9 五一センチ、三〇〇七グラム
夏休みに入った翌週、部活を終えた希子が昼過ぎに帰宅すると、リビングの床に泉水が模造紙を広げていた。
「宿題?」
声をかけてみると、紙の上に覆いかぶさるような体勢で黙々と文字を書いていた泉水がびくりと肩を震わせ、顔を上げた。集中するあまり、希子が入ってきたのに気づいていなかったらしい。
「うん。自由研究」
「多摩川の砂に含まれる鉱物の採集結果について?」
弟の頭上で、希子はものものしいタイトルを読みあげた。去年もおととしも、泉水の自由研究は石がテーマだった。そもそも泉水は夏休みに限らず、年じゅう石の「研究」に余念がない。
「こないだ、科学館のイベントに連れてってもらったから。お父さんが、忘れないうちにまとめといたらって」
先週末だったか、科学館の主催する野外プログラムに父子で参加すると言っていた。希子も一緒に来ないかと誘われたが、練習試合と重なってしまって断った。
模造紙に貼られた数枚の写真には、鉱物らしき結晶が写っている。きらきらと光沢があって、宝石みたいだ。
「きれいだね。これ全部、川で拾ってきたの?」
赤みがかったもの、白っぽい地に緑のしましまが入っているもの、金色もある。
「拾ったっていうか……比重選鉱で採ったんだよ」
泉水が模造紙の上のほうを指さした。見れば、〈採集方法について〉と題された文章にも、その見慣れない四文字の熟語が登場している。
「パンニング皿に砂を入れて、水の中に沈めて揺するんだ。比重が重い鉱物は、下に沈むから」
「パンニング皿?」
「比重選鉱のために使う、専用のお皿があるんだよ。溝がついてて、沈んだ鉱物がひっかかる」
泉水の説明だけでは、どんな代物なのか希子には想像がつかない。
「イベントのときは貸してもらったんだけど、僕も一個ほしいな。クリスマスにお父さんに買ってもらおうかな」
扱いにはコツがあり、練習して使いこなせるようになりたいという。希子がドリブルやシュートがうまくなりたいと思うのと同じ発想だろうか。
「金はレアなんだよ、僕が見つけた。ガーネットは、お父さん」
体を起こして座り直した泉水が、写真を指さして解説する。
「金? そのへんの川で、普通に金がとれるの?」
それなら希子も挑戦してみたいと思ったが、泉水は淡々と答えた。
「どこでもってわけじゃないけどね。あとこれ、実物はかなり小さいよ。アップで撮ってるだけで、砂粒だから」
なかなか一攫千金とはいかないらしい。とはいえ、研究そのものは、かなりの力作である。
「泉水はえらいね、いつも早めにやってて」
希子はまだ夏休みの宿題になにひとつ手をつけていない。
「僕もまだこれだけだよ。ドリルとかは、まあ別にいいけど、読書感想文がしんどい。あと、自分史も」
「ジブンシ?」
「今年は、二分の一成人式? だから。その記念だって」
「ああ、自分史か。わたしもやった、小四のとき」
成人式といえば二十歳だけれど、その半分、つまり十歳の節目に、自分自身のこれまでの人生を振り返るという趣旨の課題が出された。生まれたときの身長や体重、出生地や日時、名前の由来など、調べた内容を授業で発表した。
「希子ちゃんのときもあったんだ? 昔はそんなのやらなかった、ってお父さんは」
お母さんも、そう言っていた覚えがある。四年前、希子の宿題のために話を聞かせてくれたときに。
伊豆から帰ってきて以来ひと月半ほど、お母さんとふたりきりで話す機会はない。
最初の数日は、お母さんの顔をまともに見られなかったけれど、だいぶ慣れてきた。表向きは今までどおりだ。「今日は何時頃に帰ってくる?」と聞かれれば答えるし、「お醤油をとって」と頼まれれば渡す。
お母さんの様子も、ふだんと変わらない。堤さんと会ったときには、話したことをいちはやく報告されてしまったけれど、今回はそんな心配もない。なにしろ春くんのほうから厳重に口どめされている。
希子自身はどうしたいかといえば、いまだに心が揺れている。
お母さんを根掘り葉掘り問いただしたいと思う日もあれば、もうこのままでいいやという気分になる日もあって、どうしたらいいのかが定まらない。綾乃ちゃんや翔ちゃんにまたゆっくり相談してみたいところだけれど、ふたりとも忙しそうだ。ホーリーはカレー好きのインフルエンサーが来店したのをきっかけに、前代未聞の繁盛ぶりらしく、夏休みに入った翔ちゃんはバイト三昧だ。綾乃ちゃんは綾乃ちゃんで、鍼灸院の決算作業に追われている。
綾乃ちゃんはアルバイトがてら、植田鍼灸院の経理業務を手伝っている。
最終的に書類を作って税務署に申告するところは、税理士さんに依頼してやってもらっている。でも、書類を作るために必要な元データは、こちらでそろえなければならない。患者さんから受けとった診察料の明細や、経費の領収書などをきちんと整理して、日々記録しておく。
それがどのくらい手間がかかることなのか、希子にはよくわからないけれど、お母さんの得意分野ではなさそうなのは間違いない。毎年、税務申告の時期がめぐってくるたびにお母さんがげっそりしているのは、希子たち家族の目にも明らかだった。日頃は感情の浮き沈みをあまり見せないのに、よほど気が重いのだろう。
そこで、何年か前に、見かねた綾乃ちゃんが手助けを申し出た。もともと数字に強く、細かい事務作業も特に苦にはならないという。大学に入って時間に余裕もできたし、と本人は話していた。
お母さんにとっては大助かりで、綾乃はうちの金庫番だよ、と頼りにしている。その後、綾乃ちゃんの提案によって、経理システムも導入されたらしい。システムっていってもたいしたものじゃないよ、必要最低限の機能しかついてない簡単なやつ、と綾乃ちゃんは言うが、使いこなせる気がしないとお母さん自身は言っている。使いこなす気もないのかもしれない。
「生まれたときのことなんか、覚えてないよ。めんどくさいな」
泉水が憂鬱そうに言う。そこまで大変じゃないよ、と希子は励ましてあげた。
「母子手帳があれば、だいたいできるはず」
「ボシテチョー?」
「母に子どもで、母子。生まれたときのこととかが書いてあるんだよ」
説明しながら、母、という言葉を聞いて泉水がどう感じるかが気になった。泉水の母子手帳に記録を書き残したのは、おそらく亡き母親だろう。
「お父さんが持ってるんじゃないかな。聞いてみたら?」
言いながら、泉水の顔をうかがった。「うん」と答えた泉水の表情に、特に変化は認められない。再び膝をつき、模造紙のほうに向き直る。
「そうだ、お母さんが、お昼はおにぎり食べといてって、冷蔵庫に入ってる」
そろそろ午後の診療がはじまる時間だ。
「了解。ありがと」
泉水は宿題の続きにとりかかり、希子はおにぎりにかぶりついた。
普通の白ごはんはあたたかいほうが断然おいしいのに、おにぎりにするとなぜか冷えても味わい深い。具は、梅干しと鮭と昆布だった。お父さんが作ってくれるときは、違うかたちにしたり海苔の巻きかたを変えたりして中身の具材がわかるようにしてあるけれど、お母さんはそういうことはしない。好きな順に食べられない半面、予想があたるとちょっとうれしい。空腹も手伝って、あっというまにたいらげてしまった。
「がんばってね」
泉水に言い置いて、希子は満腹で自室にひきあげた。
部屋に戻り、クローゼットを開けた。うんと背伸びして、上の棚から段ボール箱をひっぱりおろす。
小学校、と箱の側面にマジックで書いてある。卒業後、教科書やノートの類はほとんど処分してしまったが、アルバムや文集なんかは記念に残した。二分の一成人式のときに作った自分史の小冊子も、とっておいてあるはずだった。
赤い色画用紙の表紙がついた手作りの冊子を、箱の底から掘り出した。中央に〈自分史〉とタイトルが記され、その下に、ひと回り小さい文字で名前も添えてある。
表紙をめくると、白い紙が綴じこまれている。最初のページには、出生時のことがまとめてある。ひととおりの項目があらかじめ印刷されていて、各自書き入れていく方式になっている。希子自身の筆跡だけれど、今よりもだいぶ拙い。
誕生日、八月八日。
出生時刻、午前五時十六分。
身長、五一センチ。
体重、三〇〇七グラム。
出生地、長野県長野市。
希子は長野市内の病院で生まれた。お母さんからそう聞かされたとき、その場で問い返したのを覚えている。
「なんで長野なの?」
お母さんの実家は神奈川にある。家を出てからは、中国で鍼灸の勉強をしていた一時期を除けば、住まいも勤め先もずっと東京だったはずだ。長野に縁があるという話は聞いたことがない。
「いい病院があったから」
お母さんは答えた。気候も快適だった、とも言い添えた。
「あのへんは、夏場でも東京よりだいぶ涼しいんだよ」
希子の誕生日は八月八日、夏のさかりである。最近の酷暑は異常だ、昔はここまでひどくなかった、とお母さんもお父さんも毎年口をそろえて嘆いているが、十四年前でも八月初旬は暑かっただろう。
お母さんが言った「いい病院」の意味しているところを、あのとき希子は深く考えなかった。お母さんが妊娠中に体調をくずしていたことも知らなかった。病院によって得意分野は違うというし、自分の病状にしっかり対応してくれそうなところを探して、長野にたどり着いたのだろうか。
次のページに、〈お産はほぼ丸一日かかって大変でした〉と希子は書いている。
「陣痛は前日からはじまってたけど、なかなか出てきてくれなかったんだよ」
おかげで、お母さんは徹夜するはめになった。八月八日の朝早くに、希子は生まれたそうだ。
見開きの右側には、写真が縦に二枚貼ってある。
上の一枚には、生まれたての希子がアップで写っている。白い産着にくるまれて、ぎゅっと目をつむっている。
「ああ、こんなにちっちゃかったんだよね。かわいいねえ」
お母さんは写真にしみじみと見入っていたが、希子にはどう見てもかわいいとは感じられなかった。赤らんだ顔を思いっきりしかめ、髪の毛は頼りなく薄く、人間というより猿っぽい。
もう一枚のほうは、幾分ましだった。お母さんの胸に抱かれ、きょとんとした表情でこっちを見ている。肌の赤みはだいぶおさまり、黒目がちの瞳は澄んでいる。
写真の隅に入っている日付は八月十日、生後三日目にあたる。背後に写りこんでいるベッドやカーテンの様子からして、まだ病院にいるのだろう。
「お母さん、若いね」
「あたりまえでしょ、十年前だもん」
お母さんとかわした他愛のない会話を思い出しつつ、ページをめくる。
次の見開きは、写真ではなく文章のみで構成されている。一番上に〈わたしの名前の由来〉と印刷され、その下にもうけられた枠の内側に、手書きの文字が並んでいる。
希子の「希」は、希望という意味です。どんなときにも希望を持ち続け、また、周りのひとたちにも希望を与えるような存在であってほしいという願いをこめて、つけられたそうです。
「いい名前でしょう?」
お母さんは得意そうにしめくくった。いかにも誇らしげな口ぶりだった。
でも、と今の希子は考えてしまう。はたしてお母さんは、この名前をひとりで考えついたのだろうか。
希子は冊子を閉じて、机の上に放り出した。にわかに疲れがこみあげてきて、ベッドにあおむけに寝転がる。
考えこんでいても、どうしようもない。いや、考えるばかりでなく、ちゃんと行動だって起こした。堤さんと会って、お母さんとも話した。希子が実のお父さんのことを知りたがっているのは、お母さんにも伝わったはずだ。それでも話してくれない──厳密には、話してくれていないことがある──のは、そこに強い意志が働いているからだろう。お母さんの性格からして、一度決めたことをたやすく覆すとも思えない。その固い決意がなにかのきっかけで揺らぐときを気長に待つくらいしか、当面希子にできることはないのかもしれない。
そんな考えを希子があらためることになるのは、この数時間後である。
夕ごはんの後、部屋のドアがノックされたときにも、希子はまた自分史のページをめくっていた。
「はあい」
反射的に冊子を閉じて、机の端に重ねてあった、宿題のプリントやノートの間につっこんだ。お母さんやお父さんには、なんとなく見られたくない。
が、ドア越しに聞こえてきたのは、綾乃ちゃんの声だった。
「希子ちゃん、ちょっといい?」
「いいよ」
希子が返事をすると、ドアが開いた。入ってきた綾乃ちゃんは、愛用のタブレットを小脇に抱えていた。
「どうしたの?」
綾乃ちゃんはやけに険しい顔つきをしている。
「ちょっと調べてみた」
答えた声も、硬かった。
「希子ちゃんはもういいって言ってたけど、やっぱり気になっちゃって」
なにを、と問い返さなくても見当はついた。
「ごめんね、勝手に」
「ううん。なにかわかったの?」
聞くまでもなかった。なにもわからなかったのだとしたら、こんなふうに深刻な顔で報告しにくるはずもない。
「いろいろ」
綾乃ちゃんは短く答えて、目をふせた。希子が知りたくないのなら話さないでおく、とでも言いたげだ。
でも、ここまで聞いておきながら、後戻りはできない。
「教えて」
綾乃ちゃんがベッドの端に腰を下ろした。この間、お母さんが同じ場所に座って話したときのことを思い出してしまって、希子はさらに落ち着かなくなる。
「どこから話せばいいのかな」
綾乃ちゃんはぼそりと言い、膝の上にタブレットを置いて起動させた。希子も隣に座って液晶をのぞきこむ。
「じゃあ、順番にいくね」
考えがまとまったらしい綾乃ちゃんが、タブレットの画面に指をすべらせた。
まず表示されたのは、ネットニュースの記事だった。文章の傍らに、黒縁のめがねをかけた女性の画像が添えられている。マイクを片手に持ち、なにやら話している最中のようだった。紺色のパンツスーツ姿で、凛々しい感じがする。
それにしても、実父の話のはずなのに、どうして女性の写真つきの記事が出てくるのだろう。それとも、希子に見せたかったのは文章のほうで、この女性は特に関係ないのだろうか。当惑している希子に向かって、綾乃ちゃんが言った。
「これが、ハナちゃん」
どこかで聞いた名前だ。どこだっけ、と考えたそばから思い出した。
「お母さんの友達の?」
「そう。お母さんの親友」
綾乃ちゃんがうなずいた。
「先月希子ちゃんの話を聞いたときから、ひっかかってたんだ。あのときも話したけど、お母さん、いつのまにかハナちゃんの話をぱったりしなくなってたんだよね。あんなに仲がよさそうだったのに、なんでだろうと思って」
これといった理由はなく、自然と疎遠になっただけなのかもしれない。それぞれに多忙な日々を送っているはずだし、ありえなくもない。
ただ、ふたりの親密な様子をじかに目のあたりにしたことのある綾乃ちゃんには、どうしてもしっくりこなかった。長年の親交にひびが入るような、決定的な出来事があったのではないだろうか。
「考えれば考えるほど、なんかあったはずだって思えてきて。実は、お母さんにも、それとなく探りを入れてみたの」
疑問の発端となったのは、希子の実父の話だが、そこはふれずにおいてくれたらしい。「ハナちゃんって元気なの? 最近あんまり話を聞かないけど」と、なにげないふうを装って話を振った。
「そしたら、微妙に濁されて。元気なんじゃないかな、みたいな。お母さんのことだから、知らないなら知らないってはっきり言いそうなのに」
「確かに」
「やっぱなんかあるって思った。しつこく聞いてもあやしまれそうだし、それ以上は突っこまなかったけど」
お母さんに質問するかわりに、綾乃ちゃんは独自に調べてみた。
「ハナちゃん、ってお母さんはいつも呼んでたから、わたしは本名も苗字も知らなくて。今回調べてみて、はじめてフルネームを知った」
小笠原華子、というのが「ハナちゃん」の本名である。
「小笠原家って、代々政治家の一族なの」
なんと明治時代から、何世代にもわたって数多くの政治家を輩出してきたという。華子の祖父にあたる小笠原泰造、父親の総一郎、兄の慶太郎といった近しい家族のほか、叔父や従兄やはとこなど、政界で活動している親族も少なくない。
「一番有名なのは、小笠原総一郎だと思う。ハナちゃんのお父さん」
綾乃ちゃんはタブレットで顔写真を検索し、希子に見せてくれた。
「ほら、このおじさん。テレビとかで見たことない?」
厚い唇をぎゅっと引き結び、ぎょろりとした目でこちらをにらみつけている。いかにも大物政治家らしく、貫禄たっぷりだ。
「あるような、ないような」
三十代で国会議員となって以来、父親の築いていた強力な地盤も引き継いで、与党の中でもめきめきと頭角を現した。
「長男の慶太郎も、現役で国会議員をやってる。ハナちゃんにとってはお兄さん」
大学を卒業した直後から、父親のもとで秘書として働きはじめたそうだ。
「秘書からはじめて、修業を積んで、いずれ自分も議員になるっていうのが王道コースだからね」
長女である華子も、同じく大学を出てからは、父親と同じ派閥に属する与党議員の秘書として働いていた。ただし、兄とは違って自らも議員に立候補することはなく、十年くらいで辞めている。
「わたしが会わせてもらったのは、まだ秘書をやってたときだと思う。そのちょっと後くらいかな、政治の世界を離れて、弁護士になったみたい」
綾乃ちゃんが最初に見せてくれた記事をもう一度タブレットに表示させた。
「この裁判に、ハナちゃんは原告側の弁護団の一員としてかかわってたんだって。それで取材を受けてるんだよ」
記事でとりあげられているのは、何年か前にあった外国人の出入国管理にまつわる訴訟で、当時はわりと話題になったらしい。入管施設に収容されていた外国人が、一部の職員から非人道的な扱いを受けたと訴え出て裁判になった。
「いわゆる、人権派の弁護士なんだね」
「ジンケンハ?」
「人権は、わかるよね? 社会の中で、人間が人間らしく生きる権利のこと。すべての人間には、自由に考えて行動して、幸福に暮らす権利がある」
「選挙権とか?」
学校の授業で習った。
「うん、参政権も人権のひとつ」
綾乃ちゃんいわく「おぞましい」ことに、世の中では人権侵害が絶えず起きている。人権派と呼ばれる弁護士たちは、人権をおびやかされ苦しんでいる人々の味方として日々闘っているという。
「すごく有意義な仕事だけど、どっちかっていうと地味っていうか、こんなふうに一般のメディアでもとりあげられるような事件は多くないかも。でも、着々とキャリアは積んでて、そっち界隈ではそれなりに知られてるっぽい」
綾乃ちゃんは言う。
「お母さんが、ハナちゃんは世の中をよくするために働いてるんだよ、って言ってたのを覚えてる。政治じゃなくて、別の方向から攻めることにしたのかな」
画面から目を上げて、希子の顔に視線を戻した。
「ちなみに希子ちゃんは、小笠原総一郎のことってどのくらい知ってる?」
「なにも」
政治にも政治家にも、さっぱり興味がない。現職の総理大臣の顔と苗字くらいはどうにかわかるけれど、下の名前となるとおぼつかない。
一方、綾乃ちゃんのほうは、時事関連のニュースもばっちり把握している。小笠原総一郎の存在も、以前から知っていたそうだ。
「わたしも政治にはそこまで詳しくないけど、よくも悪くも目立ってるから。まさか、ハナちゃんのお父さんだとは思わなかったけど。与党の中でも、そうとう幅を利かせてるって評判で」
一般人にも、けっこう人気があるらしい。
「癖の強いとこが、逆に受けるんだろうね。押し出しがよくて、なんでも遠慮なくずばずば言って。話も巧いしね。一種のカリスマ性みたいなのもあって、うまく人心を掌握できるタイプっていうか」
ジンシンヲショーアク、の意味もよくわからなかったけれど、水をさしてばかりでも悪いので質問はひかえる。
「反対に、敵も多いみたいだけど。いろいろ黒い噂もあって。あちこちから恨みも買ってるんじゃないかな」
実際、脅迫されたり襲撃されたりといった事件も、一度ならず起きている。本人のみならず、娘の華子まで巻きこまれたこともあるという。
「それも、今回調べてみてはじめて知った。気の毒だよね。もしかしたら、政治家から弁護士に転向したのも、そのへんも関係あったのかも」
綾乃ちゃんは痛ましげに眉をひそめ、にわかに姿勢を正した。
「でね、ここからが本題。お母さんの魂のかたわれは、どこの誰なのか」
希子の背筋もつられて伸びる。
「わたし、お母さんの鍼灸院の経理を手伝ってるじゃない?」
本題にしては、話がいきなり思わぬ方向へ飛んでいった。
「システムを使うようになったって話、希子ちゃんにもしたっけ。そこにデータを入れるのも、わたしがやってる」
綾乃ちゃんには見えているのだろうボールの行方が、希子にはいまだにつかめない。
鍼灸院の日々の収入、つまり患者さんから支払われた診察料を記録しておくのも、綾乃ちゃんに任されている仕事のひとつだそうだ。後から確認できるように、金額とあわせて日付と患者さんの名前もシステムに入力しておく。
「わたしはお金の計算をするだけで、基本的には患者さんの名前はそこまで注意して見てない。単なる記号っていうか。システムにはカタカナで打ちこむし、よけいにそんな感じがするのかも」
そもそも、なるべく気にしないように心がけてもいるという。患者さんのプライバシーは守られるべきだ、とお母さんもつねづね言っている。
とはいえ、作業しながら字面はいやおうなく目に入ってくる。
「お母さんの好きなひとは鍼灸院の患者さんじゃないかって、春夫さんが言ってたんだよね? 昔お母さんが電話でそんなこと話してたって」
確かに、春くんからはそう聞いた。あくまで鍼灸師と患者としての関係を保ち、その一線を踏み越えるつもりはないとお母さんは電話の相手に──綾乃ちゃんの推理によればハナちゃんに──請けあっていたらしい。
ここまで聞いてようやく、希子の脳内でも話がつながった。
「患者さんだったら、今でもうちに通ってるかもしれない。十年以上も前の話だし、その当時お母さんはまだよその鍼灸院で働いてたし、あくまで可能性としてだけど。でも、独立前からのつきあいのお客さんもいるって、お母さんからは聞いてる」
綾乃ちゃんが希子に向き直った。
「結論から言うね」
ボールを構え、パスを出す。
「オガサワラケイタロウ、って名前の患者さんがいる。過去のデータもさかのぼって見てみたら、二、三カ月に一度のペースで通院してる」
オガサワラ、ケイタロウ。その名前は、さっきも聞いた覚えがあった。
ハナちゃんの──小笠原華子の──兄であり、大物政治家だという小笠原総一郎の長男でもある。
「今回こういうことになる前から、オガサワラっていう苗字はうっすら印象に残ってたんだよ。なんでかっていうと、このオガサワラさんが、毎回けっこうな額の施術料を払ってるから」
綾乃ちゃんいわく、施術料は患者さんによってかなりばらつきがあるものらしい。そういえば春くんからも、ちらっとそんな話を聞いたことがある。
「セレブは高いの?」
政治家をセレブと定義していいのかはわからないけれど、かといって一般人とも呼べない気がする。
「施術の内容しだいだから、一概には言えないけど、その傾向はあるかも。そういう患者さんって、お金のことはあんまり気にしないで、とにかくいい治療を受けたいって気持ちが強いんじゃないかな」
綾乃ちゃんは答えた。
「もちろん、ただの偶然かもっていうのも考えた。このオガサワラケイタロウが、政治家の小笠原慶太郎とは限らない」
それで、と綾乃ちゃんはふし目がちに打ち明けた。
「実は、カルテもこっそり見ちゃったんだ。よくないとは思ったんだけど、それ以外の方法を考えつかなくて」
厳密には、カルテの診察記録そのものではなく、初診のときに書いてもらうことになっている問診票を見たという。名前の漢字と、生年月日も書いてある。一方、衆議院議員をつとめる小笠原慶太郎のプロフィールは公開されていて、ネットで検索すれば即座に確認できた。
「ほぼ間違いなく、本人だと思う。同姓同名で、誕生日も同じっていう別人が存在しない限りは。小笠原も慶太郎も、そこまでよくある名前でもないし」
よどみなく喋り続けていた綾乃ちゃんが言葉を切り、タブレットを持ち直した。
「見る?」
希子の返事を待たずに、画面をいじる。表示されていた小笠原総一郎の画像の隣に、もう一枚の写真が並んだ。
親子でまったく似ていない。目鼻立ちもさることながら、それ以上に、雰囲気が違いすぎる。威嚇するようにこちらを見据えている父親と、上品で柔和な微笑を満面にたたえた息子。説明抜きにこの二枚の写真だけ見せられたら、父子だとは思わないだろう。
「気づいた?」
綾乃ちゃんが希子の手にタブレットを押しつける。戸惑いつつ、あらためて画面に目を落とした。
「似てない? 顔が」
綾乃ちゃんがじれったそうに言葉を継いだ。
似てない、と答えようとして、勘違いに気づく。綾乃ちゃんが言っているのは、小笠原総一郎のことではない。
「わたしと?」
声がうわずってしまった。
これまでは、ボールをドリブルしながら突っ走っていく綾乃ちゃんに、ついていくだけでせいいっぱいだった。綾乃ちゃんが披露してくれた推論は、ここひと月ほどかけて練りあげ、組み立ててきたものだろう。知恵をしぼった末にたどり着いたであろう結論を、いきなり一気にまくしたてられて、希子は茫然と聞き入るしかなかった。
それで、肝心のことが頭の隅に追いやられてしまっていたのだった。お母さんにとってかけがえのない存在であるらしい「魂のかたわれ」は、希子にとっても重要人物にほかならない。
「ほら、目もととか。この写真だと、そこまでじゃないかな。角度とか表情によっては、もっと似てるのもあるんだけど」
もう一度、じっくりと見つめる。自分ではよくわからない。
「このひとが、わたしのお父さん?」
口に出したら、声が震えた。
「わからない。はっきりした証拠があるわけでもないし。ただ、その可能性もあるんじゃないかと思う。ほら、相手は有名人じゃないかって話だったし」
慎重な口ぶりで、綾乃ちゃんは答えた。
「それからもうひとつ、オガサワラケイタロウが目立ってたのは、診察料以外にも理由がある」
とどめを刺すように、言い添える。
「定期的に、うちの鍼灸院に寄付もしてるんだよね。そっちは桁が違う」
「寄付?」
「うん。毎年、八月に」
渾身のシュートを放たれて、希子は再び立ち尽くす。
八月。わたしの誕生月だ。
肩越しに見えている勉強机のほうへ、視線はひとりでに吸い寄せられた。机の上に重ねたプリントやノートの間からはみ出している、赤い表紙の端っこが、やけにくっきりと目をひいた。
「最初の話に戻るけど、お母さんがハナちゃんと疎遠になったのって、お兄さんのことを好きになっちゃったせいだったんじゃないかな?」
春くんも、お母さんが好きになった相手は、もともと知りあいだったのではないかという意見だった。
親友の兄なら、以前から交流があったとしてもおかしくない。これも春くんが疑っていたとおり、離婚してから距離が縮まったのだろうか。
「妹としては、応援できないよね。お兄さんには奥さんも子どももいるんだもの。でも、ハナちゃんに反対されても、お母さんはあきらめきれなかった」
お母さんが電話していたという女友達は、やはりハナちゃんだったのだろうか。親友と兄の秘められた恋を知った妹が、思いとどまるように説得していたのだとすれば、つじつまは合う。
「だいたい、ふたりをひきあわせたのって、ハナちゃん自身でしょう? 責任も感じたのかもしれないよ」
お母さんのほうにも、親友を苦しめている自覚はあったに違いない。それでも、どうしても恋心をおさえることができなかった。合わせる顔がなくて、距離をおくしかなかったのではないかと綾乃ちゃんは言う。
「ちなみに、次の予約が、ちょうど来週に入ってる」
綾乃ちゃんがつけ足した。
その意味を理解するには、希子の頭は混乱しすぎていた。ぼんやりと繰り返す。
「予約?」
「来週の、金曜日。午後二時に、小笠原慶太郎がここに来る」