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 夕ごはんの時間まで、軽く走ってくることにした。

 頭がもやもやしているときは、体を動かすに限る。中でも、ランニングとかドリブルの練習とか、あれこれ考えずに集中できる、単純な運動が向いている。連休中の試合で足首をひねって以来、少しばかり体がなまっている感じもする。痛みも腫れも二、三日でおさまったものの、いつもどおりには動けていなかった。

 手早く着替え、出かける前に一声かけようとリビングをのぞいたら、お父さんとお母さんが食卓でお茶を飲んでいた。

「希子ちゃん、走りにいくの?」

 お父さんが腰を浮かせた。

「お供しようかな。今日はちょっと食べすぎたし」

 休日、希子がこうして外へ走りに出るときは、たまにお父さんもついてくる。四十路を越えて、急に下腹がたるんできたらしい。もともとがっちりした体格で、そこまで太ったようにも見えないが、本人は気にしている。運動不足のせいで脂肪と化した筋肉を、少しでも復活させたいという。

 お父さんが着替えるのを待って、ふたりで連れだって家を出た。ひとまずウォーミングアップがてら、いつもの公園までゆるゆると流す。

 門をくぐり、園内を周回するジョギングコースに入った。さわやかな五月の昼さがり、希子たち以外にも、たくさんの人々が思い思いに走っている。こうして見知らぬ仲間にまじって走るのが、希子はわりと好きだ。魚の群れみたいに、流れに乗って同じ方向へ進んでいくのが、なんだか心地いい。年齢も体格も職業も関係なく、誰もがただただ黙々と走っている。

「ちょっと休憩」

 先に音を上げたのは、いつものようにお父さんだった。

 売店の自動販売機で水のペットボトルを買い、手近なベンチに並んで腰を下ろした。頭上に枝を伸ばしている木々の、鮮やかな黄緑色の葉っぱの隙間から、陽ざしがきらきらこぼれ落ちてくる。

「うう、きつい」

 ごくりとのどを鳴らして水を飲み、お父さんがぼやく。

「希子ちゃんのスタミナがうらやましいよ。鍛えてるだけあるな」

 若い母親がベビーカーを押して、ベンチの前の歩道を通り過ぎていく。ぷくぷくの唇を半開きにして寝こけている赤ん坊の姿を見たら、言葉が口をついて出た。

「泉水は、ちゃんと覚えてるんだね。実のお母さんのこと」

「へっ?」

 正面を向いていたお父さんが、戸惑ったように希子を見やった。

「さっき家で、そんな話になって」

 お父さんがさっと表情をひきしめた。体ごと希子に向き直る。

「そうか、希子ちゃんは覚えてないのか。まだ生まれてなかったんだもんな」

 神妙な口ぶりに、希子は若干たじろいだ。

「まあ別に、いいんだけどね」

 流そうとしたけれど、お父さんはさらに言葉を継いだ。

「やっぱり、気になるよな」

 なんと答えたものやらはかりかねて、希子は下を向いた。気になっていることは、確かにある。お父さんの想像している内容とは、たぶん違うけれど。

 ただし、その疑問をぶつけるべき相手は、お父さんじゃない。

 お母さんに早く聞けばいいのに、とゆうべ翔ちゃんに言われた。ふたりで話してから三日が経って、そろそろ進展がある頃かと思っていたようだ。希子も気になるだろ? はっきりさせたほうがよくないか?

 もちろん、気になる。翔ちゃんとも約束したとおり、お母さんにどう切り出そうか、あれから希子も考えた。そうして考えているうちに、はたして本当にはっきりさせたほうがいいのか、だんだんわからなくなってきたのだった。

 実のお父さんに会いたいけれど会えない事情があるというのは、単純に会いたくないと思われているよりはまだいい、と最初は思った。でも、よく考えてみたら、比べたら多少はましだというだけで、手放しで喜べることでもない。

 実のお父さんは、今の家族との暮らしを守ることを第一に考えているのだろう。言い換えれば、希子とお母さんではなく、彼らを優先すると決めた。

 つまり、希子は選ばれなかったのだ。

 進んでそうしたとは限らない。家族のために、やむなくそうせざるをえなかったのかもしれない。写真を見たがっているのは、希子の存在をある程度は気にかけているしるしととれなくもない。ただ一方で、家族の反対を押し切ってでも会おうという強い意志もないのだろう。

 見知らぬ相手のせいか、恨むとまではいかない。それでもやっぱり、一線をひかれている以上、こっちから無理に距離を縮めようという気にはなれない。

 翔ちゃんはまだ腑に落ちない様子だったものの、希子がそれでいいならいいけど、とひきさがった。

 それでいい、はずだ。

 お母さんと話しても、現状が変わるわけではない。お母さんを困らせて、お互い気まずくなるだけだとしたら、このままそっとしておいたほうがいいかもしれない。長年閉ざされていたドアをがんがん力任せにノックしたところで、部屋の中になにかすばらしいものが隠されているとも思えない。

 お母さんにも、変わった様子はない。診察室で希子があの封筒を拾ったことも、さらに中身まで見てしまったことも、感づいていないのだろう。念のため、お母さんが母屋にいるときをみはからって、もう一度診察室をのぞいてもみた。ベッドの下に、すでにあの封筒はなかった。

 最初からそんなものはなかったのだ、と思えばいい。実のお父さんも、最初からいなかった。これまでずっとその前提でやってきたわけで、特に不都合はない。

「僕も希子ちゃんのお父さんのことを知ってるわけじゃないし、そういう意味では役に立てないけど」

 希子の沈黙をどうとらえたのか、お父さんは歯切れ悪く言う。

「でも、家族のことでなにかあったら、なんでも言ってな。うちはほら、ちょっと変わってるっていうか、特殊というか……」

 声が尻すぼみに小さくなっていく。注意深く言葉を選ぼうとしているのは、希子にも伝わってきた。

 世間一般からすると、うちの家族が変わっているとか特殊だとかみなされがちなのは、希子も承知しているけれど、日頃はさほど意識していない。適当に聞き流しているそういう言葉が、今日に限っていつになく耳に残るのは、あの写真を発端に、いろいろ考えてしまっているせいだろうか。

「こういう言いかたすると、綾乃ちゃんにしかられるかな」

「そんなことないよ」

 お父さんは一度、綾乃ちゃんに「しかられ」たことがある。

 綾乃ちゃんがうちで一緒に暮らしはじめてまもない頃だった。妻の長女を家族の一員として迎えるにあたって、お父さんは見るからに緊張していた。肩に力が入ってもいるようだった。

 ちょっと力が入りすぎていた、といえるかもしれない。

 たとえ血はつながっていなくても、実の娘だと思って接するつもりだ、というようなことを、お父さんは綾乃ちゃんに宣言したのだ。

 希子はてっきり、綾乃ちゃんは喜ぶだろうと思った。お父さんもそう期待して、そんな意思表明をしたに違いない。かつて希子も、お父さんから同じことを言われた。口先だけでなく、実際に、お父さんは希子や翔ちゃんを泉水とわけへだてなくかわいがってくれている。

 ところが、綾乃ちゃんは眉根を寄せてお父さんに問い返した。

「わたしのことを家族の一員として尊重する、という意味でしょうか?」

 当時はまだ、綾乃ちゃんはお父さんに敬語を使っていた。

「はい、そのとおりです」

 お父さんもつられたのか、かしこまった口調で答えた。

「お気持ちはありがたいのですが」

 綾乃ちゃんはしかつめらしく言った。

「その言いかただと、血のつながった家族こそが最上だという前提に聞こえます」

「ええと、僕は別に、そういう意味で言ったんじゃなくて……」

「他意がないのはわかります。でも、そう聞こえる」

 綾乃ちゃんはあくまで冷静だった。お父さんがしどろもどろになっている分、落ち着きぶりがよけいに際立った。

「ちょっと、綾乃」

 お母さんがため息まじりに割って入った。

「わかるんでしょ? だったら、それでいいじゃない?」

「だけど、誰もがちゃんとわかってくれるとは限らない」

 綾乃ちゃんは不満げに訴えた。

「血縁至上主義、っていうの? 根が深いんだよ、こういう社会通念は。潜在的に刷りこまれちゃってるから。意識して変えようとしない限り、いつまで経ってもなんにも変わらない。当事者だからこそ、ちゃんとすべきだと思う」

「悟くんは、ちゃんとしてるよ」

 しょんぼりしているお父さんをかばうように、お母さんが言い返した。

「血のつながりを気にしないって、行動で示してる。翔も希子も、そう思わない?」

 母娘の応酬に気をのまれていた希子たちは、急いでうなずいた。

「言葉だけ立派でも、実行できないひとって多いよ」

 お母さんはまた綾乃ちゃんのほうに向き直り、「そう思わない?」と続けた。綾乃ちゃんが降参するように両手を挙げた。

「いや、でも、僕の言いかたもよくなかったから……」

「いえ、わたしのほうも、よくなかったです。熱くなっちゃって……」

 お互いにぼそぼそと謝りあって、一件落着したのだった。

「うちは確かにちょっと変わってるし、特殊かもしれないけど、それで困ってることとかは別にないよ」

 希子もまた、言葉を選んでお父さんに言う。

「そう? なら、いいけど」

「たぶん、翔ちゃんや泉水も。あと綾乃ちゃんも、前に言ってたよ。うちってある意味、新しいって。新しい家族の、なんとかモデル? じゃないかって」

 従来の家族は、血縁関係によってつながっていた。今でもそれが主流なのは変わらないものの、一方で、そうではない家族もだんだん増えつつある。わが家もその好例だ、と綾乃ちゃんは熱弁していた。

「なんとかモデル?……ああ、ロールモデル、かな?」

「そう、それ。どういう意味?」

「お手本とか、模範とか?」

「うちが?」

「そんな大層なものじゃない気もするけど。でも、褒めてくれてるのかな」

「たぶん」

 そういえば、綾乃ちゃんが「ロールモデル」の話をしたとき、「新しい」と評していた事柄がもうひとつあった。

「あと、お父さんとお母さんも、新しいって。綾乃ちゃん的には」

 希子が言うと、お父さんが怪訝そうに自分の鼻先を指さした。

「僕と美佐さんが?」

「うん。恋愛じゃなくて、友情で夫婦になってるから」

 友愛、と綾乃ちゃんは聞き覚えのない言葉を使っていたが、友情といったほうが希子にはわかりやすい。お母さんはお父さんと結婚するとき、希子と翔ちゃんにそう説明した。結婚って恋人どうしですることが多いけど、お母さんと悟くんの場合は、ちょっと違ってね。友達どうし、友情で結婚しようって決めたんだよ、と。

 当時まだ九歳だった希子は、お母さんの言葉が具体的に意味するところを完全には理解しきれていなかったけれど、恋人と友達が別のものだということくらいは、小学生でも知っている。

「ああ、そういう意味か」

 お父さんがつぶやいた。

「言われてみれば、世の中では少数派だな。恋愛に基づかない夫婦も、血縁に基づかない親子も」

 水をもうひとくち飲んで、希子のほうを見やった。

「希子ちゃんは、好きな子とかいる? その、友情じゃなくて、恋愛のほうで」

「えっ」

 希子が言葉に詰まっていると、お父さんはきまり悪げに眉を下げた。

「ごめんごめん、詮索しようっていうんじゃなくて。無理に答えなくていいよ」

 早口で言う。

 クラスや部活の友達の間で、「好きなひと」の話題になることは、時折ある。めいめい男子の名前を挙げるのだけれど、温度差はけっこう大きい。本気で「好き」だと思い詰めている場合もあれば、好きというより「推し」として、勝手に盛りあがっているだけの場合もある。

 希子は後者だ。男子バスケ部の、ひとつ上の先輩を推している。

 一八〇センチの身長を活かし、試合では五番をつとめている。長い腕を伸ばし、敵をかわしてするりとシュートを決める姿は、なんともいえずかっこいい。といっても、ろくに言葉をかわしたこともなく、試合中に声援を送る程度だ。そもそも、先輩は同学年の女子とつきあっている。試合の応援に来ているのも、何度か見かけたことがある。

 答えなくていいという言葉どおり、お父さんは希子の返事を待たずに続けた。

「僕は、恋愛はもう一生しないと思う。この先もずっと」

 唐突な告白にびっくりして、希子は言葉に詰まった。

「ごめん、いきなり」

 お父さんは謝ったものの、まだ話は終わらなかった。

「美佐さんとも、そんな話をしたんだよ」

 最初は息子の付き添いとして、お父さんは植田鍼灸院に通っていた。しかし妻の闘病中に、自分自身も心身の不調を覚え、施術を受けるようになった。

「施術そのものも効いたし、なんといっても、いろいろ話せるのがすごく助かった。愚痴も弱音も、美佐さんは黙って聞いてくれて」

 日々弱っていく妻を間近で見守るのも精神的にきつかったが、その後に待ち受けていた父子ふたりの暮らしにも、また別種の苦労があった。幼い泉水とふたりきりで取り残されて、お父さんは途方に暮れた。

「恥ずかしい話だけど、僕はそうとうまいってて。あんまり弱りすぎて、美佐さんにも心配かけちゃったんだよな」

 お母さんは原則として、患者さんと個人的な交流はしない。お父さんと泉水を家に招いたのは、数少ない例外だった。

「希子ちゃんたちのうちで過ごさせてもらう時間は、僕にとっても泉水にとっても、ほんとに貴重だった。癒しっていうか、救いっていうか」

 あの頃の希子は、おとなの感情の機微を読みとるにはまだ幼すぎた。お父さんがそこまでせっぱつまっているとは思いもよらなかったけれど、本人の言うとおり、お母さんの目にはかなり追い詰められているように映ったのだろうか。

「もしあれがなかったら、ふたりっきりでどうなってたことやら。美佐さんは僕たちの恩人だよ。希子ちゃんと、翔くんも」

 ごめん、話がずれちゃったな、とお父さんは首を振った。

「なにが言いたかったかっていうと、要するに、僕は恋愛を卒業したってことだと思う。もう一生分やりきったっていうか」

 言葉を切って、言い添える。

「で、そう美佐さんに話したら、わたしも同じだって言ってくれたんだ。恋愛はもういいかな、ってね」

 恋愛を「卒業」したというお父さんに、お母さんは深く共感した。そうして、似た者どうしで一緒に暮らしてみないかと提案したらしい。

「僕も美佐さんも、本物の恋で燃え尽きた。そう言うと、ネガティブな感じにも聞こえるかもしれないけど、一生に一度っていう相手に出会えたことに悔いはないよ。希子ちゃんにも、いつかきっと、そういうひとが現れる。そしたら、今僕が言っていることがわかるはず」

 先ほどまでとは一変して、お父さんはやけに自信ありげな口ぶりになっている。

「出会ったら、替えはきかない。僕にとっては、それが死んだ妻で……」

 一呼吸おいてから、希子の目を見てつけ加えた。

「美佐さんにとっては、希子ちゃんの実のお父さんだったんだと思う」

 希子はうつむいて、お父さんの視線を避けた。

「本当はもっと長く一緒にいたかったけど、でも、出会えないまま終わるよりはよかったと思ってる」

 お父さんは静かにしめくくった。

 おそらく、少しでも希子を元気づけたくて、お父さんはこの話をしてくれたのだろう。もし一週間前に聞いていたなら、お父さんのねらいどおりになったかもしれない。実の父親が母親にとってかけがえのない、大切な相手だったと知って、あたたかい気持ちになれたはずだ。

 けれど、実のお父さんが生きているのだとしたら、話は全然違ってくる。

 お母さんにとって、そこまで深く想いを寄せた相手が、結局は別の女性と家庭を築いているのだとしたら。今の生活を守るために、昔の恋人との間にできた娘と会おうともしないのだとしたら。

 恋愛はもういいという言葉だって、お父さんが思い描いているような意味とは限らないだろう。

「まあ、でも、いいよ」

 希子は半ば強引に話を打ち切った。

「わたしには、こんなにいいお父さんがいるもんね?」

 めいっぱい明るい声を出して、ひじでお父さんの腕を軽く突いた。

「そう?」

 今度はお父さんが目をそらした。照れているようだ。

「光栄だな」

 そうだ、わたしには、ちゃんとしたお父さんがいる。今の生活にも家族にも、不満はない。うじうじと考えこむなんて、お父さんにも悪い。

 実のお父さんにどんな事情があるにせよ、今の希子には関係ない。なんとなく喜ばしいものではなさそうな予感はするけれど、別にかまわない。わたしにはお母さんがいて、お父さんがいて、姉と兄と弟もいる。じゅうぶんだ。

 やっぱりお母さんに聞いてみようか。

 本当のことを知ったとしても、なんにも変わらない。なんにも変わらないからこそ、こわがることなんかないはずだ。

「帰ろっか」

 希子は腰を上げ、こもれびを浴びて走り出す。

 

(つづく)