11 他人
翌朝、希子は翔ちゃんとふたりで家を出た。時間が早いからか、曇っているせいか、ここ数日と比べたら暑さは少しましだけれど、それでも駅に着いたときには汗ばんでいた。
新宿行きの上り電車に乗りこみ、エアコンの風で人心地がついた。土曜日の朝八時、車内はさほど混んでいない。
アジアンフードフェスティバル、略してアジフェスは、毎夏この時期に開催される。中国に韓国、インドやタイやベトナム、変わったところではマレーシアやスリランカなどなど、アジア系の料理を扱う飲食店がブースを出す。
ホーリーが出店するのは、今年で三度目になる。春くんは早朝から車で会場入りして準備にとりかかっているらしい。去年も、春くんは希子と翔ちゃんを誘ってくれた。おいしいものだらけで、欲ばって食べすぎた。いろんなお店の味を食べ比べできるのも楽しかった。遠方からやってくるお客さんも多いそうで、場内にはスパイスの香りがたちこめ、串や紙皿を手にした人々がそぞろ歩いていて、大盛況だった。
新宿の一駅手前まで来たところで、春くんから翔ちゃんに連絡が入った。春くんも駅のそばにいるというので、改札を出たところで待ちあわせた。
構内はすさまじい混雑だ。しかも出口が何カ所もあって、わかりづらい。翔ちゃんも迷っているようで、きょろきょろしている。はぐれないように、希子は必死に追いかける。人波の間から頭が突き出ているおかげで、見失わずにすむ。背が高いと、こういうときにも便利だ。
改札の向こうに春くんの姿を見つけて、ほっとした。
「おはよう」
希子が駆け寄っていくと、春くんは意外そうに言った。
「あれ、希子も来てくれたのか」
希子は昼前に合流するつもりだったが、思いのほか早く目が覚めてしまい、開場前から手伝いにいくという翔ちゃんに同行させてもらうことにした。
「うん。早起きしたから」
おかげで、お母さんが起きてくる前に、家を出ることができた。昨日の今日で、顔を合わせるのが気まずい。昨晩の夕ごはんも憂鬱だったけれど、幸いお母さんは出かける用があったようで、お父さんの作ってくれたハンバーグをアルバイトの翔ちゃんを除く四人で食べた。食後は早々に自分の部屋にひきあげたから、お母さんが何時に帰ってきたのかは知らない。
「よし、行くか」
歩き出そうとした春くんに、翔ちゃんが逆方向を指さして言った。
「え、こっちじゃないの?」
アジフェスの会場は、例年どおり、西新宿のビル街にある巨大なイベント広場のはずだ。飲食店だけでなく、物販のブースもあって、珍しい食材や調味料なんかも売られている。なにかおいしそうなものを見つけたら買ってきて、とゆうべお父さんが多めにお小遣いをくれた。
「いや、バスターミナルに寄ってくから」
「バス?」
怪訝そうに首をかしげた翔ちゃんに、春くんが言う。
「こないだ話しただろ、九州から友達が来るって」
「ああ、そういえば」
「飛行機なんだよ。羽田から、リムジンバスで新宿まで来る」
春くんが希子にも説明してくれた。
「新宿の駅周りってごちゃごちゃしてるから、慣れてないとややこしいだろ。迷わないように、会場まで一緒に連れてってやろうと思って」
「優しいね」
希子が感心していると、翔ちゃんが口を挟んだ。
「ちなみにその友達って、美人?」
「ばか、男だよ」
春くんが眉を上げた。
「性別は関係なく優しいんだよ、おれは。ジェンダーフリーってやつ?」
「はいはい」
翔ちゃんが面倒くさそうに流す。ここ最近、翔ちゃんと春くんは前にもまして息が合っている。翔ちゃんが毎日のようにホーリーのバイトに入っていて、一緒に過ごす時間も長くなっているからだろうか。
「いい奴だよ。翔たちとも仲よくなれると思う。そいつも博多で店やってるんだよ。研究がてら、ありったけ食いまくるってはりきってる」
「そのひともカレー屋さん?」
「いや、餃子」
「餃子なら、いろいろ出るから食べ比べできるね」
「カレーと餃子は、二大激戦区だからな。ま、少なくともインド系は、負ける気がしないけど」
春くんは自信満々で断言する。
駅の南口を出ると、バスターミナルは目の前だった。
四階建ての大きなビルは、空港との間を往復するリムジンバスのほか、東京と全国各地を結ぶ高速バスの発着拠点ともなっているらしい。希子も前を通りかかったことはあるけれど、建物の中に足を踏み入れるのははじめてだった。
ここも、駅構内に負けず劣らず混雑している。大きな荷物を抱えた旅行客が目立つ。これからどこかへ旅立つのか、東京から地元に帰ろうとしているのだろうか。春くんを先頭に、翔ちゃんと希子もエスカレーターに乗りこんだ。四階に、バス乗り場と待合室があるという。
待合室も混みあっていた。ずらりと並んだベンチはすっかり埋まり、床にじかに座りこんでいる外国人もいる。ガラスをへだてた奥に見えるターミナルに、大型バスが何台も停まっている。
「すげえ、けっこう遠くまで行くんだな。四国とかもある」
翔ちゃんの指さした先に、希子も目をやった。天井近くに据えつけてある発着案内のモニターに、発車時刻の早い順から、行き先と乗り場の番号が一覧で表示されている。並んでいる地名は、東北から西日本まで、想像以上に幅広い。
「長野」
無意識のうちに、希子はつぶやいていた。
「うん?」
翔ちゃんが振り向いた。
「なんか言った?」
「いや、なんでもない」
希子はごまかした。頭の中で読みあげただけのつもりだったのに、声にも出てしまっていた。
「飛行機がちょっと遅れてるっぽいな」
スマホをいじっていた春くんが、顔をしかめた。
「一応、さっき着陸はしたみたいだけど。とりあえず待ってみるか」
「ここ、混みすぎじゃね? 三階のほうが空いてそうじゃなかった?」
翔ちゃんの言うとおり、通路に立っていると、スーツケースやキャリーバッグに轢かれてしまいそうだ。
「そうだな。確か、座れるとこもあったはず」
春くんも賛成した。
移動して正解だった。バスの降車場になっている三階は、四階と比べれば格段に空いていた。バスから降りた人々の大半は、そのまま階下に向かうようだ。
屋根つきのテラススペースに空いているベンチを見つけて、三人で座った。
「もしまにあわなそうだったら、春くんは先に行きなよ。おれが会場まで連れてく」
翔ちゃんが申し出た。
「それは助かるけど、大丈夫か? 翔、まあまあ方向音痴だし」
「そんなことないって。新宿は何度も来てるし、余裕」
むきになって言い返す翔ちゃんを「はいはい」と春くんがいなす。さっきの仕返しだろうか。
「希子、よろしくな」
「え、わたし?」
「希子こそ心配だよ」
翔ちゃんが口をとがらせる。
「知らないおとなに、ふらふらついてくなよ」
「なんだそれ、幼稚園児じゃあるまいし」
春くんはふきだしたけれど、希子は黙っていた。
小笠原さんと会ったことは、新宿まで来る電車の中で翔ちゃんにも報告した。昨日のうちに綾乃ちゃんからも軽く話を聞いていたようで、なんでおれにも相談してくれないかな、と不満げに詰られた。そもそも、小笠原さんのこと自体を、翔ちゃんには伝えそびれてしまっていた。わざとではなくて、単に話す機会と時間がなかっただけだが、翔ちゃんにしてみれば、希子と綾乃ちゃんがふたりで勝手に事を進めたようでおもしろくないのかもしれない。妹が姉ばかりを頼りにしているように感じられたのだろうか。それにしても、希子だっていろいろあって大変なのに、拗ねられても困る。お母さんとこじれたことまで喋ろうかと思っていたけれど、その気も失せてしまった。
不穏な気配を察したらしい春くんが、希子と翔ちゃんを見比べた。
「なんだ、兄妹げんかか? それこそ、ガキっぽいぞ」
翔ちゃんがぷいとそっぽを向く。希子はしかたなく口を開いた。
「こないだ春くんに聞いたよね。お母さんの好きなひとのこと」
小笠原さんの存在にたどり着いたのは、春くんから昔の話を教えてもらったのがきっかけだったともいえる。翔ちゃんと違って、春くんはこんなことでへそを曲げはしないはずだけれど、一応は伝えておいたほうがいいだろう。
「あれ、誰だかわかったよ」
春くんが息をのんだ。
「えっ、誰? やっぱ生きてたのか? 有名人?」
「小笠原慶太郎だよ」
翔ちゃんが割りこんできた。もったいぶった調子で声をひそめている。調べてくれたのは綾乃ちゃんなのに、まるで自分が突きとめたかのようだ。
春くんはぽかんと口を開け、それから悲しげに首を振った。
「なるほどね、そっち系か。なんだかんだ言ってやっぱエリートが好きなんだな、美佐ちゃんは。そういや、政治家めざしてる友達もいるって前に聞いたな」
はっとしたように言葉を切って、目を見開く。
「じゃあ、つまり希子は……」
途中で口ごもる。なんと言いかけたのかはおおよそ見当がついたので、希子は勘違いを正した。
「それは、違った」
春くんは腑に落ちない顔で首をかしげている。希子がさらに説明を足そうとしたところへ、またもや翔ちゃんが横からしゃしゃり出てきた。
「そんで、本人とも会ったんだってさ。昨日の昼間」
「本人って、小笠原慶太郎と? 美佐ちゃんも一緒に?」
「いやいや、お母さんは抜きで、ふたりきりで」
「ふたりきり?」
春くんが悲鳴じみた声をもらして、体ごと希子のほうに向き直った。眉間にしわが寄っている。
「大丈夫だったのか?」
「うん、いいひとだったよ。いろいろ話も聞けたし、会ってよかった」
「結果的には、な」
翔ちゃんが仏頂面で希子をさえぎった。ぎゅっと寄せた眉のかたちが、春くんとそっくりだ。
「のこのこついてって、もし変な奴だったらどうするんだよ? 危ない目に遭ってからじゃ遅いって。もっとちゃんと考えて行動しないと」
とうとうとまくしたてられ、希子はむっとして言い返した。
「考えてるって。綾乃ちゃんにも、ちゃんと電話したし」
翔ちゃんがいよいよ顔をしかめた。綾乃ちゃんの名前を出したのもよくなかったのかもしれない。
「電話一本じゃ、安心できないよ。おれならとめるね」
綾乃ちゃんもとめるべきだった、と言いたいのだろう。
「希子はそのへん甘いっていうか、無防備なとこがあるよな」
「確かに、初対面の男とふたりきりっていうのは、ちょっとあれだな。翔が心配するのも無理ないと思うよ。実際、おれだって心配だもん」
春くんまで翔ちゃんに同調する。加勢してもらった翔ちゃんが、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「最近は物騒な事件も多いしな。素直なのは希子のいいとこだけど、やっぱり気をつけるに越したことないよ。よく知らない相手のことは、はじめは疑ってかかるくらいでちょうどいい」
お説教じみた言いようは、春くんらしくもない。物わかりの悪い子どもに教え諭すような口ぶりも、なんだか癪にさわる。希子だって、普通なら「よく知らない相手」に「のこのこついて」いったりなんかしない。そのくらいの分別はある。
「でも、だって、小笠原さんはお母さんの……」
「それはわかったけど。だからって、信用できるとは限らないし」
春くんがさっと顔を曇らせた。立場上、小笠原さんに好感を持てないのはしかたないかもしれないけれど、一方的に悪者扱いしないでほしい。
「ほんと、もうちょい注意しろよ。攫われたらどうするよ? 希子はそんなちっちゃいんだからさ、ひょいってかつがれたらおしまいだって」
翔ちゃんが冗談ぽく言い、春くんも表情をゆるめた。
「それはさすがになくないか? 猫の子じゃないんだから」
「だって政治家だよ? 武闘派のSPとか連れてそうじゃない?」
「確かに。スーツにサングラスのやつな」
ふたりでのんきに笑っている。希子はちっとも笑えない。
「でも、場所は公園だよ? 周りには大勢ひとがいた」
むかむかして反論した。翔ちゃんも春くんも、希子のことを心配しているとか言いながら、こっちの気持ちを全然わかってくれていない。父子そろって。
「それに、実のお父さんかもしれないとも思ってたし……」
「だけど結局、他人だった」
翔ちゃんがぴしゃりと言った。春くんも訳知り顔でうなずく。
「赤の他人には、気を許しちゃだめだ。特に、男な」
「他人って」
さほど珍しくもない単語なのに、いやに耳についた。考えるより先に、希子は言い返していた。
「そんなふうに言うんだったら、春くんも他人じゃない?」
家に帰ると言い出した希子を、春くんも翔ちゃんもひきとめなかった。
「わかった。気をつけてな」
春くんは力なく言った。翔ちゃんはむっつりと黙りこくっている。ひっこみがつかなくなって、希子はエスカレーターのほうへ歩き出した。
顔がかっかと熱くほてっている。猛烈に、気まずい。頭に血が上っていたとはいえ、言っていいことと悪いことがある。春くんが他人だなんて、一度も思ったことなんかないのに、なんであんなことを口走ってしまったんだろう。
エスカレーターの乗り口の手前で足をとめ、こっそり春くんたちのほうをうかがった。通路をゆきかう人々に視界をはばまれて、よく見えない。
つくづく、背が低いって不利すぎる。泣きたくなるのをぐっとがまんして、下りのエスカレーターに乗りこんだ。
背後から足音が聞こえてきたのは、二階を過ぎて、一階まで下りきる直前だった。
希子はとっさに振り向いた。もしかして春くんか翔ちゃんが追いかけてきてくれたのかと思ったのだが、そうではなかった。巨大なリュックを背負った中年の男性が希子を押しのけるようにして、のしのしと横をすり抜けていった。すれ違いざま、希子が肩からかけているかばんに腕がぶつかった。明らかに向こうが悪いのに、謝るどころか、ちっと舌打ちされた。
一階に着いて、エスカレーターから降りても、駅のほうへ歩き出す気力がわいてこなかった。
春くんたちの言っていたとおり、この世界は希子が思っているほど安全ではないのだろうか。目の前を通り過ぎてゆく人々は皆、希子よりも大きくて強そうだ。彼らの目には反対に、希子が小さく弱く、頼りなげに映っているのだろうか。あるいは、小さすぎて目に入ってすらいないのか。
雑踏を前に、足がすくむ。バスケの試合中に、自分の体がいかに小さいかを思い知らされることは、これまでにも何度となくあった。毎回、悔しく、腹立たしかった。でもこんなふうに、無性に心細く感じるのははじめてだった。
希子はのろのろと踵を返した。降りてくる人々とぶつからないように用心して、上りのエスカレーターの乗り口まで進む。
翔ちゃんのえらそうな態度はまだ納得いかないけれど、春くんには謝ろう。言葉尻をとらえて突っかかったのは、半分やつあたりだった。ただでさえ気が塞いでいるところへ、父子そろってやいやい言ってくるものだから、ついかっとなってしまった。希子の気も知らないで、と恨めしく感じたけれども、よく考えたら、昨日お母さんともめたことは春くんにも翔ちゃんにも話していない。もし話していれば、ふたりとももう少し優しく接してくれただろう。
三階に戻ると、ふたりはさっきと同じベンチに座っていた。
ちょうど春くんがこちらに顔を向けたので、希子は片手を上げてみたけれど、気づいてもらえなかった。春くんはそのまま首をめぐらせて、また翔ちゃんのほうに向き直ってしまった。
しかたない。だいぶ距離があるし、希子が戻ってくるとも思っていないだろう。気を取り直して希子がベンチに近寄ろうとしたとき、翔ちゃんが春くんになにやら耳打ちした。なにがおかしかったのか、ふたりで顔を見あわせて、同時にふきだす。やけに楽しそうだ。ついさっきまで、翔ちゃんは顔をひきつらせ、春くんは魂が抜けてしまったかのような無表情だったのに。それにしても、こうして遠目に見ると、ふたりは本当によく似ている。笑っていると、特に。
再び、足がとまってしまっていた。春くんと翔ちゃんは、こっちには見向きもしないで話しこんでいる。
希子は回れ右をして、エスカレーターのほうへ引き返した。
ぼんやりしていたせいだろう、乗ってから失敗に気づいた。エスカレーターは、下りではなく上りだった。
四階は相変わらず混雑していた。
下りのエスカレーターに乗り直そう。それには、反対側に回らないといけない。簡単なことなのに、体を動かすのが億劫だった。このまま家に帰るのも気が進まない。お父さんやお母さんに、どうしたのかと聞かれるだろう。春くんにひどいことを言ってしまったと白状するのも恥ずかしい。
待合室には、駅とはまた一味違う熱気が漂っている。これから遠い目的地に向けて出発しようとする人々が集まっているからだろうか。めざすべき場所もなく、かといって家にも帰りたくない希子にとっては、なんだかうらやましい。
「すみません」
声をかけられて、びくりとした。振り向くと、巨大なリュックを背負った外国人の若い女性が立っていた。すらりと背が高く、希子は見上げる格好になる。
外国語には自信がない。後ずさった希子に、女性は続けた。
「クサツのバス、ここですか?」
たどたどしいながら、日本語だ。最初の「すみません」も日本語だったことに、遅れて思いいたる。
「わたし、クサツに行きます」
女性が言い足した。草津行きのバスに乗りたいということだろう。
「ええと」
バスの出発予定を知らせる案内板のモニター表示に、希子は目を走らせた。草津行きはどこにも書いていない。
「このバスです」
女性が希子に乗車券を見せた。草津行き、と確かに書いてある。ひょっとして、このバスターミナルとは別の場所から出るのだろうか。
ちょうど制服姿の係員がそばを通りかかったので、呼びとめた。事情を説明したら、てきぱきと答えてくれた。
「この草津行きは、Cの7から出ますね。ちょうど反対側の角、あのへんです」
腕を伸ばして乗り場のほうを指し示す。出発時刻がまだ少し先なので、まだ案内板に表示されていないという。
教えてもらった乗り場のところまで、希子も一応ついていった。サンキューサンキューと何度も繰り返されて、ちょっと照れくさい。バイバイと手を振りあって別れ、通路を引き返す。
待合室の手前まで戻ってきたところで、乗り場の前にかかげられた行き先の地名に目が吸い寄せられた。
長野、と書いてあった。
目が覚めたとき、バスは知らない街を走っていた。
緊張していたはずなのに、気づけば眠りこんでいたようだった。バスターミナルを出発し、ほどなく高速道路に乗ったあたりから、記憶がとだえている。ゆうべ寝つきがよくなかったせいもあるかもしれない。
最初からバスに乗るつもりだったわけではない。
ただ、これから長野に向かうというバスの横を、素通りできなかった。立ちどまってじろじろと見てしまい、その様子が誤解を招いたようだった。
「チケットを拝見します」
バスの横にひかえていた係員に声をかけられて、希子はあわてて首を振った。
「いえ、あの、持ってません」
「では、あちらでご購入下さい」
係員が指さした先には、券売機が並んでいた。
「大丈夫ですよ。発車まで、まだじゅうぶん時間があります」
愛想よく言い足されて、ありがとうございます、と希子は返事していた。
まもなく長野インター前に到着します、と車内に案内放送が流れる。お忘れ物がございませんよう、お気をつけ下さい。
前方に据えつけられているデジタル時計によれば、もうじき一時半になる。バスはほぼ定刻どおり、順調に走ってきたらしい。スマホを見てみる。春くんからも翔ちゃんからも連絡はない。ふたりとも今頃アジフェスの会場で忙しく働いているはずで、希子どころではないのだろう。
希子がひとりでバスに乗ってこんなに遠くまで来ているなんて、ふたりとも想像してもいないに違いない。今長野に来ている、と教えて驚かせたい気もするけれど、やめておく。危ないことはするな、とまたお説教されてもつまらない。帰ってから、実は長野に行ってきたんだ、とさらりと報告したほうがかっこいい。
バスが停まり、数人が降りていく。この後も、さらにいくつかのバス停を経て、終点の長野駅に向かう。おそらく、そのあたりが街の中心なのだろう。希子もそこで降りるつもりで乗車券を買ってある。
スマホをポケットに戻して、再び走り出したバスの窓から外を見やった。もう高速道路を下り、一般道を走っている。道路の両脇は田畑の緑で塗りつぶされている。そのさらに向こうに連なる、青みがかった山なみが美しい。からりと晴れ渡った青空が、どこまでも広い。
長野だ。十四年前、わたしはここで生まれた。
なつかしい気持ちで胸がいっぱいになる、と言いたいところだけれど、そうでもない。赤ん坊だった当時の記憶はなにひとつ残っていない。長野に特別な思い入れがあるわけでも、前々から行きたいと考えていたわけでもなかった。
それでも、こうして見慣れない風景を眺めていると、わくわくした気分がこみあげてくる。自分史の冊子が思い浮かんだ。希子の人生の記念すべき一ページめは、ここからはじまったのだ。
進むにつれて、道の周りから田畑が減り、かわりに建物が増えていた。終点のひとつ手前にあたる、長野バスターミナルの周辺では、新宿の高層ビル群にはかなわないものの、希子の家の近所とさほど変わらない街並みになっていた。
「次は、終点、長野駅です」
バスの座席はまだ半分以上埋まっている。荷物をまとめたり身支度をしたり、めいめい降りる用意を進めている乗客たちの中で、たぶん希子が最年少だろう。けれどもう、自分が小さいとも弱いとも感じない。
大人たちにまじってバスを降りた。真正面に、こぢんまりとした案内所が設けられている。中には入らずに前を通り過ぎ、人波に乗って歩いていくと、二、三分で長野駅までたどり着いた。
長野は涼しいとお母さんは言っていたし、東京に比べればいくらか気温は低い気もするけれど、それでもけっこう暑い。バスの中はエアコンが効いていたから、よけいにこたえるのかもしれない。
のどがかわいた。なにか飲みたい。おなかもへった。朝にお父さんが焼いてくれたトーストを一枚食べたきり、なにも口に入れていない。意識したとたん、耐えがたい空腹で胃が縮んだ。駅前のロータリーを見回してみると、東京にもある全国チェーンのハンバーガーショップの看板が目にとまった。
こういう飲食店に、ひとりで入ったことはない。入ろうと思ったことも。でも、ひとりで長野まで来られたのだから、ハンバーガーだって食べられるはずだ。
店内はひんやりと涼しくて、一気に汗がひいた。
中途半端な時間だからか、こぢんまりとしたイートインの席はがらがらだった。入ってすぐのカウンターで、会社員ふうの男性客が注文している。後ろに並ぶと、すぐに順番が回ってきた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの内側から、店員さんがほがらかに挨拶した。中学生が相手でも、接客態度は変わらない。希子はチーズバーガーのセットを選んだ。ポテトとコーラもつける。店員さんがきびきびと注文を復唱した。
「五百六十円になります」
かばんから財布を出そうとして、「あれ?」と声がもれた。
「すみません」
あせってかばんの中をひっかき回している希子を見て、店員さんにも事態は察せられたようだった。かばんの持ち手にひっかけてあった定期入れを指さして、交通系のICカードでもお支払いができますよ、と親切に教えてくれた。
おかげで、チーズバーガーセットを買うことはできた。
席につくなり、再びかばんをさらった。しまいにはひっくり返してテーブルに中身をぶちまけたが、財布はみあたらない。ジーンズのポケットも念入りに確かめた。やはり、どこにもない。
新宿でバスの乗車券を買ったときには、確かにあった。残りのお金で帰りの分の運賃をじゅうぶんまかなえることも確かめた上で、財布はバッグの中にしまったはずだった。どこかでうっかり落としたのだろうか。その後はなにも買っていないし、財布を出してもいない。それとも、バスの中で落っことしたのか。道中でたまに揺れることもあったから、はずみで床や座席にすべり落ちたのかもしれない。
気もそぞろで口に運んだチーズバーガーは、ほとんど味がしなかった。
食べ終えると早々に店を出た。高速バスの案内所をめざして、来た道をとぼとぼと引き返す。
窓口では、中年の女性係員が応対してくれた。
「バスの中に財布を落としたかもしれないんですけど、届いてませんか」
どのバスに乗っていたのか、どんな財布か、いくつか質問されて、順に答えた。ひととおり聞き終えた係員は、手もとのパソコンになにやら打ちこんだり、どこかへ電話をかけたり、しばらく調べてくれていた。希子はすがるような気持ちで待ったが、手がかりは得られなかったらしく、
「今のところ、こちらには届いていないみたいですね」
と、気の毒そうに言われた。
「警察に問いあわせてみたほうがいいかもしれません」
「わかりました」
「大丈夫?」
遠慮がちにたずねられた。希子が肩を落としているのを見かねたのだろう。
「大丈夫です」
かろうじて答えた。全然大丈夫ではないけれど、そうも言えない。
「ありがとうございました」
気遣わしげな視線から逃れるようにして、案内所を出た。駅前まで戻り、ロータリーのベンチに呆然とへたりこむ。
交番を探さなければいけないのに、体が重くて動かない。届け出て、運よくどこかで財布が見つかったとしても、すぐに手もとに戻ってくるものなのだろうか。さっきのハンバーガーショップでレジの機械に表示されたICカードの残額は、たったの三百円だった。
家に帰りたくない、と数時間前には思っていた。勢い余って長距離バスに乗りこんでしまうほどに、強く。
なのに、いざ現実に帰れなくなったら、ちっともうれしくない。
ついさっきまでの浮かれた気分はもはや跡形もない。長野まで来たのがとんでもない失敗に思える。衝動的に行動したあげく、こんなことになってしまった。もっとちゃんと考えろ、と翔ちゃんにまた言われてしまいそうだ。ちょっとした冒険きどりで調子に乗っていた自分に、希子自身もそう言ってやりたい。誰からなんて言われてもかまわない、家に帰れるんだったら。
また涙がこぼれそうになって、ぎゅっと目をつむったとき、ポケットでスマホが振動した。あわてて出る。
「希子?」
お母さんが言った。
「翔に聞いたんだけど、希子は一緒じゃないんだって? 今どこにいるの?」
希子はスマホを耳にあてたまま、目の前の風景を見やった。
「長野」
ささやくような小声になった。
「長野?」
お母さんの声がひっくり返った。
「長野県? なんで?」
「わかんない」
答えた声が震えた。
「帰りたい、けど、お財布がなくて。どっかで、落としたっぽい」
つっかえつっかえ、なんとか言った。お母さんが息をのむ音がした。
「どうしよう」
とうとう涙声になってしまった。スマホを握りしめる。
「迎えにいく」
お母さんが言った。
「そこで待ってて」
改札越しにお母さんと目が合って、希子はまた泣いてしまった。
お母さんのほうは、ぱっと顔をほころばせた。改札をくぐり、まっすぐ希子に駆け寄ってくる。
「よかった、無事で」
周囲の目もはばからず、がばりと抱きしめられた。
「ごめんなさい」
声がかすれた。
お母さんは返事のかわりに、希子の背中をさすってくれた。幼い頃、翔ちゃんとけんかしたりなにかいやなことがあったりして希子がべそをかくと、こうやって慰めてもらったものだ。
高速バスだと四時間近くかかった道のりを、お母さんは新幹線で駆けつけてくれた。東京駅から長野駅まで、およそ一時間半で着くという。
今日はたまたま、午後に入っていた診察の予約が急にキャンセルになったらしい。アジフェスに行ってみようかと思いたち、お母さんは翔ちゃんに連絡をとった。そこではじめて、希子が会場にいないと知った。ひとりで先に帰ったというが、それならもうとっくに家に着いているはずだ。どこで道草を食っているのかといぶかしんで電話をかけたら、寄り道している先は、まったく予想外の場所だった。
希子が泣きやむのを待って、お母さんは口を開いた。
「希子、おなか空いてない?」
言われたとたん、おなかがぐうと鳴った。さっきのチーズバーガーは、動転のあまり食べた気がしなかった。体は動かしていないけれど感情の上下が激しすぎたから、カロリーを消費したのかもしれない。
希子がうなずくと、「実はわたしも」とお母さんは笑って言った。
「おやつがてら、なにか甘いものでも食べよっか」
地元っぽいお店がいいな、とさっそくスマホで調べはじめる。となると、やっぱり和菓子系かな。
「せっかく来たんだしね」
お母さんと無事に落ちあえた今となっては、希子にもそう思える余裕が生まれていた。ひとりぼっちで待っている間は、早く東京に帰りたくてたまらなかったくせに、もう少し満喫したい気もしてくる。
「ああそうだ、あそこって今でもやってるのかな?」
スマホを操作しつつ、お母さんはぶつぶつ言っている。昔行ったことのあるお店を思い出したようだ。
お母さんが連れていってくれたのは、立派なお寺の門前にある甘味処だった。瓦屋根に白壁の、純和風の古めかしい店構えで、店名が墨書された木製の看板も、いかにも年季が入っている。あいにく店内は満席だったけれど、もう少ししたら空くと店員さんに言われたので、待ち時間にお寺にお参りしてくることにした。
由緒ありげな、ものものしい山門をくぐり、石畳の参道を進む。このお寺は市内でも人気の観光名所だそうで、参拝客でにぎわっている。
「長野はほんとにひさしぶり。希子が生まれて以来、はじめて来た」
ふたり並んで歩きながら、お母さんが言った。
「じゃあ、ほぼ十四年ぶり?」
「だね。でも、このへんの感じはあんまり変わってないな。ここまで混んでなかった気はするけど」
本堂の前には、短い行列ができていた。並んで順番を待ち、お賽銭を入れて両手を合わせる。
「このお寺で、安産祈願もしたんだよ」
お母さんが希子にささやきかけて、背中に手のひらを添えた。
「おかげさまで、こんなに大きくなりました」
仏様に報告したつもりだろうか、ぺこりと頭を下げる。希子もならった。
「なんか、ちょっと意外」
参道を引き返して山門を抜け、甘味処のほうへ歩き出したところで、希子はお母さんに言ってみた。
「え?」
「お母さん、神様とか宗教とか、あんまり信じてなくない?」
境内の外に出るまで言わずにおいたのは、仏像の前でこんなことを口にするのはさすがに失礼かとはばかられたからだ。
「基本的にはね」
お母さんはばつが悪そうに認めた。
「まあ、いろんな考えかたがあるから」
曖昧な言いように、ぴんときた。ひょっとして、希子の実父が信心深いたちだったのだろうか。
甘味処に戻ると、さっきの店員さんが奥のテーブル席に案内してくれた。お母さんと向かいあって座る。家族で外出したときに、みんなで飲食店に入ることはときどきあるけれど、お母さんとふたりだけというのはちょっと新鮮だ。
「ここも、前にも来たことあるの?」
「うん。その分古くなってるかと思ったけど、そうでもない。むしろ内装は前よりきれいかも。改装したのかな」
お母さんは店内をぐるりと見回してから、お品書きを広げた。
「あ、確かこのお団子がおいしかった気がする」
お母さんのおすすめに従って、お団子を二皿とお茶を頼んだ。
「そうそう、この味」
きなこのどっさりまぶされたお団子をひとくちかじって、お母さんが声をはずませた。希子もひとつ口に運んだ。もちもちしていて、中に入っている粒あんも甘すぎなくておいしい。
「ああそうだ、春くんと翔にも、希子と会えたってことは一応伝えといたよ。ふたりとも心配してた。後で希子からも連絡してあげて」
「うん」
答えたものの、希子はきまり悪くてうつむいてしまう。
「翔とけんかしたの?」
「けんか、っていうか……」
言いよどみ、お団子の串をもてあそんだ。
「わたしが、いらいらしちゃって」
「いらいら?」
「なんか、翔ちゃんと春くんが、仲よさそうすぎて」
こうして口にしてみると、いかにも子どもっぽい言い分だ。
けれど、希子が実際に幼い「子ども」だった頃には、そんな気持ちになったことは一度もなかった。春くんと翔ちゃんが、希子をそんな気持ちにさせなかったからだ。
「帰ったら、謝る」
「うん、それがいい」
お母さんも励ますように言ってくれた。できれば、じかに顔を見て話したい。ふたりはまだアジフェスの会場にいるはずだ。翔ちゃんとは今晩、家で会えるだろう。春くんには明日会いにいこう。
「何時くらいに、家に帰れるかな?」
最後のお団子をたいらげてから、お母さんに聞いてみた。これから駅まで戻って新幹線に乗ったら、夕ごはんにはまにあう時間に家に着けるだろうか。
お母さんがお茶をひとくちすすってから、答えた。
「あのね、考えたんだけど、今日はこのまま長野に泊まるのはどう?」
「えっ」
思いもよらない提案だった。目をみはっている希子に向かって、お母さんはほがらかに言う。
「遠くまで来て、希子も疲れてるでしょう。明日は日曜だから、部活も仕事もないし。のんびりごはんを食べて、ゆっくりしない? こんな機会、なかなかないしね」
ひょっとしたら、昨日の話の続きがしたいのだろうか。お母さんはまだ話したそうだったのに、希子が途中で一方的に席を立ってしまったのだった。
「いいよ」
希子を助けに飛んできてくれたお母さんに、今なら素直な気持ちで向きあえそうだ。取り乱さないで、ちゃんと話を聞こう。それで希子がどう思ったか、お母さんにも聞いてもらおう。
「じゃ、決まり」
お母さんがにっこりした。
「あと、この後、もう一カ所だけ寄っていきたいところがあって」
「どこ?」
「病院」
返事を聞いて、噎せそうになった。
「え、それって」
「希子の生まれた病院」
希子が予期したとおりの答えを、お母さんは口にした。
自分の出生に対する興味なり好奇心なりが、希子を長野に向かわせたのだとお母さんは解釈したのだろうか。その気持ちに応えようとして、少しでも縁のある場所に連れていってくれようとしているのかもしれない。さっきお寺に参拝したのも、その一環だったのだろうか。
とりとめもなく考えをめぐらせていたら、お母さんに顔をのぞきこまれた。
「希子が行きたくないんだったら、やめとこうか」
希子はあわてて首を振った。
「いや、行ってみたい」