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 返事はない。「お父さん」とだけ言ったから、誰を指しているのか、混乱させてしまっただろうか。どう言い直したらいいだろう。「わたしのお父さん」でも、まだ曖昧かもしれない。「実のお父さん」か、それとも、「死んだお父さん」か。

 希子がもう一度口を開こうとしたとき、お母さんが答えた。

「低くはなかったよ」

「そうなんだ?」

「すごく高くもなかったけど」

「平均ってこと? じゃあ、一七〇ちょっとくらい?」

「そうね、そのくらいかな」

 ちょっと気持ちが明るくなった。お父さんが標準程度の身長だったなら、お母さんの影響も加味するとして、少なくとも理論上は、希子も平均を越える可能性が高い。ということは、まだ背が伸びる余地はあるのかもしれない。

 にわかに、これまで聞きそびれていた実のお父さんのことを、もっと知りたくなってきた。さっき考えていた学部と大学のことも、ついでに質問してみようか。

 が、一瞬の差で、先を越された。

「電話だ」

 希子の背中にあてがわれていたお母さんの手が、再びとまった。

 希子は寝そべったまま、首をめぐらせてデスクのほうを見た。固定電話のボタンが赤く点滅して、着信を知らせている。

「ちょっとごめんね」

 お母さんが希子にことわって、デスクに歩み寄って電話に出た。

「はい、植田鍼灸院です」

 患者さんだろうか。

 休診日なのに連絡してきたということは、緊急の用件なのかもしれない。予約していた日時に都合がつかなくなったのか、それとも、突然ぐあいが悪くなって急ぎで診てほしいのか。

 表向きは、鍼灸院の電話は診療時間中にしかつながらないことになっている。一般の患者さんは、休診日にはかけてこない。ただ、一部の患者さんには、なにかあればいつでも電話してかまわないと伝えてあるようだ。今回はたまたま診察室にいたので直接応答できたけれど、そうでない場合もお母さんのスマホに転送される。

 以前、ちょうど春くんがうちに遊びに来ているときに、そんな電話がかかってきたことがあった。

 まだ泉水やお父さんがうちで暮らし出す前だった。スマホを耳にあてて部屋から出ていくお母さんを、希子と翔ちゃんと春くんは三人で見送った。

「ホットラインか」

 春くんが言った。

「ホットライン?」

 翔ちゃんが聞き返した。希子も知らない言葉だった。

「いつでもつながる電話のこと」

 春くんいわく、植田鍼灸院に通院している患者さんの中には、けっこうな有名人が何人かいるそうだ。

「有名人って、誰? 芸能人とか?」

 翔ちゃんがすかさず食いついた。

「いや、おれも具体的な名前までは知らないけど」

 守秘義務があるのでお母さんは詳しく話さないが、俳優やスポーツ選手、政府の要人から大企業の重役まで、業界は多岐にわたっているらしい。

 共通しているのは、皆とにかく忙しいことだ。時間を捻出して予約を入れておいても、急に予定が変わってしまい、都合がつかなくなる場合も多い。突発的な不調に見舞われたときに、すみやかに相談に乗ってほしいという要望もある。

 いざというときに、なるべく早く連絡をつけたい彼らのために、お母さんは「ホットライン」をつないであげている。

「つまり、特別扱いってこと?」

 今度は希子が質問した。

「もちろん、ただじゃないぜ」

 春くんはにんまり笑って、親指とひとさし指で輪っかを作ってみせた。

「その分、ちゃんと払ってもらってるんだよ。VIPの皆さんには」

 手厚いサービスを受けるためには、正当な対価が必要なのだという。

「VIPって?」

「重要人物。いわゆる、セレブ」

 セレブなら希子にもわかった。お金持ちのことだ。費用が多少高くなっても、気にしないのだろう。

「君らの母ちゃんは、ああ見えて凄腕なんだぞ」

 そこへ、電話を終えたお母さんが戻ってきた。

「お母さん、セレブも診てあげてるの?」

 翔ちゃんが無邪気にたずねると、お母さんが春くんを軽くにらんだ。

「ちょっと、子どもたちに妙なこと吹きこまないでよ」

 この電話をかけてきているのも、VIPかセレブなんだろうか。

 盗み聞きするつもりはないけれど、通話口からきれぎれにもれてくる声に、つい希子は耳をすましてしまう。内容までは聞きとれないが、女性のようだ。

「はい。ええ。あら、そうでしたか。承知しました」

 お母さんの口ぶりからして、そこまで緊迫した状況ではなさそうだ。深刻な症状が出ているわけではなく、予約の変更かなにかだろう。

「すみません、あいにく来月はもう予約がいっぱいで。え、日曜日?……わかりました、確認しますので、少々お待ち下さい」

 日曜日は休診日だが、なんとかしてほしいと頼まれているのだろうか。やっぱり特別な患者さんなのかもしれない。

 通話を保留にしたお母さんが、あれ、と小さく声を上げた。

「やだ、手帳を置いてきちゃった」

「家?」

「うん、ちょっととってくる。ごめんね」

「いいよ、じゃあ、ここで待ってるね。ごゆっくり」

 希子は寝返りを打った。あおむけになると、視界が広がった。

 お母さんはコードレスの子機を片手に、早足で診察室を出ていこうとしていた。いったん廊下に足を踏み出して、また引き返してくる。

「どうしたの?」

「ん、カルテをね」

 お母さんは壁際に置かれたスチール棚の前に立った。

 天井ぎりぎりまである背の高い棚には、数段にわたってファイルがびっしりと詰めこまれている。患者さんのカルテだ。希子のも一冊ある。お母さんはこまめに記録をつけていて、前はなにをやったんだっけ、と時折見返すこともある。

 棚から抜いたファイルを小脇に挟むと、お母さんは今度こそ出ていった。軽い足音が廊下を遠ざかっていく。

 鍼灸師としては「凄腕」だというお母さんだけれど、自院の運営に関してはかなり旧式というか、アナログ──この言葉も綾乃ちゃんから教わった──だ。予約のスケジュールも、患者さんのカルテも、すべて手書きで管理している。

 希子の通っている近所の歯医者さんでは、ネット予約ができる。診察日が近づけば、SNSでリマインドのメッセージも送られてくる。今どきの病院としてはさほど珍しいことではないだろうが、植田鍼灸院にはホームページすらない。予約は、来院したときに次回の分をとっておくか、もしくは電話で問いあわせるしかない。

 電子機器全般に詳しいお父さんが、簡単なシステムならさほど手間ひまかけずに導入できるし、それでも現状よりはそうとう便利になるはずだとすすめても、お母さんは首を縦に振ろうとしない。

「大勢の患者さんをさばくならともかく、うちは一日に数人しか来院しないし」というのが、お母さんの言い分だ。

「それも、長年通ってくれてる常連さんがほとんどだもの。わざわざシステム化なんかしなくても、今までのやりかたでじゅうぶんやってけるよ」

 唯一、会計に関してだけは、アルバイトがてら経理を手伝っている綾乃ちゃんに、あまりに非効率的すぎると苦言を呈されて、経理システムを使うことになったらしい。

 

 お母さんはなかなか戻ってこなかった。

 ぼうっと寝そべっているのにも飽きてきて、希子は上半身を起こした。施術はまだ途中だけれど、心なしか体が軽い。ツボに鍼を打つと、体の中に新しい風が吹くのだとお母さんは言う。痛めたところだけでなく、全身がすっきりする。

 ベッドの上であぐらをかくと、ちょうど真正面のカルテの棚が目に入る。

 目の高さにあたる一段が、気になった。その上下は整然とファイルがおさまっているのに、この段だけ並びが乱れている。お母さんがさっき急いでひっぱり出したせいだろう。ファイルが一冊、棚から半分ほどはみ出している。お母さんは施術で体にふれるときは、あんなにも注意深く丁寧な手つきなのに、日常生活での立ち居振る舞いは別人のように豪快だ。

 希子はベッドを下りて棚の前に立ち、落っこちそうになっているファイルを元の位置に押しこんだ。

 どのファイルも、背にはなにも書かれていない。患者さんの目にもふれる場所だから、あえてそうしてあるのだろうが、探すときには不便そうだ。現に、先ほどお母さんも、めあてのファイルを見つけるまでに少々手こずっていた。とはいえ、なんの規則性もないはずはない。名前のあいうえお順にでも並べてあるのだろうか。それとも、診察券の番号順とかか。ここの診察券は見たことがないけれど、希子の持っている歯医者さんのやつには数字が書いてある。

 お母さんが帰ってきたら聞いてみようかと考えながら、ベッドに戻ろうとしたとき、足もとになにか白いものが落ちているのに気づいた。

 長方形の紙──いや、封筒だ。

 かがんで拾いあげた。表にも裏にも、なにも書かれていない。カルテと一緒にファイルに挟んであったものが、すべり落ちたのだろうか。お母さんが持ち出したものか、あるいは、希子が棚にさしこみ直したほうかもしれない。

 もしくは、ファイルの出し入れとは関係なく、もとからここに落ちていた可能性もなくはない。半分ベッドの陰に隠れるような位置だったから、お母さんも気づかなかったのだろうか。

 中身は、なんだろう。

 硬めの感触からして、普通の便箋ではないかもしれない。それなりに厚みもある。カードか、厚紙のようなものだろうか。封筒の口は軽く折り返してあるだけで、糊づけはされていないようだけれど、勝手に開けるわけにもいかない。

 むくむくとふくらんできた好奇心をおさえつけ、封筒の口から目をそらした。どちらにしても、お母さんに渡してあげないといけない。そのときに、なにが入っているのか、それとなく聞いてみよう。

 回れ右をして、棚に背を向けた。とりあえず、デスクの上に置いておこう。こうして手に持っていると、つい中をのぞきたくなってしまう。

 デスクのほうへ、一歩踏み出す。いや、踏み出そうとした。

 そこで、ベッドの脚に爪先がひっかかかった。

 手もとばかりに意識が向いていて、足もとがおろそかになっていたらしい。不意打ちの衝撃でよろけかけ、反射的に足をふんばる。湿布を貼った足首に、鋭い痛みが走った。うっ、とうめき声がもれる。左足をかばいつつ、ベッドの上に片手をついて、どうにか体を支えた。

 その拍子に、封筒が手から離れて、宙に浮いた。

 はっと息をのむ。バスケの試合中だったら、血の気がひく一瞬だ。しかし幸い、ここはコートではない。敵にボールを奪われる心配はない。

 封筒はベッドの上に落ちた。ボールと違って、バウンドはしない。ただし、着地すると同時に口が開いた。

 希子は再び息をのんだ。白いシーツの上にすべり出たのは、写真だった。

 写っているのは希子だ。左手に細いろうそくの束を持ち、右手でそのうち一本をまるいケーキの上に立てようとしているところを、ななめ横からとらえている。

 背景と服装で、いつの写真かは見当がついた。泉水の誕生日だ。先月、家族みんなでお祝いした。

 一眼レフを持ち出したお父さんは、いつにも増してはりきって、写真を撮りまくっていた。その後しばらく経ってから、まとめて現像して、アルバムに入れたと言われた覚えはある。こういうときに興味がなさそうにするとお父さんがしょんぼりするので、後で見るねとかたちばかり答えたものの、それきりになっていた。

 写真の希子は、手もとのろうそくに視線を注いでいる。撮られているとは気がついていないようだ。お父さんはお得意の「自然体」をねらったのだろう。この後、泉水が吹き消したろうそくを抜いているときに写真を撮られそうになったのは、覚えている。勝手に撮るのはやめてほしいと抗議した。綾乃ちゃんも肩を持ってくれ、翔ちゃんがからんできて、ちょっとした言い争いになった。

 いつどこで撮られた写真なのかは、わかった。が、わからないことはまだ残っている。

 泉水の誕生日に、お父さんはたくさん写真を撮っていた。全部合わせれば、数十枚にもなるはずだ。

 その中から、なぜこの一枚だけが選ばれ、封筒に入れられて、しかもお母さんの診察室にあるのだろう。

 混乱しつつ、封筒に手が伸びていた。宛名は書いていなかったけれど、なにか手がかりがあるかもしれない。

 封筒を手にとってみて、気づいた。中にまだなにか入っている。

 封筒をさかさにすると、もう一枚写真が出てきた。予想外のものが写っている。

 表彰状だった。ものものしい縦書きの筆文字が、金色の枠で囲ってある。春季スポーツ大会、バスケットボール競技・中学生女子の部、第三位。

 春休みに行われた、市の主催するスポーツ大会で、希子たち女子バスケ部は三位を勝ちとった。希子は数分しか出場できなかったけれど、シュートを一本決められたので満足だった。

 この表彰状そのものは、学校に保管されている。顧問が写真を撮って、画像データを部の全員に共有してくれた。お父さんにも見せてあげたら、家のパソコンにも保存しておきたいと言われ、転送したのだった。

 廊下の向こうから、足音が近づいてくる。

 

(つづく)