第2回『足軽小頭仁義』

 

三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗し、徳川勢総崩れとなって逃げ落ちるなか、わずかな供回りのみの家康と邂逅した茂兵衛。この一件で名前を覚えてもらい、思わぬ奇貨となった。

 

 さらに歩いた。今は亥の上刻(午後九時頃)を過ぎた頃か。
 周囲は武田勢の気配が濃く、気が休まらなかった。ひたすら、東へ歩いた。
「もう随分来たぞ。半僧坊道に出ぬな」
「なに、もうすぐでござる」
 と、善四郎には応えたものの、暗いので半僧坊道に気づかずに横切ってしまったのかも知れない。
 茂兵衛は空を見上げた。無数の星が見える。天気は回復しているようだ。陰暦の二十二日、もう一刻半(約三時間)ほどで東の空に半月が上る。
「こ、小頭!」
 先頭を行く庄助が歩みを止めた。見れば、北の方からおびただしい数の松明が近づいてくる。あれは落武者狩りなどではない。その数からして武田の本隊に相違ない。徳川の残党を狩りつつ、浜松城を目指して進軍しているのだ。
 東に進んでいた茂兵衛たちも、松明の群れに押されるようにして、南へ南へと進む方向を変えざるを得なかった。
「三河?」
 ふいに、ススキの繁みの中から声がした。「三河」と呼べば「安祥」と応えるのが本日の徳川方の符丁である。
「あ、安祥」
 茂兵衛が闇に向かって応えた。
「味方じゃ」
 それでも一応、槍を構えた。茂兵衛たちも武田側の符丁を知っている。三方ヶ原を彷徨う間に幾度も耳にした。「山」と呼んで「谷」と応えるのだ。武田勢も徳川の合言葉を知っていて、おびき寄せるための罠かも知れない。
 向こうも警戒しているのか、しばらく出てこなかったが、やがてススキを掻き分けて背の高い兜武者が現れた。面頬は外しているようだが、暗くて顔までは分からない。
「どこの組か?」
 茂兵衛は、黙って突っ立っている善四郎の肩を後ろから小突いた。名目上、この組の頭は善四郎である。
「あ、旗本先手役本多平八郎隊、松平善四郎以下五名にござる」
「おお、これは善四郎殿、御無事でなにより。それがし、日下部兵右衛門にござる」
 日下部は、家康の馬廻衆の一人で名誉の母衣武者である。今はさすがに母衣は背負っていない。逃げるにも隠れるにも、目立つ母衣は邪魔になる。
 善四郎と日下部は顔見知りらしく、双方の疑心暗鬼はすぐに晴れた。
 驚いたことに、繁みの奥に総大将の家康が隠れていた。
 六人の馬廻衆と足軽が二人、家康以下わずか主従九人である。馬も乗り捨てたらしく、全員が徒歩であった。
「善四郎、無事であったか」
 倒木に腰掛けた家康が、跪いて叩頭する善四郎の肩に手を置き、優しく声をかけた。
「と、殿……」
 善四郎は、親戚の年長者に会って感極まったものか、啜り泣きし始めた。
(夕刻から随分と酷い目に遭ったからな。ま、泣くのも仕方ねェら)
 茂兵衛は背後で畏まりながら、善四郎の小さな肩が揺れるのを眺めていた。
「これで十四人、信玄相手にもうひと戦できそうじゃな」
 啜り泣く少年を眺めていた家康が呟いた。周囲の馬廻衆たちが小さく笑った。
「おそれながら……四半刻(約三十分)ほど前、おびただしい数の松明を見ましてございます。大軍勢が北から南へと向かっておりました」
 茂兵衛が言上した。たかが徒侍が僭越かも知れないが、事態は急を要する。
「すぐにも南下したいところじゃが、生憎、この先に敵が陣を敷いておる」
「東は?」
「そもそも、お前は誰じゃ?」
 苛立った日下部が、茂兵衛に質した。
「本多平八郎麾下の足軽小頭、植田茂兵衛にございまする」
「あ、足軽小頭だと?」
 日下部が、徒侍の僭越な行為に色をなした。
「や、平八のとこの植田という者は知っておる。聞き覚えがある」
 と、家康が日下部を制した。本当に知っているとも思えなかったが、なにしろ家康は、茂兵衛に意見を求めた。
「植田とやら。お前、ここが何処か正確に分かるのか?」
 月もない闇の中、主従は道に迷っていたようだ。
「追分の南、わずかに東へ進めば半僧坊道に出る、その辺りかと存じまする」
「城へどう帰るつもりだったのか?」
「されば、半僧坊道まで出まする。南を窺って敵が少ないようなら、そのまま南下する。もし敵の気配があるようなら、さらに東へ進んで三方ヶ原を下り、二俣街道に出るつもりにございました」
「兵右衛門、どう思う?」
「ま、誰でも思いつく策にござる……いずれにせよ、物見を」
「うん。お前は植田を連れて半僧坊道まで参れ。そこから日下部は東へ進み、植田は南へ下ってよくよく物見致し、復命せよ。疾く行け」
「ははッ」
 母衣武者と足軽小頭が同時に叩頭し、走り去った。
「善四郎?」
 家康が善四郎に向き直った。
「あの植田という者は、お前の寄騎か?」
「御意ッ」
 片膝を突き控えていた少年が、嬉しげに面を上げた。
「平八がお前に付けたのか?」
「御意ッ。ただ、寄騎であると同時に、よき師匠にございまする」
「師匠……戦の師匠か?」
「ま、戦を含めまして……」
 ここで善四郎は小さく息を吸った。そして吸った息を吐くようにして言葉を継いだ。
「じ、人生全般……にございまする」
「人生全般の師匠? ほう、面白いな」
 と、敗軍の将が闇の中で少し笑った。