4 証拠写真
道端で、希子は立ちすくんだ。突拍子もないことをいきなり言われて、体も頭もつかのま動かなかった。
わたしの実のお父さんが、本当は生きているかもしれない? そんなことがありうるだろうか?
「ないよ」
翔ちゃんと自分、両方に向かって答えた。声がかすれてしまったので、
「ないでしょ、それは」
と、もう一度言い直した。そんな可能性を考えたことすら、今までない。
「ないかな?」
翔ちゃんは真剣な顔で言う。
「希子の写真と、バスケの大会の表彰状の写真だろ。そういう、どうってことない写真をわざわざ見せる相手っていったら、やっぱ身内じゃないか?」
あの封筒の中には、希子に関係する写真だけが入っていた。ということは、あれは希子だけに関係のある「身内」に渡すために準備されたものではないか、というのが翔ちゃんの推理だった。
「つまり、希子の実のお父さん」
一応、筋が通っているといえなくもない。かといって、たった二枚の写真で、これまで十三年間信じてきたことが──それも、実の父親の生死という大問題が──簡単に揺らぐはずもない。
「ないよ」
希子は繰り返した。
「ないかな?」
翔ちゃんも負けじと繰り返す。
「だって」
言いかけたところで、ホーリーのドアが開いた。店先に置く小さな立て看板を手に持った春くんが、怪訝そうに希子と翔ちゃんを見比べる。
「あれ、ふたりともまだいたのか? どうした?」
希子たちは顔を見あわせて、そろって回れ右をした。春くんにさらになにか聞かれる前に、それぞれ逆の方向へ歩き出した。
次の日曜日は、母の日だった。世の中では「母の日」と名づけられたこの日を、希子たち家族の間では「写真館の日」と呼びならわしている。
お昼前に、家族全員で家を出た。年に一度、みんなで写真を撮るのは、希子がまだ保育園に通っている頃からの恒例行事だ。商店街の一角で、親子二代にわたって営業を続けている昔ながらの写真館まで、歩いて十分もかからない。
先頭のお母さんが入口のドアを開け、ぞろぞろと中へ入った。
写真館の中はひんやりと涼しく、独特の匂いが漂っている。この匂いをかぐたびに、一年経ったんだな、と時の流れを意識する。誕生日とか、始業式とか、節目となる行事は他にいくつもあるけれど、ここには年に一度しか来ないから、ことさら特別な感じがするのだろうか。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれた店主に、お母さんが頭を下げる。
「今年もよろしくお願いします」
残りの皆もならった。
年に一度の記念撮影が習慣となったきっかけは、この写真館の老店主が長年患っていた腰痛だった。
お父さんによると、カメラマンという職業は腰を痛めやすいという。長時間にわたって立ちっぱなしで働くことが多い上に、無理な体勢で撮影したり重い機材を運んだりもしなければならず、おのずと腰に負担がかかってしまう。
この店主も、若いうちから不調に悩まされつつも、だましだましやり過ごしてきたらしい。しかし症状は年々悪化して、ついに限界がきた。
長年地元で親しまれてきた写真館の臨時休業を聞きつけて、幾人ものなじみ客が見舞いに訪れた。そのうちのひとりが、隣町の鍼灸院を紹介してくれた。開業してまだ日は浅いものの、腕は確かだと太鼓判を押してみせたという。
かくして店主は植田鍼灸院に駆けこんだ、もとい、腰をかばいながらよろよろと来院したのだった。
治療を受けて、幸い順調に腰は快復した。やがて念願の職場復帰もかない、喜んだ店主はお礼に写真を撮らせてもらいたいと申し出てくれた。
当時、希子たちは三人家族だった。泉水はすでに鍼灸院に通っていたはずだが、希子や翔ちゃんと面識はなかった。当然ながら、お父さんともかかわりはなかった。写真といえば、お母さんがたまにスマホで撮ってくれる程度だった。
やたらに明るい照明のもと、ものものしいカメラを前にして、よそゆきのワンピースを着せられた希子はかなり緊張した。笑って、と言われれば言われるほど、顔がひきつった。助手役を担う店主の妻が、冗談を飛ばしたり、ぬいぐるみを振り回したりして、場を和ませようと奮闘してくれたものだった。
その記念すべき一枚目の写真で、五歳の希子は椅子に座らされている。座面にえんじ色のビロードが張られた、古めかしいやつだ。椅子の傍らに翔ちゃん、ななめ後ろにお母さんが立っている。
お父さんと泉水が加わるまで、この構図が続いた。希子が八歳の年までだから、全部で四枚ある。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
会釈を返してくれた店主の外見は、八年前と変わらない。
少なくとも希子の目には、変わっていないように映る。初対面のときも、髪は真っ白だったし、肌には無数のしわが刻まれていた。八年間で希子たちがどれほど変わったかを思えば、同じ速さで時間が流れているとは信じがたい。
室内の様子も、同じく、昔からほぼ変わっていない。
唯一ともいえる変化は、まめまめしく立ち働いていた奥さんの姿がないことだ。おととし妻を亡くした後、店主は新たな助手を雇い入れなかった。撮影以外の雑事も、自ら切り回している。
「どうぞ」
店主について、奥のスタジオに通じる通路を進む。両側の壁には、写真の額がびっしりと並んでいる。
わが家にも写真はたくさん飾ってあるけれど、ここはもちろんその比ではない。壁じゅうがほぼ隙間なく埋め尽くされている。カラー写真だけでなく、白黒やセピア色のものも多い。先代や先々代の撮った写真もまじっているらしい。
「歴史を感じるね」
二年前にはじめて写真撮影に加わった日、綾乃ちゃんはこの通路で左右をきょろきょろ見回して嘆息したものだ。
「証拠写真みたい」
「なんの?」
希子がわけもわからず聞き返すと、綾乃ちゃんは写真から目を離さないまま答えた。
「このひとたちがこの世界に確かに存在した、っていう。証拠写真っていうより、証明写真か」
「そうだね」
横で聞いていたお父さんが、勢いよくうなずいた。
「写真は、一瞬を永遠に残すことができるんだよ」
希子のほうは、永遠やら存在やら難しいことはよくわからないけれど、見知らぬ人々の記念写真を見るのはけっこうおもしろい。
ほとんどが家族の写真だ。黒いスーツと純白のウェディングドレスを身につけた、新郎新婦のツーショット。若い夫婦と、おくるみごと抱かれたちっちゃな赤ちゃん。七五三らしき可憐な着物姿の女児を守るように囲んでいるのは、両親と兄弟だろう。
大所帯になればなるほど、一見しただけで各自の関係性を言いあてるのは難しくなる。老夫婦と、その息子や娘たちと思しき一家の、総勢十数人の集合写真なんかだと、このふたりは夫婦だな、ここは親子どうしっぽいかも、と勝手に組みあわせを想像してみるのも楽しい。
でも今年は、すまし顔でこっちを見つめる盛装の人々とは目を合わさずに、希子は黙々と足を運ぶ。見知らぬよその家族よりも、自分の家族のことのほうが気にかかる。
結局、診察室で見つけた写真のことは、まだお母さんに聞けていない。
今となっては、どちらかといえば写真そのものよりも、後から浮上してきたもっと重大な謎に、希子の頭は占領されている。
翔ちゃんの言い出した「実のお父さんは生きているかもしれない」説のせいである。
ホーリーの店の前で中途半端にとぎれてしまった会話を再開できたのは、あの晩遅く、翔ちゃんがバイトを終えて帰ってきてからだった。
妹が今か今かと待ち構えているのは、翔ちゃんにも予想がついていたのだろう。自室に荷物を置いてすぐに、希子の部屋をノックした。
希子はベッドの上に膝を抱えて座り、翔ちゃんは床であぐらをかいた。なにか用事があって互いの部屋に入ることはあるけれど、たいがい立ち話だ。こうして腰を据えて話すというのは、いつぶりだろう。翔ちゃんを見下ろすのはちょっと新鮮だな、と関係ないことを一瞬思った。
いや今はそれどころじゃないと考え直し、希子は口を開いた。
「やっぱりちょっと、飛躍しすぎなんじゃない?」
この数時間、希子なりに考えた末にたどり着いた結論だった。
「写真のことだけじゃないよ」
これまた想定内だったのか、翔ちゃんは動じずに答えた。翔ちゃんもまた、バイトの合間にこのことを考え続けていたのかもしれない。
「希子の話を聞いてて思ったんだけど、お父さんの手がかりがなさすぎないか? それがなんか、逆に不自然な気がして」
「不自然?」
無意識に声が大きくなって、口を閉じた。他の家族に聞こえてしまわないように、声を落として続ける。
「どういう意味?」
「子どもができるくらいだから、そうとう深いつきあいだったはずだよな? なのに、写真の一枚も残ってない。共通の知りあいもいないし、墓がどこにあるかも知らない。そんなの、おかしくないか?」
よどみなくたたみかけられて、希子は言葉に詰まった。おかしくない、と今までは思いこんでいたけれど、あらたまって問われると、確かに不可解に感じられてくる。
「でも、じゃあ、お母さんがうそついてるってこと?」
声がかすれた。
「なんで?」
昼間の春くんの話によれば、別れた後、元夫に子どもを会わせたがらない母親もいるらしい。だが、お母さんの場合はそうではないはずだ。現に、翔ちゃんや綾乃ちゃんの実例もある。
「なんでかは、わかんないけど」
翔ちゃんが言葉を濁した。
「事情があるんじゃないかな。お母さんのことだから、希子にとって一番いいようにって考えてるはずだし」
そこは希子も同じ意見だ。でも、実のお父さんが生きていると知らないほうがいい「事情」なんてあるだろうか。
「あ、もしかして」
不意におそろしい仮説が頭にひらめいて、胸がきゅっと縮んだ。曲げた足をおなかに引き寄せて、膝小僧におでこをくっつける。
お母さんは会わせてもかまわない、むしろ会わせたいと考えていたとしても、会わされる側がどう考えるかはまた別の話だ。
「実のお父さんは生きてるけど、わたしと会いたくないってこと?」
体を小さくまるめたまま、言葉をしぼり出す。ひょっとして、お母さんが希子に本当のことを言わなかったのも、そのせいか。
実のお父さんに娘と会う気がないと知ったら、希子が傷つくのではないかと心配したのかもしれない。だから、あえて沈黙を選んだのだろうか。
「知らないほうが幸せだって、思ってるのかな」
そうだとしたら、お母さんの懸念はあたっていたわけだ。希子は今まさに、こんなことなら知らないままのほうがよかった、と思っている。
「いや、そんなふうに決めつけることなくないか?」
翔ちゃんが口を挟んだ。
「実のお父さんが、希子と会いたがってないとは限らないよ」
「そうかなあ?」
会いたいのなら、会いにくればすむ話だろう。春くんみたいに。もしくは、綾乃ちゃんのお父さんみたいに、外で待ちあわせるという手もある。
「だって、まったく興味がないんだったら、お母さんから希子の写真をもらったりもしないだろうし」
「そう? かな?」
希子は腕の力を少しゆるめ、顔を上げた。動揺のあまり、そもそもの発端だった写真のことが頭から抜け落ちていた。
「会いたくても、会えない状況なのかもしれないよ。生きてるけど会えないって言われたって、よけい会いたくなるだけだろ。で、しょうがないから、死んだってことにしといたのかも」
もしそうなら、お母さんの思惑どおりに事は運んでいた。いないものはいない、どうしようもない、と希子は割りきることができていた。
「でも、わたしだけじゃなくて、翔ちゃんたちまで」
だまされてたんだよね、と続けかけて、のみこんだ。
「本当のことを知らなかったんだよね?」
穏便に言い換えてみる。
「誰かに喋ったら、希子にも伝わるかもしれないからな」
翔ちゃんが思案顔で応えた。
確かに、秘密を守り通すためには、誰にも口外しないで自分の胸だけにしまっておくのが最も安全だろう。しかし同時に、それだけ多くの相手をごまかさなければならないということにもなる。その分、神経がすりへるはずだ。お母さんがそこまでしてふせておきたかった真実とは、いったいどんなものなのだろう。
「会いたくても会えない状況って、たとえばどんな?」
「うーん」
翔ちゃんがうなる。
「一番ありそうなのは、やっぱり、今の家族がらみなのかな。奥さんや子どもに遠慮してるとか?」
自分の夫に、自分ではない女性との間に生まれた娘がいるというのは、妻にとって歓迎したい事実ではないはずだ。よほど心が広くない限り、相応の距離を置いてほしいと望むのが普通だろう。
「ありうるね」
希子の友達にも、彼氏が元カノと仲よくするのは許せないと公言している子がいる。ふたりで出かけるとか連絡をとりあうとかは論外で、学校の廊下ですれ違ったときに視線を合わせるのさえやめてほしいという。希子自身は男子とつきあった経験がないし、ちょっと束縛しすぎじゃないかとも感じるけれど、同じ立場になったらやっぱり気になるのかもしれない。
希子とは会わない、と奥さんに約束させられたのだろうか。それとも、家族に気を遣って、会わないと自ら決めたのだろうか。いずれにしても、直接顔を見られないかわりに、お母さんがこっそり写真だけ送ってあげているのだろうか。近況報告の意味あいも兼ねているとすれば、表彰状の写真がまじっていてもおかしくない。
「綾乃ちゃんのうちとか、どんな感じなんだろうね」
別れた後で他の女性と新たに家庭を築いたといえば、綾乃ちゃんのお父さんもその一例といえる。今度、綾乃ちゃんにそれとなく聞いてみようか。お父さんと次に会うのはいつだろう。
「あとは……」
言いさした翔ちゃんがためらうように言葉をとぎれさせた。希子は再び身構える。
「なに?」
「それとはまた、全然違う可能性なんだけど……」
前置きしてから、翔ちゃんは続けた。
「そもそも向こうが希子の存在を知らなかったってことは、ないかな?」
「え?」
つかのま、どういう意味なのかがのみこめなかった。
「希子が生まれたときには、たぶんもう別れてたんだよな? 時期にもよるけど、子どもができたって気づかないままだったかもしれない」
「そんなこと、ある?」
言い返したものの、よく考えたら、絶対にありえないとは言いきれない。
その時点では、お母さん自身も、妊娠しているとまだ自覚していなかったのかもしれない。別れようとすでに決めていたから、言い出しそびれたのかもしれない。それとも、わざと黙っていたのか。
「お母さん、春くんとも妊娠中に別れてるしな」
翔ちゃんがおもむろに言い添えた。
「え、そうなんだ?」
希子との年齢差からしても、翔ちゃんが物心つく前には離婚したのだろうと思ってはいたけれど、具体的にいつだったのかは初耳だった。戸籍上も、春くんを翔ちゃんの実父として届け出ているはずだ。
お母さんと春くんが離婚に至ったいきさつも、そういえば希子は知らない。どうやらお母さんのほうから別れを切り出したようだが、本人たちの口からはっきり聞いたことはない。春くんなら、質問すれば隠さず答えてくれそうだけれど、むやみに詮索するのもためらわれる。親の恋愛を、気安く話題にはしづらい。
「おれが生まれるちょっと前だって。ま、春くんの場合は、子どものことも知ってたんだけど」
春くんと違い、希子の実父は、お母さんと入籍も同居もしていなかったようだ。なにも知らずに恋人のもとを去り、それきり音信がとだえたという可能性も、なくはないかもしれない。
「ずっと縁が切れてたけど、後になって、なんかのきっかけで希子のことをうちあけたとか」
翔ちゃんが話を戻す。
「きっかけって?」
「ひさしぶりに連絡とってみたとか、偶然どっかで再会したとか……たぶんだけど、わりと最近の話なんじゃないかな? これまで長いこと、死んだって設定でずっと通してきたから、実は生きてるって今さら言い出しづらいのかも」
「そこでいきなり、あなたに子どもがいますって話すかな?」
翔ちゃんの言うように「わりと最近」の話だとしたら、希子が生まれて十年以上も経っているのだ。それこそ、「今さら」ではないだろうか。
「連絡がつかなくて、知らせたくても知らせられなかったのかも」
「その気になれば、見つけ出せそうじゃない? お母さんなら」
お母さんはああ見えて顔が広く、人脈も行動力もある。春くんによると、困ったときは美佐ちゃんの力を借りればなんとかなる、らしい。
「いや、でも、行方がつかめないケースもあるよ。インドを放浪してたとか」
翔ちゃんが食いさがる。
「春くんみたいに?」
「てか、お母さんもだろ」
「お母さんは旅行でしょ」
「いや、インドの前。中国で」
「中国も、放浪とかじゃないよ」
お母さんは一時期、中国の鍼灸院で見習いとして働いていたらしい。まだ希子も翔ちゃんも生まれる前だ。
修業を積み、いざ帰国するにあたって、せっかくなので他のアジア諸国にも寄ってから日本に戻ろうとお母さんは考えた。ベトナム、ラオス、タイを順にめぐり、最後に訪れたインドで、春くんと出会ったそうだ。ふたりは初対面からうまが合い、お母さんがインドに滞在している間、毎日一緒に過ごした。お母さんが日本へ帰る日がやってくると、春くんは泣いて別れを惜しんだ。
そして翌月、当初の予定を繰りあげて、自分も日本に舞い戻ってきた。
「離ればなれになるのが、どうしても耐えられなくて」
春くんは得意げに言っていた。
「愛の力ってやつ」
それはそうかもしれないが、そのたった数年後にはうまくいかなくなって離婚したのだから、胸を張ってみせるところでもない気はする。
「外国にいたら、確かに連絡はとりづらいかもしれないけどね」
はじめに話していた、家族に反対されているという説に比べると、説得力が乏しいだろう。
「考えすぎか」
翔ちゃんは案外あっさりと認めた。あくまでもひとつの可能性として挙げてみただけだったらしい。
「どっちにしても、やっぱりお母さんに聞いてみないとわかんないな」
「なんて聞こう?」
「難しいな。下手に聞いても、ごまかされるだけかも。聞きかたをちゃんと考えたほうがいい」
それはそうだ。希子の実父が生きているとしたら──こうして翔ちゃんと話しているうちに、もはやそうとしか思えなくなってきたが──、これまで十三年もの間、お母さんはその事実をひた隠しにしていたことになる。聞かれたとしても、すんなりと打ち明けてくれるかは疑わしい。
「ちょっと考えてみる」
希子は言った。
「うん。おれもまたなんか思いついたら、言うよ」
翔ちゃんがうなずいた。
「ありがとう」
考えてみる、つもりだった。考えがまとまりしだい、お母さんに聞こうと思っていた。あのときは。
写真館を出た後、これも毎年恒例の、近所の焼き肉屋さんで食事をすませ、二時頃には帰宅した。
自分の部屋に戻った希子は、クローゼットを開けた。一番上の棚につっこんである、大きめのリュックサックを、背伸びしてひっぱりおろす。貸してほしいと泉水に頼まれたのだ。来月、法事で名古屋に行くときに使いたいという。
その足で、リュックを向かいの部屋に持っていった。
「ありがとう」
泉水がさっそくファスナーを開ける。
「旅行の準備、もうはじめてるの?」
「うん。もう来月だし」
希子の感覚では「まだ」来月だが、泉水は周到に用意を進めているのだろう。もともと万事において緻密に計画を立てたがる性分で、中でも旅支度には時間をかける。旅先という非日常の場では、予想外のことが起こりうる。どんな事態にも対処できるように備えておかねばならない。
ベッドの上には、服や下着、洗面具、本にメモ帳などなど、持ちものの候補と思しき品々が並んでいる。希子が誕生日にあげた小箱もある。
「これも持ってくの?」
「うん」
石はほどほどにするようにとお父さんに言い渡されてしまい、ここに入る分だけ持っていくつもりだという。
「重量制限もあるからね」
不服げに口をとがらせている。息子の荷物があまりに大きく重くなりがちなので、お父さんが設定しているのだ。
「お墓参りのときも、石って持っていったりする?」
質問してしまってから、ちょっと唐突すぎたかなと反省した。ホーリーで翔ちゃんとお供えの話をしていたのが、頭のどこかに残っていたのかもしれない。
「お父さんは、アルバムを持っていくんだよね?」
希子がつけ足すと、泉水は特段いぶかしむふうもなく、「そうだよ」と軽い口ぶりで答えた。
「お父さんは写真で、僕は石」
小箱を手にとり、ふたを開ける。小ぶりな石がいくつか入っている。重さも考慮して選んだのだろうか。
泉水が小石をひとつつまみあげて、目の前にかざした。
「これとか、ママは好きそう」
青みがかった深緑色の、いびつな三角形の石だ。でこぼこした表面に、ところどころ白い筋が入っている。
「公園で拾ったやつ?」
「ううん、学校の遠足。お弁当食べた河原に、チャートがいっぱいあって」
チャートというのは、石の種類のひとつだ。前に泉水が教えてくれた。確か、
「プランクトンの?」
「そうそう。放散虫とかの死骸が海の底にたまって、固まってできる」
希子は伸ばしかけていた手をそっとひっこめた。
「チャートはいろんな色があって、目立つんだよね。つい拾っちゃう」
泉水が箱の中から石をもうひとつ出した。
「これもだよ」
こちらはもっと小粒で、色もかたちも小豆にそっくりだ。
「ママはこういう、青緑っぽい色が好きだった」
泉水はひとつめの石を手のひらでもてあそびながら、言い添えた。
「こんな色のワンピースも持ってて、よく着てた」
「泉水って、ママのこと覚えてるんだ?」
声がうわずってしまった。
三歳で別れた実母の記憶は、歳月を経て、おぼろげにかすんでいるとばかり思っていた。ゼロではないにしても、限りなくゼロに近いのではないか。ということは、希子にとっての実父の記憶──こっちは正真正銘のゼロだ──と、似たようなものだろうと解釈していた。
「覚えてるよ」
当然だと言わんばかりに、泉水は屈託なく答える。
「写真とか、あと動画とかも見たりして……」
「動画?」
希子は思わず身を乗り出した。
「うん。お父さんが撮ったやつ」
泉水は反対に、体をひいた。希子の顔つきからして、まずいことを言ってしまったと思ったのか、おずおずと言い足す。
「たまにしか見ないけどね」
「ごめん、びっくりしちゃって」
希子ははっとして謝った。
「ちょっと意外だったから。泉水、記憶力いいね」
苦しまぎれの相槌を打ち、そそくさと泉水の部屋を出た。