第三章 善羽

 

 

 チッ、チッ、チッ、ピーン

 秒針が12に到達して、午後二時になった。善羽よし わは子どもの頃から、長針がてっぺんに到達する瞬間を見るのが得意だ。一時五十九分五十七秒に壁時計に目をやった自分が、ちょっと自慢である。

 市立南松みなみ まつ中学校、職員室。善羽は時計から視線を移し、窓の外を見た。八月ももう終わりだというのに、窓から見える空はこれからが夏本番みたいなコバルトブルーだ。

 机の上に散乱している書類とのギャップに目をしばたたかせ、善羽は目頭を揉んだ。赴任してから、瞬く間に五ヶ月が過ぎた。右も左もわからないまま、目の前のことだけをやっつけて今に至る。

 善羽が最初に教師になろうと思ったのは、小学生の頃だ。夏休み、冬休み、春休み、と長い休みがたくさんあって、めっちゃいいじゃんと思った。

 むろん、生徒と同じように休めるわけはなかったが、それでも教師になる夢は変わらなかった。善羽は、子どもたちの将来が少しでも明るくなるような手伝いをしたかった。子どもたちの背中を押してやり、自身が持っている力で羽ばたいてほしいと。もちろん、今もその思いに変わりはない。

 が、しかし。

 生徒たちとがっつり向き合う以前に、事務仕事が山積みなのである。次の日に持ち越した仕事に、翌日に発生した仕事が重なっていき、その山は高くなる一方だ。下のほうにある書類はすでに干からびていそうだが、それでも捨て置くことは許されない。

「慣れてくれば楽になりますかねえ」

 思わず、隣の先輩教諭にたずねる。

「慣れてくれば要領はよくなるけど、楽にはならないよ」

 笑顔で返された。

 ゴールは見えない。ゴールがあるのかすらわからない。猛スピードで進んでいく時間のなかに身体をねじ込んで、なんとか先に運んでもらっている状態だ。

 市内の中学校では、ゴールデンウィーク明けに体調不良で休養する新人教師が多かったそうで、南松中学校も去年、おととしと、新卒で迎えた先生は、現在二人とも休職中とのことだ。だから高永先生は偉いですよ、と出勤しただけでほめられることもある。

 善羽は繊細な人間ではないので、就職後たったひと月で休職する人間のメンタルが信じられなかった。何事も体力と気合で乗り越えられると信じているし、昨今のゆるくて甘い風潮は肌に合わないと感じている。

 弱音を吐く前に、まずは筋肉をつけろと言いたい。筋肉量と精神的な強さは比例する、というのが善羽の持論である。フィジカルあってこそのメンタルだ。

 職員室にかかっているカレンダーに目をやる。八月二十五日、月曜日。先負。善羽の視力は左右ともに1・5だ。学生時代までは2・0だったが、教師になってから視力が落ちた。それでも、カレンダーに書いてある六曜の文字は読める。

「あと一週間で新学期ですねえ」

 誰にともなくつぶやいてみると、隣の先輩教諭が、

「ですねえ」

 と、また律儀に返してくれた。

 夏休みの間に、たまった仕事を片付けるつもりだったが、終わりそうになかった。長期休み期間は、ここぞとばかりに研修や研究会があり、行ったら行ったで報告書を書かなければならない。元から事務作業は苦手である。

 今日は午前中に部活動もあった。善羽は男子バレー部の顧問だ。バレーは遊び程度にしかやったことはなかったが、自分なりに勉強して、最近ようやく指導っぽいことができるようになってきた。顧問の仕事は時間を取られるが、身体を動かすことが好きな善羽にとっては、いい気分転換になっている。

 受け持ちのクラスは、一年二組。善羽の担当教科は社会科だ。収集している手ぬぐいをトレードマークとしていつも首に巻いているが、生徒たちは善羽のことを「よしわ」、もしくは「よっしー」と呼ぶ。期待していた「手ぬぐい先生」とは、誰一人として呼ばない。

「それ、ダサいから、やめたほうがいいよ」

 と手ぬぐいを指さし、生徒は言う。ムカつくけど、くじけない。手ぬぐいを首に巻いて教壇に立つことは、続けようと思っている。

 手ぬぐいは便利だ。首にかけておけば、夏はいつでも汗を拭えるし、冬は首があたたまる。ちなみに今日の手ぬぐいは、伊香保温泉で購入したもので、伊香保の町並みが描いてある。

 職員の夏休みは交代で取ることになっていて、善羽は八月の頭に休暇を取った。大学時代の友人の航一こう いちと道後温泉で二泊した。互いに温泉好きで、のぼせるまで何度も温泉に入った。

 航一は大学卒業後、地元の埼玉に戻って、善羽と同じくこの春から教員になった。航一の出身校である川越の小学校だ。三年生のクラス担任だそうだ。かわいくて生意気でかわいい、と温泉に浸かりながら何度も言い、小三のかわいさには劣るかもしれないが、中一だって、かわいくて生意気でかわいいぞ、と善羽は張り合うように返した。

 温泉は最高だった。何度も入り、ゆっくりと筋肉をほぐすことができて、筋肉が喜んでいるのがわかった。旅館も心づくしの料理だったし、酒もうまかった。

 互いの学校の話に花が咲き、航一も大変そうだったが、部活動がある分、自分のほうがもっともっと大変だと主張し、善羽は、勝ったと思った。

 けれど、そんな勝負に勝ったがゆえに、恋人にフラれたのだった。大学三年から付き合いはじめた同い年の彼女とはひそかに結婚も考えていたが、六月にフラれた。あまりに忙しすぎて、大学を卒業してから一度しか会えなかったのが要因だ。

 なんとかゴールデンウィーク中の一日をデートに充てられたが、その前後はデートの時間を捻出できなかった。会いたくないの? と何度も問われ、もちろん会いたいよ! と素直な気持ちで答えたが、だったら行動してよと言われ、わかったと返事をするも、実行に移せない日々が続いたのだった。

 一方の彼女は市役所に就職し、ほとんど毎日定時で上がれるらしかった。善羽は、夏休みに汚名返上しようと意気込んで、どこに行こうかといろいろなプランを考え、うきうきと彼女に連絡したが、もう限界なのと言われ、同じ課の先輩から告白されていると白状した。その人と付き合おうと思っていることも。

 ちゃんとするから! そんなこと言わないでくれ! 許して! お願い! と、しつこく食い下がったが、ちゃんとできないことは自分でもわかっていた。デートに使える時間など、今の状況では作れなかった。結局、その電話でフラれた。

 一方、航一には最近、彼女ができた。同じ小学校に勤める一つ年上の女性だそうだ。航一が告白して、晴れて付き合うことになったと聞いた。

 

「9月1日の朝へ」は全3回で連日公開予定