それから十五分くらいで、両手に重たそうなレジ袋をぶらさげた春くんが帰ってきた。
「おう、希子。来てたのか」
カウンターの内側に入ろうとして、すれ違いざまに希子の顔をのぞきこむ。
「ラッシーでも飲むか?」
「うん、もらう」
「おれがやろっか」
翔ちゃんがはりきって立候補したが、春くんは言下に断った。
「いや、翔にはまだ早い。意外に奥が深いんだ、ラッシーは。単にまぜりゃいいってもんじゃない」
「はいはい」
不服そうな翔ちゃんに、春くんがレジ袋を押しつける。
「翔は、これを片づけて。あ、いんげんはできてたんだな?」
「筋は全部とった」
「よし、じゃあ茹でよう。そこの鍋にお湯沸かして」
春くんがてきぱきと指示を出し、翔ちゃんが従う。カウンターの内側は狭いので、男ふたりだと少し窮屈そうだ。実際、翔ちゃんが働きはじめてすぐの頃には、腕をぶつけたり足をけとばしたり、じゃまだよと春くんに文句を言われたりしていた。今ではだいぶ慣れてきたようで、まずまず息が合っている。
さほど待たずに、背の高いグラスがカウンターに置かれた。
「ほい、特製マンゴーラッシー」
「ありがとう。いただきます」
「あれ、おれの分は?」
「今日は店員だろ、翔は。希子はお客さんだから」
恨めしげな翔ちゃんには悪いけれど、希子はさっそくグラスに口をつけた。翔ちゃんとながなが話していたせいか、やけにのどがかわいている。
「おいしい」
マンゴーのみずみずしい甘みと、ヨーグルトのさわやかな酸味がまじりあって、口の中に広がる。
「だろ? そうだ、シナモンクッキーもあるよ。食うか?」
いつになく優しいなと思っていたら、春くんは励ますように言い添えた。
「元気出せよ、な?」
ちょうどラッシーを飲みこもうとしていたところで、噎せそうになった。
「元気だよ?」
かろうじて言い返した。もしや、翔ちゃんとの会話が外まで聞こえてしまっていたのだろうか。
翔ちゃんも目を泳がせている。どうしよう。こうなったら、春くんにも一応話したほうがいいだろうか。希子が口を開きかけたとき、春くんが続けた。
「次、がんばればいいって」
希子はひそかに息をついた。
「ありがとう」
春くんが言っているのは、あの写真のことじゃない。連休中の試合で負けてしまって、希子が落ちこんでいるのではないかと心配してくれたのだろう。
休み明けに学校で会った、クラスの友達からも、そういえば同じような気遣いを受けた。すっきりしない気分なのは、あの写真のことが頭の隅にひっかかっているせいだけれど、顔にも出てしまっているのだろうか。そんなに感情をあらわにしている自覚はないのに、少し不安になってくる。
落ち着こう。希子がとりあえずラッシーをもうひとくち飲んだとき、春くんが妙な声を上げた。
「げっ、しまった」
「なに?」
「写真」
再びぎょっとして、希子はカウンターの向こうにいる春くんをうかがった。さも無念そうに頭を抱えている。
「今日こそラッシーを撮って、アップしようと思ってたのに」
なんだ、と希子は詰めていた息を吐いた。ただの偶然らしい。
「ああ、そういや言ってたね。完全に忘れてた」
翔ちゃんも口を挟んだ。
「マンゴー切ってる途中までは、覚えてたのになあ。希子、おかわり飲むか?」
「いや、だったら、おれの分を作ってくれればよくない?」
この春から、春くんはホーリーのSNSをはじめた。
もっと積極的にお店の宣伝をすればいいのに、というのは、希子たちも前々から思っていたことだ。ところが、当の春くんが一貫して否定的だった。しゃらくさい、めんどくさい、カレー屋はカレーの味で勝負すりゃいいんだよ、などなど、毎度気のない返事をよこしていた。
それなのにどういう風の吹き回しかといぶかしんでいたら、どうやら、最近ホーリーに通ってくれるようになった若い女性客から、強くすすめられたようだった。めちゃくちゃ美人、というのが翔ちゃんの目撃談だ。春くんがカウンター越しに女性客と仲睦まじげに談笑している光景は、希子も幾度となく見かけているが、今回は常にない美貌の持ち主らしい。
春くんはもう一杯ラッシーを作り、スマホで何枚か写真を撮った。
「なんか映えてないなあ」
画面をのぞきこんで、翔ちゃんがけちをつける。
「いいよ、適当で」
春くんがスマホを放り出し、翔ちゃんにグラスを渡した。
「お宅のカメラ屋くんも、撮った写真をアップしたりとかしてんの? 日頃から、やたらに撮りまくってんだろ?」
春くんはうちのお父さんのことを「カメラ屋くん」と呼ぶ。お父さんのほうは、春くんのことをちゃんと苗字で、それもさん付けで呼んでいるのに。
「やってないと思う。お父さん、スマホではそんなに撮らないし」
お父さんはあくまで写真を撮るのが好きなだけで、作品を広く公開したいという欲はなさそうだ。
「ふうん、スマホなんかじゃ物足りないってか」
いちいち、とげがある。
春くんはたぶん、お母さんに未練がある。昔、酔っぱらったときに、やり直さないかと冗談めかして持ちかけていたこともあった。いきおい、お父さんのことをライバル視しているふしがある。
一方、お母さんのほうは、よりを戻す気はなさそうだ。
あれは、運動会だったか音楽会だったか、希子の通う保育園でなにかの行事があった日だった。お母さんと一緒に、春くんも来てくれていた。
「希子ちゃんのパパ、かっこいいね」
友達に褒められて、希子はまんざらでもなかった。
「あれはパパじゃないよ。春くんだよ」
その場で訂正したものの、帰り道で伝えたところ、春くんもやはりまんざらでもなさそうだった。
「そりゃ、見る目がある子だな。将来が楽しみだね」
「春くんってほんと、若い女の子に好かれるよね」
横にいたお母さんが嘆息してみせた。批判や非難の響きはなく、どちらかといえば感心しているように聞こえた。
「春くんも、うちに一緒に住めば?」
希子は言ってみた。春くんとお母さんが目を見かわした。
「住みたいな」
春くんが言ったのとほぼ同時に、
「住まないよ」
と、お母さんが言った。
「なんで?」
希子が質問した相手は、もちろん春くんではなくお母さんだ。
「仲よしなのに」
「仲がいいかどうかと、一緒の家で暮らすかどうかは、別の話なの」
お母さんは静かに答えた。
「この距離で接してるからこそ、うまくいってるんじゃないかな」
希子から春くんへと視線を移して、言い足した。
あのときは納得いかなかったけれど、今ならお母さんの言いたかったことが少しわかる気もする。
春くんのことは好きだけど、いわゆる「お父さん」っぽくはない。当時の希子はまだ幼く、身近におとなの男のひとが他にいなかったこともあって、性別と年齢さえあてはまれば、自動的に父親の役がつとまるものだろうと単純に考えていた。
その点、うちのお父さんは断然「お父さん」っぽい。幼い頃、絵本やアニメに登場する父親たちから希子が思い描いていたイメージに、無理なく重なった。
「家の壁も、写真だらけだもんな」
春くんが肩をすくめる。
「しかも、ああやって飾ってる分だけじゃないんだよな? 他にも現像したりしてんの? すごい量になるんじゃないか」
話がまたしても微妙な方向へ転がっていく。この状況で「写真」の話をするのはなんとなく落ち着かないが、翔ちゃんはのんきに答えた。
「整理して、アルバムも作ってるよ。家族のと、あと泉水のも」
「へえ、やっぱり実の息子は別枠なんだ?」
「別枠とか、そういうんじゃなくて。墓参り用だよ」
眉をひそめた春くんに、翔ちゃんが弁明した。
希子は目顔で翔ちゃんを牽制した。あんまりよけいなことを言わないでほしい。わかってるって、とでも言いたげな目くばせが返ってきた。
「墓参り?」
春くんはぽかんとしている。
「泉水のママの」
「ああ、墓前に供えるってことか。今年は法事もあるんだな、こないだ美佐ちゃんが言ってた。来月だっけ?」
言われてみれば、お父さんがこの間そんな話をしていた。今年は泉水のママの七回忌にあたる。
「うん。来月の頭だって」
翔ちゃんが答えた。あと一カ月もない。お父さんはもう泉水のアルバムを作りはじめているだろう。亡き妻のために、腕によりをかけて。
泉水が実母のお墓参りに行くという話をはじめて聞いたとき、希子はおそらく九歳か十歳だった。
ごく自然に、自分の身に置き換えて考えてみた。と同時に、これまた自然な疑問が脳裏に浮かんだ。
わたしも実のお父さんのお墓参りをしなくていいんだろうか?
「お墓参り?」
お母さんは目をまるくして、それから眉根を寄せた。
「行きたいの?」
あらたまってたずねられ、希子は少したじろいだ。
「いや、別に」
そこまで深く考えずに質問しただけだったから、常になく深刻そうなお母さんの顔つきに、戸惑った。
「実は、お母さんも行ったことがなくてね」
行ったことがないばかりか、お墓がどこにあるのかも知らないという。お墓だけでなく実家や家族のことも、あまり聞いていなかったそうだ。
「親御さんはふたりとももう亡くなってたし、他の親戚ともほとんど交流はないみたいだった」
その親族とも、結局は一度も会わずじまいになったらしい。正式に結婚していたわけではないので、冠婚葬祭の場で顔を合わせるような機会もなかった。
「ごめんね」
すまなそうに謝られて、希子のほうもなんだか申し訳ない気分になった。
「希子がどうしても行きたいんだったら、調べてみようか」
「いや、いい」
早々にひきさがった。そこまでやってもらうほどのことではない。ただちょっと気になっただけだ。
「そう? ごめんね」
あのときのお母さんの顔を、希子は今もありありと思い出せる。悲しげというか苦しげというか、それまでに見たことのない、なんともいえない表情だった。責任を感じて気落ちしているふうにも見えた。別にお母さんが悪いわけじゃないのに。
思えば、実のお父さんについて根掘り葉掘り質問しようという気にならないのは、ひょっとしたらあのやりとりも多少は影響しているのだろうか。身長が高いか低いかくらいならまだしも、お母さんが答えにくいような質問を不用意にぶつけて、困らせてしまうのは気がひける。お母さんはいつもだいたい機嫌がよくて、なにかで怒ったりあわてたりしてもすぐ気を取り直してけろりとしているから、なおさら印象に残っているのかもしれない。
お母さんのあんな顔を、翔ちゃんや春くんは見たことがあるんだろうか。
「法事って、週末?」
希子がぼんやりしている間も、ふたりは話を続けている。
「土日で、名古屋に一泊してくるはず。なんで?」
「夫婦で伊豆の山奥に引っ越した常連さんの話、したっけ? そのふたりに、遊びにこないかって誘われてるんだよ。遠いし、泊まってもいいって。翔と希子も、もしひまならどうかなと思って」
春くんは友達が多く、遊びの誘いもよくかかる。キャンプやバーベキュー、海水浴に温泉、行き先も顔ぶれもさまざまで、昔は翔ちゃんと希子もたびたび連れていってもらっていた。
お母さんがお父さんと結婚して以降、春くんと三人で遠出することはほとんどなくなっている。希子たちが成長するにつれ、自分たちの用事で忙しくなっていたせいもあるが、家族団欒をじゃましないよう、春くんなりに遠慮しているのかもしれない。
「行こっかな、ひさしぶりに」
翔ちゃんが乗り、「わたしも」と希子も答えた。
「じゃあ、その日程で聞いてみるわ。もしだめだったら、また言うよ」
「なんだ、まだ決まってないの?」
「まあな。けど実際、六月の頭っていいタイミングなんだよ。梅雨に入ると、天気が不安だし」
春くんは言い訳がましくつけ加えた。
「泉水をのけ者にしようってわけじゃないんだけどな」
確かに、仲間はずれにしようというつもりはないのだろう。ただ、気心の知れた翔ちゃんと希子だけでなく、泉水まで連れ出すとなると、どうしても気を遣う。なんだかんだ言っても、お父さんに対して気兼ねもあるに違いない。
それに、肝心の泉水が、見知らぬ他人の家に行きたがるとも思えない。人見知りが激しい上に、もともと旅行というものを好まない。枕が変わると寝つけないらしい。行き慣れているはずの名古屋ですら例外ではないようで、帰ってきた直後はいつも眠たそうにしている。
「綾乃ちゃんは?」
希子が言うと、春くんが首をかしげた。
「綾乃姉さん? 興味ありそうなら、誘ってみてもいいよ」
希子たち弟妹ならともかく、春くんが元妻の長女のことを「綾乃姉さん」と呼ぶのは変だろう。綾乃ちゃんも、表立って文句は言わないものの、迷惑そうだ。
「その、姉さんっていうの、やめたげたら?」
希子は姉のために提言してみた。
「だって、見るからに姉さんって感じじゃないか?」
春くんは悪びれない。
「誘っても来ないって。山奥とかまず無理だろ、あれじゃ」
翔ちゃんが話を戻した。
「まあ、そうか」
綾乃ちゃんは虫が大の苦手だ。家の中に出没するたび、日頃の冷静沈着ぶりからは想像もつかない大騒ぎになる。ガキかよ、と翔ちゃんが鼻で笑い、険悪な空気になる。
「さっきの、アルバムってさ」
春くんは希子たちを見比べて、思わぬことを言い出した。
「泉水よりも、綾乃姉さんのを作ってやったらいいのにな」
「なんで?」
「だって、親父とこじれてるんだろ? 娘がどんな感じで暮らしてるのか、あっちはやきもきしてるよ」
もっともらしく言う。
「墓にわざわざ写真なんか持っていったって、骨が埋まってるだけだろ。意味ないよ。泉水の母ちゃんの魂は、息子のそばでいつも見守ってるって」
魂やら霊やら、あとはUFOや超能力あたりも含め、超常現象がらみの話全般に春くんは目がない。
「またそういうこと言って」
反対に、その手の話を好まない翔ちゃんは、気味悪そうに顔をしかめている。
春くんがこういう話をするたび、希子も翔ちゃんもそわそわしたりびくびくしたりしてしまう。唯一、お母さんだけが、たいてい平然と聞き流す。
「ないって証明することは、できないもんね」
という理由で、決して否定はしない。そのかわり、
「あるって信じることもできないんだよ、わたしには」
と、すまして言うのだった。
「つまんないなあ。鍼灸とスピリチュアルって、相性よさげなのに」
不満げな春くんに、お母さんはうんざりした顔で言い返した。
「それね、すごく誤解されやすいんだけど、違うから」
「え? なにが?」
「鍼灸師によっていろんな考えかたがあるから、一概には言えないけど。少なくとも、わたしのやってる治療には、そういう、いわゆる神秘的な要素はない」
「でも、気の流れをよくする、とかいうよな? ある意味、目に見えない世界の話じゃないの?」
春くんはまだ食いさがった。
「気、っていう言葉が、まぎらわしいんだろうね」
お母さんがため息をついた。
「気っていうと、超自然的なエネルギー、みたいなイメージがあるでしょ。漫画とかに出てくるやつ。手からビームが出て敵をやっつけちゃう的な」
希子も翔ちゃんもうなずいた。
「でもね、鍼灸の気って、そういうものじゃないんだよ。気そのものは、確かに目には見えないけど、東洋医学にはしっかりした科学的根拠がある」
いつになく熱っぽい口ぶりで、お母さんは語っていた。
「ツボに鍼を刺して、神経に刺激を与えると、血流がよくなったり、エンドルフィンやセロトニンが放出されたり、炎症がおさまったりする。そういう物理的な現象を、気が動くとか、気が足りるとか、気のめぐりがよくなるとか、気って言葉を使って表現してるだけ。つまり気っていうのは、人間の体の状態やバランスをととのえる上での、機能的な概念なんだよね。あくまでも体にかかわるもの。スピリチュアルのほうは、精神や心の領域の話でしょ。そこが根本的に違う」
途中から話が難しくなってきて、希子も完全に理解できたとはいえないが、ともかく、お母さんが現実的な性格の持ち主だというのはずっと変わらない。
そう考えると、先ほど翔ちゃんとも話していたとおり、希子の亡き父に写真を供えるという発想はなさそうだ。そもそも、お墓の場所もわからないのだから、どうしようもないだろう。
それはそうと、もし春くんの言うとおりだとしたら、わたしの実のお父さんも、この近くにいるんだろうか。
なんとなく、宙に視線をさまよわせてみる。不気味な話は苦手だけれど、実の父親ならこわくない。お父さんがどんな顔なのか、ひとめ見てみたい。
魂にも、姿かたちはあるのだろうか。絵本や漫画なんかに出てくる幽霊は、たいがい生前の姿で描かれている。実物に会えないのはしかたないとして、それこそ写真があれば、せめて頭に思い浮かべてみることができるのに、お母さんの手もとには一枚も残っていないらしい。
希子が気を散らしているのに気づいたのかどうか、春くんは死者の魂の話にはそれ以上踏みこもうとはせず、綾乃ちゃんたちの話に戻った。
「綾乃姉さんも、気が強そうだもんな。あの親父さんと、いかにもぶつかりそう」
「春くん、綾乃ちゃんのお父さんと会ったことあるの?」
希子がたずねると、春くんはひとさし指を立ててみせた。
「一回だけな。再婚するって美佐ちゃんが知らせたら、どうしても相手に会わせろって言われたらしくて」
「ふうん、春くんに興味津々だったんだ?」
「そんなかわいいもんじゃなかったよ。面接だな、あれは。やったら高そうな、気取った割烹に連れてかれて」
春くんは遠い目で語り出す。
「お上品な料理がちまちま出てくんの。でも、味なんかわかんない」
「緊張して?」
「いや、先方に延々詰められてさ。カレー屋なんかでほんとに食ってけるのか、美佐ちゃんに養ってもらおうって魂胆じゃないだろうな、みたいな?」
「え、ひど」
お父さんに対する綾乃ちゃんの毒舌は、希子も日々聞き慣れている。そんなにけなさなくても、と思うこともあるけれど、あながち誇張でもなかったのだろうか。
「そこまで言うか? 何様?」
翔ちゃんも顔をしかめている。
「美佐ちゃんも、怒ってたな」
当の春くんは、思い出し笑いをしている。
「失礼なこと言うなって食ってかかって、しまいには途中で帰ろうとして。おれも帰りたかったけど、ここで帰ったら負けだろうと思って、必死になだめて」
「春くん、偉い」
「よな?」
春くんが胸を張った。
「ま、向こうにしてみたら、警戒するのも無理ないよ。おれとか、異人種みたいなもんだろ。人生ではじめてかかわるタイプっていうか。それはおれのほうだってそうだし、お互い様なんだけど」
「異人種、か」
綾乃ちゃんの進路に難色を示したのも、同じような心理が働いたせいなのかもしれない。これまで綾乃ちゃんのお父さんの周りには、哲学を専門に学ぼうとする人間がたぶんいなかったのだろう。
「綾乃ちゃんが大学に入って、ちょっと落ち着いたっぽいよ。定期的に会ったりとかもしてるみたい」
めんどくさいと乗り気ではなさそうながら、一応は出かけていく。綾乃ちゃんの話を聞く限り、父娘の溝が深まった最大の理由は進路問題だったようだ。すでに哲学科に入ってしまった以上、父親もあきらめたのかもしれない。
「会うっつったって、飯とかお茶とかだけだろ? せいぜい数時間っきりじゃ、全然足りないよ。もっとこう、生の日常生活が知りたいって」
霊魂ならさておき、生きている人間は、いくら我が子の様子が気になったとしても、四六時中ついて回るわけにはいかない。綾乃ちゃんのほうから、進んで報告しているとも思えない。
「その点、おれは恵まれてるな」
春くんはしんみりした口ぶりで言う。
「こうやって、翔や希子の顔をしょっちゅう見られて」
照れくさくなって、希子はわざとふざけて言った。
「だよね?」
翔ちゃんもいつもの調子で茶化すかと思ったけれど、真顔で黙っている。ひそかに感動しているのかもしれない。
「美佐ちゃんに感謝だな。離婚した後、子どもに会わせてもらえないって話、けっこう聞くもん」
「そうなの?」
「嫁とか、あと嫁の両親とかに、ブロックされるんだってよ」
春くんが肩をすくめる。
「自慢じゃないけど、おれの友達はバツイチが多いんだよ。むしろ、続いてるやつのほうが少ないかも。ああ、お客さんもだな」
確かに、自慢にはならない。
「それこそ、写真だけでも送ってくれ、って元嫁に泣きついたって奴もいたな」
「それもちょっと、かわいそうだね」
希子が相槌を打ったとき、ああっ、と春くんが悲鳴を上げた。
「しまった。パクチー、買い忘れた」
大仰に頭を抱えている。翔ちゃんがのっそりと立ちあがった。
「おれ、買ってこようか?」
「まじか、助かる。商店街の八百屋にはないんだよな。駅前のスーパーまで行ってくれるか?」
「わかった」
「じゃあ、わたしもそろそろ帰る。ラッシーごちそうさま」
希子は空いたグラスを春くんに返した。
「気をつけてな。伊豆の日程は、確認してまた連絡する」
春くんに見送られ、希子は翔ちゃんと連れだっておもてに出た。あたりはまだ明るいけれど、空の端っこがかすかに夕方っぽい色になっている。
駅と家は、ここからだと逆の方角になる。
「じゃあね。バイトがんばって」
言い置いて希子が歩き出そうとしたら、翔ちゃんがおもむろに口を開いた。
「あのさ、さっきからずっと考えてたんだけど。希子の写真って、やっぱりお供え用じゃないかもな」
やけに口数が少なかったのは、そちらに気をとられていたからだろうか。
「たぶんね。とりあえず、お母さんに聞いてみるよ」
ありがとう、と話をしめくくるつもりで希子は言い添えたが、翔ちゃんはまだもの言いたげに口をもごもごさせている。
「希子のお父さんってさ」
翔ちゃんらしくもない遠慮がちな調子で、切り出した。
「実は生きてるってこと、ないかな?」