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5 波風

 

 お母さんにどう切り出そうか、思案しながら家に帰ってきたら、向こうから声をかけてくれた。

「希子、足のぐあいはどう?」

 ジョギングをふだんより早めに切りあげてきたから、調子がよくないのかと心配したのかもしれない。もう帰るの、とお父さんも意外そうに言っていた。

「大丈夫」

 足首の腫れはすっかりひいて、痛みもない。学校でも部活でも、普通に動いている。お母さんと話そうと再び決意したとたんに、のんきに走っているどころじゃなくなっただけだった。

「様子を見るついでに、軽く診ようか? 夕ごはんまで時間もあるし」

 お母さんが言った。

「ありがとう」

 希子はふたつ返事で承諾した。診察室なら、ふたりきりになれる。話をするにはうってつけだ。

 まずは脈診をしてもらって、足首を見せた。大丈夫そうだねとお母さんは言っただけで、特段の処置はしなかった。ベッドに上るようにうながされ、うつぶせに横たわる。

 ふくらはぎの上をなめらかに行き来する手のひらの熱を感じつつ、希子は口を開いた。

「あのね、先週、ここで足を診てもらったときにね」

 施術を終えた後で切り出そうと思っていたけれど、正面きって向かいあうよりも、こうして顔が見えないほうが喋りやすいかもしれない。

「試合の日?」

「そう。そのときに、写真の入った封筒を拾って」

 希子はおそるおそる切り出した。お母さんの手がとまる。

「このベッドの下に落ちてて……」

「あ!」

 頓狂な声でさえぎられ、希子はびくりとして口をつぐんだ。

「そうだそうだ、忘れてた。あれ、希子に言おうと思ってたのに」

「え?」

 思いがけない言葉に、面食らう。

「なにを?」

 こわごわ聞いた。希子が封筒の中身を盗み見したことも、お母さんは気づいていたのだろうか。

「希子の写真を、渡そうと思っててね。あと、表彰状のも。春の大会の」

 お母さんはすらすらと即答した。

「誰に?」

 問い返した声が、震えてしまった。

「伊藤コーチに」

 お母さんが答え、膝の裏に手を戻した。

 伊藤コーチは、希子が小学生のときに通っていたミニバスのチームで、指導にあたってくれていたコーチのひとりだ。他のコーチはみんな、お父さんと同じくらいか、もっと年上のおじさんばかりで、伊藤コーチは紅一点だった。若くてかわいくて、しかも教えかたも丁寧なので、生徒たちから絶大な人気を集めていた。

 希子もまた、伊藤コーチのことが大好きだった。だから、国際結婚をしてアメリカに移住すると知らされたときには、他の子たちとともに衝撃を受けた。おめでたいことだと頭ではわかっていても、内心では歓迎できなかった。

「あ、もう伊藤じゃないね、ジョーンズか。夏前にまた帰国するって、この間来てくれたときに言ってたから」

 お母さんは公私をしっかり分けていて、希子たち家族と鍼灸院の患者さんとの間に交流はほぼないけれど、伊藤コーチは数少ない例外だ。

 練習の後、迎えにきた保護者どうしで雑談をしているときに、お母さんが鍼灸師だと知った伊藤コーチが関心を示したのがきっかけだった。スポーツ整体に興味があり、自分でも資格をとりたいと考えていたそうで、相談を受けたらしい。そのうちに親しくなって、渡米するまでは鍼灸院にも通ってくれていた。

「写真を見せてあげたら、喜ぶかなと思って。ワッペンの」

「ワッペン?」

「ほら、バスケのやつ。去年、お土産にもらった」

 半年ばかり前、伊藤コーチが一時帰国のついでに植田鍼灸院を訪ねてきたという話は、お母さんから聞いていた。

 希子は学校に行っていて会えなかったけれど、コーチはアメリカ土産をお母さんにことづけてくれていた。名門ロサンゼルス・レイカーズのロゴをあしらったワッペンと、おそろいのキーホルダーだ。

「ああ」

 ようやく、希子にも事の次第がのみこめてきた。

 あのワッペンは、愛用しているカーディガンに縫いつけることにしたのだった。胸もとにつけようとしていたところ、背中や袖のほうがおしゃれだと綾乃ちゃんに意見をもらって、肩の少し下、二の腕あたりにしてみた。背中もいいかなと迷ったけれど、着ているときに自分で見られないのは、ちょっともったいない。

「泉水の誕生日に、ちょうどあのカーディガンを着てたでしょ?」

 お母さんに言われるより先に、あの写真が希子の脳裏によみがえっていた。ケーキの上にろうそくを立てているところを、お父さんは横から撮っていた。

 伸ばした腕と一緒に、ワッペンもばっちり写っていた。

「お土産もらっちゃったし、次はなにかお菓子でも渡せるといいけど」

 お母さんが言う。

「でも、突然来るからなあ」

「前もそうだったんだよね?」

 当日の朝に電話がかかってきて、行ってもいいかと打診されたという。

「うん。たまにしか帰ってこないから、忙しいみたいだね。実家に顔出したり、友達と会ったり、いろいろ細かい用事もあるだろうし。隙間の時間を見つけて、寄ってくれたんじゃないかな」

 伊藤コーチはお母さんのことを慕っているようだから、がんばって時間を捻出したのかもしれない。

「だんなさんがさみしがるから、あんまり長く留守にできないんだって」

 小さく笑って、お母さんは言い添えた。

「仲がいいんだね」

「外国人って、愛情表現がストレートなひとが多いしね。もちろん個人差はあるけど、平均として」

「そういえば綾乃ちゃんが、結婚するなら日本人より外国人のほうがいいかも、って前に言ってた」

「ああ、綾乃とは合うかも」

「綾乃ちゃんも、ストレートだもんね」

 相槌を打ちつつ、だいぶ話がずれてるな、と希子は頭の隅で考える。

 封筒の中身を勝手に見てしまったことを謝ったほうがいいかと思っていたけれど、その必要はないかもしれない。希子が写真を見たことも、さらに、その事実をごまかそうとしたことも、お母さんは気にしていないようだ。忘れているのだろう。それなら、わざわざ蒸し返すこともない。

 全身の力を抜き、目を閉じる。一週間越しの謎が解けて、これで一件落着だ。

 

 中間テストの最終日、希子は昼過ぎに帰宅した。午前中の診療を終えたお母さんがうどんをゆでてくれて、大学の授業が休講になってうちにいた綾乃ちゃんも加わり、三人で食べた。

 冷たいざるうどんが、つるつると軽快にのどをすべり落ちていく。今週は急に気温が上がり、学校帰りにひなたを歩いていると汗ばんでくるほどだった。

「冷たいうどん、おいしいね」

 せっせと箸を動かしながら、綾乃ちゃんが言う。

「お父さんに作ってもらうと、味噌煮こみうどん一択じゃない? おいしいんだけど、ここだけの話、たまにあっさりしたのも食べたくなっちゃう」

「名古屋のひとだからね。普通のお出汁だと、物足りないんだって」

「逆に関西人は、東京のうどんはしょっぱくて食べられないとか言うよね。ゼミに実家が大阪の子がいて、よく愚痴ってる」

 母と姉のうどん談義に希子が口を挟まなかったのは、麺で口がふさがっていたからだ。ただし、そうでなくても、「お父さん」と聞いたり言ったりすると、最近の希子は気が散ってしまうふしがある。

 お母さんの診察室で見つけた写真の謎は、無事に解けた。ただ、あれがきっかけで実の父親についてひとしきり考えをめぐらせたのは、まだなんとなく尾をひいている。これまで意識していなかったけれど、お父さん、父親、パパ、といった言葉は、中学生の日常生活においては頻出語といえる。耳にしたり口にしたりしない日は、ほぼない。いちいち気にしていたらきりがないので、あまり考えないようにしている。

 昼ごはんの後、お母さんは午後の診療のために鍼灸院に戻り、希子は綾乃ちゃんを手伝って後片づけをした。

「テスト、おつかれさま。どうだった?」

「とりあえず終わって、ほっとしてる」

 結果はともかく、ひとまず山は乗り越えた。うちは両親とも成績に関してがみがみ言わないし、希子自身にも高望みするつもりはないから、大きく平均を下回りさえしなければ問題ない。

「わたしはこれから買いものに行こうかと思ってるんだけど、よかったら希子ちゃんも一緒にどう?」

 手際よくお皿を洗いながら、綾乃ちゃんが言った。

「新しいサンダルがほしいんだ。バイト代も入ったばっかりだし」

「バイト? なんの?」

 綾乃ちゃんがアルバイトをしているとは初耳だった。

「研究室の教授が本を出すから、そのお手伝いをしてて」

 綾乃ちゃんは誇らしげに答えた。

「っていっても、こまごました雑用しかやってないんだけどね。資料の整理とか、参考文献の確認とか。でも、正当な対価を支払いたいって先生が言ってくれて」

 さすが綾乃ちゃんの敬愛する教授だけあって、言葉遣いが難しい。

「希子ちゃんも行くなら、なんか買ってあげるよ」

 綾乃ちゃんに気前よく言われ、希子は迷わず乗った。

「行く」

 お姉ちゃんができてよかった、とあらためて思うのはこういうときだ。

 都心方面へ向かう電車に乗って、三十分もかからずターミナル駅に着いた。うちの近所にもそれなりにいろんなお店はあるけれど、このあたりの繁華街は段違いににぎわっている。綾乃ちゃんとの買いものは、このへんに来ることが多い。

 改札を抜け、通り沿いに軒を連ねるお店をぶらぶらと見て回る。

「ちょっとひさしぶりだよね、ふたりで買いものって」

「前はいつだっけ。冬休み?」

 綾乃ちゃんが来るまでは、買いものといえばお母さんと一緒だった。

 お母さんはとにかく決断が早い。さっと目星をつけて、ぱっと買う。だからといって希子を急かすわけではなく、ゆっくり考えたらいいよと言ってくれるけれど、待たせるのも悪い気がしてなんとなくあせる。こうしてうろうろとあてもなく歩き回るようなこともあまりなく、たいがいは目的の店を決めておいて直行する。

 それからもうひとつ、お母さんとの買いもので困るのは、希子がなにを試着しても、よっぽど変でない限りは「似合う」と褒めることだ。適当に言っているふうではなくて本心のようだけれど、参考にならない。希子はわりと迷い性なので、客観的な意見がほしい。その点、綾乃ちゃんのきっぱりとした助言は頼もしい。

 綾乃ちゃんは洋服にこだわりがある。

 こだわりといっても、有名ブランドに詳しかったり、ことさら流行に敏感だったりするわけではない。ただ、自分がいいと認めたものを身につけたいと言う。気に入ったら即決するお母さんとは対照的に、いくつもの候補をじっくりと見比べて、買うべき一品を選び出す。

「まあでも、結局、服が好きなのかも。服っていうか、ファッション全般か」

 はじめてふたりで買いものにいったとき、綾乃ちゃんは言っていた。

「ん? 意外?」

 希子の顔をのぞきこんで、いたずらっぽくふふんと笑った。

「なあに? そういうの、小馬鹿にしてそうな感じ?」

「小馬鹿に、っていうんじゃないけど……」

 日頃の言動からして、外見よりも内面が大事だと主張しそうだ。綾乃ちゃん自身、いつも身ぎれいな格好はしているものの、派手に着飾りはしない。

「まあね、昔はね」

 希子の内心を読みとったかのように、綾乃ちゃんは言葉を継いだ。

「服とかメイクとか髪型とか、周りの女子がきゃあきゃあ盛りあがってるのについてけなかったのは確か。なんでそんなに見た目ばっかり気にするかな、それより中身を磨いたほうがいいんじゃないの、って思ってた」

 けど、と綾乃ちゃんは続けた。

「見た目をよくしようっていう努力を否定するのも、なんか違うよね。よりよい自分になりたいって気持ちは尊重しないと。他人がけちをつける権利なんてない」

 希子の周囲でも、容姿にまつわる嘆きは絶えない。太っている、目が小さい、髪がまとまらない。外見上の不満がなにひとつない女子中学生なんて、たぶんいないんじゃないかと思う。

 希子の場合は、なにはさておき身長が悩みの種だから、顔だちや体重にはそこまで気が回っていない。というか、気を回すだけの余裕がない。もちろん、かわいいに越したことはないけれども。

 

 表通りをしばらく歩いてから狭い路地に入ると、小道のつきあたりに、ひまわりみたいな明るい黄色の庇が見えた。綾乃ちゃんのお気に入りのお店だ。希子も何度か一緒に来たことがある。

「このワンピース、すてきだね。希子ちゃんに似合いそう」

 入口のドアを押そうとした綾乃ちゃんが、道に面したウィンドウに飾られた水色のワンピースを指さした。こうして希子の好きそうな服を目ざとく見つけてみせるのも、綾乃ちゃんの得意技だ。

「うん、かわいい」

「ありそうでない色じゃない? 試着させてもらえば?」

 言いかわしながらお店に入る。いらっしゃいませ、と顔見知りの店長さんが声をかけてくれた。

 お母さんと同世代の女性だ。深緑色のふんわりしたブラウスに、裾にぐるりと花模様の刺繍があしらわれた白いロングスカートを合わせ、色とりどりのビーズを連ねた、じゃらじゃらしたネックレスをつけている。おそらくどれも自店の商品だろう。店内の雰囲気にもしっくり溶けこんでいる。

 このお店では、主にアジアや東欧の国々から仕入れた輸入品を取り扱っている。洋服だけでなく、靴やかばんやアクセサリー、生活雑貨も置かれている。素朴でナチュラルな風合いのものもあれば、いかにも外国っぽい斬新な色や柄のものもあり、けっこうまちまちな感じなのに、なぜか全体としては調和が保たれている。

「おひさしぶりです」

 綾乃ちゃんが挨拶し、希子も会釈した。綾乃ちゃんがななめがけにしている革のバッグに目をやって、店長さんがにっこりする。

「それ、だいぶいい感じになじんできましたねえ」

 二、三年前に、ここで買ったものだ。希子も一緒にいた。

「はい。大事に育ててます」

 かばんでも服でも、綾乃ちゃんは念入りに吟味して買い、何年も大切に使う。多少値が張ったとしても、すぐだめになってしまう安物を毎年買い替えるより、長い目で見れば経済的だという。

 綾乃ちゃんと同じような考えを持つお客さんが、このお店では歓迎されるようだ。商売としては、どんどん新しい商品が売れたほうが儲かるのではないかと思うけれど、そういうものでもないらしい。長く愛用できるような質のいい商品を、その価値を理解してくれるお客さんに届けたい、と店長さんは言う。綾乃ちゃんの言葉を借りれば、「志の高いお店」なのだ。

 店長さんと話しこんでいる綾乃ちゃんから離れ、希子は陳列棚のほうへ近寄ってみた。商品に添えられた説明の札に、ざっと目を走らせる。

 探していた英単語は、すぐに見つかった。フェアトレード、と心の中で読みあげる。ここへ来るたびに聞いているのに、なかなか覚えられない。

 このお店の志は、商品の仕入れにも反映されている。

「フェアは公平、トレードは取引。つまり、利益重視で安く買いたたいたりしないで、商品の値打ちに見合った適正価格で買いとるってこと」

 綾乃ちゃんは解説してくれた。

 ここに置かれている商品は、手作業で作られたものが多い。ざっくりした手編みのサマーニット、複雑な幾何学模様が織りこまれたストール、色とりどりの布地を継ぎあわせたパッチワークの手さげかばん、どれも工場で大量生産された製品とは違う、独特の味がある。値札と一緒についているタグに、作り手の名前がアルファベットで書いてある。商品ではなく作品とも呼べるかもしれない。店長さんは品物の買いつけにあたって、なるべく自ら現地まで足を運び、制作を担う職人に会うようにしているそうだ。

「サンダルは、先週たくさん入荷したところなんですよ。ちょうどよかった。今なら、色もサイズもそろってます」

「二十四・五もあります?」

「もちろん」

 店長さんがにこやかに請けあい、綾乃ちゃんはさっそく棚を物色しはじめた。入口のドアが開いて、またひとり女性客がお店に入ってくる。

「ごゆっくり」

 店長さんは愛想よく言い残し、新たなお客さんのほうへ向かっていった。

 

 綾乃ちゃんは何足も試しばきを繰り返し、迷いに迷った末に、やわらかそうな革のサンダルを選んだ。明るい茶、というよりオレンジ色に近い、バスケットボールとよく似た色みだ。そう言うと、希子ちゃんらしい表現だねと綾乃ちゃんに笑われた。

 店長さんのつけているビーズのネックレスと同じ工房で作られたというブレスレットを、希子は買ってもらった。ひとつひとつ手作りで、ビーズの色やかたちも微妙に違う。希子が選ぶのに手間どっているうちに、横で見ていた綾乃ちゃんもほしくなってきたと言い出して、おそろいになった。包装は断ってタグだけ切ってもらい、めいめい腕に巻いて店を出た。

「ワンピース、惜しかったね」

 見送ってくれている店長さんに一礼して歩きはじめたところで、綾乃ちゃんが言った。飾ってあるときはそう見えなかったが、けっこうゆとりのあるデザインで、試着してみたら希子にはぶかぶかすぎた。サイズは一種類しかなくて、綾乃ちゃんも試したけれど、反対に小さすぎた。

「ウエストはぴったりだったんだけどな。ああいうデザインって、肩がぱつぱつになっちゃう」

 綾乃ちゃんは無念そうに肩のあたりをさすっている。

「あのくらいの微妙な袖丈、好きなのにな。いかり肩には向かないんだよね」

「でも綾乃ちゃんは背が高いから、ロングスカートが似合うよね。うらやましい」

 希子の身長では、どうしてもバランスが悪くなってしまう。ともすれば、ひきずったり踏んづけたりしかねない。

「希子ちゃんも、あんまり長すぎないやつならいけるんじゃない?」

「どうかなあ」

 答えながら、綾乃ちゃんのぶらさげている紙袋に目がとまった。

「あと、そのサンダルも、わたしには無理。かわいいけど」

 底がぺたんこの靴も、希子にとっては難関である。学校指定のローファーやスニーカーはしかたないけれど、休日におしゃれしたときは厚底を合わせたい。

「そんなに気にしなくても……っていっても、気になるか」

「なる」

「いちいち気にしないで好きなものを着ればいいっていうのも、一理あるけど。でも、好きなものを着て似合ってないと、よけい悲しくなるしね」

「なるなる!」

「わたしはレースが似合わないんだ。きれいだなあっていつも思うんだけど」

「あのお店、かわいいのがいっぱいあるもんね」

「ポーランドだっけ、手編みのレース工房と仲がいいみたい。創業したときからの取引先らしくて」

 綾乃ちゃんが言葉を切り、歩道に面したカフェを指さした。

「ちょっと休憩しよっか」

 平日のせいか店内は空いていた。ケーキセットが千二百円で、コーヒーや紅茶の単品だけでも七百円もする。希子はひるんだけれど、「なんでも好きなの頼みなよ、遠慮しないでいいから」と綾乃ちゃんは太っ腹だ。

「わたしはアイス食べよっかな。暑いし」

「じゃあ、わたしも」

「五月なのにこの気温って異常じゃない? 地球温暖化、ほんとやばいよね……あ、そういえば」

 綾乃ちゃんがごそごそとバッグを探った。お店でもらったチラシを出して、テーブルの真ん中に置く。

「古着のリサイクルをはじめたんだって」

 お客さんから不要になった服を回収して、専門業者に引き取ってもらうという試みだそうだ。

「見て、これ」

 チラシの中央を指でとんと突き、綾乃ちゃんが顔をしかめた。

「ひどいよね」

 アパレル産業の大量生産にまつわる問題点が、イラストつきで解説してあるようだ。

「衣類の生産と供給には多くの資源やエネルギーが必要となり、他の工業製品と比べても環境にかなり高い負荷がかかります。製造や輸送の過程で二酸化炭素が排出され、原料となる植物の栽培や染色などで、大量の水も消費されます」

 綾乃ちゃんが低い声で読みあげる。たとえば二酸化炭素の排出量を服一着分に換算した場合、なんと五百ミリリットルのペットボトル二百五十五本を製造するのとほぼ同じという統計もある。さらに、ごみとして処分するとなると、燃やすにせよ埋め立てるにせよ、これまた地球に優しくない。そこで、古着のリサイクルによって、環境への悪影響を少しでも軽減しようという取り組みが注目を集めているらしい。

「今度、着なくなった服を持ってってみようかな。ま、うちの場合は、まずお母さんにもらってもらうって手があるけど」

 お兄ちゃんやお姉ちゃんの着なくなった服を、弟や妹におさがりとして譲り渡すということはよくあるけれど、うちではお母さんが綾乃ちゃんの服をもらい受けている。仕事中は白衣だし、外出する機会もそんなにないから、新しい服を買おうという気にあまりならないらしい。そもそも服そのものに関心が薄く、着心地さえ悪くなければなんでもいいと言っている。

 希子も綾乃ちゃんの服をもらえたらいいのだが、困ったことにサイズが合わない。似合う色も違う。綾乃ちゃんやお母さんは、黒やグレーやカーキ色といった暗い色をかっこよく着こなすけれど、希子が着ると地味でぱっとしない。妹さんは華やかな色のほうが映えますね、とさっきのお店で店長さんに断言されたこともある。

「ファッションって、一種の意思表明にもなるよね」

 チラシから目を上げて、綾乃ちゃんが言った。

「わたしはこういう服が好きです、みたいなこと?」

「うん、それもあるけど、もうちょい広い意味で……なんだろうね、支持? スタンス? ファストファッションでも、高級ブランドでも、自分で選んで、買って、身につけてるってことでしょ。それこそ、このブレスレットだって」

 手首を持ちあげ、色とりどりのビーズに指をすべらせる。

「その選択によって、わたしはこういう人間だ、って社会に提示してることになるんじゃないかな」

 またもや難しそうな話になってきた。

「わたしとかは、そんなに深く考えてないけどね」

「いや、意識的とは限らなくて。ていうか、無意識のケースも多いかも。たとえばお母さんとかは、洋服にはそんなに興味がありません、って表明してる。そういう意図はないとしても、結果的に」

 宙をにらみ、ひとことずつ言葉を重ねていく。希子に向かって意見をのべるというよりも、自分の頭を整理しようとしているようだ。考えごとに集中しているとき、綾乃ちゃんはしばしばこうなる。

「いちいち説明しなくても、服装は目に見えるからね。外見で人間を判断するのは悪、って考えかたが世の中のスタンダードになってきてるし、それはもちろん正しいけど、やっぱり視覚の影響って完全にゼロにはならないでしょ。そこを逆手にとって、積極的に発信することもできる。ある意味、アイデンティティーの表出っていうか」

 なにかしらの結論にたどり着いたのか、うんうんとうなずいている。話についていけないまま、希子はひとまず質問してみた。

「アイデンティティーって、結局なんなの? よく聞くけど」

 あちこちで耳にする単語ではあるものの、正確な意味あいがつかみきれない。

「もともとは心理学の用語なんだよ。日本語に訳すと、自己同一性とか、存在証明とか?ざっくりいえば、自分が自分である、って感覚のこと」

「自分が自分って、別にあたりまえじゃないの?」

 口にしたそばから、こんな言いかたはばかっぽいかなと思ったけれど、綾乃ちゃんはおおまじめに応えた。

「そう思えるのは、希子ちゃんの精神が健全だからだよ」

「精神が健全?……単純ってこと?」

「いやいや、健やかでまっすぐって意味。褒めてるんだよ。わたしはねじくれてるから、尊く思える」

 真顔で言われて、反応に困る。

「綾乃ちゃんは、そうやってずっといろんなこと考えてて、疲れない?」

「全然」

 綾乃ちゃんはすぐさま首を横に振った。

「考えるの、好きだから」

「そう?」

 まだ腑に落ちない希子に、綾乃ちゃんが反撃してくる。

「わたしだって、希子ちゃんを見てると思うよ。そんなにずっと体を動かしてて疲れないのかな、って。同じじゃない?」

 同じなんだろうか。運動すると、確かに体はくたびれるけれど、気分はさっぱりする。一方で、頭を使いすぎたときの疲労は、ただただしんどいだけだ。

「デカルト先生も言ってるよ。我思う、ゆえに我あり」

「あ、それは聞いたことある」

「考えることは、人間の本質だからね。大昔から」

 アイスの盛られたガラス鉢がふたつ、テーブルに運ばれてきた。考えるのはいったん棚上げにして、希子はスプーンを手にとった。ブレスレットがじゃらりと揺れる。

 

 アイスをたいらげた後、紅茶を飲んでいたら、テーブルに置いてあった綾乃ちゃんのスマホが短く振動した。

 画面を一瞥するなり、綾乃ちゃんは眉をひそめた。メッセージの着信通知が表示されているのが、さし向かいに座る希子からも見てとれた。

「誰から? 返事しなくていいの?」

「うん、大丈夫」

 綾乃ちゃんはスマホの液晶を下に向けてテーブルにふせてから、ひとつめの質問にも答えた。

「父親からだから」

 来週の日曜が、二、三カ月に一度の面会日らしい。

「ふたりで会うときって、なにするの?」

 父親、という言葉が耳の奥に残って、希子はたずねた。

「ごはんかお茶だね。今度の日曜は、ランチすることになってる」

「家で? 外で?」

「基本、外。家は落ち着かないし。こういう感じのカフェとか」

 綾乃ちゃんが首をめぐらせた。

「食べながら、ふたりでいろいろ話したりするの?」

「一応、近況報告かな。どっちかっていうと、問診っぽいね。そう考えたら、健康診断的な感じかも。定期的に受けなきゃいけない義務がある」

 皮肉っぽくしめくくる。

「ふうん、そっか」

 希子が紅茶をひとくち飲むと、綾乃ちゃんに質問を返された。

「どうしたの?」

「え?」

「いや、なんでそんなことが気になるのかなって思って」

「別に、なんとなく」

 希子は答えたが、綾乃ちゃんはたちまち表情をひきしめた。

「よかったら、聞こうか」

「いや、そんな、たいしたことじゃないんだけど」

 希子が言いよどんだのをどう解釈したのか、綾乃ちゃんがますます顔を曇らせる。

「話したくなければ、話さなくてもいいけど」

 そこまで言われて、黙っているのも気がひける。写真のことから、翔ちゃんといろいろ──半ば妄想の域まで──推理したこと、その後お母さんと話してあっけなく真相が判明したことまで、一部始終を希子はかいつまんで話した。

「それで、実のお父さんのことが気になってるんだ?」

 希子の話を聞き終えた綾乃ちゃんは、遠慮がちに口を開いた。

「逆に、これまでは、そんなに気にしてなかったってこと?」

 意外そうな口ぶりだ。希子のほうこそ、意外だった。

「綾乃ちゃんは、わたしが気にしてると思ってたの?」

「うん、まあね。気にしてない体にしてるのかなって」

 綾乃ちゃんはきまり悪そうに答えた。

「テイ?」

「そういうふりをしてる」

「ふり? なんで?」

 希子はびっくりして聞き返した。そんなつもりは全然なかった。

「うーん、わかんないけど……波風立てないように?」

 綾乃ちゃんは思案するように首をかしげている。

「希子ちゃん、今のお父さんとすごく仲がいいし。無意識に、気を遣ってたりもするのかなって……的はずれなこと言ってたら、ごめんね」

「気を遣ってるってことはないけど」

 ないと思うけど、と希子は言い直した。綾乃ちゃんの指摘するように、自分では意識しないまま、心の奥底には疑問がわだかまっていたのだろうか。お父さんに悪いから、お母さんを困らせそうだから、知りたい気持ちを押しこめようとしていたのか。

 黙りこんでいる希子を励ますように、綾乃ちゃんは続ける。

「自分のルーツを知りたいって、人間として当然の欲求だと思うよ。さっきの、アイデンティティーの話ともつながってくるよね。自分が何者なのか、どういう人間なのか、突き詰めていこうとしたら、親ってやっぱり避けて通れない」

「自分が、何者なのか……」

 そんなの、考えたこともなかった。何者、なんだろう。

「お母さんも、そのへんはちゃんとわかってるはずだけどな」

 綾乃ちゃんは言う。

「情報が少なすぎるってことに関しては、わたしも翔くんに賛成。希子ちゃんがそこまでなにも知らされてないなんて、正直びっくりだよ」

 希子の実の父が生きているんじゃないかなんて翔ちゃんが言い出したのも、それが発端だった。確かに変だと希子も思い、そのせいで、そんな突拍子もない説を信じかけてしまったのだった。

「だけど、言われてみれば、思いあたるふしもあるかも」

 綾乃ちゃんが考えこむかのように眉根を寄せて、声を落とした。

「実は、わたしも思ったことがある。お母さん、そのへんのことをあんまり喋りたくないのかなって」

「え? いつ?」

「いつだっけ、もう何年も前だと思う。どういう話の流れだったかは忘れちゃったけど、お母さんとふたりで喋ってて、たまたま希子ちゃんの実のお父さんの話題になったことがあって」

 それまでは、なにも聞いたことがなかったそうだ。詮索するつもりはなかったけれど、好奇心もおさえきれず、綾乃ちゃんはなにげなく質問した。

「ほんとにざっくり、どんなひとだったの? みたいな感じで」

「お母さんは、なんて?」

 希子はつい先を急かしてしまった。

「いいひとだったよ、って」

「それだけ?」

「そう、わたしもまさに同じことを思った。それだけ?って」

 思っただけでなく、口にもした。ところがお母さんは小さくうなずいたきりで、口をつぐんだ。

「まずいこと聞いちゃったかな、ってちょっとあせった。よくわかんないけど、込み入ってるっぽいし、部外者なのに興味本位で聞いちゃだめな気がして。それ以上は突っこめなかった」

 以来、お母さんにその話題を振ったことはないという。

「だけど、希子ちゃんは部外者じゃないもんね。正真正銘、当事者だよね」

「それはそうだけど」

 気安く聞きにくいという点では、綾乃ちゃんと変わらない。

「なにか事情があるんだろうね。お母さんのことだから、無意味にもったいぶったりはしないでしょ」

 綾乃ちゃんは首をひねっている。

「まあさすがに、生きてるんじゃないかっていうのは飛躍しすぎだけど。翔くんは想像力が豊かだね」

 ただし、その想像はまるで見当違いだった。綾乃ちゃんに翔ちゃんをばかにする気はないだろうけれど、本人が聞いたら拗ねるかもしれない。

「希子ちゃん、がっかりした?」

「え?」

「だって、生きてるかもって一瞬期待しちゃったでしょ?」

「期待、って感じじゃないかも」

 希子は正直に答えた。

「生きてるのに会えないんだとしたら、それも微妙だし」

「ああ、さっき言ってた、先方に家庭があるから会えない説?」

 それはありえないでしょ、と綾乃ちゃんは一蹴する。

「そう? 一番ありそうかなと思ってたんだけど」

「一般的にはそうかもだけど、向こうの都合で会おうとしないってことでしょ。そんな相手に、わざわざ写真を渡してあげたりしないよ。あまりにも勝手っていうか、虫がよすぎるっていうか」

 綾乃ちゃんは急に言葉を切って、気まずそうに続けた。

「希子ちゃんのお父さんを貶そうっていうんじゃなくて。ていうか、そもそも空想の話だしね。ただ、自分の身に置き換えてみて……つまり、そういうことをうちの父親がやったとしたらって考えたら、腹が立つなって思っただけ」

 言われてみれば、綾乃ちゃんのお父さんは実際に別の女性と新しい家庭を築いているわけだ。ある意味、希子よりも綾乃ちゃんのほうが、この状況を具体的に想像しやすいのかもしれない。

「話は戻るけど、それにしても手がかりが少なすぎるね。お母さんしか情報源がないっていうのもネックだな」

 情報源といえば、

「あ、こないだお父さんから聞いたんだけど」

 言ってしまってから、「今のお父さんから」と希子は言い直す。ややこしい。

「お母さんが、わたしの実のお父さんのことを、ものすごく好きだったんじゃないかって言ってた」

 母の日の午後、お父さんとふたりで公園まで走りにいったときに聞いた話だ。

「お父さんもお母さんも、もう恋愛は卒業したって。一番大好きだった相手が、死んじゃったから」

 あのとき希子は、実の父が生きているのではないかとまだ誤解していたから、お父さんの言葉を真正面から受けとめることができなかった。でも、勘違いが正された今となっては、お父さんの言い分は正しいのだろうと思える。

「そっか、そういう意味では、ふたりとも同じ境遇なんだ? それでお互いにわかりあえたのかな」

 綾乃ちゃんも初耳だったようで、興味深げに聞き入っている。

「そうだ、そのときに、ロールモデルの話もしたよ」

「ロールモデル?」

「家族の。うちは新しいかたちだって、前に綾乃ちゃん言ってたでしょ」

「ああ、言ったかも」

「お父さん、感心してたよ。綾乃ちゃんと話してると、いろいろ勉強になるって」

「え? それって、嫌みとか皮肉とかじゃなくて?」

「ないない」

「ま、ないか。あの性格だもんね。まっとうっていうか、ピュアっていうか……いやでもなんか恥ずかしい」

 綾乃ちゃんが照れくさそうに体をよじってみせる。

「あのときは確か、ちょうどデリダの家族論を読んだばっかりで。それでちょっと、のぼせてたかも」

「デリダ?」

「ジャック・デリダ。フランスの哲学者。ほら、脱構築の」

 ほら、と言われても、希子についていけるはずもない。

「ダツコーチク?」

 ぽかんとして復唱すると、「知らない?」と綾乃ちゃんは残念そうに言った。

「まあ、中学では習わないよね。ポスト構造主義の代表的な哲学者なんだけど」

 ポスト構造主義というのもなにがなんだかわからないが、希子は黙って耳を傾ける。いちいち水をさしていたら話が進まない。

 偉大なるジャック・デリダは、生涯にわたって独自の思想を提唱し続けたそうだ。中でも「脱構築」は最も有名な概念で、哲学のみならず、芸術や政治といった分野にまで多大な影響を及ぼしているのだと綾乃ちゃんは力説した。

「今となってはそこらじゅうで使われてる概念だけど、元祖はデリダなんだよ」

 そこらじゅう、とさも得意げに言われても、希子の周りでは一切使われていないので、なんとも答えようがない。

「どういう意味なの?」

「いろんな解釈があるけど、わかりやすくいうと、既存の枠組みを疑って、物事の本質を問い直すってこと。デリダは従来の伝統や秩序を解体しようとしたの。特に、それまでの西洋哲学で前提になってた、二項対立の概念を覆そうとした」

 あんまり──いや全然──「わかりやすく」ない。

「家族についても、デリダは旧来の一般的な認識に疑問を投げかけてる。特に親子関係に関しては、血とか遺伝子で生物学的に保証されるってみなされがちだけど、本当にそれでいいのか」

 希子の理解が追いついていないと気づいていないのか、気にしていないのか、綾乃ちゃんはよどみなく語り続ける。

「世の中には、いろんな家族が存在してるよね? うちもだけど。それをいっしょくたにしちゃうのは無理があるんじゃないかっていうのが、デリダの主張」

 綾乃ちゃんがひと息ついて、紅茶をごくりと飲んだ。これでおしまいかと思いきや、また口を開く。

「親って、どうやって親になると思う?」

「子どもが生まれたら?」

 家族のなりたちは多様で、そう単純に言いきることはできないという話だったが、とはいえ、この質問に対する最も素直な答えはこれだろう。

「うん。なんだかんだ言って、それが模範解答だよね」

 綾乃ちゃんもそこは否定しなかった。

「でもね、デリダはそこにも異議を唱えた。この子は自分の子だって認めてはじめて、親はその子どもの親になれる、って考えたの。もっというと、仮にDNA鑑定で血縁関係が証明されたとしても、それだけで自動的に親だってことにはならない。単に、その生物学的な事実をふまえて、自分の子だって認めやすくなるってだけ」

「遺伝子よりも、心構えのほうが大事ってこと?」

「そう、そのとおり。親としての自覚がないと、親にはなれない」

 理屈としては成り立つのかもしれないが、現実にはややこしい気もする。心構えや自覚も大事だけれど、もっと客観的な基準が必要ではないだろうか。

「ここまでは、いい?」

 混乱している希子に、綾乃ちゃんはたたみかける。

「なんとか」

「父親に関しては、この議論って昔からけっこうなされてるんだよ。認知する、って言うじゃない? あれがまさにそう。戸籍上、自分の子として認めるってことだから。そもそも父親の立場って、ある意味危ういっていうか、不安定だよね。極端にいえば、妻や恋人の産んだ子を自分の子だって信じるしかない。今の時代はDNA鑑定って手もあるけど、たいていそこまではやらない」

 しかしながら、綾乃ちゃんの言っていた「脱構築」の精神でもって、デリダはそこからもう一歩先へ進む。

「父親だけじゃなくて、母親にも同じことがいえるんじゃないかって」

「母親にも?」

 希子の頭はいっそうこんがらがってきた。綾乃ちゃんも言うとおり、父親にとって、自分がその子の親なのかわからないという状況はありうるだろうが、母親がそんなふうに言い出すことはないはずだ。実際に出産するのは母親なのだから。

「新しいでしょ?」

 綾乃ちゃんが身を乗り出す。

「母親は、赤ん坊を産み落とした瞬間から、その子の親だって事実を認識するものだって考えられてきた。自分のおなかから出てきた子どもだもんね。母が子を認知する、とは言わない」

 そんな必要がないからだ。けれど、デリダは納得しない。出産という強烈な経験をもってしても、親子関係は自明の事実にはならないと説く。母親もまた、自分が親だと認めることによってのみ、母になる。

「そう考えると、母親っていう定義にふさわしいのは、産みの母だけじゃないんだよね。育ての母も、乳母も、最近でいえば代理母や卵子の提供者だって、母親になれる可能性が出てくる」

 言われてみれば、この世界にはいろんな「母」が存在する。

「わたしがいいなと思うのは、そこに序列をつけないとこ。複数のタイプの母親や父親がいる場合に、どっちが正しいとか優れてるとか、一元的に決めることはできないっていうのがデリダの考えかたなの」

 いずれにせよ、デリダの定義に則るとすれば、

「つまり、わたしの父親は、今のお父さんってことになるんだ?」

「そう、そのとおり」

 綾乃ちゃんは大きくうなずいてから、ばつが悪そうに言い添えた。

「ごめん、つい語りすぎちゃった」

 居ずまいを正して、希子に向き直る。

「で、希子ちゃんは、もっと知りたいんだよね? 実のお父さんのこと」

 ずばりと聞かれ、希子はたじろいだ。

「うん、まあ……」

 曖昧な返事になってしまった。知りたいことは、知りたい。ただ、お母さんやお父さんをいやな気持ちにさせてまで、家の空気をおかしくしてまで、切実に知りたいというほどでもない。

「綾乃ちゃんなら、知りたい?」

 返事はだいたい予期できたが、案の定、「うん」と綾乃ちゃんは即答した。

「まあ、わたしは基本、知りたがりだからね。なんにせよ、できるだけ知っときたい」

 テーブルの隅に置きっぱなしになっていた、古着回収のチラシを手にとる。

「話は全然違うけど、こういうのとかもそうかも。知らないほうが幸せなこともある、とかってよく言うじゃない? それは違うとわたしは思う」

 この世界には、深刻な問題が山ほどある。不条理や不正がまかり通っている。そのほとんどが、個人の力ではどうにも太刀打ちできない。

「自分にできることをやる、結局はそれしかない。でも、そのできることってたかがしれてて、むなしくなったりもする。どんなに無力か、思い知らされるし。けど、じゃあ知らずにいるほうがいいかっていったら、やっぱりそうじゃないと思うんだ。知らないとなんにもはじまらない。状況を変えられないとしても、せめて抵抗したい」

「えらいね、綾乃ちゃんは」

 希子は褒めたつもりだったけれど、綾乃ちゃんは顔を曇らせた。

「えらそうかな、わたし?」

「いや、そういう意味じゃなくて」

 希子はあわてて首を振った。綾乃ちゃんが表情を和らげる。

「年下の子に説教するような、えらそうなおとなにはなりたくない。正しい人間ではありたいけどね。でもそれも、ただの自己満足かも。やるべきことをやりたい、っていう。それこそ、波風も立つし」

 言い終えたのとほぼ同時に、テーブルの上でスマホが振動した。

「ああもう、うるさいなあ」

 うんざりした声をもらし、綾乃ちゃんがスマホに手を伸ばす。

「うわさをすれば」

「うわさ?」

「えらそうなおとな」

 綾乃ちゃんが顔をしかめた。

「ちょっとごめんね。あのひと、返事しないと延々催促してくるから」

 手早く文字を打ちこんでいく。

「そうだ、よかったら希子ちゃんも一緒に来る? 来週のランチ」

「えっ?」

「話、聞けるかも」

 そう言われてやっと、唐突な提案の意図が希子にものみこめた。

「あのひとも一応、お母さんとは長いつきあいだし。昔のことも、なにか知ってるんじゃないかな」

 

(つづく)