第8回『百人組頭仁義』

 

最新第11巻からの迷場面は、秀吉の惣無事令に揺れる徳川家内で、またまた家康の御前に呼び出されたところから。さすがに警戒する茂兵衛だが、今度はどんな難題命じられるのか? 茂兵衛きりきり舞い第3弾。

 

 翌日、茂兵衛は家康の書院に呼び出された。
「ようきたな茂兵衛。どうじゃ、百人組の指揮には慣れたか?」
 家康は、満面の笑みで茂兵衛を迎えてくれた。
(おいおいおい。殿様のこの恵比寿顔は危ねェぞ。何ぞ厄介事を押し付ける魂胆と見たが……ま、今さらどうしようもねェか、宮仕えの辛いところだ)
 諦観とともに、とりあえずは、主人の出方を見ることにした。
「もうそろそろ一年か、早いものだのう」
 鉄砲百人組を率いて一年と少しが経つ。この間、大きな戦がなかったのは幸いだった。毎日走らせ、声を上げさせて鍛えに鍛えた結果、少しは鉄砲隊の体裁を成してきたようだ。新米の寄騎や小頭たちも、相応の指揮経験を積んでいる。
ただ、なにせ大所帯だ。茂兵衛自身、まだ三百人全員の顔と名前を掌握しきれていない。もう少し、時間が欲しいのが本音だ。
「お陰を持ちましてそこそこには……ただ、このところ実戦がなく、本物の戦場を体験させてやれていないのが、少々気がかりにございまする」
 矛盾することを喋っている自覚はあった。戦が無かったので、その間に鍛錬を積み成長できたと言い、一方で、戦が無かったので成長が足りないと言っている。ま、どちらも本当のことだ。
「ほう。やはり戦場は人を育てるか?」
「御意ッ。生き死にの狭間に身を置くことで、どことなく人ができて参ります。腹が据わって参りまする」
「うんうん。そうでもあろうのう。勉強になるのう」
 機嫌のいい主人が、芝居がかって大仰に頷いた。
 要は、準備不足で戦場に出て、多大な犠牲を払うが、生き残った者は性根が据わる──そういうことだ。
「あ、さて……」
 ここで本多正信が話に割って入ってきた。
「本日おまんをここに呼び出したのは外でもない」
 正信は、低い声でボソボソと語り始めた。ここからが本題のようだ。茂兵衛は身を硬くした。
「この度、徳川家の方針としてな、真田家との本格的な和睦を模索することに決まったのだ」
「ほう。それは重畳に存じまする」
 と、平伏した。正直ホッとした。真田家と源三郎に恩義と親近感を持つ茂兵衛には、とてもよい報せである。これが、三ヶ月前に出た秀吉の惣無事令の影響であろうことは、世事に疎い茂兵衛にもある程度察しがついた。いつまでも徳川と真田がいがみ合っていると、秀吉から「惣無事令違背」を問われかねないだろう。平八郎が忠告してくれたように、現状の固定化を嫌い、惣無事令に反感を持つ勢力があるのも事実だろうが、茂兵衛としては、源三郎と殺し合わずに済むことが素直に嬉しかった。
「で、茂兵衛よ」
 また家康に会話が戻った。笑顔で身を乗り出している。
「ははッ」
「どうすれば、徳川と真田は仲直りができようか?」
(知らねェ。そうゆう糞難しいことを考えるのが、あんたら殿様の役目じゃねェのかよ?)
 と、内心で吼えたが、黙ってもいられない。
「殿と安房守様の間で、お手紙を遣り取りされるとか……」
「おお、それは妙案じゃな。で、他には?」
「なんぞ進物品を交換されては如何」
「それもええな。で、それから?」
「あの……」
「それから?」
 茂兵衛は、恐る恐る家康の顔をあおぎ見た。顔全体としては、まだ微笑んではいるのだが、心なしか目つきが険しくなってきている。
「やはり、そのォ……相互の人の交流が肝要かと……」
「茂兵衛」
「ははッ」
「文を出し、進物を交換し、人の交流を増やせと申すか……その程度なら、ワシにも思いつくがや」
 家康の顔から微笑は完全に消えていた。
「おまんに訊ねとるのは、真田家内部の消息よ」
 少し声の調子が尖った。
「誰と誰が反目し、誰と誰が同心しておるとか、安房守の閨での癖はどうとか。安房守の弱味や欠点はこうだとか、色々とあろうが?」
 今や家康の顔からは表情が消えている。怒気を孕んだ無表情とでもいおうか。まずい。これは実にまずい雰囲気だ「そ、そのようなことは、寡聞にして存じません」
「たァけ!」
「ははッ」
 遂に家康が癇癪を起こし、茂兵衛は是非もなく平伏した。
「こら茂兵衛、おまん、幾年も前から、真田に食い込んどったのではねェのか? 三年前、殺されて首を引っこ抜かれるところを、真田に命乞いして、今もこうして生き恥をさらしとるのではねェのか?」
(い、生き恥って……)
 不満には思ったが、まさか激昂する主人に向かい、正面切って反論するわけにもいくまい。ここは隠忍自重するのみだ。
「も、申しわけございません」
 と、額を畳に擦り付けた。
(参ったなァ。急に機嫌が悪うおなりになるからなァ)
「あの……弱味や欠点は兎も角、強味と申しましょうか、優れた点であれば、幾らでも挙げることができまするが」
「たァけ。そんなもん聞いてどうする。面白くもねェ。楽しくもねェ。時の無駄だわ」
 家康が苦々しげに切り捨てた。
「お言葉ですが……殿様は、真田家との仲直りを御所望なのでは?」
「ほうだら。末永く情誼を保ちたく思っとるがね」
「ははッ」
 と、平伏しながら内心で反論した。
(ならなんで先方の弱点ばかりを知りたがるんだよォ。おかしいじゃねェか。仲良くしたいのなら、相手のええ所を見るべきだわ。ふん、大方、殿様たちが言う仲直りは、俺らの考える仲直りとは、ちと意味が違うんだろうなァ。呆れたもんだ。世も末だがや)
 要は、尋常な和睦ではないのである。家康や正信は、別段、真田と和解したいわけではなく、「秀吉から和睦したように見える体裁」を求めているだけだ。仲良くしたいのは真田家に非ず。秀吉なのである。
「安房守に限らず、広く二人の倅や、嫁や重臣らの弱味や醜聞でもよいぞ」
 横から正信が、助け舟を出してくれた。
「それでしたら……あ、いやいや」
 と、反射的に取り消した。
(弱味ってほどのことでもねェが、源三郎様の御正室は、まだ童なんだわ。「形の上だけの夫婦じゃ」と寂しそうにしておられたっけ)
 源三郎は少女を実の妹のように大事に扱っている。無論、閨事を強制したりはしていない。
(ただ、これを言うと、源三郎様になんぞ御迷惑がかかるやも知れんしなァ。最近の殿様は阿漕なことも平気でなさる。命の恩人である源三郎様に迷惑をかけちゃ、俺の義が廃るからなァ)
「なんら? とっととゆうてみりん」
 家康が苛ついた様子で吼えた。
「いえいえ、思い違いにございました」
「こら茂兵衛、隠すな。おまん、今確かに『それでしたら』と口走ったではねェか? ワシは『それでしたら』の続きが聞きたい」
「あの……」
「主命だら。言えッ。ゆわんとおまんの娘の生皮を剥ぐぞ!」
(な、生皮って)
 こうなったら蛇に睨まれた蛙である。結局洗いざらいを喋ることになった。
「真田家嫡男の源三郎信之様には正室がおられまするが、この方、御年十三歳にございまして……」
「じ、十三の嫁? 真田の嫡男はケダモノか? なんたる破廉恥!」
「いえいえ、然に非ず。まだ夫婦とは言えないようにございまする」
「ほう、まだ夫婦ではねェと申すか……続けろ」
 家康が興味を持ったようだ。嬉しそうに身を乗り出してきた。他人の不幸や他家の悩み事が、よほどの好物らしい。
「お二人は、そもそも従兄妹同士。さらには故勝頼公の鶴の一声で決まった政略婚でもあり、源三郎様は寂しい思いをなさっておいでのようです」
「当然、子はおらんのだな?」
「おりませぬ」
「あ、そう」
 そう茂兵衛に頷いて、家康は正信に視線を移した。
「平八郎のアレをどうかと思うてのう」
「ああ、アレねェ」
 今度は正信が茂兵衛に向き直り、問い質した。
「その正室の家は? 出自は?」
「確か父親は、武田家重臣のようにござる。ただし、長篠にて討死とか」
「討死か、うん、それはええ」
 家康が「さも好都合」とばかりに微笑み、両の掌を揉み合わせた。敵方だったとはいえ、討死で「それはええ」は酷い──家康、本当に年々性格が悪くなっていく。
「信之殿は、今年お幾つじゃ?」
 家康に代わって正信が茂兵衛に質した。
「永禄九年生まれの二十三歳にございます」
「なるほど、なるほど」
 正信は満足げに頷き、また家康に囁いた。
「歳回りには問題ございませんな」
「ただ、正妻でなければダメだわ。こちらにも面子があるからな」
 二人は顔を寄せ、小声で応答している。
「正妻云々は、関白様を通せばなんとでもなりましょう。現に今はまだ夫婦ですらないのですからな」
「無理筋ではねェのか? 秀吉が聞いてくれるかな?」
「今や天下第二位の実力者である殿が、惣無事令に従うと表明するようなものにござるぞ」
 正信がさらに声を絞り、家康に囁いた。
「関白様は喉から手が出るほどに、それを望んでおられましょう。どんな無理筋でも聞いてくれますわい。それに……そもそも旭姫様は、先夫と別れさせられた上で、殿に嫁がれたのでは? フフフ」
「なるほど……下衆は手段を選ばんからのう、ヒヒヒ」
「御意ッ。ハハハ」
 主従は、不気味な含み笑いの掛け合いを延々と続けた。
(殿と弥八郎様、なんぞ悪だくみをしておられるようだが……大丈夫か)
 二人の遣り取りを聞いていると不安が頭をもたげてくる。
「で、茂兵衛よ」
 家康が、扇子の先で茂兵衛を指した。
(お、いよいよ俺にきたか)
「ははッ」
 覚悟を決めて平伏した。
「おまん、平八郎のとこの於稲を知っとるか?」
「無論、幼き頃よりよく存じ上げておりまする」
「相当な別嬪らしいのう」
「それはもう。大変にお美しく」
 本多平八郎の長女於稲は、天正元年(一五七三)の生まれ。今年で十六歳になる。幼い頃は、目つきだけが父親似で、大層「きつく」見えたものだが、年頃になると、むしろ切れ長の鋭い目が、妖艶な印象を醸し、美人として近隣の噂に上るほどになった。
「おまんが申すように、真田の跡継ぎの妻が飾り物に過ぎぬのなら好都合。於稲を嫁がせるのはどうかと思ってのう」
(わッ。やはりそうきたか……話の流れから、もしやとは思っておったのよ。ま、決して悪い話ではねェが、ただ……)
「源三郎様の現在の御正室は如何なりましょうか?」
「それはな……」
 家康に代わって正信が説明した。
「於稲殿を殿様の養女とし、関白殿下に間に入って話を進めて頂こうと思うておる。今の正室殿には側室に下りて頂くことにはなろうが、これは戦国の倣いよ。さらに現在は妹のような存在であろうから、大きな障害にはなるまい」
「ほうだがや。実家も落ちぶれておるだろうからのう、へへへ」
 家康が、さも愉快そうに呟いた。正室の父はすでに亡く、仕えた武田家も滅んでいる。
「これは、妙手なのではねェか」
 この時期に真田家の嫡男が、秀吉の仲介で、徳川の姫(家康の養女)を嫁に迎えれば、徳川が沼田領問題で北条側に立たないことを天下に示すことになろう。
「ただ……」
 ここで茂兵衛が水を差した。
 実は茂兵衛自身、かつて「信之に於稲をどうか」と考えたこともあるのだ。しかし、一つには正室の立場に配慮して、二つには平八郎が極度の真田嫌いであることから諦めた経緯がある。
「ただ……なんじゃ? 茂兵衛は不満か? 反対か?」
 家康が扇子の先を茂兵衛に突き付けた。
「不満などございませぬが、一つだけ障害がございまする」
「なんら?」
「平八郎様が、真田を蛇蝎の如くに嫌っておられます」
「それは……困るな。どうする佐渡?」
「殿の方から因果を含められては如何? 主命とあらば、さしもの平八郎殿でも抗えませんでしょう」
「や、それはどうかな……奴が激昂すると、正直ワシでも怖い」
 ちなみに、家康の父も祖父も、家臣に斬り殺されている。三河者が忠義無双であるのは事実だが、このような側面も併せ持っているのだ。家康の家臣に対する眼差しが、複雑極まりない所以であろう。
「となれば、誰ぞ親しい者に説得させるしかございませんなァ」
「適任者は誰だら?」
「左様、平八郎殿とごく親しい間柄といえば……」
 家康と正信の視線が、ゆっくりと茂兵衛に注がれた。
(おいおいおい……厄介事は全部俺かよ)
 と、茂兵衛は心中で呻いた。

 

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