現在 八月二十八日

 

 雑居ビルの一室を出た。いや、正確には弾き出されたのかもしれない。どちらであっても、大した違いはない。不良品は弾かれる──それが世の理だ。

 問題は、不良品には行き場がないということだった。

「このままだと、ブタ箱にぶちこまれるよなぁ」

 手塚が車止めに腰掛けながら呟いた。都心にある、コンビニの前だった。

 店内から漏れる白いLEDの光。乾いた埃の匂い。俯いたまま歩き続ける人々。耳障りな求人トラックの声。遠くぼやける赤いテールランプの帯。どれも現実感がない。液晶パネルに覆われた部屋のなかにいるようだった。

「刑務所って、相部屋だよなぁ。俺、人が近くにいると眠れねえんだよなぁ」

 手塚がぼそりと続けた。その横顔に目をやる。同じくらいの年齢か、少し上だろうか。三十前後といったところだ。そのまま私が黙っていると、彼は苛立ちを隠そうともせず頭を掻き、「なあ」と短く声を漏らした。

「なんで、こんなことになっちまったんだろうな」

 答えを知っていたら、ここにはいない。そんな考えが頭をよぎるが、口にはしなかった。

 私たちは、小さな部品に過ぎない。時代という機械仕掛けの大きな部屋を動かすための、小さなネジ。代わりはいくらでもいる。

 別に、何者かになりたかったわけではない。ただ、好きなこと──たとえば、絵を描きながら生きるくらいは許されると思っていた。それでわずかでも食べていけたなら、ほかに何もいらなかった。

 けれど、結局は、不良品として弾き出されていた。才能が足りなかったのか、努力が足りなかったのか。その区別すら、もうつかない。

 もちろん、社会の方が私の本当の形を見ずに、勝手に〝はまる穴〟を決めていたんじゃないかと思うことはあった。「君の作風だと、少年誌は無理かもね」と言われたとき、「それは違う」と言い返そうとしていた自分がいた。

 一方で、私自身が自分の形を知らないだけなのではないか、と考える夜もあった。他人に言われるがまま、窮屈なねじ穴に合わせようとしたこともあった。

「……うーん、やっぱ、青年誌も向いてないかもね」

 そう言われた瞬間、夢の舞台には、私の入れる場所がないのだと悟った。

 それでも、適当な音楽を流しながら、道の端を歩いたり、コンビニで半額の惣菜弁当を買い、温める間に好きな漫画の最新話を読んだり、腹を満たして、少し眠くなりながら、「まだやれる」と自分を奮い立たせ、未来のために、わずかでもペンを握る。

 そんな生活くらいは、続けられると思っていた。

 不良品には、それすら許されないらしい。

 窃盗に加担していたかもしれない。

 そう気づいたのは、ほんの数十分前のことだった。

 

 私と手塚は、アルバイト仲間だった。SNSでつながった「外資系ベンチャー企業のCEO」を名乗る男に雇われ、渋谷にある雑居ビルの、同じフロアで働いていた。

 仕事内容はシンプルだ。建物の写真を仕分ける。たったそれだけ。保険会社の損害査定を効率化するAIの開発補助だという触れ込みだった。

「外資系ベンチャーの仕事だから、キャリアにもなる」

 面接で言われ、私は疑うこともなく頷いていた。ただ、信じたかったのだ。三十を前に、職歴はゼロ。何か手をつけなければと思っていた。ましてや、給料も条件も悪くないとなれば尚更、疑う姿勢を保ち続けるのは難しい。

 後に知ったことだが、ここで働いていた従業員のほとんどが、私と同じような境遇だった。

 仕事は、雇い主から渡されたマニュアルに従って進めるだけ──触れ込み通りの単調なものだ。損害算出用AIに「これは塀で、傷はここ」と教え、「これは門柱で、壁じゃない。傷はここ」と正す。それを繰り返すうちに、AIはどんどん賢くなり、自分で分類できるようになり、やがてはどんな住宅の、どんな損壊にも対応できるようになる──そう説明されていた。

 雑居ビルの一室で、私たちはただ、マニュアル通りに画像を分類していった。だが、その作業の合間に胸の奥で膨らんでいたのは、虚しさばかり。質問をしても、「AIに教えているだけだから、あまり深く考えなくていい」とか、「このマニュアルは完璧だから、余計なことは考えなくていい」などと、冷たい返答が返ってくるのが関の山だ。

 アルバイト仲間たちも、誰一人としてこの作業の本当の意味を理解していなかった。それでも仕事は成立していた。私にはそのことが、何よりも空虚に感じられた。私たち個人の意志や思考、努力や試行錯誤──そういったものすべてが、無意味だと突きつけられているような気がしたのだ。

 とはいえ、毎日出勤していたのは、生きるためにほかならない。機密情報漏洩防止のため、スマートフォンは出勤時に回収され、部屋の隅のロッカーにしまわれる。トイレは挙手制。昼食は冷えたコンビニ弁当が支給される。息苦しいまでにマニュアル通りの日々。

 自分が、この部屋の部品になったかのような感覚。

 だが、今日はそのルーチンに予期せぬイレギュラーが生じた。私たちの職場は、単純作業をこなすバイト数名と、それを監視する日替わりの幹部スタッフ一名によって運営されていた。その幹部スタッフが、ロッカーの鍵を掛け忘れたまま部屋を出ていったのだ。

 坊主頭の新入りバイトが事態に気づき、動いた。あろうことか、ロッカーを開けてスマートフォンを取り出したのだ。その瞬間、部屋中の視線が彼に集まる。私も手塚も、例外ではなかった。なにしてんだ? あとで怒られるぞ。部屋全体の空気が、無言のままそう囁いている。しかし、坊主男は周囲を気にする様子もなく、スマートフォンを手に取ると、チラリと部屋の入口を見てから席に戻った。偶然にも、彼の席は私と手塚の間にあった。

 私は、彼の向こう見ずな行動に、つい惹きつけられ、画面へと視線を向けてしまった。

「おい」

 坊主男が低く声を発する。私は咄嗟に顔をそらした。

「これ、うちのボスに似てね?」

 坊主男は、笑いながらスマートフォンの画面を私に見せてきた。

 画面に映るのは、関東近郊で発生した連続窃盗事件を報じるSNSのショートニュースだった。匿名性を重視する流動型犯罪グループ──通称「トクリュウ」。そのリーダー格とされる男の顔写真が画面に映し出されていた。

 その男の顔を確認した瞬間、私は息を呑んだ。

 そこに映っていたのは、紛れもなく私たちの雇い主だったのだ。

「な、似てるよな」

 坊主男の無邪気な笑みに、私は曖昧に笑って応じた。

 一方で、胸の内はひどくざわめいていた。事業の正体が、実は空き巣のターゲットを選別する作業だったなんて、そんなことが現実にあるのだろうか? いや、あったのだ。

 自動車保険では、事故車両の損壊をAIで査定する技術はすでに実用化されていて、それと同じ仕組みを利用している。そう説明され、私たちはすっかり信じ込んでいた。しかし、思い返せばどこか不自然だった。それを薄々感じていたのも事実だ。このニュースは、その疑念を確信に変えただけにすぎない。

 ──どうすれば……。

 私が頭を抱えていると、部屋に幹部スタッフが戻ってきた。

「どうした?」

 冷めた笑みを貼りつけたまま、幹部スタッフは室内をざっと見渡す。そして、坊主頭がスマートフォンをいじる姿を見つけると、表情を変えずに近づいた。

「おーい、なに勝手なことしてんの?」

 声は柔らかいままだが、その裏にはたしかな威圧感がある。

「別にいいでしょ、これくらい。あんたら幹部スタッフは部屋の中でも触って──……」

「いいかどうかは、こっちが決めるんだよ」

 半笑いの坊主頭の首根っこを掴み、幹部スタッフは低い声で凄んだ。手の甲の血管が浮かび、骨ばった指が坊主頭の首に食い込んでいく。「なあ、おまえがなにか決められる立場なの?」その言葉に、坊主頭の顔がみるみる青ざめていく。

「他の人はとってないよね!」

 幹部スタッフは、冷めた笑みを貼りつけ直し、部屋をまた見渡した。私は咄嗟に視線を下げる。まるで、教師に指されないようにする子どもの気分だ。

「うん。じゃあ、俺はこいつにお説教するから。他の人は作業に戻っててね」

 おら、いくぞ。と、坊主頭は連れて行かれた。

 部屋には重い沈黙が落ち、アルバイトたちは慌てて作業に戻る。私もマウスを握り直すが、そこでふと、気づいてしまった。

 鍵の閉まる音を聞いていない。幹部スタッフは坊主頭を押さえることに必死で、扉をあけ放ったまま出て行ったのだ。

 背中に嫌な汗がにじむ。ここにいてはいけない。逃げるなら、今しか……。

 ──だが、本当に逃げていいのか?

 逃げたところで、どこへ行く? もし捕まったら、坊主頭以上の目に遭うんじゃないか? それに、私もバイトとはいえ、この仕事に加担していた。警察に行ったところで、ただの被害者として扱われる保証はない。逃げたって、結局、行き場がないんじゃないのか。

 手が汗ばむ。足が動かない。

 その時、手塚が立ち上がった。ロッカーへ向かい、迷いなくスマートフォンを掴む。彼の動きにつられるように、私も立ち上がった。立ち上がっていた。息を吸うのも忘れてロッカーに向かい、スマートフォンを手に取る。

 そして、手塚のあとを追って部屋を飛び出した。全速力で駆けた。後ろは振り返らなかった。どれほど走ったかもわからない。ただ、気づけばコンビニの前で足を止めていた。

 

「部屋には葦が生えている」は全5回で連日公開予定