3 幽霊
連休明けの水曜日、学校の帰りに希子はまっすぐ家に帰らず、回り道して商店街に立ち寄った。
午後三時過ぎ、お肉屋さんや花屋さんは営業中だけれど、お蕎麦屋さんや中華料理店はランチタイムとディナータイムの間でのれんを下ろしている。ホーリーの入口にも、準備中の札がかかっていた。
かまわずドアを押し開けて、中に入った。いつものとおり、鍵はかかっていない。天井の照明はついていないけれど、道に面した窓から初夏の陽ざしがさしこみ、店内はほのかに明るい。L字形のカウンターの周りに、背もたれのないスツールが置いてある。上下にひっぱったような縦長のLの、長辺に五席、短辺に二席、あとは奥にふたりがけの小さなテーブル席もひとつある。カウンターの内側は、壁一面が棚で覆われ、大小の瓶が所狭しと並んでいる。お酒もあれば、ピクルスもある。スパイスの小瓶にはひとつひとつラベルが貼られている。
「あれ、希子か」
迎えてくれたのは、春くんではなく翔ちゃんだ。カウンターの片隅で、せっせといんげん豆の筋とりをしている。
高校に入学してから、翔ちゃんは水曜と土曜にここでバイトをしている。
「部活は?」
「今日は休み」
翔ちゃんの隣に、希子も腰を下ろした。スツールの座面が高く、座ると自然に両足をぶらぶらさせてしまう。
お客さんがいないこの時間帯でも、店じゅうにカレーの匂いがしみついている。ここに寄り道してから帰ると、「春くんとこに行ってきた?」とお母さんにすぐさま言いあてられる。
「春くんは?」
「今さっき出てったとこ。ちょうどすれ違いだったな」
翔ちゃんが壁の時計を見上げた。
「しばらく帰ってこないかも。銀行と、スーパーにも寄って買い出ししてくるって言ってたし。とりあえず、希子が来てるって連絡入れとこっか?」
傍らに置いてあったスマホに手を伸ばそうとするのを、希子はとめた。
「いや、いいよ」
春くんが帰ってくるまで時間があるのなら、そのほうが好都合だ。希子は今日、春くんではなく翔ちゃんに会いに、ホーリーに来たのだから。
翔ちゃんとふたりで話す機会をねらっていたのだ。話題が話題だけに、家の中では落ち着かない。できれば他の場所で話したかった。希子の部活が休みで、翔ちゃんがホーリーのバイトに入っている水曜日は、ねらいめだった。
「今、忙しい?」
どう切り出すべきか考えつつ、たずねる。
「別に。これも、もう終わるし」
翔ちゃんが豆のさやを持った手をかざしてみせた。妹の様子にふだんと違うものを感じとったのか、「なに?」といぶかしげに問い返してくる。
「なんかあった?」
あった。
あの日、診察室で呆然と立ち尽くしていた希子は、廊下のほうから聞こえてきた足音でわれに返った。
そこからの動きは、なかなかすばやかったと思う。二枚の写真を封筒に入れ直して、ベッドの足もとの床の、もともと落ちていたあたりに戻してから、急いでベッドの上にダイブした。
うつぶせに寝そべったのとほとんど同時に、ドアの開く音が聞こえた。
「ごめんね、思ったより長びいちゃって」
診察室に入ってきたお母さんは、開口一番希子に謝った。
「ううん、全然」
普通の声を出すように意識して、希子は答えた。心臓がどきどきしているのを気どられてはいけない。お母さんのことだから、娘の体にふれただけで、なにかしら察知するかもしれない。
「ええと、さっきはどこまでやってたんだったっけ」
お母さんが希子の施術着の背中を開き、肌に手のひらをあてた。
「ん?」
いぶかしげな声を上げる。希子はぎくりとして息を詰めた。やばい。心拍数がさらに上がってしまう。
「希子、もしかして寝てた?」
お母さんに言われて、体から力が抜けた。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いや」
つい正直に答え、しまった、とまた少しあせる。せっかくお母さんが勘違いしてくれたのに、話を合わせておけばよかった。
「そう? ちょっと体温が上がってるみたい」
「ああ、待ってる間に、ちょっとだけ腹筋してたからかも。ひまだったし」
必死に頭を回転させて、言い訳をひねり出した。
「ひまだから、腹筋? さすが、アスリートは違うね」
感心したようなあきれたような口ぶりで、お母さんが応える。ひとまず納得してもらえたようだ。
「電話、大丈夫だったの?」
希子は慎重に話をそらした。
「うん。予約してた患者さんが、急用が入ったから日にちを変えたいって。ただ、最近どうも調子がよくないらしくてね。話を聞いてたら、長くなっちゃった」
例の封筒は、その患者さんのカルテのファイルから落ちたんだろうか? お母さんは彼もしくは彼女に、あの写真を見せるなり渡すなりするつもりだったのか? いったい、なんのために?
次々と浮かんでくる疑問をぐっとのみこんで、お母さんの施術を受けた。体はすっかりほぐれても、頭の中は引き続きこんがらがったままだった。
よく考えたら、あんなふうに無理やりごまかそうとしたのが、そもそも失敗だった。腹筋なんて苦しい言い訳なんかしないで、「これ、落ちてたよ」とお母さんに封筒を手渡せばよかったのに。ついでに、「なにが入ってるの?」とさりげなく聞くことだってできたはずなのに。
でも、あのときは頭が回らなかった。封筒を拾ったことを、なにより中身を見てしまったことを、お母さんに知られてはいけないととっさに思った。
これまた後から振り返ってみれば、後ろめたかったのだ。
互いのプライバシーを大事にする、とわが家では決まっている。勝手に誰かの個室に入ったり、持ちものを無断でさわったりしてはいけない。
どこの家庭にも、ルールのようなものがある。門限、スマホの使いかた、お小遣い、友達と喋っていると、家によってそうとう事情が違ってびっくりすることがある。
友達の話を聞いている限り、うちはルールの多い家ではなさそうだ。両親ともに、口うるさいことは言わない。お父さんはちょっと心配性なところがあるけれど、お母さんは細かいことは気にせず、おおむね希子たちの自由にさせてくれている。
一方、ルールの数が少ないからこそ、ひとつひとつの重みは増す。
希子が小学校一年生のときに、女子の間で交換日記が流行った。希子も当時一番仲のよかった友達と、ノートをやりとりしていた。この交換日記にもまた、守らなければならないルールがあった。自分たち以外の誰にも見せてはいけないのだ。書いているのは他愛のないことばかりでも、ふたりだけの秘密となると、俄然わくわくした。だからこそ、あんなにクラスじゅうで盛りあがっていたのかもしれない。
妹のノートに、翔ちゃんも関心を示した。希子が夢中になっている様子を見て、興味をそそられたのだろう。見せて、と言われて、もちろん希子は断った。見せてもらえないとなると、いよいよ気になってしまうのが人情で、見せて見せて、と翔ちゃんはますます執拗に頼んだ。それでも希子は断固として拒否した。
しかし翔ちゃんはあきらめなかった。希子の目を盗んで、こっそりノートを読んだのだった。
目的を果たせた以上、そのまま黙っておけばいいものを、なんだよあれ、と希子にわざわざ文句を言った。別にたいしたこと書いてないじゃん、あんなの内緒にしなくたっていいのに。
希子は二重に憤慨し、すかさずお母さんに言いつけた。
「誰かが個人的に書いたものを勝手に読むっていうのは、すごくよくないことだよ」
お母さんは常になく真剣なおももちで、翔ちゃんに言った。
「日記も、メールや手紙もそう。他人の家に、土足でずかずかあがりこむみたいなものだからね」
「他人じゃない」
きまり悪げにうつむいていた翔ちゃんが、小声で言い返した。
「そうね、他人ではないね。お母さんの言いかたが悪かった。他者、だね」
「タシャ?」
横で聞いていた希子にとっても、耳慣れない言葉だった。
「他者はね、自分以外の誰か、っていう意味。翔にとっては、翔以外のみんな。希子にとっては、希子以外のみんな」
希子たちを交互に見比べて、お母さんは言葉を継いだ。
「だから、家族も他者なの。一番そばにいる他者だね。ひとりひとりに、それぞれ部屋があって、ドアがある。ノックしないで踏みこんでいくのは、乱暴だし失礼でしょ。翔だって、自分の部屋にいきなり誰かが入ってきたらいやじゃない?」
翔ちゃんが小さくうなずいた。
「希子も、いやよね?」
希子は大きくうなずいた。
「翔、希子に謝って。これからこういうことはしない、って約束して」
お母さんの厳かな口ぶりと顔つきを、希子は今も忘れられない。
「それで、お母さんには直接聞きそびれてるってこと?」
希子が話を終えると、翔ちゃんは首をかしげた。
「うん、なんとなく」
希子はもごもごと答える。
中に入っていたのは手紙ではなく写真だったけれど、あの封筒もまた、他者の部屋に類するものではないだろうか。ノートやひきだしと同じで、持ち主に断りもなく開けてはいけないように感じられた。
「一回ごまかしちゃったのも、なんか気まずいし」
「でもそれ、希子の写真だったんだろ? 聞いてよくね? なんだっけ、肖像権? もあるしさ」
あっけらかんとした口ぶりで言いきられると、そんな気がしてくる。
「だね。やっぱ、聞いてみる」
ひとりでややこしく考えこみすぎてしまっていたかもしれない。翔ちゃんに相談してみてよかった。
「でもそれ、なに用なんだろうな?」
希子にもさっぱり見当がつかない。
お父さんが撮りためた写真は、額装して飾られているものを除き、まとめて納戸に置いてある。紙に焼いたものはアルバムにおさめられ、鍼灸院でカルテのファイルを収納しているのと同じようなスチール棚に、日付順に並べてある。デジカメやスマホの画像データも、ある程度たまるたびに、CDに保存している。
あの後で、希子は納戸のアルバムを確認してみた。
最新の一冊に、泉水の誕生日に撮った写真が三、四十枚入っていた。先月、翔ちゃんの誕生日のときの分も、同じアルバムに、写真店の紙袋ごと挟んであった。これから整理するつもりなのだろう。
診察室で拾った封筒に入っていた希子の写真も、ちゃんとあった。つまり、あれはわざわざ焼き増しされたものだったということになる。
「誰かに見せるとか? 診察室にあったってことは、患者さんに見せようとしてたのかな?」
「わたしの写真を、患者さんに?」
「それはないか。たまたま診察室まで持ってってて、そこで落としただけとか?」
確かに、診察室にあったからといって、必ずしも患者さんと関係があるとは限らない。なにかしら別の目的で準備していたものが、他の郵便物や書類にまぎれたり、ポケットに入れっぱなしになっていたりで、母屋から持ちこまれたのかもしれない。いずれにせよ、誰かに渡すなり郵送するなりしようとしていたのに、その前に落としてしまったということか。
日頃から、お母さんは忙しくなると、忘れものや失くしものが増える。家でもたまに、スマホや手帳をあちこち探し回っている。美佐ちゃんはしっかり者なのに、たまに抜けてるんだよな、と春くんは言う。美佐さんは他人のことばっかり考えすぎて、自分のことが後回しになっちゃうところがあるからね、とお父さんは言う。
「自分用、ってことはないかな?」
翔ちゃんが言った。
「気に入ったから、どっかに飾ろうと思ったとか。お父さんが、自信作選んで額装するみたいな感じで」
「あの写真を?」
希子にはいまひとつぴんとこない。
「そういう、特別な感じの写真じゃなかったけどなあ」
写真そのものの出来はさておくとして、もしお母さんが寝室なり診察室なりに好きな写真を飾ろうと思いついたのだとしても、希子だけが写っているものは選ばない気がする。あの封筒に、翔ちゃんや綾乃ちゃんや泉水の写真も一緒に入っていたというなら、まだわかるけれども。
「それに、表彰状のほうは?」
「希子が活躍したのがうれしくて、手もとに置いときたかったとか?」
「でもあれ、バスケのだよ? お父さんならあるかもだけど、お母さんが?」
大会で入賞したことを、お母さんももちろん喜んでくれていたけれど、あの表彰状に特別な感慨を抱くとすれば、断然お父さんだろう。そもそもお母さんは、試合の勝ち負け自体にはさほど頓着するそぶりがない。試合を観にくるときも、注目するのは希子のシュートやディフェンスが成功したかどうかで、全体の点数は二の次だ。
「じゃあ、お供えかな?」
思いがけない単語に、希子は面食らった。
「お供え?」
「ほら、あの……」
翔ちゃんが口ごもった。いんげん豆の入ったざるを持って立ちあがり、カウンターの内側に回りこむ。
「希子の、死んだお父さんに」
希子の実父について、ふだん家族の間で話に上ることはほぼない。
みんな気を遣ってくれているのだろう。四人きょうだいの中で、実のお父さんがいないのは希子だけだ。遠慮する気持ちは、希子にもわかる。希子だって、泉水のママの話を気軽に口にはしづらい。
「お父さんも、泉水の写真をお墓に供えてあげてるっていうしさ」
「ああ、言ってたね」
お父さんは家族のアルバムとは別に、はがきサイズの薄いポケットアルバムに泉水の写真を集めて、お墓参りのときに持参している。亡くなった妻に、息子の成長ぶりを見せるためだ。
泉水のママは、亡くなるまでしばらくの間、自宅を離れて入院生活を送っていた。そのときも同じように、日々の泉水を撮った写真をアルバムにおさめ、病室で見せてあげていたそうで、その習慣が死後も引き継がれているらしい。
現在、お父さんの実家のそばにある菩提寺に、泉水のママは眠っている。毎年お盆休みに、お父さんは泉水を連れて、お墓参りがてら泊りがけで帰省する。実家は名古屋で、東京から日帰りできなくもないけれど、お父さんの両親、泉水にとっての祖父母が孫と会うのを心待ちにしていて、長めに滞在してほしがるという。
「写真をお供えするって、どんな感じなんだろうな?」
翔ちゃんが首をかしげる。希子にも想像がつかない。
「お墓って普通、外にあるよね。お花とかと違って、アルバムをそのまま置きっぱなしにはしなさそうだけど」
「その場で一枚ずつめくって、ほら、って見せるのかな?」
「墓石に向かって?」
「なんかのドラマで見た気がする、そういうシーン」
希子も、また翔ちゃんも、「お墓参り」なるものを一度もしたことがない。そういうものが世間一般に行われているという知識は一応あったけれど、実際にその言葉を耳にするようになったのは、泉水たちと暮らしはじめてからだった。
うちのお母さんは、実家と疎遠なのだ。お墓参りも、帰省もしない。希子の知る限り、親戚づきあいもない。
希子は母方の祖父母と会ったこともない。お母さんは詳しく話そうとしないけれど、春くんから昔ちらっと聞いたところでは、両親ともお医者さんらしい。西洋医学が専門で、娘が東洋医学の道に進むことに反対していたという。仲がよくないのはそれが原因なのだろうか。
「でも、死んだひとに写真を供えるって、お母さんっぽくなくない?」
「だな。やっぱ、違うか」
翔ちゃんが言ったとき、カウンターの上でスマホが振動した。
「春くん?」
液晶画面に目を落とした翔ちゃんに、希子はたずねた。
「うん。にんにくのすりおろし、解凍しとけって」
翔ちゃんが冷凍庫の中をごそごそ探って、小ぶりの保存容器を取り出した。ふたを開け、くんくん匂いをかいでいる。
「こないだ生姜のすりおろしと間違えて、めっちゃ怒られた」
ふたを閉め直してカウンターに置き、希子に向き直った。
「そうだ、春くんにも軽く聞いてみる? どう思うか」
「うーん」
少し考えて、「とりあえずいいや」と希子は答えた。なにはともあれ、お母さんに確かめるのが先決だろう。
「ちなみにこの話、おれ以外には誰が知ってんの? 綾乃とかにも話した?」
「ううん、今のところ翔ちゃんだけ」
こういうちょっとしたことを気安く相談しやすいのは、やはり翔ちゃんだ。年齢が近いからか、一緒に過ごしてきた時間が長いからか、両方かもしれない。
「そっか、おれだけか」
翔ちゃんは満足そうに言った。
「了解。じゃあとりあえず、ここだけの話ってことで」