10 ボート
その金曜日も、希子は朝から部活に出た。
練習は午前中までで終わったけれど、希子たち二年生の女子部員は教室に集まって、持参したお弁当を食べた。この後にも別の予定がある。
女子バスケ部では毎月、同学年の子たちでささやかなお誕生日会をやっている。その月に誕生日を迎えた子に、他のみんなでお金を出しあって、好きなデザートをおごってあげることになっている。
全員で学校を出て、大通り沿いのファミレスに向かった。これまでにも、誕生日会の会場として何度か利用したことがある。部員のひとり、コバの従姉が副店長として働いていて、中学生だけでもなんとなく安心だし、一番奥の広いテーブルを予約席としてとっておいてもらえる。
いつもどおり、ひとりずつドリンクバーを注文した。七月生まれのユッキーはパフェを選び、希子たちも順にひとくちずつ味見させてもらった。
「来月は希子だね」
希子の向かいに座っているユッキーが、半分くずれたパフェにスプーンを突き刺しながら言った。ぼんやりオレンジジュースを飲んでいた希子は相槌を打ちそこねてしまって、あ、うん、と一拍おいて答えた。
「大丈夫?」
顔をのぞきこまれた。
「元気出しなよ。これあげる」
パフェにのっていた、真っ赤なさくらんぼをひょいと差し出されて、反射的に口を開ける。もぐもぐ咀嚼していると、
「いや、あれはないでしょ」
と、コバも話に割りこんできた。
「悪気はなさそうだけどね」
「ないだろうけど、そこがよけいにだめじゃない?」
「言えてる」
他の子たちも、次々と加わる。
「冷めるよね、ああいうこと言われたら」
冷めたというより、まだ熱くなる前だった、と表現すべきかもしれない。
夏休みがはじまってすぐ、希子は先輩とふたりで出かけた。映画を観て、ショッピングモールをぶらつき、ケーキを食べた。
どんな感じだったか報告するように、ユッキーたちにはあらかじめ厳命されていた。希子と先輩がふたりきりで遊びにいくことになったというのは、すでに部内でちょっとしたニュースになっていた。先輩が同じ三年生の男子に話したらしく、そこから女子へ、さらに下の学年にも、あっというまに広まってしまった。気恥ずかしかったけれど、助かったともちょっと思った。自分で言いふらすのも変だし、かといって皆に黙っているのも水くさい気がして、困っていたところだった。
明くる日、部活がはじまる前に、みんなに取り囲まれた。
「どうだった?」
「楽しかった?」
くちぐちに聞かれて、ええと、と希子は口ごもった。もったいをつけたわけでも、ごまかそうとしたわけでもなくて、前日の感想としてぴったりの言葉がとっさに思い浮かばなかった。
「つまんなかったの?」
ユッキーが眉をひそめた。
「つまんなくはなかった、けど」
「けど?」
「みんなと遊びにいくほうが、楽しい」
「ええー?」
不満げな声が上がり、意味ありげな目くばせがかわされた。皆を代表するかのように、ユッキーが優しく言った。
「ありがとう、希子。でも、うちらに気を遣うことないんだよ」
「いや、そうじゃなくて。なんか、ちょっと、違ったっていうか……」
「ああ、映画の趣味?」
「ううん、映画はおもしろかった」
「じゃあ、なに? 先輩のどこがだめだったの?」
コバが鋭く切りこんでくる。
「だめ、っていうんじゃないけど」
どの映画を観るか、希子の好みを先輩は優先してくれた。ケーキ代も気前よく払ってくれた。そんな先輩の株を下げてしまうようなことは言いたくないけれど、ユッキーたちをかわすのは難しそうだった。
希子は観念して口を開いた。
「ちっちゃいほうがかわいいよ、って言われた」
ユッキーとコバが口をつぐみ、顔を見あわせた。
発端は、ビーチサンダルだった。
映画館を出て、ショッピングモールの中をぶらついていたときに、雑貨店の前を通りかかった。季節柄、店先には色とりどりのビーチサンダルがずらりと並んでいた。
「ほしいの?」
先輩がたずねたのは、希子の視線が無意識にそっちへ吸い寄せられているのに気づいたからだろう。
ビーチサンダルがほしかったわけではない。伊豆でタケさんたちの家に泊めてもらった夜に、春くんとかわした会話を思い出していたのだ。おれはビーサンだな、と春くんは言っていた。自虐っぽく、そのわりには明るい口ぶりで。
一瞬、先輩にもその話をしようかと思ったけれど、踏みとどまった。春くんのことを説明するだけでも長くなってしまいそうだ。この先もっと親しくなったとしたら、いずれ話す機会もあるかもしれないけれど、今はまだ早いだろう。
首を横に振り、それだけだとそっけなさすぎた気がして、
「でも、かわいい」
と言い足した。実際、よく見たら、陳列されているビーチサンダルはどれもかわいかった。手前の一足を、手にとってみた。頼りなく軽い。
「もっと厚底だったらいいのに」
希子がなにげなく言うと、先輩は首をかしげた。
「厚底が好きなんだ?」
「好きっていうか……わたし、背が低いから……」
希子はもごもごと答えた。子どもっぽい言い分に聞こえてしまいそうで、ちょっと恥ずかしかった。
「なんだ」
先輩がくすりと笑った。やっぱり言わなければよかったと希子は後悔した。背が高い先輩にとっては、理解しづらい発想だろう。
続きを聞いて、もっと後悔した。
「気にすることないのに。ちっちゃいほうがかわいいよ、女の子は」
そこまで話すと、さっきと同じく、みんながざわついた。
「ええー?」
ただし、声はさっきよりも低かった。
希子がどれほど身長のことを気に病んでいるか、皆知っている。さらに、少しでも背が高くなりたいというのは、バスケを本気でやっている女子なら誰しも共感できる願いでもある。
「それは、ないね」
ユッキーが厳かに判決を下した。
「無神経すぎ」
「ありえん」
他の子たちも競いあうように同意した。希子の危惧したとおり、二年生の女子の間で、先輩の好感度はまたたくまに急降下してしまったようだった。
「次いこ、次」
コバが自分の紙コップを希子のコップにぶつけ、ユッキーがうんうんとうなずく。
「大丈夫。サイズとは関係なく、希子はかわいいから」
「ありがと」
希子は笑顔を作った。みんなが希子のために憤慨し、元気づけようとしてくれている。その気持ちはありがたいし、先輩のとんちんかんな発言にがっかりさせられたのも事実だった。
でも、ユッキーたちの目に希子が本調子でないように見えているのだとしたら、それは先輩のせいじゃない。話を振られるまで、先輩のことはすっかり忘れていた。
不自然にならない程度の間をおいて、希子は腰を浮かせた。
「ドリンクバー行くひと?」
空になったコップを手に、皆がてんでに立ちあがる。
希子はちらりと壁の時計に目をやった。もうじき二時だ。小笠原慶太郎は、そろそろ鍼灸院に着く頃だろうか。
希子ちゃんしだいだよ、と綾乃ちゃんは言っていた。
会う気がないなら、この話は忘れて。でも、もし会ってみたいんだったら、診察が終わって外に出てきたところをつかまえるのがいいかも。ひとりじゃ不安なら、わたしもつきあうよ。どうする? 会いたい? 会いたくない?
わからない、と希子は例によって答えた。今朝になっても、会いたいのか会いたくないのか、まだわからなかった。どっちつかずの態度を、綾乃ちゃんはもどかしく感じているはずだけれど、特になにも言わなかった。希子にプレッシャーをかけないように、そっとしておいてくれているのだろう。
三時過ぎに、ファミレスを出た。
分かれ道で何度かバイバイと手を振りあって、五分ほどで希子はひとりになった。この期に及んでも、いまだに結論は出ていない。
小笠原慶太郎に、なにがなんでも会いたいとは思わない。一方で、どうしても会いたくないとも思わない。
施術の内容によって、所要時間はまちまちだが、たいがいは一時間から二時間程度で終わる。二時からの予約なら、すでに帰ってしまっている可能性もある。それならそれでいい。むしろ、そのほうがいいようにも思える。かといって、どこかに寄り道して時間をつぶそうという気にもならない。
歩道橋を渡り、脇道に入る。三差路に面した、母屋のほうの玄関口が、ななめ前に見えてきた。同じ敷地内に、背中あわせに建てられた鍼灸院の入口は、ほぼ真裏に位置している。
ふだんなら、このまま門をくぐって、玄関のドアを開ける。けれど足が勝手に動いて、門の前を素通りしていた。
やっぱり、落ち着かない。のちのち後悔したくもない。
敷地の周りをぐるっと一周してみよう。それで終わりにしよう。そう決めたら、ちょっとすっきりした。
一周といっても、たいした距離ではない。垣根に沿って二度曲がると、植田鍼灸院の看板が目に入る。そのすぐ奥に入口がある。お母さんの施術を受けるときには、母屋に近い裏口から出入りしているから、こっちのほうへ回るのは意外にひさしぶりだった。細かい補修はしているものの、建物の外観はほぼ昔のままだ。お母さんは気に入っていて、レトロで風情があると言い張るけれど、かなり古めかしい。
足はとめずに、すりガラスのはまったドアを横目でうかがった。閉まっている。前の道にも人影はない。
知らず知らず、ため息がもれた。拍子抜けしたような、ほっとしたような、いずれにしても立ちどまるつもりはなかった。やるだけのことはやった。待ちぶせまでしようとは思わない。第一、もう帰ってしまったのかもしれない。
希子が次の角を曲がろうとしたそのとき、背後でドアの開く音がした。
おもての道に出てきたのは、中肉中背の男性だった。
垣根の陰で息を殺している希子には、幸い気づいたそぶりはなかった。こちらに背を向けて、すたすたと歩み去っていく。
鍼灸院から出てきたのだから、患者さんには違いない。タイミングからして、二時から予約を入れていたという「小笠原慶太郎」である可能性は高い。
ただ、彼が本当に政治家の小笠原慶太郎なのかは、後ろ姿だけでは判断できない。白い長袖のシャツにデニムを合わせ、黒いキャップといういでたちで、本人だとしたら、希子が想像していたよりもだいぶ軽装だ。インターネットで検索した画像では、大半がスーツ姿だった。
小笠原慶太郎と希子が似ている、と綾乃ちゃんから最初に言われたときは、いまひとつぴんとこなかったけれど、動画を見せられて少し考えが変わった。笑って目が細くなり、眉尻が下がると、確かに似ていなくもない。声がいいんだよね、と綾乃ちゃんは評してもいた。確かに、聞いていると安心するような、低く深い声音だった。
小笠原さん――とひとまず呼ぶことにする──は迷いのない足どりで、ひとけのない住宅街を歩いていく。頭が働かないまま、希子も後を追う。
どこへ向かうつもりなのだろう。駅とも最寄りのバス停とも方角が違う。まさか近所に住んでいるとも思えない。それとも、タクシーに乗るつもりだろうか。顔の知られた人物だから、公共交通機関は使わないのかもしれない。運転手つきの車で移動するというのもありえそうだ。このまま行けば広い通りに出るから、そこで待たせているのだろうか。いずれにせよ、車に乗りこまれてしまったら、その先は追いかけられない。でもここで呼びとめる勇気もない。
長いこと歩いた気がするけれど、せいぜい二、三分だっただろうか。
大通りの一ブロック手前で、小笠原さんは急に立ちどまった。希子もあわてて足をとめた。前へつんのめりそうになって、どうにか踏みとどまる。
ただし、息をつくひまはなかった。
小笠原さんが体をひねり、希子のほうを振り向いたのだ。
「なにかご用ですか?」
落ち着きはらった口調で、たずねる。尾行されていることに気づいていたのだろう。希子はなにも言えずに立ちすくんだ。顔全体がかっかと熱い。
小笠原慶太郎だった。
目深にかぶったキャップと口もとを覆っているマスクのせいで顔は見えづらいけれど、この声は間違いない。決して大きいわけではないのに、よく通る。
小笠原さんは返事を待っているようだったが、もう一度希子の顔をまじまじと見て、小さく首をかしげた。
「あ」
さっきとは違い、無意識にもれてしまった、というような声だった。
「あなたは」
「植田希子です」
ようやく声は出せたものの、その後が続かなかった。
わたしの「ご用」は、なんだろう。自分ですらよくわかっていないのに、答えられっこない。
「わたしの名前は、ごぞんじですよね」
つぶやいた小笠原さんは、それでも一応は名乗るべきだと判断したようだ。
「はじめまして。小笠原慶太郎です」
深々と頭を下げられて、希子もあわてておじぎを返す。「ごぞんじ」なのは、名前だけではない。生いたちも経歴も家族構成も、ひととおり把握している。綾乃ちゃんからもざっと聞いたし、その後、自分でもネットで検索してみた。
「しかし、こんなところで立ち話をするのもなんですね」
小笠原さんは左右を見回した。相変わらず、人通りはない。
「わたしの車に乗ってもらうわけにもいかないし」
小笠原さんが傍らのコインパーキングに目をやった。停まっている数台のうち、どれかが小笠原さんの車らしい。
「どこか、心あたりはありませんか。この近くで、人目のある場所がいいですね」
ためらいがちに、つけ加える。
「ただ、あまり人目がありすぎないほうが、助かります」
まず思いついたのは、先ほどのファミレスだった。それか、商店街のカフェでもいいかもしれない。でも、この個性的な声を聞きつけた他のお客さんに、正体を見破られてしまわないだろうか。名の知れた男性政治家が女子中学生とふたりで話しこんでいるのを目撃されて、あらぬ疑いをかけられても困る。
しばらく考えて、よさそうな場所をひとつだけ思いついた。
「近くに、けっこう広い公園があります」
あそこなら人目につきすぎないだろう。座って話せるベンチもある。
「ここから歩いて五分くらいです」
「じゃあ、そこにしましょうか」
小笠原さんも賛成してくれた。胸ポケットからスマホを出す。
「行く前に、あなたのお母さんにも許可をもらいましょう」
希子は反射的に首を横に振った。
「それは、ちょっと」
「え?」
画面を操作しようとしていた小笠原さんが、手をとめた。一拍おいて、なるほど、とうなずく。
「お母さんに内緒で、わたしに会おうとしたということですか」
今度は、希子がうなずいた。
「そうですか。確かに、なんにも言ってなかったな」
小笠原さんが来た道のほうを肩越しに振り返って、つぶやいた。後半はひとりごとのようだった。
「でも、やっぱり、おうちのひとに知らせないわけには」
この状況で頼れそうなおとなといえば、ひとりしかいない。綾乃ちゃん、と言いかけて言葉を変える。
「姉でもいいですか?」
「お姉さん?」
ふむ、と小笠原さんは思案するように腕を組んだ。
「おいくつでしたっけ?」
綾乃ちゃんの存在も知っているらしい。お母さんから話を聞いているのだろう。
「二十二歳です。大学生です」
しっかり者の綾乃ちゃんなら、保護者の役割を果たしてくれるはずだ。
「わかりました。では、お姉さんに連絡してもらえますか。できれば電話で、直接話したほうがいいでしょう」
てきぱきと言われるままに、希子はスマホを取り出した。
「もしもし?」
綾乃ちゃんはすぐに出た。
「なにかあった?」
鋭い。もともと希子のことを気にしてくれていたのかもしれない。目の前に立っている小笠原さんの視線を受けとめながら、希子は小声で答えた。
「会ったよ。小笠原さんに」
「ええっ」
綾乃ちゃんのほうは、大声を出した。小笠原さんにまで聞こえたかもしれない。
「それで?」
「会ったっていうか、会ってる。っていっても、道端にいるんだけど。こんなところで立ち話もできないし、どこかに移動しようってことになって、まず家族に連絡するようにって言われて」
たどたどしい説明ながら、綾乃ちゃんにも事の次第がのみこめたようだった。
「希子ちゃん、ひとりで大丈夫? 家の近くにいるんだね? わたしも帰ろうか? 今大学なんだけど、急げば三十分くらいで着くと思う」
綾乃ちゃんはせかせかと言う。とりあえず最初の質問に、希子は答えた。
「大丈夫、だと思う」
小笠原さんの物腰からして、危険な目に遭うことはないだろう。むしろ、できる限り慎重にふるまおうとしているのが伝わってくる。希子のためだけでなく、自分自身のためでもあるだろうが。
「そう?」
考えこむような間をおいてから、「まあ、水入らずのほうがいいかもね」と綾乃ちゃんも同意してくれた。
「お母さんは?」
「なにも言ってない。外の道に出てきたところを追いかけたから」
「ああ、それで、わたしに電話をくれたのか。これから移動するって言ったけど、どこに行くつもり?」
「公園はどうかなと思って」
「いいかもね。人目もあるし。あ、でも、ありすぎてもまずいのか」
綾乃ちゃんも小笠原さんとまったく同じことを言っている。
「電話、かわってもらってもいい?」
「うん」
黙って見守っていた小笠原さんに、希子はスマホを手渡した。
「はじめまして。小笠原です」
小笠原さんは先ほどと同じく丁重に名乗った。
「ええ、そうです。妹さんと、少しお話ができればと思いまして」
穏やかな声音を聞いているうちに、希子も少しずつ落ち着いてきた。
対面してほんの数分で、小笠原さんに親しみのようなものさえわいてきているのは、感じのいい丁寧な口ぶりのせいだろうか。それとも、ひょっとして、やはり血がつながっているからなのか。
「もちろんです。ご安心下さい」
小笠原さんが綾乃ちゃんに言った。
「話が終わったら、おうちまで妹さんをお送りします」
それまでとは逆に、希子が先に立ち、小笠原さんが後をついてくるかたちで、公園まで歩いた。
途中で、小笠原さんが電話で話している声がとぎれとぎれに聞こえてきた。どうしてもはずせない緊急の用が入った、と言っている。仕事がらみの連絡だろうか。もともと予定が入っていたのかもしれない。国会議員なのだから、分刻みでスケジュールが詰めこまれていてもおかしくない。
園内には思ったよりも人出が多かった。曇り空のせいで、暑さがいくらか和らいでいるからだろうか。空いているベンチもいくつかあるけれど、両隣が埋まっていると落ち着かない。
ここぞという場所が見あたらないままうろうろしていたら、小笠原さんが歩調を少し速めて希子の横に並んだ。街なかの道路に比べて、ここは「人目」がそこまで多くないと判断したのかもしれない。
間を誰かが通れるくらいの距離は、保たれている。それでも、おさまりつつあった緊張がまたぶり返してきた。
「あれは、どうでしょう?」
小笠原さんが池のほうを指さした。水面にボートが何隻か浮かんでいる。
ここの池ではボートを貸し出していて、希子も小さい頃に何度か乗ったことがある。春くんが漕いでくれて、希子と翔ちゃんは水上からの眺めに見入った。さっきまでいた岸辺が少しずつ遠ざかっていくにつれ、心細いような、わくわくするような、なんともいえない気分がこみあげた。池の真ん中へと進んでいくうちに、心細さはしだいに薄れて、最後にはわくわくが残る。
はじめて泉水とお父さんもまじえてこの公園に来た日にも、ボートに乗ろうと希子は提案した。乗りたくないと泉水が固辞するなんて、思いもよらなかった。いくら誘っても、泉水は尻ごみするばかりだった。お父さんかお母さんが泉水に付き添って、後の三人で乗ってくればいいとも言われたが、結局やめた覚えがある。
ボートに乗るのは、あのとき以来かもしれない。
休日の昼間にはときどき行列もできているボート乗り場は、幸い空いていた。以前は受付の係員に料金を支払っていたが、自動券売機が導入されている。借りるボートの種類と時間を選べるのは、昔と変わらない。ボートは普通のと白鳥のかたちをしたのがあって、時間は三十分か一時間だ。
小笠原さんは普通のボートの、一時間分のチケットを買った。係員のおじさんに、希子たちの年齢差に注目されたり、小笠原さんの顔を見とがめられたりしたらどうしようかと内心そわそわしたが、無表情のままで通してもらえた。
まず、小笠原さんがボートに乗りこんだ。船底に片足を下ろした拍子に、ボートがぐらりと揺れ、バランスをくずしそうになった。後ろで見ていた希子もひやりとしたけれど、両腕を広げてうまく持ちこたえた。運動神経は悪くなさそうだ。
続いて希子の番だった。水上のボートに乗りこむのは、けっこう難しい。昔は春くんが両手でひょいと抱えて乗せてくれたものだが、もちろん小笠原さんに抱っこしてもらうわけにはいかない。
「気をつけて下さい」
小笠原さんはごく自然に、希子に手をさしのべてきた。
「すみません」
希子はちょっとどきまぎしつつも、おとなしく腕を借りることにした。ここで池に落っこちたら目もあてられない。シャツの上からひじのあたりをつかむと、布越しにほのかに体温が伝わってきた。
希子が無事にボートの片側におさまったのをみはからって、小笠原さんがオールを手にとった。
「こういうボートに乗るの、子どものとき以来です」
言いながら、ぎこちない手つきで水をひとかきする。
とはいえ、苦戦していたのは、はじめの数分だけだった。まもなくコツをつかんだようで、小笠原さんは器用にオールを操り出した。ボートはゆっくりと進んでいく。
池の中央からややはずれた、他のボートがいないあたりで、小笠原さんは漕ぐ手を休めた。ボートがとまる。
マスクをはずして、深くかぶっていた帽子のつばも少し上に向けたら、ちゃんと顔が見えるようになった。
「あらためまして、小笠原慶太郎です」
希子と目を合わせ、小笠原さんは言った。
「このたびは、お会いできてうれしいです」
言葉遣いが堅苦しい。政治家っぽいといえば政治家っぽいのかもしれない。またもや緊張がぶり返してきて、希子もぎくしゃくと会釈した。
「こちらこそ」
小笠原さんは希子と向きあったまま、しばし黙った。
希子から話すべきなのだろうけれど、なにも言葉が出てこない。あなたはわたしのお父さんではないですか、といきなり聞くわけにもいかない。小笠原さんと会えるかどうか、そこで思考はとまっていて、実際に会えた場合にどう話を進めるかまでは考えがまとまっていなかった。
もじもじしている希子を見かねたのか、かわりに小笠原さんが沈黙を破った。
「まず、わたしの理解が正しいかどうかだけ確認させてもらっていいでしょうか」
希子はうなずいた。
「あなたはわたしに、なにか話したいこと、もしくは聞きたいことがある。ただし、あなたのお母さんはそれを知らない」
希子は再びうなずいた。
「あと、これはわたしの推測ですが」
前置きして、小笠原さんは続ける。
「あなたは、わたしのことをお母さんから聞いたのではないですね?」
推測と言いながらも、ほぼ確信しているような口ぶりだった。
「となると、誰から?」
「姉です」
希子は正直に答えた。それまで柔和な顔つきを保っていた小笠原さんが、わずかに目を細めた。
「お姉さんは、お母さんから話を聞いていたということですか?」
「いいえ」
希子は口ごもった。綾乃ちゃんがカルテを盗み見したとは言えない。
「そうですよね」
さらに追及されたらどうしようかと思ったけれど、小笠原さんは重ねて問いただそうとはしなかった。数秒の間をおいて、
「質問は、以上です」
と、しめくくった。いよいよ、希子の番が回ってきたのだ。
「わたしのことを、お母さんから聞いてるんですか?」
小笠原さんのさっきの質問をまねて、聞いてみた。
「はい。施術を受けながら、たまに」
「さっき、顔もすぐにわかりましたよね」
「写真も、ときどき見せてもらっているので」
「ああ」
封筒に入っていたあの写真のことを、希子は思い出す。思えば、あれがすべての発端だったのだ。
「なんだか、すみません。勝手に」
小笠原さんが謝った。希子はお母さんからなにも聞いていないのに、自分のほうは写真まで見ていたというのが、後ろめたく感じられたのかもしれない。
「だけど、こうして実際に会うと、写真で見るのとはやっぱり違いますね」
しげしげと見つめられ、希子は気まずくなって目をふせた。
「そうですか?」
「大きくなって」
小笠原さんがしみじみと言った。これまでの、感じはいいけれど淡々と揺らがない口調とは、少し違って聞こえた。
大きくなった、と感じ入るということは、もっと小さかったときの希子と比べているのだろうか。
「わたしと会ったことがあるんですか?」
「あなたが生まれてすぐに、一度会わせてもらいました」
さっきとは別の写真が、希子の脳裏に浮かんだ。
自分史の冊子に貼ってあった一枚だ。小さな希子を胸に抱いたお母さんが、晴れやかな笑みを浮かべてカメラを──あるいは、カメラそのものというより、それを構えている人物を──見つめている。
「長野の病院で?」
希子がたずねてみると、小笠原さんはうなずいた。
「そうです」
これまでまったく思いつかなかった疑問が、希子の頭に浮かんでいた。あの写真は、いったい誰が撮ったんだろう。
春くんではない。お母さんが退院して東京に戻ってきてから、希子と対面したと言っていた。堤さんでもない。出産した後もしばらく報告がなかったと不満そうだった。お母さんの両親が長野まで訪ねていったという可能性もなくはないけれど、どうも違うような気がする。
病院で働いているスタッフだろうか。でもそれにしては、お母さんは心からうれしそうに笑っていた。
「結局、あの一度だけですね。その後は機会がなくて。今日こうしてお会いできて、よかったです」
なんだかドラマっぽい展開だな、と希子は頭の片隅で考える。
これがドラマなら、つまり希子は主人公である。となると気を散らしている場合ではないのだが、それはそれとして、かなり大きな山場には違いない。そろそろ小笠原さんが「実は僕がきみのお父さんだよ」と告白しそうな場面だろう。
だが、小笠原さんはそれきり口をつぐんでしまった。
ひょっとして、希子が前々から実の父親の存在を知っていたと小笠原さんは勘違いしているのだろうか。もしそうだとしたら、今さらもったいぶって「お父さんだよ」と告げるまでもない。
「わたしは」
思いきって、希子は口を開いた。
「実のお父さんは死んだ、って聞いてました。わたしがお母さんのおなかの中にいるときに、交通事故で」
小笠原さんは黙っている。引き続き表情は変わらないが、まなざしがいくらか鋭くなったように見えなくもない。
「でも最近になって、もしかしたら生きてるんじゃないか、って思いはじめて」
小笠原さんが眉を寄せた。なぜ、と聞かれると長くなってしまうので、希子は間をおかずに話を先へ進める。
「それで気になって、ちょっと調べてみました。昔のことを。姉や兄にも相談して、協力してもらって」
そこまでは一息に言えたものの、「調べてみた」結果を口にしようとして詰まった。小笠原さんの顔ではなく、ななめ後ろに浮かんでいる他のボートのほうへ目を向けて、次なる質問をぶつけた。
「うちのお母さんは、小笠原さんのことが好きだったんですよね?」
小笠原さんは答えない。動揺が顔に出ることこそないものの、先ほどまでのよどみない受け答えを思うと、これは難しい質問だったのだろう。
「それが、僕に会ってみようと思った理由ですか」
言ってから、小笠原さんは小さく頭を振った。
「失礼しました。質問に質問で返すのは反則ですね」
居ずまいを正した拍子に、ボートがゆらりと揺れた。希子は舟の縁をつかんで、体を支えた。
「確かに、あなたのお母さんは、僕に好意を持ってくれていました。もっと言うと、僕のほうも、彼女に好意を持っていました。いや、過去形を使うべきじゃないな。今も、好意を持っています。お互いに」
小笠原さんは咳ばらいして、ただし、と言い足した。
「好意を持っているだけです。あなたや、あるいはお姉さんが、もしかしたら疑っているかもしれないような、そういう関係ではありません。今も、昔もです。すみません、まだるっこしい言いかたになってしまいました。要するに……」
言葉を切って、小笠原さんは希子の目をじっと見た。
「僕は、希子さんの父親ではありません」
いきなり核心をつかれて、希子は声が出なかった。
「信じてもらえませんか」
小笠原さんは希子から目をそらさない。
小笠原さんのことを信用できないわけではない。表情も声も真剣そのもので、うそをついているふうでもない。けれど、このひとことだけで、はいそうですかとひきさがる気にもなれない。
「僕は政治家ですから、時と場合によっては、本当のことを言えないこともあります。ですが、この件に限っては、事実です。誓ってもいい」
黙っている希子に、小笠原さんがたたみかける。
「いや、誓います」
そこまで言われては、あきらめるしかなさそうだった。
確実な証拠があるわけでもない。小笠原さんの言葉が真実であれば、見当はずれな疑いをかけるのは失礼だ。もしも真実ではなかったとしても、この調子では、これ以上問いただしてもらちが明かないだろう。
小笠原さんは希子の父親ではない。万一父親だとしても、そう認める気はない。どっちにしてもがっかりだ。
「実のお父さんが亡くなったのは、本当に残念です」
希子の落胆が伝わったのか、小笠原さんはとりなすように言う。
「でも、今のお父さんとも仲がいいんでしょう? あと、彼女の前のご主人とも、交流があるとか」
お母さんはそんなことまで話しているのか。
「もちろん、誰かがそのまま誰かのかわりになれると言うつもりはありません。それぞれ別の人間ですから。でも、あなたのそばには、あなたのことを大事に思っているおとなが何人もいる」
優しい声で、小笠原さんは続ける。
「あとは、お母さんも」
「それは、そうですけど」
そんなことは希子にもわかっている。今の家族に不満があるわけでもない。現に、この春先までは、実父についてことさら知りたいとも思っていなかった。
「お姉さんも、あなたのことをずいぶん心配しているようでしたし」
その綾乃ちゃんに、実のお父さんのことをあまり気にしたことがないと希子が言ったら、びっくりされたのを不意に思い出す。自分のルーツを知りたがるのは当然の欲求だ、と言われたのだった。ルーツというのは、根っこという意味らしい。根っこがぐらついているせいで、不安定というか落ち着かないというか、よるべない気持ちになるのだろうか。
とはいえ、自分でもうまく言葉にできないこのもやもやした気分を小笠原さんにうまく説明できるはずもない。
「お母さんとは、昔から知りあいなんですよね」
話題を変えてみた。
「はい。あなたのお母さんは、もともと僕の妹と友達で……」
小笠原さんは希子の顔を見て、中途半端に言葉をとぎらせた。
「それも、もうごぞんじでしたか」
「はい。華子さん、ですよね」
小笠原さんがかすかに目を見開いた。長らく疎遠になってしまっているらしいし、希子が名前まで知っているのは意外だったのかもしれない。
「それも、姉から聞きました」
希子は補足した。
「母に連れられて、会ったこともあるらしくて。小さい頃に」
小笠原さんが口を開きかけ、思い直したようにまた閉じた。親友どうしの仲違いの原因を作った張本人としては、気まずいのかもしれない。
「ああ、そうでしたか」
とだけ言って、話を戻す。
「最初に会ったのは確か、僕が大学生で、彼女が高校生のときです。うちに遊びにきていて。そのときは、お互いに軽く挨拶しただけでした」
それから何年も、顔を合わせる機会はなかった。
「妹の話に、名前は出てきてましたけどね。そのうちに妹も就職して、お互いに忙しくなって」
同じ家で暮らしていても、兄妹で会話する時間はほとんどなかった。そんな激務がたたり、小笠原さんは体をこわしてしまったそうだ。
「いわゆる、過労です。お恥ずかしい話ですが、自律神経をやられてしまったみたいで。ああいう不調は原因を特定しづらくて、治療も難しいんですよね。僕の場合も、何人か医者にかかったんですが、なかなかよくならなくて」
弱り果てている兄を見かねて、美佐ちゃんに診てもらいなよ、と華子さんが進言したという。
当時、お母さんは中国の修行先から帰ってきて、都内の鍼灸院に勤めていた。華子さんも、親友の鍼治療をすでに何度か受けたことがあった。ひどい肩こりが驚くほど楽になったという。それで、兄の体調不良にも効くのではないかと思いついたらしい。
「ここだけの話、最初は半信半疑だったんです」
小笠原さんは、それまで一度も東洋医学の治療を受けたことがなかった。効果には個人差が大きいとも聞いていた。その時点ではそこまで親しくなかったとはいえ、知人に体を診てもらうというのも、なんとなく気が進まなかった。
だが、小笠原さんの懸念はいい方向に裏切られた。
「はじめて鍼を打ってもらったときは、感激しました。体がすうっと軽くなって、心からリラックスできて……気づいたら、僕は泣いていました」
なぜなのか、自分でもわからなかった。ただただ涙があふれてきた。
ごく幼い頃を除けば、小笠原さんは人前で泣いたことがなかった。小笠原家の長男として、そのように躾けられてきたからだ。にもかかわらず、妹の親友の前で無防備に涙を流していることに、当然ながら狼狽した。みっともないところを見せて申し訳ないと詫び、しかし、詫びている間も涙はとまらないのだった。
「彼女は黙って、僕の背中をさすってくれました」
そのときの小笠原さんの気持ちを、希子も想像できる。幼い頃から、希子が泣いていると、お母さんはそうやって慰めてくれた。
こうして、小笠原さんの鍼灸院通いがはじまった。
最初のうちは、体が楽になって助かる、というごく単純な動機だけが働いていた。けれど日を重ねるごとに、お母さんと会って話すことが、治療そのものと並んで──やがてはそれ以上に──小笠原さんの喜びとなっていった。
診察の日を、小笠原さんは心待ちにするようになった。
「ごぞんじでしょうが、彼女はすばらしく聞き上手で。誰にも言えないようなことも、自然に話せてしまう」
希子は黙ってうなずいた。これもまた、希子自身にも経験がある。お母さんとふたりきりで施術を受けていると、体だけでなく心もゆるんで、やわらかくなっていくように感じる。
「しょっぱなから、情けない姿をさらしてしまいましたしね。今さらとりつくろっても遅いだろうって、開き直ったところもあったんでしょう」
体調が完全に快復した後も、小笠原さんは通院を続けた。
「いつのまにか、彼女は僕にとってかけがえのない存在になっていました」
小笠原さんは静かに、それでいてきっぱりと言う。
「そのときは、でも、恋愛感情じゃなかった。僕が彼女に、一方的に頼っていただけでした。彼女にとっても、僕は単なる患者のひとりにすぎなかった。そもそも、僕にも彼女にも家庭があった」
「家庭……」
希子が思わずつぶやくと、小笠原さんは浅くうなずいた。
「その後、状況は少し変わりました」
お母さんが春くんと離婚したのは、小笠原さんが鍼灸院に通い出して一年ほど経った頃のことだった。
「妊娠中だったこともあって、彼女はずいぶんナーバスになっていました。僕はなんとか力になりたいと思いました」
それまでは、自分が一方的に助けてもらうばかりだった。だから今度は、こちらが助ける番だと気をひきしめた。
「僕がきついときに立ち直れたのは、彼女のおかげでした。いわば恩人です。その恩を、少しでも返したかった」
そこから、ふたりの距離がぐっと縮まった。医師と患者の関係を越え、小笠原さんの言葉を借りれば「対等な友人どうしとして」つきあいがはじまった。
「親しくなればなるほど、僕は彼女にどんどん惹かれていきました。最初は遠慮していた彼女のほうも、少しずつ僕に気を許してくれるようになりました」
魂のかたわれ、と当時のお母さんは言っていたらしいが、そんなふうに感じていたのは、お母さんのほうだけではなかったのだろうか。
「それで……」
小笠原さんが急に口を閉じた。視線を希子の肩越しに、背後に向けている。希子も体をひねって後ろをうかがった。
ボートが一隻、こちらへ近づいてきていた。若い男女のふたり連れが、希子たちと同じく向かいあわせに乗っている。明るい笑い声がここまで響いてくる。ボートはぐらぐらと絶えず揺れていて、いかにも危なっかしいけれど、そんなことはまるで気にならないようだ。
希子の見る限り、ふたりはお互いの姿しか視界に入っていなさそうだが、小笠原さんは用心を怠る気はないらしかった。帽子を深めにかぶり直し、オールをつかんで池の端のほうへと漕ぎ出した。水面をすべるボートの両脇に波が立ち、波紋がなめらかに広がっていく。
漕ぐ手をとめた後も、小笠原さんが口を開こうとしないので、希子はつい催促してしまった。
「それで、どうなったんですか?」
「結論からいうと、どうにもなりませんでした」
小笠原さんが答えた。声も表情も平静だったが、ひと呼吸おいて、ため息まじりに言い添えた。
「ならなかった、というと語弊がありますね。どうにもしない、と決めたんです。ふたりで話しあって」
「好きなのに?」
「好きだからこそ、です」
小笠原さんは苦笑した。
「こうして口に出すと、なんだか照れますね」
冗談かと思いきや、きまり悪げにオールをもてあそんでいる。
「スキャンダルとか、そういうのですか」
「そういうの、ですね」
小笠原さんが認めた。
ふたりで新たな人生を一からやり直す、その可能性に心が傾いたことがないわけではなかった。でもやっぱり、どう考えても、そのために払わねばならない犠牲があまりにも大きすぎた。
「彼女と一緒になるとしたら、僕は多くのものを手放さざるをえない。彼女はそれを望みませんでした」
離婚はまず不可能だろうね、と綾乃ちゃんも言っていた。だってこの奥さん、与党の幹事長の娘だよ。小笠原さんが失うものは、「多く」どころか「ほとんどすべて」になりうる。
「それに、僕は僕で、彼女を巻き添えにはしたくなかった」
ふたりとも、お互いの人生をそこなってしまうことを、お互いにおそれた。そういう意味でも、気が合っていたといえるのかもしれない。
「彼女は僕なんかより、はるかに自由な精神の持ち主ですが、でも、感情にひきずられて周りが見えなくなるようなことはありません。自分たちさえよければ周囲はどうなってもいいとも思いません。特に、子どもたちを不幸にはできない」
それぞれの場所で生きていこう、とふたりは約束した。互いの健やかで充実した人生を願い、見守りあうことにした。
「きれいごとだと思いますか」
小笠原さんに問われて、希子は答えられなかった。
ふたりの決断を否定するつもりはない。両想いにもかかわらず、複雑な事情のもとで身動きがとれなくなるというのは、ドラマや漫画なんかでもよく見かける展開だ。しかし現実に、それもこんなに身近なところで、そんな「ドラマ」が起きていたなんて、どうも実感がわかない。
「十代や二十代なら、もっと違う選択肢もあったかもしれません。でも、僕たちはもう若くない。そこまで無鉄砲にも利己的にもなれません」
小笠原さんが若者たちのボートのほうをちらりと見やった。先ほどよりもだいぶ遠ざかっているものの、くすくす笑いあう声が風に乗ってきれぎれに運ばれてくる。
「この十年以上、物理的にはそばにいられなくても、僕にとって彼女は精神的なよりどころになってくれました。これからもずっと、失いたくない」
小笠原さんが希子のほうに向き直った。
「こんなことをあらためて言うのもなんですが、だから、一線は越えられません。きれいごとでもなんでもなくて、リスクを避けるためです。万が一誰かに疑われたとしても、僕たちはそういう関係ではない、と胸を張って誓えます」
まさにさっき、希子は胸を張って誓われたばかりだ。
心の中で想いあうのは自由、ということだろうか。法的に不倫として断罪されるような関係ではない。しかしそうはいっても、たとえば小笠原さんの奥さんにしてみれば、自分の夫とよその女性が気持ちを通じあわせているのはいやじゃないだろうか。希子なら絶対にいやだ。
「すみません、込み入った話をしてしまって。でも、あなたには誤解してほしくなかったんです」
小笠原さんは姿勢を正した。
「自分で喋っておいて、こんなお願いをするのもおかしな話ですが、このことは内密にしておいてもらえないでしょうか」
「わかりました」
希子はそう答えるほかない。
「できれば、お姉さんにも」
小笠原さんとなにを話したか、綾乃ちゃんはもちろん知りたがるに違いない。うまく受け流せるだろうか。
「他には、誰も知らないんですか?」
「あとは、僕の妹くらいですね。ああ、それから妻もか」
「えっ」
声が裏返ってしまった。ぶしつけだろうかと気がひけつつ、こわごわ質問してみる。
「奥さんは、怒ったりしないんですか?」
「まさか」
小笠原さんは言下に否定した。
「お互い様ですしね」
妻のほうにも、夫と同様に、長く想い続けている相手が他にいるという。結婚前からの仲なんです、とこともなげに言う。
「僕は気にしていませんでした。すべて承知の上で結婚しましたし。妻にもそう言っていたんですが、本人としては気がねがあったんでしょう。怒るどころか、ほっとしたみたいでした」
もはや、裏返った声すらも出なかった。完全に希子の理解を超えている。
「われわれが結婚することは、子どもの頃から決められていたんです。俗に言う、許嫁というやつで」
これまた、ドラマや漫画みたいな話がはじまった。押し黙っている希子を見やり、小笠原さんが小さく笑った。
「そんな顔をしないで下さい。この業界では、そこまで珍しいことでもありません。なにしろ縁故がものを言う世界です。親戚関係はとても重要なんです」
演説の原稿を読みあげるかのように、淡々と続ける。
「今どき、こういうのははやらないんでしょうが。特に、若いひとには抵抗があるかもしれませんね。ただ、それなりに合理的なシステムでもあるんです。双方が納得さえしていれば」
小笠原さんは平然と言ってのけた。これまでひとあたりがよく誠実な印象が強かったのに、それこそ合理主義的ともいえる冷徹な一面がのぞいた気がして希子はどきりとする。ひょっとすると、政治家としては、こちらのほうが表の顔なのだろうか。
「われわれ夫婦は、趣味や価値観はあまり合いませんが、ここに関しては意見が一致しています。結婚そのものは親の意思にしても、運命共同体として連帯するというのは、僕たち自身が決めたことです」
運命共同体として連帯、と希子は頭の中で繰り返す。なにやら堅苦しいけれど、広い意味ではわが家にもあてはまっているのかもしれない。恋愛感情ではなく意思によって、かたちづくられた家族だ。
そこまで考えて、はたと疑問がわいた。
小笠原さんの言い分を信じるなら、希子の実の父親は別にいる。希子が生まれる前に死んでしまったというその男性が、もしもっと長生きしていたなら、お母さんは結婚するつもりだったのだろうか?
「わたしの実のお父さんのことを、お母さんはどう思ってたんでしょうか?」
小笠原さんにぶつけるべき質問ではないだろうけれど、口にせずにはいられなかった。
「小笠原さんのことがそんなに好きだったのに、そのひととつきあって、子どももできたってことですか?」
小笠原さんとはどうせ一緒になれないから、やけになっていた? それとも、一時的によそ見しただけ? もしくは、彼のほうにも他に本気で好きな相手がいて、「お互い様」だった?
小笠原さんの言うように「双方が納得さえしていれば」、問題ないのかもしれない。とはいえ、その結果として誕生した希子は、なんともいえない気分だ。
お母さんは、どんな気分だったんだろう? 子どもを授かったとき、産み落としたとき、どう感じたんだろう?
小四のときの自分史の宿題で、生まれたときの話はひととおり聞いている。出生時刻と場所、身長に体重、お産が徹夜の長丁場だったということも。
でも、お母さんの気持ちまでは、聞かなかった。
「それは……」
小笠原さんは珍しく言いよどんだ。。
「すみません。小笠原さんに聞くことじゃないですよね」
希子は気まずくなって謝った。
あの宿題では、名前の由来も教えてもらったのだった。周囲に希望を与える子になるようにと願って名付けたのだとお母さんは言っていた。
そのお母さんに、希子ははたして希望を与える存在だったのだろうか。
「いえ、謝ることじゃありません」
首を振った小笠原さんは、てきぱきした口調に戻っていた。
「ただ、確かに、僕にはちょっと答えられませんね」
いつのまにか、風が強くなってきた。ボートが小刻みに揺れている。
公園を出て、小笠原さんに家まで送ってもらった。
「お元気で」
別れ際に、小笠原さんは言った。
「ありがとうございます」
たぶんもう会うこともないだろう。もっとなにか言っておくべきことがあるような気もしたけれど、うまく言葉が出てこなかった。結局、希子は頭を下げただけで、去っていく小笠原さんを見送った。
玄関のドアを開けると、家族の靴が並んでいた。綾乃ちゃんはもう帰ってきたようだ。翔ちゃんと泉水も家にいるらしい。
リビングをのぞくと、綾乃ちゃんがひとりで文庫本を読んでいた。
「ただいま」
希子が声をかけたら、綾乃ちゃんは本を放り出した。
「おかえり。どうだった?」
ひそひそとたずねる。報告すべきことはいろいろあるけれど、まずは最も大事な一点を伝えることにした。
「違った」
綾乃ちゃんにつられて、小声になった。
「え」
「小笠原さんは、わたしの父親じゃなかった……少なくとも、本人はそう言ってた」
綾乃ちゃんが息をのんだ。
「ほんとに?」
「うそをついてる感じじゃなかった。誓う、って約束してくれたし」
目を見開いていた綾乃ちゃんが、しょんぼりと肩を落とした。
「じゃあ、全部わたしの勘違いだったんだ。ごめんね」
「ううん、綾乃ちゃんのせいじゃないし」
それに、綾乃ちゃんの推理が「全部」間違っていたわけでもなかった。
「お母さんと小笠原さんは、両想いなんだって」
「ええ?」
綾乃ちゃんの声がまたもやうわずった。
「だけど、恋人関係ではない」
「どういうこと?」
小笠原さんに聞いた話を、希子は綾乃ちゃんにも説明した。ついでに、小笠原夫妻の「合理的なシステム」についても伝える。
「お互い、それで納得してるんだって。わたしには、ちょっとついてけないけど」
小笠原さんの前では言いそびれた、正直な感想ももれた。好きでもない相手と結婚するなんて、とんでもない。
「今の感覚からすると、そうだよね」
綾乃ちゃんが腕組みする。
「でも、恋愛を前提にした結婚が一般的になったのって、近代以降のことだから。比較的新しい概念ともいえるんだよね」
それまでは、結婚は家どうしの契約という意味あいが強かった。当人たちの意思や感情ではなく、親の判断や打算のもとで、ふさわしい伴侶が選ばれた。政治の世界には、今でもその旧来の慣習がまだ残っているということだろうか。
「常識も価値観も、時代によって変わっていくから」
どこか達観した調子で、綾乃ちゃんは言う。
「別の時代の人間の感覚で、間違ってるとか正しいとか、一概には決めつけられない。これから百年後とかには、どうなってるかわかんないしね。相手はAIに選んでもらう、感情に任せて結婚するなんて野蛮、みたいな感じになってるかも」
「それもやだな……」
「ああごめんごめん、また脱線しちゃった」
綾乃ちゃんが表情をひきしめた。
「小笠原慶太郎じゃないんだとしたら、本当のお父さんは別にいるってことだよね。そのへんも、なんか聞けた?」
「ううん」
正しくは、聞いたけれども答えてもらえなかった。
僕には答えられない、というのが小笠原さんの返事だった。あの場では、お母さんの気持ちは本人にしかわからない、と言いたいのかと希子は解釈した。でも今になって考え直してみれば、答えはわかっているけれど自分の口から言うわけにはいかない、という意味あいともとれる。
綾乃ちゃんの意見も聞いてみようと希子が口を開きかけたとき、キッチンのほうで物音が聞こえた。
勝手口のドアを、開け閉めする音だ。希子と綾乃ちゃんは目をみかわした。ほどなく、リビングのドアも開いた。
「希子、おかえり」
お母さんだった。
「ただいま」
かろうじて答えたものの、希子はお母さんの顔を正面から見られなかった。
「仕事、終わったの? 早いね」
横から言った綾乃ちゃんも、目が泳いでいる。
「うん」
お母さんはうなずいたものの、視線は希子からはずさない。
「希子、どこ行ってたの?」
ぎくりとした。
希子が朝から部活に出ていたことは、お母さんも知っている。練習の後、ユッキーの誕生日祝いで部のみんなと寄り道をするというのも伝えてあった。
つまり、お母さんが質問しているのは、さらにその後のことだろう。
「さっき、診察室の窓から見えたの。希子が歩いてくのが」
お母さんの声は静かだが、表情は硬かった。綾乃ちゃんが心配そうに母と妹を見比べている。
診察室の窓から見えるのは、鍼灸院の前にのびている道だ。
お母さんが「さっき」目撃したのは、「歩いてく」希子の姿だけではなかったのだろう。道の先には別の人影があった。希子が追いかけてゆくその背中も、たぶん視界に入っていたはずだ。
こうなったら、お母さんに一部始終を白状するしかなかった。
わたしにも責任があるからと言い張って、綾乃ちゃんもリビングにとどまった。希子がうまく説明できずに口ごもったり、しどろもどろになってしまったりするたびに、横から言葉を補ってくれた。
最後には、あらたまってお母さんに詫びた。
「勝手なことして、ごめんなさい」
「でも、綾乃ちゃんはわたしのために……」
おずおずと口を挟もうとした希子を目で制し、綾乃ちゃんは続けた。
「患者さんのカルテを見たりとか、今後は絶対しません」
「そうね、それはやめて下さい」
お母さんも、かしこまった調子で答えた。
「でも、もとはといえば、こっちがきちんと話してなかったせいだから」
ふうと深く息を吐いて、希子たちに頭を下げ返した。
「ごめんなさい」
てっきり、この流れで詳しい話を聞かせてもらえるのかと思ったけれど、それきり黙ってしまう。
「ああ、ごめん」
綾乃ちゃんがいきなり立ちあがった。
「わたし、はずすね。ふたりで話したほうがいいよね」
ひきとめるまもなく、あたふたとリビングを出ていった。
希子とふたりきりになっても、お母さんはまだ考えこんでいる。希子のほうから、おそるおそる口火を切った。
「なんで話してくれなかったの?」
「そのほうがいいと思ったから」
いつになく歯切れの悪い口調で、お母さんは答えた。
「なんで?」
「ちょっと込み入ってて」
込み入った話だ、と小笠原さんも言っていた。その打ち明け話を聞いた今なら、どうしてお母さんが言葉を濁すのか、希子にも察しがつく。
本当は小笠原さんのことが好きなのに、別の相手との間に子どもができたというのは、確かにややこしい事態に違いない。まさしくその子どもに向かって、そう正直には言えないだろう。
「おとなの事情、みたいな?」
遠回しな聞きかたになったけれど、お母さんには通じたようだ。
「まあ、そうね」
「そんな気を遣ってもらわなくても。わたし、もう中学生だし」
あえて軽い口調で言ってみた。ここまで踏みこんでしまったからには、全部聞きたい。起きてしまったことは変えられない。
お母さんに本当のことを話してほしい。だから、希子のほうからも、本当の気持ちをお母さんに話してみる。
「これまでは、実のお父さんがいないからって、別に困ってなかった。どんなひとか、詳しく知りたいとも思わなかった。今のお父さんもいるし。あと、お母さんも。綾乃ちゃんや翔ちゃんや泉水も」
お母さんは黙って聞いてくれている。伝わりますようにと念じながら、希子は言葉を重ねる。
「だけど、一度気になり出したら、やっぱり気になっちゃって。それで、他のひとにも聞いてみることにしたんだよ。堤さんとか、小笠原さんとか」
春くんとか、と続けそうになったのは、あわててのみこむ。お母さんには黙っておくと約束したのだ。
「綾乃ちゃんや翔ちゃんにも、相談に乗ってもらった。お母さんに直接話を聞くほうがよかったのかもしれないけど、困らせちゃったら悪いと思って」
希子はもうじき十四歳になる。まだおとなとはいえないかもしれないけれど、もう子どもではない。堤さんも小笠原さんも、それから春くんも、希子を子ども扱いせず、それぞれの知っていることを真摯に話し、率直な意見をくれた。
「自分でも、いろいろ考えた。途中で、知るのがこわくなってきたりもした。もういいやってあきらめかけたりとかも。ていうか、今でもちょっとこわい」
でも、とお母さんの目を見て続けた。
「それでも、聞いてみたいと思った」
お母さんも、希子の目を見つめ返してくる。
「希子の気持ちは、わかった」
でも、と今度はお母さんが言った。
「話せることは、もう全部話してる」
一瞬、意味がわからなかった。
「全部?」
「そう。これ以上は話せない。少なくとも、今は」
「なんで?」
そこまで頑なに秘密を守らなければならないのは、どうしてだろう。ぴんときたのは、ついさっきも似たような話を聞かされていたせいかもしれない。
「わたしの実のお父さんには、奥さんがいたの?」
お母さんがびくりと目を上げて、希子の顔を見た。
「うん」
予想外の返事ではなかった。そうだろうなと思ったから質問したのだ。けれど、こうしてお母さんにあっさり肯定されたら、返す言葉が出てこない。
「でも」
どうにか声をしぼり出す。
もう当人は死んでしまっている。しかもそれから十年以上も経っている。時効というと言葉が悪いかもしれないけれど、今さらごまかす必要はないんじゃないか。
それとも、やっぱり、生きている? 春くんはそう疑っていた。いや違う、あれはお母さんの「魂のかたわれ」の話だ。小笠原さんは確かに死んでいない。でも、希子の実父は別にいる、はずだ。亡くなった、と小笠原さんもはっきり言っていた。
頭の中がこんがらがって、ぐちゃぐちゃだ。
時効は成立しないのかもしれない。たとえ当人が死んでしまっていても、家庭があるのによその女性とつきあっていたという事実そのものは消えない。逆に、もうこの世にいないからこそ、名誉を守らなければならないという考えかたもありうるだろう。
死んでしまった当人は、言い訳も申し開きもできない。すべては、生きているお母さんにかかっている。全責任を負っているお母さんにとっては、希子の存在そのものもまた、隠し通さなければならないことのひとつなのだろう。
なぜお母さんがこれまで注意深く沈黙を守り、希子も含めた家族にすら事実をふせ続けてきたのか、そのわけがようやく理解できた気がした。
周囲に知られたくなかったのは、死者の名誉を守るためかもしれない。でも、実の娘にも真実を語ろうとしなかったのは、おそらくそれだけが理由ではないはずだ。
入り組んだ事情のもとで、厄介な荷物というべきか、おおっぴらにはできない汚点というべきか、ともかく喜ばしくない存在として希子は生まれてきてしまった。そのことを知ったら、希子が傷つくだろうとお母さんは案じたのではないか。
そうだとしたら、お母さんの懸念は的中したことになる。
「あのね、希子」
お母さんはまだなにか言おうとしているようだけれど、もう聞きたくなかった。
希子は立ちあがった。返事はせずにリビングを出て、階段を一気に駆けあがる。