第7回『小牧長久手仁義』

 

小牧長久手の戦いで秀吉に勝利したものの、同盟していた織田信雄が家康に無断で和睦。浜松城の大広間で開かれた評定の席で、茂兵衛は家康から突然名指しされるが……。茂兵衛きりきり舞い第2弾。

 

 長久手での戦闘が、織田徳川連合軍の明らかな勝利で終結して以降、半年以上も両軍の間に大きな動きはなかった。付城を巡る小競り合いこそ続発したものの、濃尾平野で両軍が睨み合い、戦線は膠着したままだった。
「おまんまは食わして貰えるから、大それた文句はねェが……そろそろ嬶ァの面が見たくなったわなァ」
「この戦、俺らは勝っとるのか? それとも、負けとるのか?」
「三月、四月までは俺らが確かに優勢だったが、その後は動きがねェからなァ」
「引き分けじゃねェのか?」
 そんな会話を、茂兵衛隊の足軽たちが囁き始めた天正十二年(一五八四)の十一月頃。秀吉と信雄が、突如として和睦を結んでしまった。ちなみに、信雄からの家康への相談は一切なかった。
 尾張で両軍が睨み合っている間、数に勝る秀吉は兵力を割き、西尾張や伊勢など信雄領内の小城を一つずつ、気長に落としていったのだ。
「このままでは、ワシは無一文にされてしまうぞ」
 と信雄は不安に駆られ、そこに秀吉が上手く付け込んで調略すると、簡単に和睦に応じた。
 寝耳に水の家康は驚き、激怒したが──もう遅い。
 怒りを静め「徳川は、織田家との友誼を守り、信雄殿に助太刀したまで。信雄殿と秀吉殿が和睦されたのなら目出度いことで、当方は兵を退き申す」と、領地へ引き揚げることにした。
 翌十二月。秀吉の居城が大坂の地に完成し、秀吉は、信雄と家康を新城へと招待した。信雄はすぐに応じたが、家康はどうすべきか──浜松城内の大広間で評定が催された。茂兵衛も、家康から出席を命じられ、大きな体を縮こまらせて末席に控えていた。
「意味が分からん。何故、戦に負けた秀吉が、我が殿を大坂に呼びつけるのか? まるで家来扱いではないか」
「殿に会いたくば、秀吉の方が三河へくればええ」
 各所から「ほうだ」「ほうだら」と賛同の声が起こった。
「奴め、まさか戦に勝ったつもりでおるのではあるめェな」
 家康は上座で瞑目し、家臣たちの議論をジッと聞いている。
「たァけが。秀吉は、羽黒砦と長久手で手酷く叩かれたのを忘れたか?」
「蟹江城もぶん取り返してやったわ」
「麾下の有力大名を二人も討ち取られて、恥ずかしげもなくようも勝った気になれるのう」
 各所から嘲笑が沸き起こった。
「犬山城と岩崎城、我が方の二城が秀吉に落とされたのも事実にござるぞ」
 ここまで黙って聞いていた石川数正が、反論を開始した。
「犬山も岩崎も、織田家の城にござろう。徳川が負けたわけではねェ」
 本多平八郎が石川を睨みつけた。
「そう申すなら、羽黒砦も長久手も秀吉が指揮を執ったわけではないな」
「詭弁じゃ。伯耆殿の言葉を聞けば、どこの家老だか分からぬわ」
「たァけ。ワシは今も昔も未来永劫、家康公の家臣、徳川の家老じゃ」
 温厚な石川が色をなして平八郎を一喝した。さすがに一座は静まった。
 家康は口を開かない。
「皆の衆、どうか気を静めて聞いてくれ」
 ここで石川は、議論から説得へと方針を変えた。
「我らは確かに、羽黒砦と長久手で戦には勝った。しかし、知恵も覚悟も足らん同盟者を籠絡され和議に持ち込まれた。信雄公は、伊賀一国と伊勢半国を秀吉に差し出したのだぞ。傍から見れば勝者は誰か? 秀吉よ。つまり、政略では負けたのじゃ」
「我らは武辺。政略など知らんわ」
 平八郎の盟友、榊原康政が食い下がった。
「武威と政略は牛車の両輪のようなもの。どちらが欠けても車は動かぬぞ」
 穏やかに康政を諭した後、石川は一座を見回した。
「考えてもみられよ。もし、このまま秀吉と敵対し続ければ、秀吉はすぐには攻めてこぬぞ。一人ずつ順々に徳川の味方を調略していくであろうな。事実、信雄公はもう秀吉の軍門に下り、嬉々として大坂城に伺候するそうな。気づけば徳川は孤立無援。天下の軍勢が浜松城に押し寄せ、我らは滅亡することになる」
 一座は水を打ったように静まった。
「ただ……」
 もう一人の家老、酒井忠次が議論に割って入った。
「ここで徳川が秀吉に靡けば、我らを盟主と仰ぎ、信じ、頼りにしてきた佐々成政、根来、雑賀、長宗我部を裏切り、見捨てることになりまするな」
「うん。それもある」
 腕組みをして耳を傾けていた平八郎が大きく頷く。
「如何であろうか」
 酒井が続けた。
「ここは畏れ多いことながら、於義丸君に殿の名代として大坂城へ行って頂き、殿はこの浜松から一歩も動かぬとの策は?」
 於義丸は今年十一歳。父の名代とは方便だ。有り体に言えば、人質であろう。
 ここで家康が目を開き、酒井を睨みつけた。
「………」
 怖い目だ。酒井は視線を逸らし、顔を伏せた。誰もが五年前の信康切腹の一件を想起した。
 ただ酒井の案なら、秀吉の面子は立て、同時に同盟者たちの動揺も最小限に抑えられるだろう。なにせ家康自身は大坂に行かぬのだから。いかにも酒井らしい姑息だが、穏当な解決法だ。
「それで秀吉が納得しましょうか?」
 石川が酒井に反論した。
「『秀吉の命には従わぬ』との徳川の意思表示と受け取られかねない。当面は収まっても『いずれ徳川は潰す』との思いを、秀吉は強めるやも知れませぬな」
「当面でも秀吉が収まれば、それはそれでよいではないか」
 酒井が、石川に再反論した。
「その間に我らは、領土経営に専念、北条やその他の反秀吉勢力と連携を取り、自らの力を増強させる。秀吉、恐れるに足らずじゃ」
「我らも成長しましょうが、秀吉もまた巨大化しますぞ」
 今度は、石川が酒井に言い返した。
「そもそも、殿が大坂城に出向けば、秀吉めに虜とされ、殺される恐れがある」
 平八郎が唱え、一座から同調する声が湧き上がった。
「殿あっての徳川である。殿が大坂城へ赴かぬのなら、他のことは些末なことだわ。どうでもええ」
と、平八郎が締めた。「些末な他のこと」とは、於義丸を人質に出すことを指しているのだろうか。
「……植田」
 家康が初めて言葉を発した。
 まさかここで自分が呼ばれるとは思わぬので、茂兵衛は黙っていた。しかし、周囲の誰もが自分を見ている。
(え、お、俺かい?)
「ははッ」
 遅ればせながら平伏した。
「秀吉は百姓の出じゃ。おまんもまた百姓の出じゃ」
 一座から嘲るような笑いが起こった。
「百姓の気持ちは、百姓が一番よう分かろう。今回の仕儀につき、おまんの存念を述べよ」
「え、あの……」
 ──当惑していた。どう答えるべきなのか見当もつかない。
「率直に申せばええ。誰に遠慮も要らぬ。おまんの考えを正直に述べよ。これは主命である」
 家康が大きく目を見開き身を乗り出し、遥か上座から茂兵衛の顔を覗き込んだ。
 平八郎が怖い目で睨んでいる。善四郎が不安げに見つめている。忠世は──露骨に視線を逸らされた。
「そ、それがしは……」
「うん。申せ」
「それがし……ほ、ほ、伯耆守様の御意見に同心申し上げまする」
 もうヤケクソで、一気に吐き出した。一座が「おう」と騒めいた。
「茂兵衛! 気でもふれたかァ!」
 平八郎の怒声が飛んだ。
「平八、黙れ! 植田、おまんは、どうしてそう思うのか!」
 家康が平八郎に勝る怒声を上げた。
「て、鉄砲……」
「聞こえぬ! 大きな声で申せ!」
 茂兵衛を睨む家康の目が血走っている。
「茂兵衛、もうええ! 何も喋るな!」
 平八郎がまた吼えた。
「平八、黙れ! 主命じゃ、黙れ!」
「て、鉄砲大将として……鉄砲の数、火薬弾薬の物量において、我らは秀吉勢に遠く及びませぬ」
「では、今一度ハッキリと申せ! おまんは、ワシが大坂へ行くべきだと考えるのだな!」
「………」
「そうだな!」
「ははッ」
 と、平伏した。生きた心地がしなかったが、同時に本音を吐露した爽快感も少し感じた。
 頭の上で、荒々しい足音が近づいてきた。顔を上げると──平八郎だ。
「茂兵衛、増長致すな!」
 気づけば拳固で頬を強か殴られていた。茂兵衛はよろけ、床に手を突いた。
 目の端に、家康が席を立ち、足早に歩み去る背中が見えた。口の中に金臭い味が徐々に広がっていった。