1 寝る子は育つ

 

 暗がりに、ぽつりぽつりと小さな光がともっている。

 一、二、三。歌いながら、数える。四、五、六。炎はまるで生き物みたいに、てんでに揺れている。

 七、八、九。

 九本のろうそくの、揺らめく火の向こうには、泉水いずみの顔がぼんやりと浮かびあがっている。緊張のせいか、ちょっと寄り目になっている。

 ハッピーバースデートゥーユー、の最後の「ユー」を思いきり伸ばして、希子きこたちは手をたたいた。

 泉水が心もち身を乗り出して、大きく息を吸いこんだ。めいっぱい頬をふくらませている。ついでに、鼻の穴もふくらんでいる。見ているこっちまで、つられて息を詰めてしまう。

 次の瞬間、真っ暗になった。なんにも見えない。闇の中に、拍手の音と、おめでとうの声が響く。

 

 カーテンを開け放つと、リビングは再び明るくなった。

 テーブルの中央に置かれたまるいチーズケーキの上に、数分前よりだいぶ短くなった、九本のろうそくが立っている。いつも感じることだけれど、ついさっきまで振りまいていた輝かしい光が消えたとたんに、なんとなくまぬけに見える。

 いつも、を具体的にいうと、およそ二カ月に一度だ。

 わが家では、家族の誕生日には、ケーキを用意して全員でお祝いする。ろうそくを立て、ハッピーバースデーの歌を合唱し、その日の主役が火を吹き消すのが恒例となっている。

 一月生まれのお母さんを皮切りに、三月が泉水、四月にしようちゃんで六月は綾乃あやのちゃん、八月が希子、十一月にお父さん、とほどよく間隔が空いている。もう大学生の綾乃ちゃんなんかは、小学生のお誕生日会みたいだねと毎回言うけれど、それでも、自分の番が回ってくればまんざらでもなさそうだ。

「いっくん、ひと息で全部消せたな」

「余裕だったね。さすが九歳」

 お父さんとお母さんがくちぐちに言い、泉水はもじもじしている。

「食べようか。希子、ろうそくをとっちゃってくれる?」

 お母さんに指名され、希子はケーキに向き直った。

 中腰になって、役目をまっとうしたろうそくを引き抜こうとしたそのとき、不穏な気配を感じた。

「やめて」

 ケーキのほうへ伸ばしかけていた手をひっこめ、すばやく顔をかばう。

「勝手に撮らないで」

 こうして家族が集合する機会には、お父さんは隙あらば子どもたちの写真を撮ろうとするのだ。

 お父さんは少年時代から、本人の言葉を借りれば「カメラ小僧」だったという。高校でも大学でも写真部で活動し、卒業後にはカメラを主力商品のひとつとして展開する精密機器メーカーに就職してしまったくらいだから、愛が深い。

 写真を撮ること自体は、別にいい。ただ、撮る前にちゃんと被写体にひと声かけてもらいたい。表情を作ったり、前髪を直したり、いろいろやっておきたいことがある。それなのにお父さんは、声をかけるどころか、気づかれないうちにこっそり撮ろうとしているふしがある。

「せっかくいい画だったのに」

 お父さんが残念そうに言って、カメラを持った手をしぶしぶ下げた。希子も顔の前にかざしていた腕を下ろす。

 本日のカメラは、デジカメも含めて何台か持っている中で、お父さんが一番大事にしている一眼レフだ。愛息子の誕生日だから、気合が入っているのだろう。

「自然体がいいんだよ。カメラを意識すると、表情が硬くなる」

 全然よくない。

 はっきり言って、お父さんの撮りたがる「自然体」の希子は、いまいちかわいくない。目が線みたいに細くなっていたり、歯茎までむきだしにして笑っていたりする。中学の友達と写真を撮るときは、しっかりあごをひいて、目を大きく開けるかわりに口を閉じ、にっこり微笑む。そのほうが、ずっといい感じに写る。

 お父さんのことは好きだけど、ここに関してだけはなんとかしてほしい。日頃はどちらかといえば子どもたちに甘く、なにかを無理強いしたり意見を押しつけてきたりするようなこともないのに、写真の話になると別人のように融通が利かない。特に希子と綾乃ちゃんは、不用意に撮られてしまわないように用心している。

「でも、本人の意思が尊重されるべき」

 希子の隣から、綾乃ちゃんも加勢してくれた。

「ちゃんと許可をとらないで撮るのは、肖像権の侵害だから」

「わかった、わかった」

 お父さんが降参した。うまく決着がつきそうだったのに、しかし翔ちゃんが割りこんでくる。

「肖像権? おおげさすぎじゃね?」

 お父さんの味方になってあげようとしているわけでもないのだろう。翔ちゃんはなにかにつけて、綾乃ちゃんに突っかかっていく。

 長男の意地があるのかなあ、と前にお父さんとお母さんが話していた。

 確かに、翔ちゃんはわりと年上風を吹かせたがる。泉水はともかく、希子とはたったの二歳しか違わないのに、なにかと子ども扱いしてくるのがうっとうしい。小馬鹿にするような態度に希子がかちんときて、兄妹げんかがはじまりがちだった。

 ただし、綾乃ちゃんがうちに来てから、翔ちゃんと希子のけんかはそれまでに比べて減っている気がする。

 単純に、翔ちゃんが妹より姉のほうにからむようになったから、ということだけでもなさそうだ。家に新しい誰かが加われば、もともといた面々どうしの関係性も、おのずと変わる。部活の試合だって、メンバーがひとり交代するだけで、流れが一変することはままある。お互いにもう高校生と中学生で、ささいなことでぶつかるような年齢ではなくなってきたせいもあるかもしれない。

 といっても、まったくもめなくなったわけでもない。

「気にしすぎだって、希子はいつもその顔なんだし。おれらは毎日見慣れてるから、なんとも思わないよ」

 自意識過剰じゃないの、とにやにやして茶化されたら、やっぱり腹が立つ。

「別に、そういうんじゃないし」

 むっとして言い返した。自意識過剰って、翔ちゃんこそおおげさすぎるだろう。なにも実物以上にかわいく撮ってほしいとは言っていない。写真は後々まで残るから、自分なりに、ちょっとでもいい顔で写っておきたいだけだ。その「いい顔」の定義が、希子とお父さんでずれてしまっているのが困りものなのだった。

 口を開こうとしたら、綾乃ちゃんに先を越された。

「問題はそこじゃないから。他人の目にどんなふうに見えてるかは、どうだっていいの。自分でいいって思える顔を、自分が見たいだけ」

 冷ややかに反撃する。

「自分の顔なんだから、その権利があるでしょ?」

 綾乃ちゃんは頼りになる。希子がうまく言葉にできない違和感を、みごとに言語化してくれる。こうしてやりこめられてしまうせいで、翔ちゃんがよけいにむきになるのかもしれない。

「まあまあ、ふたりとも落ち着いて」

 お父さんが困り顔でなだめた。口論のきっかけを作ってしまった責任も感じているのだろう。

 それでもまだにらみあっているふたりを、お母さんが一喝した。

「はいはい、そこまで」

 ぱちんと手をたたく。綾乃ちゃんと翔ちゃんが、同時にぷいと目をそらした。

 子どもたちのきょうだいげんか──姉弟であれ兄妹であれ──を、お母さんはこうやっておさめる。

 そこまで、とお母さんにきっぱり言われたら、誰も逆らえない。試合中に審判の吹く、ホイッスルと似ている。なにがなんでも、そこまでだ。

 

 ケーキをたいらげたら、おなかがいっぱいになった。

「夕飯は七時でいいね?」

 テーブルを見回して、お父さんが言った。わが家では、炊事は主にお父さんが担当している。

「手巻き寿司?」

 質問というより確認の口ぶりで、翔ちゃんが言う。

「うん」

 誕生日のごはんは、その日の主役が好きなものをリクエストできる。今日は泉水の希望で、朝は卵かけごはん、昼はおにぎりを食べた。

 泉水はとにかくお米が好きなのだ。白ごはんさえあればおかずも別にいらない、と本人は言っているけれど、せっかくの誕生日にそれではいくらなんでもさみしすぎる。お父さんだってさみしがる。

 去年もおととしも、泉水の誕生日の食事はこの組みあわせだった。

 泉水はこういうところが本当にぶれない。希子は毎年、けっこう悩む。お父さんは料理が得意で、なんでもおいしく作ってくれるから、よけいに迷ってしまう。前回の誕生日はハンバーグで、その前は確かピザを焼いてもらった。粉をこねて生地から作る、本格的なやつだ。写真よりも料理の才能のほうがあるんじゃないかと希子は内心思っているが、本人には言えない。

 ケーキだけは、いちごののったショートケーキと決めている。泉水は必ずチーズケーキを選ぶ。翔ちゃんと綾乃ちゃんは、年によって違う。今日はたまたま日曜日でみんな家にいて、おやつの時間にケーキを食べたけれど、平日だとそれぞれ学校や仕事があるので、全員が顔をそろえる夕ごはんの後になることが多い。

 空いたお皿を流しに運んで、いったん解散しようとしたところで、あっ、とお父さんが声を上げた。

「そうだ、記念写真」

 いつもはケーキを囲んで撮るけれど、今回は食べる直前にごたごたしてしまって、忘れていた。

「そっちの壁の前がいいかな。あ、いっくんは座ったままで。あと希子ちゃんも、横に座ろうか」

 お父さんが三脚にカメラをのせて、レンズをのぞきこんだ。

「翔くん、もう五センチ右にずれてみてくれる? 美佐さんは、ほんのちょっとだけ左に寄って。そう、そこ」

 細かく指示を飛ばした後、セルフタイマーをセットして、自分も小走りにこっちへやってくる。

 希子は手櫛でさっと前髪をとかし、レンズを見据えた。あごをぎりぎりまでひいて、目をしっかり開く。

 カメラの真後ろの壁には、写真の入ったフレームが並んでいる。

 お父さんは何枚も撮った中から、これぞというものを厳選して額装する。誕生日やお正月やクリスマスなんかに撮った、全員の集合写真のほか、それぞれの学校行事や部活の大会なんかの写真もまじっている。家族で写真を撮ること自体は、昔からときどきあったけれど、こうしてわざわざ紙に焼いて飾るようになったのは、お父さんがこの家に住むようになってからだ。それ以前は、スマホやパソコンに保存してあるデータを見るだけで、「紙に焼く」という言い回しすら希子は知らなかった。

 今ではリビングだけでなく、他の部屋や廊下の壁まで、写真で埋め尽くされている。家族からお父さんへの誕生日プレゼントは、毎年フォトフレームだ。

 

 希子が物心ついたときから住んでいるこの家は、古いけれど広い。家族が少しずつ増えていき、総勢六人となった今も、全員に個室が割り振られている。希子たちきょうだいの部屋は、四人とも二階にある。

 記念撮影を終え、めいめい自室にひきあげた。ふだんの週末と同じく、夕食までは各自好きに過ごす。希子はまず自分の部屋に寄ってから、また廊下に出て、向かいのドアをノックした。

「泉水? ちょっといい?」

 誰かの個室に入るときには必ずノックをするというのは、家族の間で徹底されているルールだ。

「いいよ」

 返事を待って、ノブを回した。奥のベッドに寝転がっていた泉水が、うつぶせのまま顔だけこっちに向けた。

 希子はベッドの手前まで歩いていって、後ろ手に持っていた、青いリボンをかけた包みを差し出した。

「これ。プレゼント」

 体を起こした泉水を見下ろし、あらためて言った。

「おめでとう」

「ありがとう」

 泉水はうやうやしく両手で受けとって、礼を言った。包みを膝の上に置き、リボンをほどく。

 包装紙をはがすと、手のひらにおさまるサイズの小箱が現れた。表面は群青色のすべすべした布張りで、留め金がついている。アクセサリーか腕時計あたりが入っていそうな見た目だ。

 泉水が留め金をはずして、箱のふたを開けた。

 中には、アクセサリーも腕時計も入っていない。空っぽだ。けれど、もちろん、泉水は驚いたりがっかりしたりしているそぶりはない。

 誕生日になにかほしいものはないかと希子が先月たずねたら、箱、と泉水は熟考の末に答えたのだ。

「ありがとう」

 泉水は箱を両手で包むように持ってしげしげと眺め、もう一度言った。満足してもらえたらしい。

「よかったら、使って」

 ちょっとほっとして、希子は言った。泉水はけっこう好みがうるさい。口には出さないけれど、気に入っているかそうでないかは表情でわかる。

 これは駅ビルの雑貨屋さんで買った。こまごました商品が所狭しと陳列された、おもちゃ箱みたいな店で、店内を見て回るだけでも楽しい。

 添えられたポップには小物入れと書いてあったけれど、宝石箱だ、と希子はひとめ見るなり思った。泉水への贈りものにぴったりだ、とも。

 泉水にとって、石は文字どおり宝物だ。一般的に使われている意味での「宝石」とは違うけれども。

 この部屋にも、そこらじゅうに石が置かれている。本棚にも、勉強机の上にも、出窓の手前のちょっとしたスペースにまで、色もかたちも大きさもさまざまな石が並べてある。しかも、今こうして視界に入っているのは、泉水がこつこつと拾い集めてきたコレクションのうち、ほんの一部にすぎない。大半は、机のひきだしや衣裳ケースの中に保管されている。

「最近、いいの見つけた?」

「まあまあ、かな。見る?」

「見る」

 希子が答えると、泉水は腰を上げ、机のひきだしを開けた。大小の箱がほぼ隙間なく、敷き詰めるように入っている。パズルみたいで一瞬みとれる。

 手前のひらたい紙箱を、泉水が手にとった。茶色いふたの中央に、老舗のチョコレート店のアルファベットのロゴが、青字で印刷されている。先月綾乃ちゃんがくれたバレンタインチョコの空き箱だ。希子もまったく同じものをもらった。綾乃ちゃんは男女を分けへだてしない主義だ。

 箱の中には、チョコと似たような大きさの石が、一ダースほど入っていた。

「これは、うちの庭の」

 泉水が一個ずつつまみあげては、机の上に一列に並べ、どこで拾ってきたのかを教えてくれる。

「こっちは、学校の校庭」

 ひとつひとつ、ちゃんと出自を覚えているのだ。他にも、通学路の道端、近所の公園など、いろいろだった。希子は石そのものよりも、説明する泉水の真剣な顔つきを眺めているのが好きだ。

 残り二、三個になったところで、泉水は解説を打ち切った。

「あとはもう、前にも見せたやつ」

 正直なところ、希子にはさっぱり見分けがつかないけれど、泉水がそう言うのならそうなんだろう。

 泉水は石を紙箱にしまい、ひきだしの元あった位置に戻すと希子の贈った箱を再び手にとった。ふたを開けたり閉めたりしている。どんな石を入れるべきか、思案しているのだろうか。

 しばらく考えてから、泉水は箱を机の上に置いた。

「公園、行こっかな」

 新たな容れものにふさわしい中身を、探しにいきたくなったらしい。

 

 希子も泉水につきあって、公園に行くことにした。リビングにいたお父さんとお母さんにことわって、ふたりで家を出る。

 二、三分歩いて、泉水は早くも立ちどまった。

 歩道にしゃがみこみ、街路樹の根もとに注目している。雑草の間に転がっている、白に灰色のまだら模様が入った石が目をひいたようだった。手を伸ばしてつまみあげ、目の前にかざしてまじまじと観察してから、また元に戻した。

 泉水はこうして外を歩いていると、ほとんどずっと下を向いている。獲物を見逃したくないのだ。気になる石を発見したら、その場でじっくりと吟味し、お眼鏡にかなえば持ち帰る。

 都立公園までは、そこから五分もかからなかった。

 うららかに晴れた日曜日の午後、犬の散歩やジョギングの人々が遊歩道を思い思いにゆきかっている。広々とした園内には、グラウンドにテニスコート、ドッグランやサイクリングロードも併設されている。アスレチック遊具が設置されている一角は、子どもたちでにぎわっている。昔は希子たちもよく遊んだ。中学に入ってからは、トレーニングがてら、ときどき走りにも来ている。

 もともとあった川や野原を残しつつ整備されていて、自然も豊かだ。さまざまな種類の鳥や虫が見られるので、小学校の校外学習でも定番だった。石の宝庫でもある。泉水のコレクションにも、この公園で拾ってきたものは多い。

 川沿いの桜並木は、だいぶつぼみがほころんでいた。来月の始業式まではもたないかもしれない。まだ満開にはちょっと早いけれど、家族連れや若者の集団がレジャーシートを広げてくつろいでいる。おとなはなぜだかお花見が好きだ。今朝お父さんも、昼はお花見がてらピクニックに行かないかと提案して、家で食べたい、と泉水にすげなく却下されていた。

 泉水は桜には見向きもせず、相変わらず地面に目を光らせている。

 歩道からはずれて林の中へ分け入っていく弟を、希子は半歩後ろから追いかける。こうしてお供をするのはひさしぶりだけれど、そばで見ていると、なんでもかんでも拾い集めているわけではない。独自の選別基準があるのだろう。

 小学校に上がる前くらいまでは、泉水はもっと手あたりしだいに、目についた石をじゃんじゃん拾っていた。そういえば、まさにこの公園で、お父さんとお母さんもまじえて四人で散歩していたときに、戦利品をポケットに詰めこみすぎて底が抜けてしまったこともあった。

 泉水は立ちすくみ、そして、さめざめと泣き出した。希子たち三人は芝生の上にはいつくばって、あたりに散らばった石を必死に拾い集めた。周囲の目を気にかける余裕はなかったけれど、通りすがりの人々には、なにをやっているのかと不思議がられていたに違いない。

 その日は両親も希子もあいにく手ぶらで、かばんも袋も持っていなかった。拾った石は三人で分けて、それぞれのポケットに入れるしかなかった。夏場で、希子は薄手のハーフパンツをはいていた。歩くたびに、ポケットの中でじゃらじゃらと揺れる石の感触がふとももに伝わってきた。

 あれで懲りたということもないだろうけれど、泉水が石を集めるときに量ではなく質をより重視するようになったのは、成長といえるのかもしれない。

 林の奥へ歩いていく泉水に希子も追いついて、横に並んだ。

「背、伸びたね」

 精神面のみならず、体もどんどん大きくなっている。

 泉水はなにも答えない。足もとに気をとられ、希子の声は耳に入っていないのだろう。また気になる石を見つけたのか、地面にかがみこむ。

 そのつむじを見下ろして、ちょっと憂鬱になった。

 返事をしてもらえなかったから気を悪くしたわけではない。泉水がひとたび集中すると周囲の物音が耳に届かなくなるのはいつものことで、希子ももう慣れている。暗い気分になったのは、姉弟の身長差が着々と縮まっていることを、あらためて実感させられたせいだった。

 泉水に比べて、希子の背丈は伸び悩んでいる。

 ここ一、二年ばかり、思うように背が伸びないのは、希子にとって最大かつ深刻な悩みの種だ。

 いろいろ調べて、できる限りのことは試している。カルシウムを補給するために、毎日小魚を食べ、苦手な牛乳も息をとめて一気飲みしている。適度な睡眠と運動が成長ホルモンを活性化させるらしいので、夜は早寝するように心がけ、部活でたくさん体を動かしてもいる。一年生から入っている女子バスケ部は、強豪とまではいかないけれど、市内の大会ではたいがい上位に食いこめるくらいの実力はある。先輩たちや顧問の士気もそこそこ高く、週四日の練習に加え、他校との試合も定期的に入る。

 とはいえ、食事や生活習慣だけでは、やはり限界がある。

 個人差はあるものの、身長を決める最も大きな要因は、遺伝だという。つまり、子どもの背丈は、親の背丈によって左右──上下だろうか──される。

 お母さんは、女性にしては背が高い。一六五センチ前後だろうか。綾乃ちゃんも同じくらいだ。翔ちゃんは、小学生のときには平均よりも低かったのに、中学に入ったとたんにいきなり伸びはじめた。三年間で三十センチ以上もぐんぐん伸びて、すでに一八〇センチ近い。それまでは希子とほとんど変わらなかったのに、あっというまに追い越されてしまった。

 同じ母親の血をひいているにもかかわらず、なぜか希子だけがいまだに一五〇センチにすら届かない。

 翔ちゃんみたいに、中学生になったら爆発的に伸びるかもしれないとひそかに期待をかけていたけれど、そんな兆しもない。それどころか、小五や小六のときに比べて、伸びは明らかに鈍くなっている。一般的にも、女子のほうが男子より早く成長がとまってしまうらしい。あせるし気もめいるし、深く考えないようにしているが、見通しは明るいとはいえない。

「希子ちゃん?」

 名前を呼ばれて、われに返る。今度は、希子が泉水の言葉を聞き逃してしまっていたようだった。

「ん? なに?」

「さっきなんて言ったの、って聞いた」

 泉水が不安げに言う。希子が浮かない顔になってしまっていたのを、気にしているのかもしれない。

「大きくなったね、って言ったんだよ」

 気を取り直して、希子は答えた。弟がすくすく成長しているのは、姉としても喜ばしいことだ。

 あんなにちっちゃかった泉水がもう九歳か、とお父さんは今朝から幾度となくしみじみと繰り返していたけれど、感慨深いのは希子も同じだった。思い返せば、泉水が八歳になったときも、もっとさかのぼれば七歳や六歳のときにも、めざましい変化に驚いたものだった。小さい子ほど、伸びしろは大きい。

 泉水の背は、どのくらいまで伸びるだろう。そのうち希子は抜かされてしまうかもしれない。

 再び気が散ってしまいそうになって、あわてて話を戻した。

「もう九歳だもんね」

「うん」

 誇らしげにうなずいて、泉水が先へ歩き出す。そのまま何歩か進んでから、くるっと振り向いた。

「希子ちゃんも、九歳だったね?」

 突然言われて、面食らった。

「え? わたし?」

「僕たちが、引っ越してきたとき」

「ああ、うん。そうだね」

 五年前の秋のことだから、希子は確かに九歳だった。

「泉水は、まだ四歳だったんだ」

 あの頃の泉水は本当に幼かった。ママ、ママ、とよく泣いていた。

 といっても、その年頃の子にままあるように、力任せに大声で泣き叫んで悲しみを表すわけではなかった。ひくひくとしゃくりあげては、ぽろぽろと涙を流し、ママがいない、と誰にともなくつぶやく。見ているだけで胸がしめつけられた。

 母親を亡くした四歳児をどんな言葉で慰めたらいいものやら、希子には見当もつかなかった。しかたないので、とりあえず頭に浮かんだことを口にした。

「わたしは、パパがいないよ」

 涙で頬を光らせた泉水が、希子の顔を見上げた。なんと答えたらいいのか、わからなかったようだ。

 希子としても、特に答えてもらう必要はなかった。ひとまず泣きやんでくれてよかったとだけ思った。泉水の心が落ち着いたわけではなく、思わぬ事実を告げられて、単に気がそれただけだったとしても。

「いないの?」

 泉水は遠慮がちに言った。

「うん。いない」

 希子が生まれる前に、実の父親は亡くなっている。まだお母さんのおなかの中にいた希子は、父の顔さえ知らない。

 当時の泉水と同じくらいの年頃のときに、希子はその事実を聞かされた。が、泉水のように嘆き悲しむようなことはなかった。たとえ血はつながっているとしても、見知らぬ誰かのことを恋しがったりさみしがったりしようもない。

 日々の生活にも、特段不便はなかった。お母さんがいて、翔ちゃんもいた。保育園や小学校のクラスでも、お父さんかお母さんのどちらかがいない子が、希子以外にも何人かいた。

 ただ、お父さんという存在に対して、漠然としたあこがれのようなものはあったかもしれない。

 お父さんと泉水がうちで一緒に暮らすことになったとき、希子はすごくうれしかった。どう思うかとお母さんから打診されて、いいと思う、と勢いこんで大賛成した。翔ちゃんもだ。

 後から聞いたところ、子どもたちがどんなふうに応えるか、お父さんもお母さんも気をもんでいたらしい。

 特にお父さんは、希子たちに反対されたらどうしようかと気が気ではなかったそうだ。あんなにすんなり認めてもらえるなんて思わなかった、と今でもたまに言う。でも、希子は少しも迷わなかった。迷う理由がなかった。交流を重ねるうちに、お父さんのことも泉水のことも大好きになっていた。

 泉水のほうも、その頃にはもうかなりわが家になじんでいた。新しい家族と住まいを、思いのほか抵抗なく受け入れたようだった。

 そもそも、お父さんとお母さんが知りあったきっかけは、泉水である。

 当初は、「植田先生」、「泉水くんのお父さん」とそれぞれ呼びあっていた。お母さんが営む鍼灸院に、泉水は一歳になるかならないかの頃から通っていたのだ。とにかく夜泣きがひどく、一般の小児科ではお手上げだとまで言われていたが、お母さんの治療を受けるようになって、目に見えて改善したという。

 小児鍼といって、一般的なとがった鍼のかわりに、先端がまるくなった子ども向きの鍼を使い、刺すのではなく皮膚を軽く押したりこすったりする。お母さんによれば、子どもは感受性が高く、軽めの刺激でも効果が出やすいらしい。希子も幼い頃から、時折やってもらっていた。マッサージのような感じで気持ちいい。

 夜泣きがおさまってからも、施術を受けると情緒が安定するようで、泉水は定期的に通院を続けていた。母親の病気が発覚してからは、かわりに父親が付き添うようになった。母親が逝った後、げっそりとやつれ、途方に暮れている父子ふたりを、お母さんは放っておけなかった。とりわけ泉水のことが心配だった。

 お母さんが泉水の新しい母親になったのと同時に、希子には新しくお父さんができたのだった。さらに、かわいらしい弟まで。

 希子は大満足だった。父親も、弟も、いてくれたらいいのにと前から思っていた。正直にいえば、お父さんと正式に呼べる相手ができたせいで、死んでしまった実の「お父さん」への興味がいっそう薄れてしまった感もなくはない。

 ちょっと悪いような気もするけれど、しかたない。誰のせいでもない。

 お母さんも、希子の実父に関して多くを語らない。かといって、わざと秘密にしているわけでもなさそうだ。単に、話せることがないのだろう。なにしろ父娘で過ごした時間が一切ない。となると、語り聞かせてもらうべき思い出話もない。もしもお父さんがもう少し長生きしてくれて、希子の記憶にも残るような親子の交流が多少なりともあったなら、お母さんとふたりでなつかしがったりもできたのだろうか。

 でも考えてみれば、お父さんと泉水も、亡くなった妻もしくは実母の話をしようとはしない。少なくとも、希子はほとんど聞いたことがない。

 ふたりが希子たちの家に引っ越してきて、しばらく経って気づいたときには、泉水がふとした拍子にしくしく泣き出すことも、「ママ」と口にすることも、ぱったりなくなっていた。あれもまた、一種の成長だったといえるのだろうか。

 ひょっとしたら、泉水はもう「ママ」のことを覚えていないのかもしれない。希子だって、三、四歳のときの記憶はあやふやにかすんでいる。

 新しく母親となったお母さんのことは、泉水は「ママ」ではなく「お母さん」と呼んでいる。

 産みの母と育ての母を区別しようとした結果なのか、希子や翔ちゃんが「お母さん」と呼んでいるのにつられただけなのかは、判然としない。小学校に上がってからは、父親のことも「パパ」ではなくて「お父さん」と呼ぶようになった。

 さておき、希子の場合、「お父さん」と言ったり聞いたりするときには、まっさきに今のお父さんの顔を思い浮かべている。ひとつ屋根の下で暮らすようになって以来、ずっとそうだった。

 なのに、ここのところ急に、長らく影が薄かったもうひとりの「お父さん」のことを考える機会が増えている。

 背が伸びてくれないせいだ。

 身長について思い悩むたび、遺伝の二文字が頭をよぎる。この体を作っている遺伝子のことを、意識せずにはいられない。心細いような、もどかしいような、いっそ腹立たしくもあるような、得体の知れない気持ちで胸がざわつく。

 

(つづく)