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6 隠しごと

 

 地下鉄の改札を抜け、長いエスカレーターを乗り継いで地上に出ると、真正面に巨大な建物がでんとそびえていた。

「これがお父さんの病院?」

 半歩先をゆく綾乃ちゃんに、希子は声をかけた。総合病院だと聞いて、それなりの規模なのだろうと思ってはいたが、予想以上に立派だ。

「大きいね。しかも、きれい」

 正面玄関のガラスはぴかぴかで、白壁が陽光に映えている。自動ドアがひっきりなしに開いては、患者や付き添いらしき人々が出入りし、車寄せにはタクシーがずらりと並んでいる。

「何年か前に建て替えたからね」

 綾乃ちゃんはこれまでにも来たことがあるようで、迷いのない足どりですたすたと歩いていく。敷地の外周に沿って進み、病院の裏手に回った。駅前には背の高いビルが多かったけれど、うってかわって閑静な住宅街が広がっている。

 道に面した一軒家の前で、綾乃ちゃんが足をとめた。アーチ形の門に色とりどりの薔薇が咲き乱れている。

「ここ?」

 レンガ造りの平屋は、一見すると民家のようだけれど、よく見たら門の傍らに小さな看板が出ていた。

「うん。ちょっと早いけど、もう入っちゃおうか」

 腕時計に目をやった綾乃ちゃんが、先に立って門をくぐり、前庭に足を踏み入れた。希子も後に従う。建物まで続く短い小道の両脇にも薔薇の低木が植えられ、ほの甘い匂いを振りまいている。

 希子たちが入口のすぐ手前まで近づいたところで、突然、ドアが内側から音もなく開いた。

「いらっしゃいませ」

 中から現れたスーツ姿の店員さんが、うやうやしく頭を下げた。不意をつかれて立ちすくんでいる希子をよそに、綾乃ちゃんは平然と応える。

「こんにちは」

「お待ちしておりました。どうぞ」

 窓際の席に案内された。綾乃ちゃんのお父さんはまだ来ていない。純白のクロスがかかったテーブルを挟み、二対一で向かいあう配置で椅子が置かれ、三人分のグラスとカトラリーが準備されている。

 希子は綾乃ちゃんと並んで座った。窓越しに、陽ざしの降り注ぐ庭が見える。あらためて広間を見回してみると、ゆったりと間隔をおいて配された六つのテーブルはすべて、すでに埋まっていた。年輩のお客さんが多い。希子は最年少だろう。

「もっとちゃんとした服で来ればよかったかな」

 店員さんが席からじゅうぶん離れたのをみはからって、希子は綾乃ちゃんにささやきかけた。

 かしこまった格好はしなくていいと綾乃ちゃんに言われ、薄手のブラウスにデニムのスカートという軽装で来てしまった。日頃、友達と遊びに行くときと変わらない。周りのお客さんたちは誰もがきちんとした身なりで、優雅に食事を楽しんでいる。

「そんなことないよ。わたしだって、こんなだよ?」

 綾乃ちゃんは、かぎ針編みのカーディガンに麻のロングスカートを合わせ、この間買った革のサンダルをはいている。雰囲気は希子よりもカジュアルなくらいだけれど、浮いている感じはしない。態度が堂々としているからだろうか。希子だけが場違いなようで、落ち着かない。ふだん家族で外食するときは、近所の焼肉屋さんや回転寿司なんかの庶民的なお店ばかりで、こういう高級そうなところにはなじみがない。

「綾乃ちゃんのお父さんには、詳しいことは話してないんだよね?」

「なにも。ただ、希子ちゃんを連れていくって伝えただけ」

「お父さん、迷惑そうじゃなかった?」

 よく考えたら、娘と水入らずで過ごせる貴重な時間に割りこんでしまっていることになる。断られなかったとはいえ、本音では乗り気でないかもしれない。

「全然。むしろ、はりきっちゃって。希子ちゃんも一緒ならこのお店にしようって、予約し直したくらいだし」

「え、そうなの?」

 ますます、もう少しおしゃれしたほうがよかった気がしてきた。このレストランは昔からお父さんのお気に入りらしい。綾乃ちゃんもたびたび来店していて、店員さんとも顔見知りだという。

「そんなに身構えることないって」

 綾乃ちゃんが笑って首を振った。

「どこまで突っこんで聞くかは、会ってみてから決めればいいからね。このひととはあんまり深い話はしたくないなって思ったら、ごはんだけ楽しんでよ。なに食べてもおいしいんだよ、ここは。ね、いい匂いがしてるでしょ?」

 ひくひく鼻をうごめかせてみせる。希子の緊張をほぐそうとしてくれているのかもしれない。

「逆に、あっちが失礼なこと言ってきたらごめんね。無視していいよ」

「失礼なこと?」

「いろいろ。あのひとは外面がいいし、大丈夫だとは思うけど」

「外面……」

 綾乃ちゃんこそ、失礼なんじゃないか。

「あと、めっちゃ喋るけど、びっくりしないでね。いちいち相槌とかも打たなくていいから。適当に聞き流しとけば……」

 綾乃ちゃんが言葉を切り、希子の背後に目をやった。

 見れば、さっきの店員さんがこちらへ向かってくる。後ろにもうひとり、恰幅のいい中年の男性がついてきている。

 綾乃ちゃんと目もとがそっくりだ。

「はじめまして」

 テーブルにやってきた綾乃ちゃんのお父さんは、まず希子に向かって挨拶した。

「お待たせしてしまって申し訳ない。綾乃の父の、堤秀敏です」

「はじめまして」

 希子もあわてて腰を浮かせ、頭を下げ返した。

「植田希子です」

 堤さんは背が高く、向かいあうと自然に見上げる姿勢になる。がっちりとした体格で肩幅も広いので、よけいに大きく見えるのかもしれない。

「どうぞどうぞ、座って下さい」

 うながされて希子は椅子にかけ直し、堤さんも向かいに腰を下ろした。

「希子さん、今日は来ていただいてありがとうございます」

 にこやかに言う。

「前からずっと、会いたいと思っていたんです。綾乃がいつもお世話になって」

「いえ、あの、こちらこそ」

 きびきびした早口に気圧されつつ、希子はもごもごと応えた。

「おなかは空いてますか?」

「はい」

「綾乃も?」

「うん、へってる」

「じゃあ、肉と魚の両方つくコースにしようか。希子さんは、苦手なものやアレルギーはありませんか?」

「ないです」

「すばらしい」

 堤さんが目くばせすると、そばにいた店員さんがすぐさまテーブルにやってきた。てきぱきと注文をすませてから、堤さんはまた希子に向き直った。

「いやあ、うれしいな。やっとお会いできましたね」

 感慨深げに言う。社交辞令も若干まじっているかもしれないが、それだけではなさそうだ。綾乃ちゃんも言っていたとおり、希子を歓迎してくれているようで、ひとまずほっとする。

 綾乃ちゃんの話を聞く限りでは、がんこで気難しそうなひとかと想像していたけれど、なんだかイメージと違う。喋りかたといい、物腰といい、いかにも頭の回転が速そうなのは伝わってくるものの、横柄な感じはしない。綾乃ちゃんの言葉を借りれば「えらそう」でもない。

 ただし、娘に負けず劣らず、物言いはかなり率直だった。

「ちょっと難しいところがあるでしょう、綾乃は。つきあうのは大変だと思いますが、仲良くしてもらってるみたいで。本当にありがとうございます」

「いや、そんな」

 むっつりと押し黙っている綾乃ちゃんを横目に、希子はひやひやしてしまう。

「いえいえ、事実ですから。気が強いし、好ききらいも激しいし」

 堤さんはおかまいなしだ。

「正直、母親はともかくとして、家族の皆さんとうまくやっていけるもんかなと半信半疑だったんです。でも、あたたかく受け入れていただいたようで」

「いいひとたちだから」

 綾乃ちゃんがぼそりと言った。堤さんやその家族は「いいひと」ではないかのように聞こえなくもなかったが、堤さんは動じずに話をまとめる。

「おかげさまで、一安心です」

 

 コースの最初に運ばれてきたのは、ガラス製の大皿だった。鮮やかなオレンジ色のプリンみたいなものが真ん中にちょこんと盛りつけられ、てっぺんに赤いシャーベットがのっている。デザートっぽい料理がまっさきに出てきて、少し面食らう。

「赤パプリカのムースでございます。上に振りかけてあるのは、ガスパッチョのグラニテです」

 店員さんが説明した。

「トマトなどの夏野菜のスープを凍らせて、シャーベット状にしたものです」

 補足してくれたのは、希子の戸惑いを察したからかもしれない。添えられた小さなスプーンですくって、こわごわ口に運んでみる。冷たい。

「どうですか、お口に合うかな」

 堤さんが希子にたずねた。

「おいしいです」

 甘そうな見た目なのにしょっぱいのが不思議だけれど、味はおいしい。野菜のムースもシャーベットも、はじめて食べた。

 次いで、白身魚のカルパッチョが登場した。三皿目はアスパラガスのソテーで、半熟の目玉焼きがのせられ、粉チーズがどっさりかかっている。

 どれもこれも絶妙な味つけで、盛りつけも凝っている。お皿もおしゃれだ。食材や調理法から、自家製のソースや隠し味のハーブまで、店員さんがことこまかに解説してくれる。耳慣れないカタカナの専門用語が多すぎて希子にはついていけず、途中から聞き流していたけれど、堤さんは興味深げに耳を傾け、さかんに質問している。

 堤さんが「めっちゃ喋る」と綾乃ちゃんが言っていたのは、誇張ではなかった。

 店員さんばかりでなく、希子に対しても、堤さんは次々に質問を繰り出した。その答えに感想なり相槌なりを返し、合間に自分の仕事のことや中学時代の思い出話なんかも差し挟む。声が大きくて滑舌もいいから聞きとりにくいことはないけれど、早口でどんどん話が進んでいくので、ついていくのが大変だ。いつ息継ぎをしているのかといぶかしくなるくらい休みなく話し続け、それでいて、話に夢中で食べるほうがおろそかになるということもなく、お皿はいつのまにやら空になっている。

「医者はたいがい、食べるのが早いんですよ。いつ緊急の呼び出しが入るか、わかりませんから」

 希子の心中を見通したかのように、堤さんは言う。

「食べられるときにさっさと食べておかないと、食いっぱぐれる。あなたがたのお母さんも、そうでしょう」

 堤さんと会うことは、お母さんにも伝えてある。なんでまた、と驚いていたけれど、綾乃ちゃんがうまくごまかしてくれた。

「なんか、たまたまそういう話になって」

「ああ、そういえば、希子や翔にも一度会ってみたいって前も言ってたな」

 お母さんは特段いぶかしむふうもなかった。

「きっと、おいしいものをごちそうしてもらえるよ」

 堤さんが子どものときから家族で通っていたというこのレストランには、お母さんも何度か来たことがあるそうだ。

「はじめて美佐を連れてきたのは、まだ結婚する前でした」

「大学の友達だったんですよね」

 希子が相槌を打つと、堤さんは遠くを見るような目になった。

「大昔の話だなあ」

 しんみりと前置きしてから、思い出話をはじめた。

 都内の大学の医学部で、ふたりは出会った。堤さんによれば、お母さんは学部の同期の中でも「頭ひとつ抜けて優秀」な学生だったという。

「まじめで努力家で、手先も器用で。いい医者になるだろうって、周りからも一目置かれてた」

 堤さんは一拍おいて、つけ足した。

「ただ、ちょっとまじめすぎたのかもしれません」

 少なくとも希子の知っている今のお母さんには、あまりしっくりこない表現だ。

 お母さんは仕事に関しては真剣だけれど、日常生活においては万事おおざっぱで、細かいことにはこだわらない。昔は違ったのだろうか。大学生といえば、綾乃ちゃんと同じ年頃だ。お母さんにも十代や二十代だったときがあるというのは当然で、頭では理解できるものの、その姿を具体的に思い浮かべるのは難しい。

 在学中につきあいはじめたお母さんと堤さんは、卒業した後、別々の病院に就職した。ふたりとも、とんでもない激務に追われ、会う時間を作るのも一苦労だったという。一緒に暮らしたほうが合理的だろうと話がまとまり、ほどなく結婚に至った。

「だったらもう、籍も入れようってことになって」

 子どもを授かったのは、その翌年のことだった。

「綾乃です」

 すでに知っている話なのだろう、会話には加わらずに黙って食べるほうに集中していた綾乃ちゃんが、ちらりと目を上げた。いつになく口数は少ないものの、表情は入店したときよりやわらかい。おいしいごはんのおかげで、いくらか気持ちがほぐれてきたのかもしれない。

 妊娠中も、お母さんは仕事を続けていたらしい。

「医局は慢性的に人手不足ですから。ぎりぎりまで働くのが普通なんです」

 日に日に大きくなっていくおなかを抱え、お母さんは引き続き忙しく働いた。胎児の成長も順調だった。臨月近くになってから、やっと産休に入った。無事に出産した後、半年間の育児休暇を経て、予定どおりに職場復帰を果たした。

「その頃からです、少し様子がおかしくなったのは」

 どうも元気がないのだった。家事や育児に支障が出るほどではなく、仕事も問題なくこなしているようだけれど、ふとした拍子にぼんやりとしている。

 妻の異変に気づいた堤さんは、ふたりで話しあうことにした。

「つきあいはじめてからずっと、それがわたしたちのやりかたでした。なにか問題があるときは、解決に向けてふたりで議論する」

 なにも問題はない、とお母さんは答えた。ただちょっと疲れてるだけ、と。

「無理もないと思いました。ただでさえ忙しい仕事なのに、赤ん坊の世話までしなきゃいけない。美佐は完璧主義だから、やるべきことをやりきれていないこと自体も、ストレスだったのかもしれません」

 妻の負担を少しでも減らすために、手助けが必要だと堤さんは考えた。ただ、堤さん自身も忙しい。お母さん自身の両親も、ふたりとも医師として現役で働いている上、住まいもそこまで近くない。

 思案の末、近所に住んでいる自身の母親に応援を頼むことにした。

「綾乃にとっては、おばあちゃんですね。専業主婦で時間にも余裕があるし、家事にも子どもの扱いにも慣れてる。適任だと思ったんですが」

 堤さんの言葉にかぶせるように、それまで黙っていた綾乃ちゃんが硬い声で後をひきとった。

「だけど、そううまくはいかなかった」

「よくある、姑と嫁のいがみあいみたいなことでもなくて」

 堤さんが希子に向かって補った。

「うちの母はさばさばした性格だし、身内は医者だらけだから、どんなに仕事が大変なのかも理解してます。孫と一緒に過ごせるのはむしろうれしいって、喜んで引き受けてくれたんです」

 それなのに、と眉を寄せる。

「迷惑をかけて申し訳ない、って美佐は落ちこむ一方で」

「そりゃそうでしょ。わたしだって、お母さんの立場だったらいたたまれない」

 綾乃ちゃんが言い返した。

「だけど、こっちだって必死に考えて、ベストを尽くしたんだよ。おばあちゃんだって、そうとう気を遣ってくれて」

 堤さんも負けじと反論する。

「姑の世話になるのがどうしても気がひけるっていうなら、いっそベビーシッターなり家政婦なりを雇おうかって提案もした。でも、それもいやだって言う。じゃあどうすりゃいいんだって、こっちも頭を抱えるしかなかった」

 いよいよ早口になった堤さんは、咳払いして言葉を切った。熱くなりすぎたと自重したのかもしれない。

「ある日、とうとう口論になって、美佐が泣き出して。これはだめだと思いました。そんなふうに感情的になるなんて彼女らしくない。美佐はもう以前の美佐じゃない、本当に調子が悪いんだって気づかされて」

 確かに、そんなふうに取り乱すなんて、お母さんらしくない。お母さんが泣いているところを希子は見たことがない。

「遅いよ」

 不満げにつぶやいた綾乃ちゃんには応えず、堤さんは希子に向き直った。

「むろん、手をこまねいているわけにはいきません。美佐にとっても夫婦にとっても、由々しき事態です」

 評判のいい心療内科を探して、さっそく予約を入れた。本人が通院をいやがるのではないかと堤さんはひそかに懸念していたが、お母さんは抵抗しなかった。自分でも、このままではまずいと危機感を覚えていたのかもしれない。

 定期的に診察を受け、薬も処方してもらった。劇的に快復するとまではいかなかったけれど、体調は少しずつよくなってきたように見受けられた。

「わたしのほうから急かしたり、プレッシャーをかけたりするようなことも、一切してません」

 仏頂面の綾乃ちゃんを横目で見やり、堤さんは言った。

「その心療内科の医者にも、釘を刺されましたし。この手のことは、周りが急かすのは逆効果になる」

 辛抱強く待とうと堤さんが決意した矢先、今度はお母さんのほうが、新たな一手を打ち出した。

「別の医者に診てもらう、って突然言い出したんですよ」

 綾乃ちゃんは黙っている。これも、すでに知っている話なのだろうか。

「なんでも、友人にすすめられたらしくて。大学じゃなくて、高校時代の同級生です。つまり、医学に関してはしろうとです」

 堤さんは苦々しげに言う。

「その医者ってのが、漢方の名医だっていうふれこみで」

「だけど、そこに通いはじめてからよくなったんでしょ?」

 綾乃ちゃんが再び口を挟んだ。

「まあ、結果的には」

「じゃあ、よかったじゃない」

 綾乃ちゃんが結論づける。

「しかも、その縁で鍼灸の世界にも出会えたんだし。人生を変える転機になったってことだよね」

 そうだったのか。内科医として働いていたお母さんが東洋医学に関心を抱き、最終的には鍼灸師に転向したというのは希子も知っていたけれど、詳しいなりゆきは今回はじめて聞いた。

「東洋医学をそんなに目の敵にすることなくない?」

 口をへの字に曲げている父親をなだめるように、綾乃ちゃんは言い足した。

「目の敵にはしてない」

 堤さんが不本意そうに弁明する。

「東洋医学っていうジャンルそのものを、否定するつもりはないよ。気の持ちようしだいで、よくなったって感じることもあるからな。実際、東洋医学のおかげで治ったって信じてる患者も存在する」

 否定しないとは言いつつも、肯定しているふうにも聞こえない。西洋医学の専門家として、その力に譲れない自負を持っているのがうかがえる。

「そもそも、どんな医者を選ぶかは個人の自由だもんね。その意向を無視して、無理強いはできないし」

 綾乃ちゃんが冷静に切り返した。

「ああ、患者の立場なら、好きにすればいいよ。自己責任としてね」

 同じく落ち着きはらった口ぶりで、堤さんが応戦する。

「でも、われわれは医者なんだ。治療を受ける側じゃない、施す側だ。最新の医療技術を学んで、必要な知識も持ってる。だからこそ、科学的に効果が証明された治療法や薬を推奨したいし、すべきだろう。それが医師としてのつとめじゃないか」

 断固とした声音から、強い信念が伝わってきた。

「やっぱり、東洋医学を否定してない?」

「そうじゃない。ひとりの医者として支持できない、と言ってるだけで」

 支持はできないが、否定もしない。一般論としてはその態度に徹するとしても、自分の身内となったら、また話は違ってくるのだろう。西洋医学から東洋医学の道へと大胆に舵を切ったお母さんとうまくいかなくなったのは、避けられないなりゆきだったのかもしれない。

「……変な話になっちゃったな」

 堤さんがゆるく頭を振って、口調を変えた。

「また今度にしよう。今日はせっかく、希子さんが来てくれたんだから」

「そうだね」

 綾乃ちゃんも休戦に合意した。父娘の応酬をはらはらして見守っていた希子は、ほっと息をついた。

 

 魚料理は、鯛だった。

「甘鯛のポワレです。きのこのソースと一緒にお召し上がり下さい」

 ポワレというのも希子にはなじみのない言葉だが、調理法の一種で、蒸し焼きのことらしい。ふわふわした泡状のソースがかかっている。

「ここのシェフの得意料理です。これも旨いですよ」

 どうぞどうぞ、冷めないうちに、とまるで自分が料理したかのようにすすめる堤さんの手もとに、希子はさりげなく目をやった。左右を間違えないように注意して、ナイフとフォークを手にとる。

「おいしい」

 つぶやいた綾乃ちゃんに、希子も同感だった。身はほわほわとやわらかく、ぱりぱりに焼きあげられた皮が香ばしい。あっというまに食べ終えた堤さんに続き、希子たちもぺろりとたいらげた。

 そこまでは、よかった。肉料理が運ばれてくる前にとお手洗いに立った綾乃ちゃんが、急ぎ足でテーブルに戻ってくるなり口を開くまでは。

「ごめん、ほんとに悪いんだけど、先に出てもいい?」

 大学から連絡が入っていたらしい。先週希子にも話していた、出版間近の教授の著作に関して、急ぎで確認しなければならないことがあるという。

 今回に限っては、父親ではなく娘のほうに、緊急の呼び出しがかかったのだった。

「データは全部、大学の研究室のパソコンに保存してあるって。外からじゃアクセスできないの」

「行ってきなさい」

 間髪を容れず、堤さんが言った。

「お肉ももう用意してるだろうし、お店にも申し訳ないんだけど……」

「緊急事態だし、しかたない。パパが綾乃の分ももらっとくよ」

「ごめん。ありがとう」

 ひきつっていた綾乃ちゃんの顔が、少しほころんだ。

「希子ちゃんも、ごめんね。大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 ちょっと心細いけれど、希子はそう答えるほかなかった。堤さんがどんどん喋ってくれるし、ふたりでも間がもたないことはないだろう。

 それに、肝心の話題もまだ切り出しそびれてしまっている。

「気をつけて」

「ありがとう。また連絡する」

 綾乃ちゃんがあわただしく去っていったのとほぼ入れ違いに、肉料理が出てきた。牛肉のステーキだ。葉野菜とマッシュポテトが傍らに添えられ、ソースが模様のようにかけてある。

「残念だったな、綾乃の好物なのに」

 堤さんが肉を大きめに切りわけて、口に放りこんだ。

「ところで」

 ひときれ咀嚼し終えてから、おもむろに希子を見やる。

「わたしになにか話したいことがあるんじゃないですか?」

「えっ」

 希子は手をすべらせた。ナイフがお皿にあたって耳ざわりな音が立ってしまい、身を縮める。

「すみません」

「こちらこそ、突然失礼しました。なんとなく、そんな気がしたもので」

 挙動不審な希子を見て、その予感は確信に変わったのだろう、堤さんは首をかしげてつけ加えた。

「どんなご用件ですか?」

 希子は腹を括って、ナイフとフォークをお皿に置いた。どこから話そうかと少し迷い、直球を投げる。

「わたしの実のお父さんのことを、堤さんはなにか知ってますか?」

「お父さんのこと」

 堤さんはまばたきして繰り返し、首を横に振った。

「残念ですが、なにも知りません。会ったこともないし」

「そうですか……」

 これまで知らなかったお母さんの過去や意外な一面を聞かせてもらって、ここに関しても新事実が明らかになるかとちょっと期待してしまったけれど、そううまくはいかないようだ。

 希子の落胆が伝わったようで、堤さんは謝った。

「すみません、お力になれなくて。そういうことだったんですね」

「そういうこと?」

 今度は、希子が問い返した。

「実は、綾乃が希子さんを連れてくるって急に言い出したから、どういう風の吹き回しだろうと思ってたんですよ。さっきも言いましたが、わたしは前々からあなたがたに会ってみたかった。希子さんや、ご兄弟に。綾乃がお世話になっているわけだから、父親として挨拶くらいしておくのが筋でしょう」

 綾乃ちゃんにも、たびたび打診していたそうだ。

「食事でも、お茶だけでもいい。だけど、本人がいやがって」

 なんでだろう。疑問が顔に出てしまったのか、堤さんが先回りして答えた。

「希子さんたちのことが、大事なんでしょう。わたしはこのとおり、なんでもずばずば言ってしまうたちですから。失礼があったらまずいと警戒してるようです。決して悪気はないんですけどね」

 悪びれずに言ってのけ、心もち身を乗り出した。

「それで、実のお父さんのことを知りたいというのは、なにかきっかけが?」

 さすがに鋭い。

「お母さんには、聞けませんか?」

「多少は聞いてます」

 希子は言葉を選んで答えた。

「まったくなにも教えてくれないってことはないんです。でも、よく考えてみたら、知ってることが少なくて」

「お母さんが、あまり話したがらないんですね?」

 堤さんにはお見通しらしい。

「だから綾乃に相談してみたんですか。で、わたしからなにか昔の話を聞けるんじゃないかと言われた、と」

 抜群の推理力を披露され、希子はうなずくほかなかった。

「そうです」

「なるほど。申し訳ありません、ご期待に添えなくて」

 堤さんはさらになにか言おうとしてやめ、ステーキをもうひときれ口に運んだ。もぐもぐやりながら、なにやら考えこんでいる。食べそびれていた希子も、堤さんにならってステーキをほおばった。牛肉はびっくりするほどやわらかく、口の中でとろける。

 堤さんはもりもりとステーキをたいらげ、ナプキンで口もとを拭った。

「正直にいうと、わたしも以前からひっかかってました。美佐はわたしにも話そうとしないんですよ。希子さんの、実のお父さんのことは」

 綾乃ちゃんの言っていたことと同じだ。

「そもそも、存在すら知りませんでした。希子さんが生まれたことも、何カ月も経ってから、はじめて打ち明けられて。なにからなにまで事後報告です」

 堤さんはさも不本意そうに、顔をしかめている。

「美佐の今のご主人や、その前のご主人には、わたしも会わせてもらってまして」

 堤さんにひきあわせられたことがある、とこの間春くんからも聞いた。圧をかけられてつらかったとぼやいていた。妻の前夫にこの勢いでぐいぐいこられたら、そうとうな強者でもない限りは太刀打ちできないだろう。

「あ、誤解しないで下さいね。なにも、反対したり、けちをつけたりしようっていうんじゃありません。どんな相手を選ぶかは彼女の自由です。わたしがあれこれ口出しできる立場でもない」

 堤さんはなめらかに言葉を継いだ。

「綾乃のためです。わたしの妻ではなくなっても、美佐が綾乃の母親であることは変わらない。親子のつきあいは、今後も一生続くでしょう。誰かと新しい家庭を持つとなると、綾乃も多かれ少なかれ、彼らとかかわることになる」

 現に今も、そうなっている。

「ですから、どういう人物なのかは、こちらもきちんと把握しておきたくて」

 堤さんから質問攻めにされたと春くんは閉口しきっていたけれど、純粋な親心から生まれた行動だったらしい。今度、春くんにも教えてあげよう。

「もちろん、逆もしかりです。わたしが今の妻と再婚するときにも、あらかじめ紹介しました。ふたりで話しあって、別れた後も、最低限の情報共有はしようと約束したんです。なんでもかんでもっていうのは無理でも、お互いのパートナーのことや、引っ越しや転職や、そういう大事なところに関して隠しごとはしないって」

 堤さんもお母さんも、その取り決めを守ってきた。生活にある程度大きな変化があるたびに、互いに報告しあってきた。

「希子さんの父上のことは、わたしの知る限り、唯一の例外です」

 堤さんが表情を曇らせる。

「なにかしら事情があってのことだとは思います。結婚する前に亡くなったから、紹介するひまもなかったのかもしれない。亡くした恋人のことをべらべら喋る気になれないのは当然です。口が重くなるのもやむをえないでしょう」

 一息に言い終えると、ため息をついた。

「ただ、それにしたって、妊娠したことも出産したことも、ひとことも教えてくれないなんて」

 気になる反面、強引に問いただすのも気がひけた。堤さんのその逡巡は、希子にも想像できる。面と向かってお母さんに聞きにくいのは、希子も同じだ。

「もともと、美佐はむやみに弱みを見せたがらないところがありますしね。甘えるのが下手っていうか、苦手っていうか……いや、でも、やっぱりおかしいか」

 途中から、半分ひとりごとのようになっていた。

「百歩譲って、わたしに話しそびれたっていうのは、まだわかる。だけど、希子さんは実の娘なのに。父親のことを話してしかるべきじゃないか?」

 同意を求めるように、堤さんは希子と目を合わせた。

「お父さんが死んでしまった、それは確かに悲しい事実だけど、だからといってふれないようにするっていうのも……反対に、亡くなってるからこそ、しっかり伝えるべきだって気がしますけどね。希子さんは実物を知らないんだから」

 頭の中で思考を整理しているのか、いつになくゆっくりと言葉を重ねていく。

「美佐の性格からしても、きちんと話しそうなもんだけど」

 そこで軽く目をつむり、うーん、と低くうなった。

「もしくは」

 まぶたを開けて、もう一度希子の顔をじっと見る。なにかひらめいたらしい。

「話せない理由がある?」

「理由って、たとえば?」

 希子がおずおずと水を向けてみると、堤さんは珍しく口ごもった。

「いや、根拠があるわけでもないし、思いつきにすぎませんが……」

 そんなふうに言われたら、いっそう気になってしまう。

「シインが」

 その単語の意味が、希子にはとっさにのみこめなかった。

「試飲?」

「亡くなった原因が」

 堤さんが言い直した。

「子どもには聞かせづらいようなことだった可能性はありますね」

「聞かせづらいようなこと?」

 わけもわからず復唱してから、その意味するところに思いいたって、ぎょっとする。

「ひょっとして、自殺とか?」

 声が裏返ってしまった。

「そうですね、医者の立場から言わせてもらうと、親を亡くした子に……特に小さい子どもに死因をふせる場合、一番多い理由はそれでしょう」

 堤さんの口ぶりは、希子とは対照的に淡々としている。「医者の立場」として、診断結果を患者に伝えるときには、感情を表に出さないものなのだろう。たとえその内容が、宣告された患者にとってどれほど衝撃的だったり絶望的だったりしても。あるいは、だからこそ、なおさら。

「もちろん、あくまで一般論にすぎません。希子さんのお父さんにもあてはまるかどうかは、なんとも言えません」

 あてはまらないかもしれないが、あてはまるかもしれない。希子は堤さんと違って、まったくもって平静ではいられない。

「それから、遺伝性の疾患も、ものによっては伝えかたが難しいですね」

 ひととおり考えがまとまったらしい堤さんは、落ち着いた調子でこれまた不穏なことを口にする。

「それって、わたしも同じ病気で死んじゃうっていう……?」

 問い返す声が、震えてしまった。

「いえいえ、必ずしもそうとは限りません。どんな病気も、遺伝要因だけじゃなくて、環境要因も影響するものですし」

 そもそも、と堤さんがなだめるように言い足した。

「仮定の話ですから。そんなに深刻になることはありません」

 今さら言われたって遅い。希子はもはやレストランというより、病院の診察室にいるみたいな気分になっている。

「あとは、原因というより、亡くなったときの状況が特殊だったって可能性もあるかもしれません。既婚者でありがちなのは、浮気相手と一緒にいるときに事故に遭ったとか、脳梗塞や心臓発作を起こしたとか……ああでも、独身だったんなら、それはないか。もしかして、犯罪がらみ……いや、美佐に限ってそれもないな」

 先ほどと同じく、最後のほうはひとりごとのようになっていた。

「犯罪!?」

 希子はいよいよぎょっとした。堤さんがぶるんと頭を振った。

「すみません、よけいなことを。こうやって、憶測で可能性を並べてみても、なんの役にも立ちませんね。本人に、直接確かめてみないと」

 

(つづく)