小一時間ほどふたりで公園をぶらついて、家に帰った。
玄関のドアを開けたら、出かけるときにはなかったスニーカーが一足、三和土にそろえてあった。右足は濃いピンク色、左足は淡い水色で、どちらも靴紐は明るい黄色だ。目がちかちかする。
希子と泉水がどちらからともなく目を見かわしていると、廊下の先にあるリビングから、スニーカーの持ち主がひょっこり顔をのぞかせた。
「おう、ひさしぶり」
春くんは機嫌よく言って、玄関のほうに歩いてきた。紺地に金色の稲妻みたいな刺繍の入った、マントのようなかたちの上着に、つねづね愛用している、ぼろぼろの色あせたデニムを合わせている。いつもながら、服も靴に負けず個性的だ。
「泉水、誕生日おめでとう」
春くんは片手でデニムのポケットを探り、泉水に向かって握りこぶしを突き出した。
「これ、やるよ」
泉水がおずおずと手のひらを差し出した。春くんがその手に自分の手を重ねて、ぱっと開く。
泉水の手もとを、希子ものぞきこんだ。手のひらにおさまっているのは、そらまめみたいなかたちと大きさの、紫がかった半透明の石だった。きれいだけど、たぶん泉水の好みじゃないだろう。
「ありがとう」
それでも、泉水は律儀に礼を言った。春くんが満足そうにうなずく。
「じゃあ、またな」
「え、もう帰るの?」
「うん、ディナーの準備があるし。たまたまランチが早めに片づいたから、ちょっと寄ってみただけ」
春くんはカレー屋さんをやっている。店名のホーリーは、インドで春に行われるお祭りからとったらしい。
駅前の商店街のはずれに、ホーリーはある。お客さんが七、八人も入れば満席になる小さなお店で、調理から接客まで、春くんがひとりで切り回している。お昼は日替わりのカレーとライスかナンを選べるランチセットが人気で、夜にはタンドリーチキンやサラダといった単品やお酒も出す。
ホーリーのカレーは、春くんいわく本場インド仕込みの「本物」で、
「そんじょそこらのカレー屋と一緒にしてもらっちゃ困る」
と本人は豪語している。現地のカリスマ料理人に弟子入りしたと自慢するだけあって、ものすごくおいしい。お父さんもカレーはたまに作ってくれるけれど、ここに限っては春くんに軍配が上がる。
そのおかげか、行列ができるほどの有名店ではないものの、足繁く通ってくれる常連客もまずまずいるようだ。手伝いという名目で時折遊びにいっている翔ちゃんによれば、めちゃくちゃ忙しいか、不安になってくるほどひまかの両極端で、ちょうどいいときがないという。
「春くんらしいといえば春くんらしいかもね」
というのが、その話を聞いたお母さんの率直な感想だった。
「なんていうか、中庸って感覚が欠けてるんだよね」
春くんは、お母さんにとって二番目の夫であり、翔ちゃんの実の父親でもある。離婚して息子の親権を妻に譲った後も、つきあいは続いている。
希子が物心ついたときから、春くんは家に出入りしていた。お母さんと翔ちゃんにならって、希子も自然に「春くん」と呼んだ。希子との公的な関係性──「母の前夫」もしくは「兄の実父」、いずれにせよ回りくどい──を理解するにはまだ少々幼すぎたものの、陽気な春くんの来訪は歓迎していた。一緒に遊んでもらえる上に、おいしいカレーも食べられる。
お父さんと泉水がうちに住むようになってからは、いっとき足が遠のいていたけれど、しばらくしたらまた来るようになった。ただし、昔ほど長居はしない。カレーも作ってくれない。しかたないので、希子は翔ちゃんとふたりで、ホーリーまで食べにいくようになった。
その翔ちゃんが、物音を聞きつけたのか、二階から階段を下りてきた。
「春くん、来てるんなら声かけてくれたらいいのに。冷たいな」
「部屋はのぞいたけど、爆睡してたから起こさなかったんだよ」
言われてみれば、髪が寝起きっぽい。ぼさぼさで、ところどころ逆立っている。翔ちゃんはすばらしく寝つきがいい。疲れている日には、晩ごはんの途中で座ったままうとうとしている。
「翔、ちょっと会わない間に、またでかくなったな?」
またしても、背丈の話だ。うんざりしている希子をよそに、春くんはのんきに納得してみせる。
「寝る子は育つって、ほんとなんだな」
ほんと、なんだろうか。それなら希子だって、しっかり寝ている。もっと育ってもいいはずじゃないか。
階段を下りきった翔ちゃんと向かいあって立つと、うう、と春くんは低いうめき声を上げた。
「だめだ、完全に抜かされた」
翔ちゃんがふふんと笑った。
「ちなみに、まだ伸びてるから」
「まじかよ、まだ差が広がるのか」
春くんはわざとらしく頭を抱えてみせたものの、さほど落胆しているふうでもない。それどころか、うれしそうにすら見える。息子に抜かされて、悔しくないんだろうか。希子には理解できない。
春くんの身長は、高くも低くもない。一七〇センチ台の半ばくらいだろうか。お母さんがハイヒールをはくと、そんなに変わらない。それでも男性の平均はあるから、女性の平均を上回っているお母さんとの組みあわせで、翔ちゃんが平均以上に高くなってもおかしくない。
そういえば、綾乃ちゃんの実のお父さんは、どうなんだろう。
お母さんの最初の夫に、希子は一度も会ったことがない。再婚して、新しい奥さんとの間に子どももふたりいるそうだ。綾乃ちゃんにとっては、翔ちゃんや希子と同じく、半分だけ血のつながった弟妹ということになる。
高校時代の半ばまで同居していた、そちらの家族に対して、綾乃ちゃんは手厳しい。どんな感じなの、と希子が興味本位でたずねてみたら、
「つまんないひとたちだよ」
と、ひとことで言い捨てた。折り合いがあまりよくないようだ。そうとうよくないといったほうが正しいかもしれない。なにせ、向こうの家を飛び出して、お母さんのもとに転がりこんできたほどだ。
「そんなふうに言わないの」
お母さんにたしなめられても、綾乃ちゃんはひるまない。
「よくあのひとと結婚してたよね。お母さんの趣味がわかんない」
娘に「あのひと」呼ばわりされてしまう綾乃ちゃんの実父がどんな人物なのか、面識のない希子にははかりかねるけれど、いまだに再婚もしないでカレー屋の店主をつとめる春くんとは、いろんな意味でかなり違いそうだ。この家を訪ねてきたことも、少なくとも希子の知る限りでは、一度もない。
「美佐ちゃんは守備範囲が広いんだな」
前に春くんが酔っぱらって、そう言っていたことがあった。嫌みでも皮肉でもなく、どちらかといえば感心するような口ぶりだったけれど、お母さんはさも不本意そうに言い返した。
「やめてよ、人聞き悪いこと言うのは」
「悪いかな? 懐が深いってことで、むしろよくない?」
実の娘からは疎まれている綾乃ちゃんのお父さんに対して、しかし希子や翔ちゃんは悪くない印象を抱いている。娘が世話になっている謝礼のつもりか、夏と冬にお中元とお歳暮が送られてくるのだ。お中元の牛肉も、お歳暮の蟹も、いかにも高級な味がする。
「じゃあな。泉水、おめでとう」
春くんは泉水にあらためて言い、隣の希子にも目を向けた。
「希子もまたカレー食いにこいよ」
ひょいと腕を伸ばして、ぽんぽんと頭をなでた。
子どもの頃から、春くんは別れ際の挨拶がわりに、よくこうして希子や翔ちゃんの頭をなでた。親愛のしるしなのだろう。そこまでつきあいの長くない泉水には遠慮があるようで、やらない。
「そういや、翔も来月誕生日だな。なにがほしいか、考えといて」
翔ちゃんの頭も、最近はなでない。かわりに、二の腕のあたりを手のひらで軽くはたいている。もちろん、愛情が薄れたわけではない。自分よりも背の高い相手の頭は、なでづらいだけだ。
「またな」
春くんは明るく言い置いて、ひらりと身を翻して出ていった。