第5回『鉄砲大将仁義』
武田を裏切り、徳川に寝返った穴山梅雪とともに家康の御前に召し出された茂兵衛。戦国大名として非情な顔を覗かせる家康の変貌ぶりが読みどころだ。
会見が終わり、梅雪と共に退出しようとする茂兵衛を、家康が呼び止めた。
梅雪は一瞬顔を顰めたが、その後はそ知らぬ態で茂兵衛に会釈をし、部屋を静かに出て行った。二人が呼ばれ、一人だけ先に帰される──嫌なものだろう。
「植田」
「はッ」
「五十挺の鉄砲はどうじゃ?」
「はあ……」
一瞬、返答に詰まった。「どうじゃ?」の意味を掴み切れなかったのだ。今日の家康は恐ろしげだ。見当違いの返事をして、怒鳴られるのも、軽蔑されるのも御免だった。
「よ、寄騎衆に支えられ、なんとか相務めておりまする」
穏当に返せた。ま、可もなく不可もなし。
「武田の騎馬隊を蹴散らしたそうな」
「お、畏れ入りまする」
自分の働きが主人の耳にも入っているようで正直嬉しかった。
「さて、ここのことじゃが」
と、家康は再度、地図上の市川を指した。
「ここに布陣するまではええ。梅雪に話した通りじゃ。ただな。もし意外に勝頼の抵抗が激しく、信忠殿が苦戦するようなら、おまんの判断で、兵を北へ進めよ。織田勢の支援に遅参してはならん」
「……はッ」
当たり前のことを言っているようだが、家康の言葉は、どこか思わせぶりだ。
「これまでも、おまんには幾度か言って聞かせたが、右大臣家は、仕えるのが難しいお方よ」
家康は、声を絞って囁いた。
「配下や同盟者が出過ぎればお気に召さぬ。さりとていざとゆうとき役に立たねば腹を立てられる。叱られる。下手をすると潰される……分かるな?」
「はッ」
つまり市川に布陣して、勝頼を討ち取る栄誉は織田方に譲り、もし、織田方が苦戦するようなら速やかに急行してこれを援けよ。ただし、援けすぎて出過ぎるな──おそらく、そんな感じのことを求められているのだろう。
「目立たず、されど役目は怠らぬ……その辺の塩梅を考え、先鋒隊を動かせ」
「一つ、伺ってようございましょうか?」
たまらず茂兵衛が訊き返した。
「ゆうてみい」
「なぜ、梅雪様にそうお命じにならなかったのですか?」
と、訊くや否や、家康の顔に不快感が浮かんだ。これは愚かなことを訊いたものだ。昨日今日寝返ったばかりの梅雪に、家康が弱味を晒すはずもない。
「も、申し訳ございません。先鋒の指揮は梅雪様が執っておられるので、つい」
主人との間に、気まずい沈黙が流れた。
「おまんが、行けと言えば梅雪は行く。行くなと言えば行かん。それが寝返った者の生き残る道よ。されど、もし梅雪がおまんの命に従わんかったら……」
「従わんかったら?」
家康は梅雪の去った板戸の方を窺った後、茂兵衛に顔を寄せ声を潜めた。
「おまんを梅雪の寄騎にしたのは何故だと思う」
「鉄砲隊を率いておるからにございますか?」
「たァけ。鉄砲隊ならほかにもたんとおるがね。ええか植田……もし、梅雪が変節したる場合、側にいるおまんが責任を持って刺し殺せ」
「さ……」
思わず主人の目を見上げた。主従で押し黙り、しばし睨み合った。
「怖い目で睨むな。不満か?」
「いえ。ちと驚いただけで……」
「ならば、ちゃんと復唱してみりん!」
怖い目で睨むなと言うが、今の家康の目の方がよほど恐ろしい。
「ば、梅雪様が徳川に反抗したる場合、それがしが……刺し殺しまする」
と言って、首を垂れた。
酷い命令だと思った。こんな無茶な命令を出されるのは初めてだ。一言で言ってしまえば「主人家康は、変わった」ということだろう。
家康は、ただ肥満しただけではなかった。いつの間にか非情な戦国武将へと変貌を遂げていた。そう言えば、高天神城攻めでは、以前なら決してやらなかったような、田圃や畑を焼き払う酷い策を平然と採ったではないか。
実際に戦ってみて、茂兵衛は確信している。勝頼と武田勢の凋落ぶり、劣化は隠すべくもない。今回の甲州征討は、余程の失策でもない限り、織田徳川軍の大勝利に終わるだろう。上手く立ち回れば、家康には駿河一国が転がり込むはず。三河、遠江、駿河──三ヶ国の太守の座が目前にぶら下がっている。
真面目で辛抱強いだけが取り柄の田舎大名が、欲と二人連れで「腹黒い狸親父」へと変貌を遂げたのかも知れない。
(ただよォ。殿様が腹黒くなるのは、ま、仕方ねェことかも知れねェな)
野場城の頃、直属の小頭はそれは厳しい人だった。新米足軽の茂兵衛は幾度も殴られ、泣きながら赦しを乞うたものだ。その小頭が臨終のとき、茂兵衛を呼んでこう囁いたのだ。
「主人を替えろ。夏目の殿様はええ人だが、ええ人は戦国の世では生き残れん」
そして事実、夏目次郎左衛門は、三方ヶ原で悲惨な討死を遂げたのだ。主人が腹黒い──普通は不幸な話だが、乱世にあっては例外で、むしろ歓迎すべきことではないのか。
かく言う茂兵衛自身、物頭となって以来、気働きや悪知恵を度々用いるようになった。気位の高い寄騎衆、さぼることばかりを考える足軽たち、その中間には、只々大声を張り上げているだけの小頭衆がいる。そんな百人の難しい配下たちを統べるのだから、綺麗事ばかり言ってはいられない。怒鳴ったり、宥めたり、賺したり──相当あくどい手段だって使っているのだ。
(足軽の頃はもう少し簡単だった。小頭の命令だけ聞いて、その内の八割か七割をやり遂げれば、褒めて貰えたんだ。人間偉くなればなるほど難しくなる。足軽大将程度でこうなら、三ヶ国の太守となれば如何ほどだろう)
しかも、家康の親分は、あのおっかない信長である。その気苦労は想像を絶する。
(そりゃ、目つきも悪うなるだろうさ。殿様ァ大変なんだな)
家康の居室から退出し、長い廊下を歩きながら、茂兵衛はそんなことを考えていた。
続いては、同じく『鉄砲大将仁義』からの一場面。上洛する家康のお供に加わることになった茂兵衛だが、道中、急な呼び出しを受ける。ここで家康の「狸親父」ぶりが発動。茂兵衛きりきり舞い第1弾。
三条通りの関所を抜け、洛中へと入る。小姓が馬で来て、家康が茂兵衛を呼んでいると告げた。
「植田、参りました」
馬から下り、地面に片膝を突いた。家康は辻に馬を止め、酒井忠次らと言葉を交わしていた。
「うん。おまん、中将様となんぞあったんか?」
「いえ、なにもございませんが……」
内なる動揺を隠し、素知らぬ顔で答えた。家康の背後にいる服部半蔵が目に入った。皮肉な笑みを浮かべ、茂兵衛を見下ろしている。こちらの思惑をすべて見抜かれているようで怖い。
(まさか信忠様、殿に「茂兵衛が欲しい」と捩じ込んだのではあるまいな)
と、不安に駆られた。
ただでさえ、徳川家内には闇雲に茂兵衛を嫌う者が多いのだ。百姓の出自、足軽大将への出世、果ては御一門の姫を娶ったことまでが妬み、嫉みの種となっている。この上、信長の嫡男に気に入られ、高禄で召し抱えられて云々──そんな噂が流れれば、どれほど虐められるか。下手をすると邪魔が入り、話を潰されかねない──茂兵衛は激しい眩暈いに襲われた。
「おまんが、武田の騎馬隊を叩いたろう?」
見性院と勝千代を救出に向かったときのことだと、すぐに察しがついた。
「中将様、あの話をどこぞで仕入れてこられたようでな。京に滞在中だけおまんを貸せと仰る。ご自分の鉄砲隊を教練して欲しいそうな」
「……はあ、鉄砲隊を」
どうやら信忠は「茂兵衛をくれ」ではなく「茂兵衛を貸せ」と言ったらしい。少し安堵した。ただ、この時もなぜか、服部半蔵と目が合った。
「で、おまんはどうする?」
「どうもこうも、殿の御命令通りに致しまする」
「ほうか。ではのう……」
家康は少し間をとり、馬上から茂兵衛の顔を覗き込んだ。
「おまんはな……中将様に食い込め」
「く、食い込む?」
思わず訊き返した。
「つまり、取り入れ……右大臣様とワシは、童の頃からの気心の知れた付き合いよ。それでも今まで、えろう苦労したがね。だが、中将様とは親しく話したことすらない。信長公の跡目は、間違いなく信忠公が継がれる。次の天下人との紐帯が弱い……これは当家にとって、由々しき問題だとは思わんか?」
「御意ッ」
「ならば、ガブリと食い込まんかい」
ここでニヤリと笑った。どう見ても人相が悪くなった。悪の巨魁風だ。