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8 かたわれ

 

 春くんは白を切ろうとした。

「今さら、ってどういう意味?」

 問い返した希子の顔つきから、口をすべらせたのはまずかったと悟ったようだった。

「さあ?」

「さあって、自分で言ったんでしょ。春くん、なにか知ってるの?」

 希子が詰め寄ると、春くんは弱々しく笑った。

「なんか希子、喋りかたが美佐ちゃんっぽくなってきてないか? この、ぐいぐい詰めてくる感じ」

「いいから、教えてよ」

 希子はさえぎった。ごまかそうとしても、それこそ「今さら」遅すぎる。

「わたしの実のお父さんのこと、春くんは知ってるんじゃない?」

「知らない」

 春くんが目をそらす。

「じゃあ、なんでそんな挙動不審になってるの?」

 希子はたたみかけた。春くんは観念したらしく、希子に視線を戻した。

「ほんとに知らないんだよ。会ったこともない。ただ……」

 もじもじと口ごもっている。

「ただ?」

「生きてるんじゃないか、っておれは思ってる」

「なんで?」

 希子の質問には答えず、言い訳がましくつけ加えた。

「勘違いかもしれないよ。美佐ちゃんから直接聞いたわけじゃないし」

 まったく筋が通らない。知らないし会ったこともない、しかもお母さんに聞いたわけでもない、それでどうして生死だけがわかるのか。

「それなのに、どうして生きてるって思うの?」

 春くんが降参するように両手を挙げた。希子の勝ちらしい。

「話、長くなるけど」

「いいよ」

 希子は身を乗り出した。長く、そして詳しく話してもらえるのなら、望むところだ。林を吹き抜ける風が、木々の梢をざわざわと揺らしている。

 

「もともと、好きな男ができたっぽいなっていうのは気づいてた」

 ウイスキーのかわりに水をちびちび飲みながら、春くんは話しはじめた。

「自分で言うのもなんだけど、おれ、そのへんの勘は鋭いし。翔が生まれて、三、四カ月くらい経った頃だったかな」

 離婚してからも、春くんはお母さんとたまに顔を合わせていたという。

「急に安定したっていうか、元気そうになって。なんでだろって、おれなりにいろいろ考えてみたんだよ」

 数年ぶりの育児に充実感を覚えているのだろうか。もしくは、産後しばらく残るという体の不調がおさまってきたのか。それとも、母子ふたりの生活に慣れてきて、役立たずの夫と別れて正解だったとせいせいした気持ちでかみしめているのか。

「実際そのへんもあったのかもだけど、それにしても、なんか満ち足りたオーラがあふれてるんだ」

 当時のことを思い返しているせいか、表情が暗い。

「大変なときに支えてもらうと、距離が縮まりやすいだろ? おれとごたごたしてたこととか、ひとりで子どもを育てることとか、相談したり慰めてもらったりしてたんじゃないかな。その男も、弱ってるとこにつけこむなんて卑怯だと思うけど。まあ結局、おれの自業自得か」

 投げやりに結論づける。

「だとしたら、最近出会った相手じゃなくて、昔からの知りあいだろうなと思った。美佐ちゃんって、ひとあたりはいいけど、誰にでも心を開くタイプじゃないし。そもそも、他人に簡単には頼りたがらない」

 堤さんも、この間似たようなことを言っていた。

「そういうとこも、優等生っぽいよな。おれとつきあうようになってからは、だいぶゆるくなったというか、ほぐれてきた感じはしてたんだけど」

 それでもやはり、なにかあったときには、ひとまず自分で解決しようとする。そうでなくても、離婚というのは、私的かつデリケートな問題である。よほど信頼のおける相手でない限り、むやみに打ち明けはしないはずだった。

 別れたばかりの元妻が想いを寄せている相手はどこの誰なのか、春くんももちろん気になった。しかしながら、さっぱり心あたりはなかった。

「美佐ちゃんの交友関係、おれはまったく把握してなくて。親兄弟にすら、一回しか会ったことないしな」

 お母さんは堤さんと離婚した後、それまでつきあいのあった友人知人とは疎遠になっていたらしい。

「あの元だんなもそうだけど、それまで美佐ちゃんの周りにいたやつらって、いわゆる勝ち組ばっかりだったんだろうな。人生の王道ルートの、ど真ん中を颯爽と走ってます、みたいな」

 春くんはしんみりした口ぶりで言う。

「美佐ちゃんもさ、今でこそ鍼灸の道で成功してるけど、最初はぼろくそ言われたらしいよ。元だんなからも、実家の親からも。大反対されて逆に闘志がわいたから、結果的にはよかったよって本人は笑ってたけど、きつかったと思うよ」

 お母さんが今でも実家と距離をおいているのは、そのせいもあるのだろう。春くんとの再婚を伝えたときも、いい顔をされなかったという。

「順風満帆で王道を突っ走ってた娘がいきなりドロップアウトして、あげく、獣道で拾った男を連れてきたんだもんな。そりゃがっかりするに決まってる」

 今夜の春くんは、完全に自虐モードに突入してしまっている。

「それで? お母さんに聞いてみたりしたの?」

 希子は先をうながした。

「それとなく探りは入れてみたけど、はぐらかされた。おれも口出しできるような立場じゃないしな」

 春くんはそれ以上問いただせず、ひきさがるしかなかった。

「でもその後で、たまたま聞いちゃったんだ。美佐ちゃんが電話してるの」

 当時、お母さんはまだ独立開業する前だった。勤め先の鍼灸院から徒歩圏内に位置する賃貸マンションの一室に、最初は春くんと、後には翔ちゃんと、暮らしていた。離婚した後は、春くんがマンションを出ていくことになったそうだ。

「家賃は美佐ちゃんが払ってくれてたし、職場にも近いしな。希子もちょっとだけ住んでたことがあるよ。ほんの一時期だったし、赤ん坊だったから覚えてないか」

 全然覚えていない。

「春くんはどうしたの?」

「おれ? とりあえず、しばらくは店で寝泊まりしてた」

「ホーリーで?」

 あんな狭いところでどうやって寝るんだろうと思ったが、

「いや、そのときはまだ、今とは別のとこ。っていっても、広さはたいして変わんないか。おれ、こう見えてインドをさすらってたからな。寝袋さえあれば、たいがいのところで眠れる」

 狭いとはいえ当然ながら屋根があり、鍵もかけられる。おまけにトイレとキッチンもついているのだから、仮住まいとしては上等だった。荷物は、新居が見つかるまでという約束で、元のマンションに置かせてもらっていたという。

「おれが弱ってるのを見て、美佐ちゃんも情けをかけてくれたんだな。よりは戻してくれなかったけど」

 春くんは首を振る。

「なんだかんだで、半年くらいはあそこに住んでたかな」

「そんなに?」

「だから、まじで弱ってたんだって。傷心で。美佐ちゃんと別れてしばらくは、抜け殻みたいになってたよ。新しい家を探す気力なんか、どこにもなかった」

 とはいえ、そんな生活をいつまでも続けられない。

 ようやく新しい住まいが見つかって、春くんは置かせてもらっていた荷物をひきとることにした。部屋の合鍵はまだ持っていた。お母さんが仕事で留守にしている間に、運び出そうと決めた。

「貴重な休みの日にじゃまするのも悪いと思って」

 迷惑をかけないように気を回したのかと思いきや、「ってことにした」と春くんは言い添えた。

「え、ほんとの理由は別にあるの?」

「美佐ちゃんの見てる前で荷物をまとめて出てくって、せつなすぎるだろ。最後の別れみたいで」

「でも、もう離婚してたんじゃないの?」

「そうだけど、しょせん、紙きれ一枚の話だから。気持ち的には、まだつながってる感じがあったんだよ」

 春くんは未練がましく言う。

「あとは、引っ越し先が、ちょっと微妙だったってのもある」

 お客さんのひとりが春くんに同情して、うちに来ないかと誘ってくれたそうだ。お店によく来ていた女性客で、お母さんとも面識があったという。その家に転がりこむというのは、確かに「微妙」かもしれない。

「そのこと、美佐ちゃんには言いそびれて。別に隠そうとしたわけじゃないんだけど、わざわざ話すことでもないかなって。近所だし、すぐばれたけどな」

 春くんの弁解をさえぎって、希子は先をうながした。

「それで?」

「美佐ちゃんの仕事がある日の昼間に、取りにいった」

「お母さんには黙って?」

「一応、連絡は入れた。さすがに、なんにも言わないわけにはいかないし。その週のどっかで時間が空いたときに寄らせてもらう、みたいな、ざっくりした感じで。美佐ちゃんもそれ以上は聞いてこなかった。じゃあご自由に、って」

 お母さんは職場、翔ちゃんは保育園にいるはずの時間帯をねらった。春くんの目論見どおり、家は無人だった。

「さっさと荷物まとめて、すぐ出るつもりだった。けど、ひさしぶりに行ったら、なつかしくて」

 ただし、春くんが住んでいた頃とは、室内の様子は一変していた。ベビーベッド、紙おむつの大袋、カラフルなおもちゃ、見慣れないものだらけだった。赤や黄や青、にぎにぎしい原色に囲まれて、春くんはしばし呆然とした。

「ぼんやりしてたら、無性にたばこが喫いたくなってきて」

 この部屋で暮らしていた頃、たばこはベランダに出て喫う決まりになっていた。そうでなくても、赤ん坊の身の回りの品々に煙の臭いをつけるわけにはいかない。

 ベランダに出るときにはいていたサンダルは、処分されてしまったのか見あたらなかったので、玄関から靴を持ってきた。手すりに寄りかかってたばこを喫いながら、眼下を眺めるともなく眺めた。

「七階で、そこそこ見晴らしがよくてさ。この景色も見おさめなんだなって思ったら、ずーんときて」

 だが、たばこを一本喫い終えるより先に、そんな感傷は霧散した。マンションの前の道に、見覚えのある人影が現れたのだ。

「美佐ちゃんが歩いてきたんだよ」

 春くんはあわてた。お母さんのいないうちに、そっと荷物を運び出すはずだったのに、計画がだいなしだ。でも、今からこの部屋を出たとしても、廊下かエレベーターで鉢あわせするはめになる。

 幸い、遠目に見る限りでは、お母さんのほうは春くんに気づいた気配はなかった。わが家を見上げようともしない。手ぶらのようだし、仕事を終えて帰ってきたわけではなく、休憩時間中なのだろう。勤め先はすぐそばだから、なにか取りに来たのかもしれなかった。それなら、家にはそんなに長居はしないはずだ。

 そこまで考えて、どう切り抜けるか方針が定まった。

「とりあえず、このままベランダでじっとしとこうって」

 玄関に靴はない。荷物にもまだ手はつけていない。窓は網戸になっているが、レースのカーテンがひいてある。わざわざ外をのぞかなければ、気づかないだろう。もし気づかれてしまったとしても、隠れていたわけではなくて、今しがた来たばかりで一服していたのだと弁明すればいい。

 玄関のドアが開く音がして、春くんは息をとめた。耳をすましていると、お母さんの足音が近づいてきた。

 次いで、話し声も。

「一瞬、美佐ちゃん以外にも誰かいるのか、ってまたあせったんだけど、違った。電話だった」

 くだけた口ぶりからして、親しい相手のようだった。

「例の男かな、って最初は思った。でも、そうじゃなかった」

 これもまた春くん独自の勘とやらを働かせたのかと思ったら、こちらはちゃんとした根拠があった。

「その男のことを喋ってたんだよ」

 電話の相手が誰かは定かでないが、たぶん女友達だろうと見当がついた。

「やたら盛りあがっててさ。声の感じも、うきうきしてて」

 お母さんは話に夢中で、窓のほうには近寄ってこなかった。合間に、流しを使っているらしき水音や、冷蔵庫のドアを開け閉めする音も聞こえた。

 ところが、話しこんでいるうちに、明るかったお母さんの声の調子がだんだん変わっていった。

「どうも、その男とつきあうのを、反対されてるみたいだった。で、美佐ちゃんのほうからも反論して」

 春くんの声も低くなる。

「けんかっていうほど、もめてる感じではなかった。でも、明らかに意見がかみあってないっぽかった。反対っていうより、心配してたのかもな。友達として」

 十分ばかり、電話は続いた。通話を終えると、ベランダで聞き耳を立てている春くんには最後まで気づかないまま、お母さんは家を出ていった。

「今も、知らないままだよ。その後もあのときのことはなにも話してない」

 それから十五年以上も経っている。春くんも一言一句を覚えているわけではない。相手の話している内容が聞こえないので、文脈も推測で補うほかなかった。

 それでも、お母さんの声に耳を傾けているうちに、春くんにもわかったことがいくつかあった。

「まずひとつめは、美佐ちゃんがそいつにべた惚れだってこと」

 いかにも悔しそうに顔をゆがめて、春くんは言う。

「魂のかたわれ、だってさ」

 ほらあれだよ、魂のかたわれ、とはしゃいだ口ぶりでお母さんは言っていたそうだ。高校のとき、ムラタ先輩が言ってたやつ、と。ひとりめの夫もふたりめの夫も好きだったよ、だけど今回は別格、と言われて春くんは打ちのめされた。

「で、ふたつめは、そいつとはもともと知りあいだったってこと。なんかのきっかけで、再会したみたいで」

 昔は、特別な気持ちはなかったらしい。いいひとだなとは思ったけれど、それだけだった。そこまで深い話をする機会もなく、この年齢になってやっと、ちゃんと一対一で喋ったところ、なにからなにまでしっくりきた。こんなに気が合う男のひとには会ったことがなかった、という。

「三つめは、ふたりはつきあってるわけじゃないってこと。いわゆる、恋人どうしの関係にはなってない。少なくとも、この時点ではまだ」

 今のままで満足しているとお母さんは強調していた。これ以上は、なんにも望んでいない。ときどき会って話ができれば、それでじゅうぶん幸せらしい。

「四つめ。その男は、鍼灸院に患者として通ってる」

 あくまで鍼灸師と患者、その一線を越える気はない、とお母さんは言った。お互いの人生があるもの。

「五つめ。ふたりで会ってることは、周りには秘密にしてる」

 絶対に誰にも気づかれないように、ふたりともできる限り注意しているというのがお母さんの言い分だった。やましいことはなにもしていないとはいえ、おかしなうわさが立ったりしたら大変だ。

 希子は相槌も打てなかった。

「相手は、既婚者だろうな」

 春くんが咳払いして、しめくくった。

「しかも、ただの既婚者じゃない」

 庭のほうへと視線をすべらせる。

「マスコミにもれたりしたら騒ぎになる、って美佐ちゃんは言ってた。絶対に隠し通さないと、って」

 暗く静まり返った林の奥に誰かがひそんでいないかと警戒するかのように、闇をにらんでいる。

「マスコミ?」

「相手は、世間でそれなりに名が知られてるってことだろ。不倫なんかしたら、たたかれる程度には」

「でも、不倫じゃないんだよね?」

 互いに一線を越える気はない、やましいことはなにもない、とお母さんは明言していたと聞いたばかりだ。無意味な誤解を招かないように、念のため人目を避けているという話だった。

「うん、まあ」

 春くんは肯定してくれたものの、気まずげに言い足した。

「このときにはな」

 もの言いたげなまなざしを向けられて、はっとする。予想外の展開に気をとられるあまり、そもそもどうしてこんな話になったのかをつかのま忘れていた。

 実のお父さんのことを、聞かせてもらおうとしていたのだった。

「妊娠したって美佐ちゃんから聞かされたときに、おれ、まっさきにその電話のことを思い出したんだ」

 あの日から、およそ一年半の月日が流れていた。

 お母さんが恋に落ち、ついには子どもまでもうけた相手について、春くんはなにひとつ手がかりをつかめないままだった。お母さんは電話で自ら宣言していたとおり、細心の注意をはらっていたのだろう。

 それでもお母さんが春くんに妊娠のことを打ち明けたのは、やむをえない理由があったからだ。

「予定日はまだ先だけど、あんまり体調がよくないって言うんだよ」

 出産までなるべく安静に過ごすのが望ましい、できれば入院したほうがいい、と医者にすすめられたという。

 その間、翔ちゃんを預かってもらえないかというのが、お母さんの相談だった。不安はあったものの、春くんは承諾した。

「おれがだめなら実家にあたるって美佐ちゃんは言ったけど、明らかに気が重そうだったし、知らないジジババの家に預けられる翔もかわいそうだし」

「春くんとは会ってたの?」

「ときどきね。その頃には、翔もだいぶおれになついてきてて、いけるかなと思った」

 お母さんもそう判断したから、春くんに頼もうと決めたのだろう。

「それに、翔のときにはまったく役に立たなかったから、おれ。役に立たないどころか、美佐ちゃんにストレスかけるばっかりで。その罪ほろぼしっていうか、挽回したいっていうのも、あったかも」

 半日くらい面倒を見ることは、それまでにも何度かあった。その経験もふまえ、なんとかなるだろうと引き受けたのだが、

「甘かったね」

 春くんは苦笑まじりに続けた。

「あたりまえだけど、半日だけ相手するのとは大違いでさ。大変だって頭ではわかってたつもりだったけど、あそこまでとは思わなかった」

 翔ちゃんがとりわけ扱いづらい子どもだったわけではない。

「よく寝るしよく食うし、わりといつも機嫌がいいし、手がかからないほうだって美佐ちゃんも保育士さんたちも言ってて。実際、他の子の親と話してると、全然ましだなって思った。それでも、想像してた百倍はきつかった。千倍かな」

「春くんと翔ちゃん、一緒に暮らしてたことがあるんだね」

 希子にとっては初耳だった。

「希子のおかげでな」

 知らなかったか、と春くんは意外そうに言った。

「全然。翔ちゃんからも聞いたことない」

「覚えてないんだろうな。まだ一歳とか二歳とかだったもんな」

 で、と春くんが話を戻した。

「おれ、思いきって美佐ちゃんに聞いてみたんだよ。赤ん坊の父親は誰なのか、この先どうするつもりなのか」

 お母さんは無言でしばらく考えこんでいたという。

「おれには関係ない、って言われるかなと思った。でも、翔を預かる以上は、完全に無関係でもないよな」

 お母さんもまた、春くんと同じ結論に達したようだった。

「この子に父親はいない、って美佐ちゃんはきっぱり言ったよ。ひとりで産んで、ひとりで育てる、って」

 断固とした口ぶりで、答えたそうだ。春くんは口をつぐむしかなかった。

 

 明くる日の午前中、タケさんとエミさんに見送られて、希子たちは伊豆を後にした。東京に帰り着いたのは昼過ぎだった。近所のファミレスに寄って三人でごはんを食べた後、家まで送ってもらって、門の前で春くんと別れた。

 翔ちゃんとふたり、玄関で靴を脱いでいると、リビングから綾乃ちゃんが顔をのぞかせた。

「おかえり。楽しかった?」

「うん」

 翔ちゃんが答え、希子もうなずいた。

 楽しかった。昨晩遅く、春くんにあんな話を聞くまでは。

 美佐ちゃんには言うなよ、と春くんはしきりに念を押していた。おれの考えすぎかもしれないし、とも言っていたけれど、その場しのぎの言い訳にしか聞こえなかった。とはいえ、しつこく口どめされるまでもなく、希子にもお母さんに話すつもりはさらさらなかった。こんなこと、いったいどう切り出したらいいだろう。

「お母さんは?」

「買いものに行ってる。今晩はお母さんがごはん作るって」

 お父さんと泉水も、夕ごはんの時間までには名古屋から帰ってくるらしい。

「なんか飲む? お茶淹れようと思ってたんだよ」

「飲む」

 綾乃ちゃんに返事をしてから、希子はつけ加えた。

「今ちょっといい?」

「いいけど、なに?」

「翔ちゃんも」

「え、おれも?」

 お母さんが留守なら、ちょうどいい。とりあえず、翔ちゃんと綾乃ちゃんに意見を聞いてみたい。

 三人でリビングに集まった。綾乃ちゃんは眉間にしわを寄せ、翔ちゃんは口をぽかんと開けて、希子の話を聞いていた。

「じゃあ、実の父親は、やっぱり生きてるってこと?」

 翔ちゃんが言った。

「春くんは、生きてるんじゃないかって」

 翔ちゃんを預かってくれないかと春くんに打診したとき、「父親はいない」とお母さんは言った。ところが出産を経て、いつのまにか「父親は死んだ」ということになっていたそうだ。

「その間のどこかで亡くなった、ってことじゃなくて?」

 綾乃ちゃんが首をかしげる。

「春くんもびっくりして、お母さんに聞いたんだって。そしたら、わたしははじめからそう言ってた、ってお母さんは言い張ったらしくて」

 覚え違いじゃないの、と片づけられてしまったのだと春くんは不服げにぼやいていた。確かに、そうやって記憶が食い違うときって、たいがいおれのほうが間違ってるよ。けどさ、もし死んだって聞いたとしたら、さすがに忘れないよ。

 ひとりで子どもを育てるにあたって、周囲にどう説明するか、まだ方針が定まりきっていなかったのではないかというのが春くんの意見だった。

「なるほどな。亡くなったってことにしといたほうが、周りにあれこれ詮索されないですみそう」

 翔ちゃんがうなずく。それはそうだろう。実のお父さんは死んでしまったと希子が言うと、誰もが黙りこむ。そこで話はおしまいになる。

「それに、もしも亡くなってるんだとしたら、そこまで徹底して隠し通すこともない気がするよね」

 綾乃ちゃんが後をひきとった。

「他人には黙っておくとしても、少なくとも希子ちゃんには、ほんとのことを話しそうじゃない?」

「十年以上も前のことだしな。もう時効じゃないか?」

「だよね」

 同意しつつも、綾乃ちゃんの表情はこわばっている。お母さんが既婚者と恋愛していたかもしれないという疑惑に、衝撃を受けているのかもしれない。

 希子もにわかには信じられなかった。けれど春くんの話を聞く限り、そうとしか考えられない。綾乃ちゃんは潔癖なところがあるので、希子以上に動揺しているはずだ。それでも否定的な言葉を口にしないのは、希子への配慮だろうか。

「それにしても、よっぽど好きだったんだなあ」

 翔ちゃんのほうは、特段動じるふうもなく、しみじみと言う。

「魂のかたわれ、だっけ? そうとうだよな」

 春くんからその言葉を聞いたとき、希子は先月お父さんとかわした会話を思い出していた。

 亡くなった奥さん以上に好きになれる女性は、この先も一生現れない、とお父さんは断言していた。お母さんも、そんな恋をしたのだろうか。

 もちろん、不倫はよくない。でも、そこまで好きになってしまったのなら、しかたがないんじゃないかとも思える。なにより、お母さんがもしも踏みとどまっていたら、希子は今この世に存在しない。それは困る。お母さんや希子のせいで相手の家庭がこわれたというのなら、責任を感じるべきかもしれないけれど、春くんの話からするとその可能性は低そうだ。

「そうだね。あのお母さんがそんなにのめりこむなんて、ちょっと意外なくらい」

 自分で自分に言い聞かせるように、綾乃ちゃんが言った。ねえ、と口調をあらためて希子を見やる。

「その、春夫さんが聞いたっていう、お母さんの電話の相手だけど。それって、ハナちゃんじゃないかな? 高校時代の話もしてたってことは」

「ハナちゃん?」

「お母さんの親友。希子ちゃんは会ったことない?」

「ないと思う」

 名前を聞いたことすらない。

「翔くんは?」

「おれも知らない」

「言われてみれば、最近は話を聞かないな。元気なのかな」

 綾乃ちゃんは首をかしげている。

「わたしも小さい頃に一回会っただけなんだけど、印象に残ってて。仲がいいってお母さんからも聞いてたし」

「高校の同級生?」

「うん。中学からだと思う」

 お母さんの母校は、中高一貫の私立校だ。希子は中学受験をするつもりはなかったが、一度なんの気なしにネットで検索してみたら、偏差値が高くてびっくりした。首都圏の女子校の中でも、一、二を争う数字だった。

「お父さんもお兄さんもおじいちゃんも政治家で、ハナちゃんも秘書かなんかをやってるんじゃなかったかな。今はどうかわかんないけど。確かお父さんは、大臣にもなったことがあるとかで」

「大臣? すげえな」

「すてきなひとだったよ。そういうおうちだし、そうとうなお嬢様なんだろうけど、ちっとも気取った感じじゃなかった。物知りで、話もおもしろくて」

 お母さんばかりでなく、綾乃ちゃんとも気が合いそうだ。

「そんで? 希子、これからどうする?」

 翔ちゃんが話を戻す。

「お母さんに、聞いてみる? でも、聞きづらいか」

 少しばかり明るくなっていた綾乃ちゃんの顔つきが、再び険しくなった。

「わたしから、それとなく探りを入れてみたりもできるけど」

「ううん、大丈夫。なんか、もういいかなと思って」

 希子は正直に答えた。

「聞いてもどうせ、ほんとのことは話してくれないよ」

 希子にとって納得いかないのは、お母さんが家庭のある男性と恋に落ちた可能性よりも、本当のことを隠しているように思えることだった。

 幼い希子に、複雑な事情を説明しづらかったというのは、まだ理解できる。しかし、ついこの間にも、希子にすべてを話してくれてはいなかったようだ。

 あのとき、もうおとなだとお母さんに認めてもらえた気がして、希子はけっこううれしかったのに。その気持ちごと軽んじられたようで、二重に腹が立つ。

「そんな、投げやりにならなくても」

 翔ちゃんがとりなすように言った。

「魂のかたわれを、守りたかったんじゃないの? お母さんとしては」

「だけど、それにしても、やっぱりちょっとひどいよね。希子ちゃんまで、ごまかすっていうのは」

 綾乃ちゃんが憤然と割って入った。

「知る権利があるでしょう、希子ちゃんには」

 日頃からお母さんを慕っている綾乃ちゃんにしては、手厳しい。翔ちゃんも気圧されたのか、反論はしなかった。

「やっぱ、もういいよ」

 希子は繰り返した。思ったよりも、語気がきつくなってしまった。翔ちゃんと綾乃ちゃんが顔を見あわせた。

 

(つづく)