なんでも担当する部署だ。
他の課は『罪』を捜査する。
四課は『人』を捜査する。
かつて組織犯罪対策部は、刑事部の一つで捜査四課と呼ばれていた。この『四課』のブランドを継ぐマル暴捜査の本丸として、『組織犯罪対策四課』は暴力団の脅威から東京の治安を守ってきた。
今日、二〇二二年四月一日から、三課と四課が統合されて『暴力団対策課』が発足した。一般市民に名前がわかりやすくなっただけなのだが、二つの課が統合したことで、縮小と見る人もいる。
一九九二年の暴力団対策法施行以降、暴力団組織は年々減って現在の暴力団構成員および準構成員は二万五千人を切っている。二〇一一年に全国の都道府県で施行が完了した暴力団排除条例がとどめだった。暴力団と利益関係があれば一般人でも処罰の対象となる。暴力団員と認定されたら銀行口座も作れず、家を借りることもできないし、ローンを組むこともできない。出入りできない飲食店や施設は数多に及ぶ。一般人と偽って入店すれば詐欺罪で逮捕される。
日本国民の中でこれほどまでに人権を奪われている存在は、他にいない。シノギは先細り、食うに困った暴力団員は足を洗いカタギになっている。
「マル暴刑事としての本音を聞かせてくださいよ、藪さん」
記者が身を乗り出した。
「暴力団員が激減して抗争もなくなり、四課ブランドも消滅したいま、マル暴刑事の存在意義が問われていると思うんですよね」
――藪は目をひん剥いて記者を睨んだ。
「正直なところ、抗争のひとつでも起こってくれた方が助かるんじゃないですか?」
テーブルに拳を振り下ろした。
「抗争なんかない方がいいに決まっている! これまで何人の一般人が抗争に巻き込まれて死んだと思ってんの!」
まばらに座るテーブル客たちが、一斉に藪を振り返る。構わない。
「だいたいね、マル暴刑事の日常業務は抗争の後始末じゃない。暴力団の内偵なの! 二十四時間三百六十五日、担当組織に張り付いて、犯罪の動きがないか監視している。事件が起こったら監視を一旦中止して捜査にいかなきゃならない」
しかも暴力団への締め付けが厳しくなりすぎて、組織はどんどん地下に潜っている。犯罪も暴力も見せてなんぼ、見られてなんぼの暴力団が、最近はマフィア化して巧妙に犯罪を隠すようになった。
「四課は暇じゃないし存在意義もある。これまで以上に!」
藪は椅子から立ち上がった。
「具体的に、なにか起こりそうな火種があるってことですね」
知っているくせに、記者がけしかけてくる。
「日本最大の暴力団、吉竹組」
警察に、マル暴に言わせたいのだ。藪はお望みを叶えてやる。
「分裂して一年が経った。本格的な抗争が始まるとしたら、そろそろだ」
地下鉄半蔵門線に乗り、曳舟駅で下車した。東京スカイツリーに見下ろされながら、駅前の喧騒を抜ける。雑居ビルやマンション、昔ながらの住宅が入り乱れる地域だ。隅田川沿いを走る首都高速道路の高架陸橋を横目に、玉虫色のタイルで装飾された『立山ビル』に入った。築五十年近い五階建て雑居ビルだ。
一階には豆腐店が入っていたが、潰れた。潰した当人がこのビルのオーナーだ。警視庁に快く監視拠点を提供してくれた。藪は最上階までエレベーターで上がった。非常階段から屋上に出る。
貯水タンクの向こうから、冷たい風が吹きつける。隅田川がゆったりと流れ、その向こうに浅草の下町が見える。隅田川を背にして、藪は西側の隅っこに置かれた物置小屋の前に立つ。周囲に人の目、尾行の気配がないことを確認し、鍵を開けて中に入った。
「遅いっすよー!」
部下が口を尖らせる。四・五畳しかない物置小屋の壁に向かってあぐらをかいていた。物置小屋の壁にあけた穴に望遠レンズをはめ込んでいる。
「うわ、くっせぇこの部屋」
藪は消臭スプレーを撒き、ついでに後輩刑事の頭にもふりかけた。「やめてくださいよもう」と仲野賢治が咳き込む。藪の相棒だ。三十五歳になる。立派に加齢臭がしてきた。
「新妻に嫌われちゃうわよー。まだ二十八だっけ」
「だから早く交代に戻ってって言ったんすよ。三時に待ち合わせしていたのに。奥さん待ちくたびれてますよ」
賢治はもう帰り支度だ。
「シャネルの香水の新作が今日発売なんです。買ってやろうと思って」
藪は傍らに積みあがった段ボール箱から缶コーヒーを出し、望遠鏡の前にあぐらをかいた。
「また愛人に貢物?」
「だから、愛人じゃなくて、愛妻です」
賢治は結婚して三年だ。デパ地下グルメだのブランド物だの花束だの、記念日でもないのに妻に貢ぐ。天然記念物だと藪は思っている。
賢治が革靴を履きながら報告をあげる。
「向島は今日も十時に事務所に入っています。スーツを着ていたんで、人を迎えるか人に会いに行くかってところですかね」
藪は望遠レンズをのぞいた。
立山ビルの屋上からは、一軒家を挟んで北隣にあるベージュ色の五右衛門ビルがよく見える。この六階にある606号室は表札が出ていないが、向島一家という独立系暴力団の事務所だ。二代目総長の向島春刀を筆頭に、構成員が八十人いる指定暴力団だ。
この道二十年の藪が、いま、最も警戒する暴力団でもある。
「抗争を防ぐためにマル暴は不眠不休で監視しているんだっつーの、あのバカ記者め」
そういえばと靴ベラを持った賢治が顔を上げる。
「例の画像。手に入ったんですか」
「あ」
忘れていた。向島春刀の背中に入った刺青の情報を探っていたのだ。あの記者から提供してもらう予定だった。
向島春刀は推定四十六歳の暴力団組長で、左腕がない。暴力団員の指詰めはよくあるが、腕一本落としている組員は、藪が知る限り向島のみだ。なぜ腕を落とすに至ったのかの事情も不明だった。
向島一家そのものは戦後の下町で誕生した博徒系の暴力団だ。向島は二十歳で盃を交わして正式に構成員となり、先代と養子縁組して向島春刀と名乗るようになった。
この向島が、吉竹組の分裂抗争の鍵を握っている。
向島は盃を交わすまでの経歴が全くわかっていない。無戸籍児でもあり、出生も謎に包まれている。藪は向島の素性を暴くべく情報を集めていた。
犯人蔵匿罪で向島が服役していた甲府刑務所の刑務官から、向島が背中に彫っている特異な刺青の情報を掴んだ。彫師を片っ端からあたっていったところ、向島の刺青の写真を持っているというアングラ系記者に行きついたのだ。
賢治が、「そんなこったろうと思った」とスマホを出す。
「記者からメールもらってます」
賢治がスマホを藪に突き出した。頼りになる部下だ。
それにしてもまどろっこしい、と賢治はため息をついた。
「組員の刺青なんて、ひと昔前のマル暴なら、件の組員と一緒に飲みに行って、〝ちょっと背中見せてくれよ〟って言うだけで済んだ話ですよ。もしくは別件で逮捕して〝ワレはどこの生まれじゃコラ〟と迫るかね」
「ヤクザ映画の見過ぎ」
藪は釘を刺し、ライターから届いたメールの添付画像を開いた。背筋が粟立つ。
「なにこの刺青」
血みどろの浮世絵だった。上半身裸のちょんまげの男の傍らに、刃渡り五十センチはありそうな刀が畳に突き刺さっている。ヤクザの刺青といえば桜吹雪や昇り竜、虎や鯉などが人気だ。人物が描かれているものだと水門破りの竜五郎が多い。
「こんな残虐な刺青は初めて見た」
向島の広い背中にいるちょんまげの男は、血塗れの人間の上半身を足で踏み潰し、顔面の皮を素手で剥いでいた。血塗れの男は頭皮までも剥ぎ取られたのか、毛髪がない。まん丸の目玉を剥いて悶絶している。
「調べました。月岡芳年の『英名二十八衆句』のうちの一枚、『直助権兵衛』と呼ばれる浮世絵ですね」
直助権兵衛は江戸時代中期の凶悪犯罪者だ。横領や窃盗、一家惨殺事件を起こした末に、市中引き回しの刑を受けて鈴ヶ森で磔の刑にされた。稀代の極悪人として、歌舞伎や狂言に登場する。
「直助権兵衛を背負うのもどうかと思うのに、人を惨殺して顔面の皮を剥いでいる絵なんか、背中に彫ろうと思うかね」
タトゥーなどは、酔った勢いとか、若気の至りで入れてしまう人もいるが、背中をキャンバスにした刺青となると、筋彫りだけで一年、色を入れるのに二、三年はかかる。
「向島春刀。よほど残忍な奴なんじゃないですか」
「桜の血族」は全3回で連日公開予定