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7 スニーカー

 

 六月に入って最初の週末は、快晴に恵まれた。

「よかったね、晴れて」

 助手席の窓越しに青空をあおいで、希子は言った。

 ここ三日ほど、梅雨を先取りするかのようなぐずついた天気が続いて、希子も翔ちゃんも気をもんでいたのだった。ところが今朝起きてみたら、空は雲ひとつなく晴れあがっていた。

「おれは晴れ男だからな」

 運転席から春くんが機嫌よく応えた。翔ちゃんは後部座席に寝転がって、かすかにいびきをかいている。

 家を出発して、すでに二時間が経とうとしている。先ほど県境を越えて、神奈川県から静岡県に入った。高速道路の両側に、緑の山々が間近まで迫っている。さっき、雪をかぶった富士山の頭もちらっと見えた。

「次のインターで、下道に降りるよ」

 ナビの画面を横目に、春くんが言った。ハンドルに手を置いたまま、思い出したように続ける。

「そういや、綾乃姉さんの親父に会ったんだってな?」

「ああ、うん」

 翔ちゃんから話を聞いたらしい。

「強烈だっただろ?」

「まあね」

 あの日、食事を終えてレストランを出た後、堤さんはタクシーで希子を家まで送ってくれた。綾乃ちゃんが大学での用をすませて帰宅したのは、それから一時間ほど経ってからだった。

「あの後、どうだった? 大丈夫だった?」

 顔を合わせるなり、たずねられた。

「お肉、おいしかったよ」

 希子がひとまず無難な返事をすると、探るように顔をのぞきこまれた。

「それで、肝心の話は?」

「できたよ、一応」

 堤さんと話した内容を、希子はかいつまんで報告した。

 堤さんも、希子の実父とは面識がなかったこと。ないどころか、存在すら知らされていなかったこと。彼との間に生まれた娘のことも、出産してしばらく経つまで教えてもらえなかったこと。離婚した後も、お互い身辺に大きな変化があれば報告しあうという約束だったのに、と堤さんが少々気を悪くしている様子だったことも伝えた。

「綾乃ちゃんのお父さんも、不思議がってた。お母さんがなんでこのことだけ話したがらないのか。春くんとか今のお父さんのこととかは、ちゃんと伝えてるのに」

「そっか。お母さん、あのひとにもあんまり話してないんだ」

 綾乃ちゃんは残念そうに肩を落とした。

「結局、収穫なしってことか。ごめんね、意味なかったね」

「ううん。ごはん、おいしかったし」

「でも、最後はひとりであのひとの相手させちゃって。疲れたんじゃない?」

 確かに疲れてはいるけれど、それは堤さん自身にというより、話の中身のせいだ。

「綾乃ちゃんのお父さんが言うには、お母さんが喋ろうとしないのは、死因のせいじゃないかって」

「死因……」

 綾乃ちゃんがつぶやき、軽く目をつむった。そう聞いただけではなんのことやらのみこめなかった希子とは違って、すぐさまぴんときたようだった。さすがにあの堤さんの娘だけあって、理解が早い。

「たとえば、自殺とか。それから、遺伝する病気とか?」

 念のため言い添えてみた。綾乃ちゃんが苦々しげに眉をひそめる。

「勝手なことばっか言って、ほんとごめん。デリカシーなさすぎだよね」

「いや、あくまで一般論として、ってことだったけど」

 堤さん自身も、そこは強調していた。本当のところは依然としてわからない。ただし、ひとつの仮説として、ある程度の信憑性があるのも否めない。

「あとは、ええと、犯罪がらみとか……」

「犯罪!?」

 綾乃ちゃんの声が裏返った。これは想定外だったらしい。

「殺された、ってこと?」

 声をひそめる。

「じゃないかな、たぶん」

 犯罪、という単語にぎょっとして、具体的に意味するところは聞きそびれてしまったけれど、後から考えたらおそらくそういうことだろう。なんらかの事件に巻きこまれて命を落とした、つまり、殺された。そうストレートに言うのはあんまりだろうと堤さんなりに気を遣って、言葉を選んでくれたのかもしれない。

「いや、それもないでしょ。もし仮に、ひとの命にかかわるような事件が起きたんだとしたら、さすがに周りにも隠し通せないんじゃない?」

 それはそうかもしれない。

 遺伝性の病気というのも、なんとなく違う気がする。希子はむしろ、四人きょうだいの中で最も体が丈夫だと思う。泉水はよく熱を出すし、翔ちゃんは冬になると決まって風邪をひくけれど、希子はだいたいずっと元気だ。去年、家族が順にインフルエンザで倒れたときにもひとりだけ無事で、希子は体が強いねとお母さんに褒められた。

「ああもう、よけいにわかんなくなってきたなあ」

 綾乃ちゃんが低くうめき、こめかみに手をあてがった。

「なんか参考になるかもと思って会ってもらったのに、逆に混乱させちゃったよね。ごめんね」

「ううん。綾乃ちゃんのせいじゃないし」

 確かに、謎が解けるどころかかえって深まってしまった感じはするけれど、綾乃ちゃんは悪くない。

「にしても、大丈夫? 希子ちゃん」

 すまなそうに眉を下げたまま、綾乃ちゃんは希子を見やる。

「こないだは、なにがなんでも知りたいとは思わない、って言ってたよね? 無理してない?」

「うん、でも、いろいろ考えてたら、やっぱりちゃんと知りたくなってきたかも」

 綾乃ちゃんや堤さんの勢いにつられているところもあるかもしれないが、このままなんにも知らないよりは、知ったほうがすっきりしそうだ。小さな子どもならともかく、希子ももう中学二年生だし、多少ややこしい事実でも受けとめられる。

 自殺だの、犯罪だの、不穏な言葉にはどきりとさせられる。一方で、どこか現実味が薄いのだった。テレビドラマの登場人物に、かわいそうだとか大変だなとか同情しているかのような、他人事のような感覚がついて回る。実父のことをまったく知らないせいもあるのかもしれない。万が一、たとえばお母さんやお父さんが「子どもに話せない」類の過去や秘密を隠していたら、もっとショックを受けるだろう。

「あとさ、綾乃ちゃんのお父さんの話を聞いてて思ったんだけど」

 思いついて、言い足した。

「実のお父さんのことを知らないっていうのはそうなんだけど、よく考えたら、わたし、お母さんのこともそんなに知ってるわけじゃないかも」

「ああ、若い頃の話?」

「最初の結婚のこととか、これまでほとんど聞いたことなかったし。なんで鍼灸師になったのかも。今回、意外な一面を知れたっていうか」

 初耳といえば、母の日の午後に、公園でお父さんから聞かされた話もそうだった。

「それはいい視点だね。親っていっても、ひとりの人間だもんね」

 綾乃ちゃんが感心したように言う。ちょっと照れる。

「そんな、視点ってほどのものじゃないけど……」

 綾乃ちゃんは毒舌だけれど、意外に褒め上手なところもある。

「じゃあ、あのひともちょっとは役に立ったってことか」

 綾乃ちゃんが結論づける。父親のことだけは、どうしても褒める気がないらしい。

 

 しかし結果的には、ほかでもない堤さんのおかげで、事態は思いがけず進展することとなった。数日後の夜、希子も綾乃ちゃんも想定していなかったかたちで。

 家族六人で夕ごはんを食べた後、希子が自室で宿題をしていたら、お母さんが部屋をノックした。

「希子、ちょっといい?」

「いいよ。なに?」

 あえて軽く応えつつも、希子は少々身構えた。お母さんはいつになくきまじめな顔つきをしている。

「日曜日、綾乃の父親といろいろ話したんだってね」

 後ろ手にドアを閉めると、お母さんは切り出した。

「うん」

 話の流れをつかみかね、希子はおそるおそる答えた。堤さんと会ったときのことは、当日の夜にひととおり話してあった。行きつけのレストランでフランス料理をごちそうになったと報告したら、あのお店ってまだあるんだね、とお母さんはなつかしがっていた。なにを食べたか、おいしかったか、変哲もない質問にいくつか答えた後は、自然と他の話題に移った。何日もおいてまた蒸し返されるとは思ってもみなかった。

 お母さんがベッドの隅に腰を下ろした。希子も椅子を半回転させて、お母さんと向かいあう。立ち話ですむ用件ではないのだろうか。希子がいよいよそわそわしていると、お母さんが再び口を開いた。

「昨日、彼から電話をもらって」

「えっ」

 どきりとした希子に向かって、お母さんは続ける。

「希子と会えてよかった、って喜んでたよ」

 それは希子も本人の口から聞かされているし、お母さんの表情からしても、本題ではなさそうだ。

 堤さんはいったいお母さんになにを話したのだろう。今も連絡はとりあっているという話だったし、他の用のついでに希子の話題も出ただけだったらいいけれど、それならお母さんはこんなふうにあらたまって部屋まで来ないはずだ。

「そう?」

 お母さんの顔をうかがいながら、意味もない相槌を打った。こちらから問いただす勇気はない。

「それでね」

 お母さんは言葉を吟味するように、一呼吸おいた。希子も息を詰める。

「希子が実のお父さんのことを気にしてるようだったから、ちゃんと話してあげるべきだって言われて」

 希子は絶句した。タイミングをみはからって、それとなく探りを入れてみようかと思ってはいたけれど、そっちから先に話が通ってしまうなんて。

 堤さんに悪気はなかったに違いない。それどころか、純粋な善意からお母さんに進言してくれたのだろう。もともと堤さん自身も、この件については思うところがあったようだった。自分になにができるかと考えをめぐらせ、考えるだけにとどまらず、すかさず実行に移したのだろう。

 それにしても、初対面の堤さんとそんな話をしていたとばれてしまったのは、どうにも気まずい。お母さん抜きで、こそこそ秘密を探ろうとしていると思われてしまっただろうか。これまた悪気はなかったとはいえ、実際その通りなので、申し開きもできない。

 黙りこんでいる希子に向かって、お母さんが問いかける。

「希子は、なにを知りたい?」

 声も表情もやわらかい。気を悪くしているわけではなさそうで、希子の肩から少しだけ力が抜けた。

「この間、身長のことしか話してなかったね。他に、なにが気になる?」

 お母さんがたたみかけた。本気で希子の疑問に答えたいと考えてくれているのだろう。希子は思いきって聞いてみた。

「どんなひとだったの?」

「いいひとだったよ。とっても」

 お母さんは即答した。

「穏やかで優しくて、だけど芯は強くて。仕事熱心で、働き者だった」

「なんの仕事をしてたの?」

「公務員。どんなことしてるのか、中身は詳しく聞いてなかったんだけど。やりがいがあるみたいで、忙しそうに働いてた」

 堤さんとのやりとりを思い出しながら、希子はこわごわ次の質問を口にした。

「なんで死んじゃったの?」

「交通事故で」

 お母さんはためらわずに答えた。聞かれると予期していたのかもしれない。

「事故……」

 繰り返したものの、続く言葉が出てこなかった。

「歩道につっこんできた車に、はねられて。運転手も大けがをして、何日か後に亡くなった」

 お母さんは静かに言う。ことさらに感情的でもない、どちらかといえば淡々とした口ぶりなのに、深い悲しみが希子にも伝わってきた。なにか言おうと思うけれど、やはり言葉が思い浮かばない。

「ごめんね、話しそびれてて」

 希子を見つめていたお母さんが、悲しげに目をふせた。

「小さい子どもって、こういう不幸な事故の話を聞いたり見たりすると、頭から離れなくなっちゃうことがあるっていうでしょう。感受性が鋭いから」

 それはそうかもしれない。希子自身も、怖い話は苦手だった。テレビのアニメやドラマに登場した、おばけやモンスターや連続殺人鬼が、その夜の夢にまで出てくることもたまにあった。

「まして、身内のことだしね。過剰に怖がったり不安になったり、情緒に影響する症例もあるみたいで」

 お母さんは職業柄、そういう話が耳に入ってくるのだろう。

「もっと大きくなってから、頃合を見て話すつもりだった」

 堤さんの推理は、半分だけあたっていたということになる。

 希子の実父に関してお母さんの口が重くなってしまっていたのは、やはり死因が原因だった。ただしその内実は、自殺でも遺伝性の病気でもなくて、不運な事故だったのだ。

 お母さんが顔を上げて、もう一度希子と目を合わせた。

「でも、希子ももう、小さい子どもじゃないもんね」

 他にもなにか聞きたいことはあるかとたずねられ、希子は首を横に振った。お母さんは希子の肩をそっとなでて、おやすみと言い置いて部屋を出ていった。

 

 高速道路を下り、田畑の間をしばらく走ってから、車は急な山道に入った。

 急カーブの坂をひたすら上っていくうちに、もくもくと生い茂る木々の向こうにログハウスふうの建物が見えてきた。手前に砂利敷きのスペースがあって、深緑色のごついSUV車が一台停まっている。その隣に、春くんは車を乗り入れた。

「翔ちゃん、着いたよ」

 希子は後部座席を振り向いて、兄に呼びかけた。

「もう?」

 あくびまじりに目をこすりつつ、翔ちゃんがもぞもぞと上体を起こす。

「元気だな、希子は」

「まあね」

 いつになく「元気」な自覚は、希子にもあった。

 お母さんと話せたおかげで、もやもやと曇っていた心が一気に軽くなった。ついでに体も軽い。このひと月あまり、ああでもないこうでもないとぐずぐず考え続けて、自分で思うよりもくたびれていたのかもしれない。精神と肉体はつながっている、とほかでもないお母さんがつねづね言っているのは、どうやら正しいらしい。

 希子の実の父は、交通事故で死んでしまった。わたしたち父子は、二度と顔を合わせることはない。

 もともと死んだと聞かされていたし、その事実を疑いなく受け入れてもいた。元通りに戻ったにすぎないのに、あらためて考えてみると、やっぱりさみしい気もしなくもない。実は生きているんじゃないか、とつかのまにせよ考えたからかもしれない。とはいえ、切実に恋しがるというよりは、好奇心が勝っていた。そもそも、たとえどこかで生きていたとしても、会えないのならどうせ同じだ。これまで十数年もの間そうだったわけだから、この先も会わずじまいになることもじゅうぶんありえただろう。

 お母さんは謝っていたけれど、責める気にもならなかった。黙っていたのは、希子に精神的な負担をかけないようにという配慮からだった。親の立場としては、ごく自然な判断だろう。

 後日、綾乃ちゃんにも報告したら、お母さん自身も思い出すのがつらかったのかもしれないねと言っていた。気持ちはわからなくもない。希子自身も、悲しかったことやつらかったことをいちいち振り返りたくない。負けた試合からも得られるものがある、と顧問の先生や部長はよく言っているけれど、取り返しのつかないことをくよくよと思い返していても、落ちこむばかりでいつまでも立ち直れない。

 車を降りて三人で荷物を下ろしていたら、玄関のドアが開いた。

「いらっしゃい」

 現れたのは、春くんと同年代くらいの男女だった。

 階段をのしのしと下りてきた男性は大柄で、長めの髪を後ろでひとつに結んでいる。その後ろについてくる女性のほうは、対照的に華奢な体つきで、希子より背が低いくらいかもしれない。明るい栗色のベリーショートが似合っている。

 開店まもない頃からホーリーに通ってくれていたという、常連の夫婦だ。半年前に東京のマンションを引き払い、伊豆に移り住んだそうだ。

「翔くんも、ひさしぶり」

「こんにちは。よろしくお願いします」

 翔ちゃんはホーリーで何度かふたりと会ったことがあるらしい。気安く挨拶をかわし、希子のことも紹介してくれた。

「妹です」

「はじめまして」

 希子はおじぎした。

「タケです」

「エミです」

 ふたりも順に名乗った。

 タケさんたちにも手伝ってもらって、荷物を運びこむ。それぞれのかばんと、来る途中で寄ったスーパーのレジ袋もいくつかある。今晩は、夫婦のたっての希望で、春くんがカレーを作ることになっている。

「店で使ってるスパイスとハーブも持ってきたよ」

 春くんの言葉を聞くや、ふたりはそろって目を輝かせた。

「ここの生活にも慣れてきて、ほぼほぼ快適なんだけど、ホーリーのカレーが食べられないのだけが痛いんだよな」

 タケさんが頭を振り、春くんがふざけてまぜ返した。

「またまた、うまいこと言って」

「いやいや、ほんとに」

「ね。失ってみて、つくづくありがたみが身にしみてる」

 エミさんも夫に加勢した。

「お父さんには、ほんとにお世話になってます」

 冗談めかして、翔ちゃんと希子にぺこりと頭を下げる。

 希子も笑顔で応えたものの、「お父さん」のひとことは少々ひっかかった。翔ちゃんはいいとして、希子は春くんと血がつながっていないことを、はたしてこのふたりは知っているのだろうか。

 当の春くんはといえば、「お父さん」と呼ばれたのをまるで気にするそぶりもなく、芝居がかった調子で敬礼してみせた。

「ご期待に添えるように、今日は全力でがんばります」

「よっ、さすが日本カレー界のカリスマシェフ!」

「春夫さん、愛してる!」

 夫妻もぱちぱちと手をたたいて調子を合わせる。春くんと仲よくなるだけあって、ノリのいいひとたちだ。

 まあいいか、と希子も思い直した。いずれにせよ、希子たちは歓迎してもらえているようだ。だったら、希子を春くんの娘だと勘違いしているとしても、本当の関係を承知の上であえて翔ちゃんと差をつけないようにふるまってくれているのだとしても、別にどっちでもかまわない。

 綾乃ちゃんとふたりで買いものに行った日に教えてもらった、哲学者の話をふと思い出す。血縁や遺伝子なんかとは関係なく、自分が父親だと自覚すれば父親になる、みたいな説だった。

 あの話を聞いたとき、それなら今のお父さんがわたしの「父親」なんだな、と希子は納得した。でも春くんも、おれもおれも、と負けじと名乗りを上げてくれそうだ。実のお父さんはもういないかわりに、希子にはふたりの「父親」がいるということになる。だったら、そんなにさみしがることもないのかもしれない。

 綾乃ちゃんの心酔する高名な哲学者の名前が、出てきそうで出てこない。

 確か三文字だった。一文字めは、ダとかデとか、濁音だったはずだ。ダビデ? デルタ? ドバイ……は国の名前か。希子がそれっぽい三文字を脳内で転がしているうちに、春くんが口を開いた。

「やっぱ、このへんはだいぶ涼しいな。標高が高いから?」

 タケさんとエミさんが同時にうなずいた。

「そうなんだよ」

「そこが一番の決め手だったから。わたしたち、暑いのがほんとだめで」

 ここ何年も、夏場は東京の酷暑から逃れて、この近くの山荘を借りて過ごすのが恒例となっていたそうだ。滞在する期間は年々長くなり、地元の住人とも知りあいになって、とうとう移住に踏み切った。

「タケの仕事はリモートでもほぼ問題ないし、わたしのほうも、オンラインのレッスンとか動画配信とかで、まあなんとか」

 タケさんはウェブデザイナーで、エミさんはヨガのインストラクターだという。

「収入は減ったけど、支出もそうとう減って、全体的にはプラスだよ。ちょっとずつ、自給自足っぽいこともやれるようになってきたしな」

 庭に小さな畑を作って野菜を育てたり、川で魚を釣ったり、タケさんはゆくゆくは狩猟免許もとりたいという。

「いいなあ。そういう暮らし、あこがれる」

 春くんがため息をついた。

「春夫さんもどう? この近くに空き家はいくつもあるよ」

「でもカレー屋さんって、リモート向きじゃないよねえ」

「お宅に専属コックとして雇ってもらうって手はあるけど?」

「春夫さんのカレーを毎日食べられるんだったら最高だけど、先立つものがなあ」

「もし動画がバズったりしたら、お願いしたいね」

 タケさんと顔を見あわせたエミさんが、希子たちのほうを見やった。

「ああでも、だめじゃん。お子さんと会いにくくなっちゃう」

 この言いかただと、春くんと希子たちが別々の家で暮らしていることは知っているのだろう。

「いっそ、翔たちも一緒に来れば?」

「無理だって、学校あるし」

 翔ちゃんは一蹴したが、春くんは食いさがる。

「こっちにも高校くらいあるって」

「いや、高校は街まで出ないとないね。そうとう遠いよ」

「しかたないな、じゃあ、高校卒業するまでお預けか」

「待って、おれ、ついてきたいってひとことも言ってないけど? それに、高校出ても大学があるし」

「えっ、大学も行くの? 翔、勉強なんかきらいだろ?」

「きらいだけど、一応大学は出といたほうがよくね?」

「なんで?」

「なんでって、それは……将来のために?」

 横で聞いていたタケさんがふき出した。

「もはや親子の会話じゃないな。ちゃんとしてんのな、今の子って」

「うちの親も、とりあえず大学は出とけってうるさかったなあ」

 エミさんは遠い目をして言う。

「大卒の学歴、結局一ミリも役に立ってないけどね」

「それ言うなら、おれもだわ」

「ほらな」

 春くんが得意げに笑い、翔ちゃんの背中をはたいた。

 

 お茶を出してもらってひと休みした後で、タケさんが近くの川まで案内してくれた。林に囲まれた小道を歩いていくと、にぎやかな鳥の鳴き声に重なって、しだいに水音が近づいてきた。

 五分ほどで視界がひらけて、岩場に出た。幅一メートルほどの流れの上に、手をさしのべるように両岸の木々が枝を伸ばしている。

「うちの釣り場に、ようこそ」

 タケさんが得意そうに両手を広げた。ここへ引っ越してきてから、釣りの魅力に開眼したという。

「どんどん道具が増えちゃって、もう大変」

 エミさんは苦笑している。

「春夫さんたちは、釣りってやったことはある?」

「去年はじめて海釣りに行った。お客さんに連れてってもらって」

 春くんが言い、翔ちゃんが後をひきとった。

「おれも、あれがはじめて」

「希子は、あのときは来られなかったんだったっけ?」

「行けなかった。部活と重なっちゃって」

「まあでも、おれと翔もあの一回きりだから。三人とも初心者」

 春くんが雑にまとめる。

「そうか。めちゃくちゃ奥が深いのよ、釣りは。年寄りくさい趣味だなってばかにしてたけど、はまるはまる」

 力説するタケさんに竿を貸してもらい、希子たち三人も川釣りに挑戦してみることになった。

 魚のいそうなところを、タケさんが何カ所か見つくろってくれた。各自少しずつ距離をおき、めいめい釣り糸をたれる。水がびっくりするくらい澄んでいて、川底の石まできれいに見える。泉水なら魚よりこっちに夢中になるだろう。エミさんは釣りには興味がないらしく、少し離れたところで陽あたりのいい岩の上にあぐらをかき、ひとりで勝手にヨガをはじめた。

 一番乗りは、タケさんだった。糸の先で激しく暴れている銀色の魚を器用につかみ、針をはずしてバケツに放りこむ。手際のよさにみとれるまもなく、春くんと翔ちゃんの竿にも次々と獲物がかかった。

「おお、すげえ」

「はまるの、わかるかも」

 ふたりとも、小学生みたいにはしゃいでいる。ひとりだけ取り残された希子のことはおかまいなしだ。

 内心あせっていたせいか、ようやく竿に手ごたえが伝わってきたときには、あっ、と希子も大きめの声を上げてしまった。

「ひっぱってる」

「ゆっくりひきあげてみて。あせらないで、慎重にね」

 タケさんの指示に従ったつもりだったけれど、途中でふっと竿が軽くなった。急いでひきあげると、針先につけた餌だけがなくなっていた。

「残念。逃げられちゃったか」

 タケさんが無念そうに言った。

「ぐいぐいひっぱっちゃだめなんだって。そうっとやらないと」

 翔ちゃんも口を挟む。いっぱしの専門家のような口ぶりだけれど、完全にタケさんの受け売りだ。

「場所、交代してやろうか? おれ、もう三匹も釣れたし」

 なんとなく悔しいけれど、希子は翔ちゃんと場所を替わってもらった。せめて一匹くらいは釣りたい。

 しかしその十分後、新たな一匹を釣りあげたのは翔ちゃんだった。しかも、それまでに釣れた分よりも、見るからに大きい。

「おっ、きたね大物」

「今日一番だな。あと二、三センチで尺超えじゃないか。やるな翔くん」

 おとなふたりに感心され、翔ちゃんはにやにやしている。

「おれ、センスあるのかな。悪いな、希子」

 まったく悪いとは思っていないのが、まるわかりだ。あのまま同じ場所でねばっていれば、大物を釣ったのは希子だったかもしれないのに。翔ちゃんの言うことなんか聞くんじゃなかった。

「わたしはそろそろ、先に戻ろうかな」

 エミさんが言い出したのは、その小一時間ほど後だった。

 希子も一緒にひきあげることにした。ちっとも釣れないし、翔ちゃんが相変わらずあれこれ口出ししてくるのもうっとうしい。もう少しがんばってみると男三人が言うので、二手に分かれた。

「タケにつきあってもらって、ありがとね」

 家をめざして歩きながら、エミさんが希子に言った。春くんの知りあいはたいがい、希子や翔ちゃんにも同い年の友達どうしみたいな口を利く。

「わたしが乗らないもんだから、お客さんが来ると喜んじゃうんだよね。つまんなかったでしょ」

「いえ」

 希子は一応否定した。正直に答えるのは失礼だろう。が、エミさんにはそれもお見通しなのか、さらにずばずばと言う。

「釣りって、なにがおもしろいんだろうね? しかもここの魚、たいしておいしくもないんだよ」

「え、そうなんですか」

 さっきタケさんは、自分で釣りあげた新鮮な魚は格別だと熱弁していた。

「全然。魚より、きのことか山菜とか採ってきてほしいよ」

 エミさんはにべもない。

「釣りなんかよりヨガのほうが断然楽しいよ。健康にもいいしね。希子ちゃんはやったことある?」

「ないです」

 というわけで、家に戻ると、希子はエミさんにヨガを教えてもらった。リビングにヨガマットをしいて、エミさんのまねをしていくつかポーズをとってみる。バスケのように激しく動き回るわけではないのに、じわじわと汗ばんでくる。窓から吹きこんでくる涼しい風が心地いい。

「希子ちゃん、のみこみが早いね」

 見よう見まねながら、エミさんに褒められた。希子には釣りよりヨガのほうが向いているみたいだ。

「若いっていいなあ、体も頭も柔軟で。あ、もしかして、なにかスポーツもやってたりする?」

「バスケ部です」

「どうりで、きれいな筋肉。体幹もしっかりしてるし」

 全身を検分するように目を走らせる、そのまなざしが、お母さんと少し似ている。考えただけで口には出していないのに、

「希子ちゃんのお母さんって」

 とエミさんがタイミングよく言ったので、ちょっとびっくりした。

「鍼灸師さんなんだよね? なんか、けっこうなカリスマなんだって? 春夫さんが自慢してた」

 春くんが自慢することではないと思うけれど、春くんなら自慢しそうだなとも思う。当のお母さんは、カリスマとか売れっ子とか呼ばれるのをいやがるけれど。

「鍼は中国発祥で、ヨガはインドだけど、同じアジアどうしで考えかたが通じるところもあるんだよ」

 エミさんがにっこりする。

「人間の体のとらえかたが似てるのかな。気の流れが大事なの」

「気、っていう言葉は、聞いたことあります」

 即席レッスンの最後は、深呼吸でしめくくった。呼吸をしっかり意識すべきだというのもまた、お母さんも常日頃から言っていることだ。

「ああそうだ、今晩の部屋割りなんだけど」

 ヨガマットをくるくる巻いて片づけながら、エミさんが思い出したように言った。

「希子ちゃんには、春夫さんと翔くんと三人で、このリビングで寝てもらおうかと思ってるんだけど……」

 なぜか口ごもり、希子の顔をちらりとうかがった。

「それで大丈夫かな?」

 なにかを気にしているようだけれど、それがなんなのかは判然としなかった。希子はとりあえずうなずいた。

「はい、大丈夫です」

「そっか」

 エミさんの表情がいくらか和らいだ。

「ごめんね、急に。希子ちゃんももう中学生だし、翔くんはともかく春夫くんと一緒ってどうなのかな、ってちょっと思ったりとかもして」

 早口で続ける。

「もしあれだったら、女部屋と男部屋で分けるのもありだからさ。希子ちゃんとわたしがふたりで二階の寝室を使って、タケはリビングで寝ればいい」

 そこまで聞いて、希子もエミさんの言いたいことを察した。翔ちゃんはよくて春くんはよくない、その区別はなんらかの判断基準によってなされているはずだ。

 エミさんは、希子と春くんの血がつながっていないことを知っているのだろう。

「リビングでいいです、わたしも」

 希子が答えると、エミさんは気まずそうに目をふせた。

「だね。さっきも即答だったもんね。ごめん、よけいなお世話だった」

 顔の正面で、ぱちんと音を立てて手を合わせる。

「こっちこそ、気を遣ってもらっちゃってすみません」

 こうして「気を遣って」もらうのは、はじめてではない。

 お父さんや弟と血のつながりがないことも、兄とも姉とも父親が違うことも、当の希子は特段気にしていない。もっといえば、日頃はほぼ忘れているくらいだけれど、一部の人々は戸惑うようだ。小学生の頃は、わが家の事情は学校やご近所にまずまず知られていて、たまに同級生やその母親から見当はずれな言葉をかけられることもあった。

 中学校に入ってからは、ことさら隠そうとしているわけではないものの、自分から積極的に公言してもいない。知られても希子自身は別に困らないが、相手を困らせてしまいたくない。

「全然気にしないって春夫さんは言ってたけど、一応ね。本人の意思も確認しといたほうがいいのかなって」

「ありがとうございます」

「春夫さんに聞いてみたときにも、不満げな顔されちゃって。なに言ってんの、おれは希子のおむつを替えてやってたんだぜ、って」

「それ、わたしにもよく言ってます」

 微妙な空気を変えたくて、希子はわざと深くため息をついてみせた。

「やめてほしいんですけど。赤ん坊のときのことなんか、覚えてないし」

 エミさんも笑ってくれた。

「やだよね。わかる」

 ただいま、と戸口のほうで声がした。

 

 体を動かしたせいか、ほどよくおなかが空いてきたところで、春くんの指揮で食事の準備にかかった。

 春くんははりきって三種類もカレーを作った。さらに、タケさん夫妻が店で必ず注文していたという、スパイスに漬けこんだタンドリーチキンをクーラーボックスに、エミさんの大好物だというラッサムを魔法瓶に入れて、それぞれ持参していた。エミさんが家庭菜園で収穫した野菜でサラダも作ってくれた。

「わあ、ごちそう。ね、撮っといてよ」

 エミさんに腕をつつかれて、タケさんがスマホを出す。

「写真はタケの担当なんだよ。腐ってもプロだし」

「ひとこと多い」

「さすが、デザイナーだね。おれも後でもらっていい?」

「うん、川でも何枚か撮ったし、まとめて共有するよ」

「サンキュー」

 ふたりにも送るよ、と春くんは希子たちに向かって言ってから、自分もスマホを取り出した。

「ふたりとも、ちょっとこっち向いて。美佐ちゃんに報告しとこう」

 カレーをおなかいっぱい食べた後は、リビングに面した外のテラスに出た。おとな三人はウイスキーを飲み、希子と翔ちゃんはハーブティーを淹れてもらった。

「飯も旨い、酒も旨い、空気も旨い。天国だよな」

 春くんは早くも酔っぱらっているようで、上機嫌だ。食事中にもビールをどんどん飲んでいた。

「おれにもちょっと飲ませてよ、旨い酒」

 翔ちゃんがねだると、おとなたちは顔を見あわせた。

「高校生なら、いいか」

「おれは中学のときから普通に飲んでたけど」

「わたしは高校。でもチューハイとかだよ、ウイスキーは早くない?」

「ここは保護者の判断で」

 タケさんに言われた春くんが、飲みさしのグラスを翔ちゃんに差し出した。

「じゃあ、味見だけな。美佐ちゃんには内緒だぞ」

「やった」

 勇んでひとくち飲むなり、翔ちゃんは派手に咳きこんだ。

「やっぱ、高校生には早すぎたか」

「そんなことない。すげえ旨い。もっとちょうだい」

 おとなたちに心配され、翔ちゃんは強がる。

「希子は?」

 春くんに聞かれたけれど、やめておく。以前、身長の伸びやすい食生活についてネットで調べたら、アルコールは厳禁だと書いてあった。

 ウイスキーの効果はてきめんだった。まもなく翔ちゃんが座ったまま舟をこぎはじめ、宴はお開きとなった。タケさんとエミさんは二階にひきあげていって、希子たちはリビングで寝た。春くんと翔ちゃんは床にふとんをしいて、希子はソファをベッドがわりに使わせてもらった。

 目が覚めたとき、つかのま、どこにいるのかわからなかった。

 あたりは薄暗い。闇の中に漂う、ほのかな香辛料の匂いをかぎあてて、記憶が巻き戻された。すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。ソファの下をみやると、ばんざいの格好で眠っている翔ちゃんのシルエットがおぼろげに見てとれた。

 隣のふとんは、空っぽだ。

 希子はソファの上で体を起こした。テラスにともっている小さなランタンのあかりに照らされた、春くんの背中が見えた。翔ちゃんを起こしてしまわないように息をひそめ、そろそろとソファから足を下ろす。床がひんやり冷たい。

 しのび足でテラスに面した掃き出し窓に近づいて、そっと開けた。たばこをくわえた春くんが振り向いた。

「眠れない?」

「寝てたけど、目が覚めちゃった」

 希子が隣の椅子に座ると、春くんはたばこをもみ消した。

「春くんは、寝れた?」

「一瞬うとうとして、すぐ起きた。そうとう飲んだからな」

 そう言いながら、テーブルにはしっかりウイスキーの瓶とコップが出ている。

「お酒飲むと、眠くなるんじゃないの?」

「あれって、睡眠っていうより気絶らしいよ。体は休まってないんだって、美佐ちゃんが昔言ってた」

 春くんは椅子の背にもたれて首をそらし、空を指さした。

「見ろよ。こんな星、希子ははじめてじゃないか」

「わあ、すごいね」

 満天の星にみとれていたら、春くんに笑われた。

「都会っ子だもんな、きみらは。おれは田舎育ちだから、全然感動しないね」

 なぜか得意げに言う。

「でも春くん、こういうとこに住みたいんでしょ?」

 食事中は、タケさんたちと再び移住の話で盛りあがっていた。

「大丈夫だよ、そんなに心配すんな。少なくとも、希子がおとなになるまでは東京にいてやるから」

「別に、心配はしてないけど」

「や、そんなさみしそうな顔されたら、動けないって」

 春くんは陽気に言う。やはり酔っぱらっているようだ。希子もふざけて言い返す。

「まあ、春くんのカレーが食べられなくなったら、それはさみしいかも」

「なんだよ、おれ本体よりカレーが大事ってか?」

 春くんは口をとがらせて、また正面に向き直った。

「でも正直、妙に落ち着くんだよな。ここでこうしてると」

 夜風がテラスを吹き抜けていく。希子のほうは、くろぐろと広がる深い森を前にしていると、なんとも心細くなってくる。また都会っ子と茶化されそうなので、口に出すのはやめておく。

「それも、山奥で生まれ育ったせいかなあ。おれが希子くらいの年齢のときは、こんなくそ田舎から一刻も早く出たいと思ってたのにな。そんで、二度と戻ってくるもんか、って。おれも年取ったんだな」

 春くんはぶつぶつ言っている。

「やべ、このまま田舎にひっこんだりしたら、枯れた年寄りになるかも。やっぱ、都会にいたほうがいいか。翔も希子も、美佐ちゃんもいるし」

「春くん、お母さんのこと好きだよね」

 希子が思わず言うと、春くんはふてくされたように首を振った。

「まあな。もはや片想いだけど」

「昔は両想いだったんだよね?」

「そりゃそうだよ。そうじゃなきゃ結婚してない」

 春くんはため息まじりに言う。

「けど、今思えば、反動も多少はあったのかもな。元だんなとは正反対の男に惹かれたっていうのは……希子も会ったんだったら、わかるだろ」

 確かに、堤さんと春くんは、なにからなにまで違う。

「あいつはさ、おれのせいで美佐ちゃんが変わったって勝手に思いこんでるっぽいけど、それは違うよ。おれにそんな力はない。その前に、日本を出て中国で修業しようって決めた時点で、殻を破ったんだな」

「殻?」

「ええと、本人はなんて言ってたっけな。解放された……いや違う、自由になった、だったかな?」

「それまで、そんなに不自由だったってこと?」

「不自由っていうか、窮屈だったんじゃないかな。優等生だったらしいし」

 堤さんも、お母さんのことをそんなふうに評していた。まじめ、優秀、完璧主義とも言っていた。

「親の期待に応えて医者になって、激務プラス家事育児まで背負って、そりゃ限界がくるだろ。しかもだんながあれじゃ、逃げ場がないって」

「堤さんも、悪いひとではなさそうだったけどね」

「いい悪いじゃないんだ。てか、あいつの言ってることとかやってることって、ほぼ全部正しいんじゃないか。正しすぎるんだな。正しさって人間を追い詰めるよ。特に、調子が悪いときは」

 お母さんが体調をくずしていたという話を思い出す。

「そもそも、正しさってひとつじゃないからな。基本、そいつ自身の主観よ。個人によっても、国や時代によっても、まったく違う。インドで暮らしたら、日本の常識なんか吹っ飛ぶぞ」

 春くんがウイスキーをひとくち飲んだ。

「ともかく、美佐ちゃんはずっと無理してたんじゃないかな。本来の自分を出せてなかった、っていうか」

 堤さんから聞かされた昔のお母さんのイメージと、希子の抱いている現在のお母さんのそれがずれていたのは、そのせいだろうか。

「めちゃくちゃヒールの高い靴を履いてた、みたいな? 上等な革でできてて、ものすごくかっこいい。ただ、サイズはそうとうきつい。力いっぱい足を押しこんで、ぎりぎり入る。で、おれは」

 そこで自分の鼻先を指さし、おおまじめな顔で言いきった。

「ビーサンだな」

「ビーサン?」

「そう。前のハイヒールに比べて、なんて楽ちんなんだろう、って感激するだろ。最初はね。でもだんだん、なんか違う、って気がついたんだな。靴ずれはしないけど、微妙に歩きにくくないか? って。走ったら脱げそうになるし……なんだこのたとえ、すげえわかりやすいな?」

 春くんはしごく満足げに言う。卑下しているそぶりはない。

「で、今は裸足。気ままに、のびのび歩いてる。ああでも、怪我とかしたら危ないか。てことは、スニーカーとか?」

 実際、お母さんはよほどかしこまった場でない限り、どこでもスニーカーで出かけていく。歩きやすいし、足も痛くならない。

 春くんがコップを空にして、ウイスキーを足した。

「おれらがなんで別れたか、希子は美佐ちゃんからなんか聞いてる?」

「ううん、なにも」

「ま、そうだろうな。美佐ちゃんって他人の悪口言わないもんな」

「え、春くん、そんな悪いことしたの?」

 春くんはきまり悪そうに目をふせた。

「悪いというか……おれがふらふらして、美佐ちゃんがいらいらして、って感じ。けど、本格的に愛想尽かされたきっかけは、子どもだった」

 春くんの声が尻すぼみに小さくなった。希子もつられて声を落とす。

「子どもって、翔ちゃん?」

 お母さんの妊娠中に離婚した、とこの間聞いた。

「そう」

 春くんはささやくような声で答え、肩越しにちらっと後ろを振り向いた。リビングは静まり返っている。

「おれさ、若い頃から、子どもをほしいと思ったことが一度もなくて。自分が父親とかなり険悪だったしな。あんなふうに息子といがみあうくらいだったら、はじめからいないほうがいい」

 だから、お母さんに妊娠したと告げられたときにも、喜べなかった。ただただ困惑し、うろたえた。

「けっこう注意してたつもりだったんだけどな、自分では……あっ、今、おれのことクズだと思った?」

「いや?」

 しょげ返っている春くんに追い打ちをかけるのもためらわれて、希子は曖昧にごまかした。

「美佐ちゃんが子どもをほしがってるのは知ってた。最初の子を……綾乃姉さんな、父親にとられちゃってるし。おれは正直に、心の準備ができてないって言っとくべきだったんだ。少なくとも今はまだ、子どもを持つ覚悟も自信もないって」

 何度も言おうとした。でも、言えなかった。

「美佐ちゃんが離れてくんじゃないかって、こわくてさ。子どもができてみたら、案外腹が据わるかも、とか都合よく期待したりもして。そんなわけないのにな。やっぱクズだわ、おれ」

 自嘲するように、春くんは続ける。

「おれがひいてるもんだから、美佐ちゃんはショック受けてた。当然だよな。でも途中までは、どうにかおれに父親の自覚を持たせようってがんばってたんだよ。だけどおれ、美佐ちゃんが必死になればなるほど、ついてけなくて」

 とうとう、お母さんもあきらめた。この子と一緒に家族になるつもりがないのなら別れようと春くんに言い渡した。生まれてくる子のためにも、わたしたちのためにも、そのほうがいい、と。

「みんな言うんだ、子どもが好きじゃなくたって、自分の子ならかわいいって。でもそれも、ちょっとどうなんだって思ったりして。自分のDNAを受け継いでて、自分と似てるから、かわいいのか? おれ、そこまで自分大好きじゃないし」

「でも実際に生まれてみたら、かわいかったんじゃないの?」

 お母さんとは別れてしまったけれど、少なくとも希子の物心がついたときには、春くんは翔ちゃんをすごくかわいがっていた。

「かわいかったよ」

 うなだれたまま、春くんはぼそぼそと答える。

「ただ、こんなこと言ったら炎上確定だけど、赤ん坊のかわいさって、要はほぼほぼ見た目じゃん? 犬や猫見て和むのと、そこまで変わんないっていうか。ドラマなんかだと、親としての愛情とか責任感とかが、こう、どばどばーっとあふれ出てくる、ってことになってるけど、おれは全然そんな感じじゃなかった」

 頭を振り、手のひらで顔を洗うようにごしごしこすっている。

「もちろん、今となっては、翔のいない人生なんて絶対に考えられない。翔が死んだらおれも死ぬか、たとえ死ななくても廃人になるね。間違いない。でもそれって、翔が自分の息子かどうかとは、はっきり言って関係ない。ひとりの人間として、あいつのことが好きだから。てか、それを言うなら、希子もなんだけど」

 春くんが希子のほうを見た。泣いていたらどうしようかとはらはらしたが、困ったように笑っている。少し目が潤んでいるふうにも、見えなくもない。

「ああもう、なんか変な話になったな」

「そんなことないよ」

 希子だって、自分の親かどうかは関係なく、春くんのことが好きだ。気恥ずかしくて口にはしないけれど。

 春くんも気恥ずかしくなってきたのか、唐突に話題を変えた。

「希子は? 最近どう?」

「わたし?」

「花の女子中学生だろ? 浮いた話のひとつやふたつ、ないの?」

 一瞬、返事が遅れた。

「ない」

「おお、なんかあったな?」

 にやりとして顔をのぞきこまれた。

「ないよ、別に」

 まだ、なにもない。

 希子が前から推している男子バスケ部の先輩が、つきあっていた同級生の女子と別れたと知ったのは、つい数日前のことだ。春休み中の話らしいから、別れていた、というべきだろうか。本人に聞いた。どう反応すればいいのやら、希子が戸惑っていたら、また今度どこか遊びにいかないかと誘われた。

「よかったよ。ここ最近、なんか元気ないみたいだったから」

「そうかな」

 希子が答えるなり、春くんは訳知り顔でうなずいた。

「やっぱりね」

 しまった。しくじった。ここは、そんなことないよと否定すべきだった。春くんの笑みが深くなる。

「おれにはなんでもお見通しなんだよ。またバスケのことか? それとも、友達とけんかしたとか?」

 自信満々のわりに、見当はずれなことを言っている。

「そういうんじゃないよ」

 希子は慎重に切り返した。正直に白状しようか、適当にはぐらかそうか、ちょっと迷う。今夜は春くんの打ち明け話をたくさん聞いてしまったことだし、こっちだけ黙っているのも水くさいだろうか。堤さんとあれだけ話したのに、春くんにはなにも言わないというのも、なんだか悪いような気もする。

「なんか、ちょっといろいろあって、実のお父さんのことが気になっちゃってて」

 希子が言うと、春くんはあっけにとられたようにまばたきした。

「実の、お父さん?」

「うん。死んじゃったっていうけど、実は生きてるんじゃないかって……」

「ふぇっ?」

 春くんが変な声を上げたので、勘違いしちゃって、と希子は続けそこねた。

「それは……」

 言いかけて、春くんはげほげほと激しく噎せた。

「大丈夫?」

 返事はない。

 テーブルに置いてあったコップに手を伸ばした春くんは、中身を一気に飲み干してしまった。うっとうめいて両手で口もとをおさえる。

「気持ち悪いの?」

 希子はおろおろしてたずねた。春くんは腰をくの字に折って、背中を小刻みに震わせている。

「お水、持ってこようか?」

 不自然な体勢のまま、いい、と春くんはしぼり出すように答えた。全然よさそうじゃない。

「ちょっと待っててね」

 希子が立ちあがろうとしたとき、春くんが苦しげにつぶやいた。

「なんで?」

 消え入るようなかすれ声が、どういうわけか、やけにくっきりと聞きとれた。

「なんで、今さら?」

 

(つづく)