第3回『弓組寄騎仁義』

 

武田の大軍に囲まれた長篠城からの密使と遭遇した茂兵衛は、家康のいる岡崎城まで同道することに。家康の信長への過剰な気遣いに、織田と徳川の当時の関係性が窺える。

 

「鳥居とやら、お前、奥平貞昌殿の使いと申すか?」
 酒井が強右衛門を厳しく睨みつけた。
「ははッ」
 強右衛門が頭を垂れた。茂兵衛は傍らに片膝を突いて控える。
 ところが強右衛門が「亀姫様の件」云々を伝えると、酒井の顔に喜色が浮かんだ。
「ほ、本物にございます。間違いござらん。この者は、長篠城主からの使いにござる」
 と、酒井が怒鳴ると、部屋の奥の板戸が開き、陣羽織姿の武将が二人、速足で姿を現した。一人は家康だ。もう一人は長身痩躯の冷たい目をした男である。
「三河守家康である。奥平貞昌の言葉を申してみよ」
 早口で命じた。苛立っている風にも見える。
 昨年、高天神城は、信長の援軍到着に前後して降伏開城した。家康としては、同じことを再現したくはないのだろう。
「長篠城は、繰り返し火矢による攻撃を受け、弾薬庫、兵糧庫が消失。落城寸前にございまする」
「なんと」
 長篠城に籠る奥平党は五百人ほどしかいない。それが一万五千の武田勢と戦えているのは、家康が、信長の口添えで、堺から買い入れた鉄砲を二百丁も与えたからだ。銃弾、火薬が尽きれば、万事休すだ。
「数日のうちには必ず後詰めする。なんとしても持ちこたえよ」
「ははッ」
「早い時期に、確と伝えることじゃ」
 横合いから、冷たい目をした男が、呟くように低い声で言った。
 家康が男に、慇懃な会釈を返したところを見れば──
(これが、織田信長か)
 行軍中の信長を、遠くから眺めたことはあるが、間近で見るのはこれが初めてだ。茂兵衛は上目遣いに、チラチラと希代の風雲児の姿を窺った。黒く日に焼けた顔が艶々と光っている。大きく高い鼻、薄い唇に引き締まった口元──癇が強そうだ。酷薄そうにも見える。信長と並ぶと家康などは、まるで富裕な百姓の若旦那ではないか。
「大軍が後詰めに来ると分かれば、城兵は石を投げても数日は持ちこたえよう。確と伝えることじゃ。さすれば、長篠は持つ」
 そこまで言うと、信長は踵を返し、速足で御殿の奥へと消えた。
 家康と酒井、庭に茂兵衛と強右衛門が残された。
「植田」
 家康が、自分の名前を覚えてくれていることが無性に嬉しかった。
「寄れ」
 命じられるままに、階の下までにじり寄り控えた。
「今、弾正忠様が申された通りじゃ」
 もう家康は落ち着いている。先ほどまでの苛立ちは抑え込んだようだ。小声で噛んで含めるような語り口で伝えた。
「援軍は来ると、必ず城兵に伝えよ。手段は問わん。伝えよ」
「はッ」
 ここで家康は、チラリと背後を窺った後、階を二段ほど下り、顔を近づけてきた。両腕を伸ばし、茂兵衛の甲冑の肩を掴んでグイと引き寄せる。息がかかるほどの距離だ。わずかに葱と焼き味噌が匂った。家康はさらに声を絞り、耳元に早口で囁いた。
「あの信長を、岐阜から奥三河くんだりまで引っ張りだすのじゃ。昨年の高天神城の二の舞で無駄足を踏ませるなどもってのほか……ワシの信用は地に墜ちる。一旦、役立たずの烙印を押されれば最後、信長はワシを見捨てかねん。この群雄割拠の中で孤立すれば、三河と遠江は、諸国の草刈り場となり果てようぞ」
「………」
「高天神の小笠原信興は降伏開城した。勝頼はこれを許したばかりか、領地まで与えて厚遇した。長篠の奥平貞昌もこのことはよく知っておろう。援軍は来ないと思えば、貞昌もどう転ぶか分からぬ」
 だから、どうしても「援軍が来ることを、一刻も早く城内に伝えろ」と繰り返し念を押された。
(え、えらいことになったら)
 あまりの重責に、胃の腑がキリリと痛んだ。