寝息をたてている空君にタオルケットをかけ直し、鈴音はノートパソコンを持ってソファーに腰かけた。日誌のフォルダーを開いてつらつら目を通してみる。たしか以前、空君の様子について斗羽風汰が書いていたはずだ。
スクロールしていくと、二か月前の七月にこんな記述があった。
『夕方の散歩のとき、ねこのおばあさんに会いました。保護した子ねこ(三匹)をペットカートに乗せていて(めちゃかわいかった。子ねこ最強っす!)、芹香ちゃんが「おばあちゃんちはねこの保育園なんだよ」って言ったら、おばあさんは「子ねこたちにはまだおうちがないから、いまは預かっているんだよ」って言いました。みんなが心配そうな顔をすると、おばあさんは焦ったらしくて、「ちゃんと新しいおうちを見つけるから大丈夫」ってフォローしてくれました。で、みんな安心したみたいだったけど、空君はそのときおれの指をきゅっと握りました。なんかめちゃ(めちゃっていうか、ちょっと?)不安そうで。お迎えのときにお父さんにその様子を伝えようかと思ったんですけど、なんかいま言わないほうがいいかなって思って(おれのカンっす!)伝えませんでした。引き続き、様子を見ていきます』
相変わらず斗羽の書く日誌は、文章が下手だし余計な主観も多すぎる。けれど話を聞いているような妙な臨場感もあって嫌いではない。
たしか数日前も空君のお父さんが疲れているみたいだと斗羽が言っていたことを思いだした。
空君親子の関係は悪くなく、空君はお父さんのことが大好きだ。父子家庭になってまだ一年もたっていないけれど、お父さんは頑張っている。でも……、頑張れてしまう人は自分自身を追い込んでしまう。
スマホが鳴る。見ると空君のお父さんからのLINEだった。
《急なお願いをして申し訳ありませんでした。21時までに迎えに行きます》
鈴音はすぐに写真と一緒に返信した。
〈お疲れさまです。空君はいまお昼寝をしています。お迎え時間の件、かしこまりました。こちらは大丈夫ですので、慌てずにお戻りください。写真は、さっき栗拾いに行ってきたときのものです。いがと格闘しながらたくさん拾いました〉
《写真ありがとうございます》
これ以上の返信は気を遣わせてしまうだろうと、鈴音はすずめがにっこりしているスタンプで返して、スマホを置いた。
空君の写真を見て少しは安心できただろうか。
保護者を安心させる手っ取り早い方法は写真や動画だ。「元気にしていますよ」「楽しくあそんでいます」とことばで伝えるより、実際に子どもの表情や様子を見るほうが説得力がある。
「せんせー」
空君が布団の上に起き上がって目をこすっている。まだ眠ってから一時間ほどしか経っていない。
「もう起きる? まだ寝ていてもいいよ」
「おきる」と言いつつ、空君は足元の方に頭を倒してまたごろんとした。
起きたい気持ちはあってもまだ眠たいのだろう。鈴音は空君の背中をぽんぽんとして、ベランダに干してある洗濯物を取り込んだ。タオルもシャツもシーツもぱりっと乾いていて気持ちがいい。ソファーの上に置いてたたんでいると、空君が寝ころんだまま見ている。
鈴音も幼いころ、ごろんとしながら祖母がアイロンをかけていたり、縫物をしているのを見ているのが好きだった。特別に興味を引くようなことをしているわけではないけれど、見ているだけでほっとして安心できた。
休日のイレギュラーな保育では、いつもの保育とは違う過ごし方を意識している。家にいるように、とまではいかなくても、祖父母の家で過ごすくらいのゆるい感じ。といっても『すずめ』の園児たちは、祖父母と疎遠になっている子が多い。たしかに祖父母の手があり、身近に頼れる人がいるような環境にあれば、夜間保育園に通う必要もないのだ。
「おーわった」
声のトーンをあげてたたんだものを棚に入れていると空君が起きてきた。
「麦茶飲む?」
「のむ」
「オッケー」と冷蔵庫から麦茶を出してグラスにそそぐ。「どうぞ」と渡すと空君は一口飲んで顔をあげた。
「ほいくえんのとちがう」
鈴音は苦笑した。いつも園児に飲ませている麦茶は豆から煮だした常温のものを用意しているけれど、自宅用の麦茶は水出しの手軽なパックのものを使って冷蔵庫に入れている。
「空君すごい、よくわかったね」
「あじちがうもん」
「先生ね、おうちの麦茶は手抜きしちゃってるの」と肩をすくめると、空君はふーん、と頷いて残りの麦茶を飲み干し、イスの上に膝立ちになって水につけてある栗を眺めている。
「そうだ、さっきお父さんから連絡来たよ」
へっ、と驚いたように空君が顔をあげた。
「おとーくる?」
おどおどと視線を泳がせながら、思い詰めたように言った。
「うん。夜になるけど、空君が寝る前までにお迎えに行きますって」
鈴音が言うと、空君は頬を緩めてまた栗に目をやり「あれ?」と指さした。
「いっこ、うかんでる」
「虫がいたのね」と鈴音がその栗をつまみ出した瞬間、「だめっ!」と空君が鈴音の手をつかんだ。
ことん、と音を立てて虫食い栗が床の上に落ちる。と、空君はからだを硬直させてしゃくりあげた。
鈴音はとっさに空君を抱きあげた。
大丈夫よ、大丈夫、大丈夫……。
泣き出した理由も、なにが「だめ」なのかもわからないけれど、「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら背中をなでていると、しだいに腕の中で空君のからだが弛緩していく。
鈴音は空君を抱いたままイスに腰かけて、左右にゆっくりからだをゆすった。
子どもは大人が思うよりはるかに繊細で感受性が強い。何気ないことばに傷ついたり不安を感じたり、逆に小さなひと言で自信をつけることもあれば、自己肯定感を高めることもある。
胸元で空君が大きく息を吐き、頭をぴたりと鈴音のからだに預けた。
「空君、なにがだめだったか先生に教えてくれる?」
空君はしばらく鼻をすんすんさせていたけれど、「かわいそう」とぽつりと言った。
「かわいそう?」
「みんなとバイバイしたらかわいそう」
鈴音は床に転がっている虫食い栗を拾い上げて、小さな手に握らせた。
「空君はこの栗がさみしくなっちゃうって思ったのね?」
こくりと頷く空君の髪をなでながら、鈴音は斗羽が書いていた日誌を思いだしていた。
ちゃぽん、空君が栗をボウルに入れた。虫食い栗は一度沈んで、また浮いた。
夕食はホットプレートでお好み焼きを焼いた。休日保育のときは手軽でしかもいつもはできない夕食をと考えて、夏場はホットプレートを使った料理、冬場は鍋料理が定番になっている。
「熱いからここはさわらないでね。火傷しちゃうから」とプレート部分にへらをこんこんと当てると、空君は真剣な顔で頷いた。
「じゃあ焼くよ」
タネを流すとジューッと音を立てる。空君はテーブルの上に置いていた手を引っこめた。鈴音はくすりと笑いながら、「お好み焼き食べたことある?」と言うと、空君は首をかしげた。
「先生もね、初めて食べたのは園長先生のおうちだったの」
「えんちょうせんせい?」
うん、と頷いてへらを置いた。
「園長先生も空君くらいのときに保育園に通っていたからね。その保育園の園長先生」
「ふーん」と言いながら、空君はプレートの上をじっと見ている。それから顔を上げた。
「えんちょうせんせーのおかーもしんじゃったの?」
空君が『すずめ』に転園してきたのはお母さんが亡くなったあとだ。
ごまかすようなことをしてはいけない。
空君のまなざしを鈴音はまっすぐ受け止めた。
「先生のお母さんは元気よ。お父さんはいなかったけど」
「しんじゃったの?」
「お父さん? どうなんだろう。先生ね、お父さんには会ったことがないの」
空君は驚いたように目を見開いて、それから表情を硬くした。
「空君?」
「おとーといたい」
ん? 思わず鈴音は首をひねった。
「そら、おとーといっしょがいい」
「もちろん。空君のお父さんは空君のこと大好きだもん」
鈴音はホットプレートの温度を下げた。
「おとー、おばあちゃんにいってた」
「なにを?」
「そら、おばあちゃんちにいくのやだ」
鈴音は息を呑んだ。斗羽が気にしていたことも、空君がお父さんのお迎えを心配していることも、虫食い栗に対しての反応も……。
ばらばらだったピースが、ぱちっとはまった。
空君は不安だったのだ。お父さんと離れることが。離れたらずっとお父さんと会えなくなるんじゃないか、と。
でも、と鈴音は唇に拳を当てた。斗羽が日誌に書いていたのは、もう二か月も前のことだ。空君を祖母に預けるつもりならもうとっくに。
お父さんは答えを出せずにいる……。子どもを一人で育てるのは簡単なことではない。いまやひとり親家庭は珍しいことではないし、一人でも立派に子育てをしている親は大勢いる。でも、それは決してあたりまえではないのだ。父親と母親が揃っていても、子育ては難しい。日々悩み、疲れ、不安を抱えて。その子育てを一人で担うということがどういうことか、考えずともわかる。
それでも、手放したくない……。
「空君、お父さんと話をしてみたらどうかな? 空君の気持ちもちゃんと言うの」
「でもぉ……」
「先生もね、空君くらいのときに自分の気持ちを話すのが苦手だったの。苦手っていうより怖かったのかな。でもね、ずっと後悔してた。嫌だと思ったことは嫌だって言えばよかったって。嬉しいことは嬉しいって言えばよかったし、こうしたいって思ったことはこうしたいって言えばよかったって。気持ちはね、ことばにしないと伝わらないんだよ」
空君は眉を寄せた。
「空君はどうしたい? 誰と一緒にいたい? お父さんもきっと空君の気持ちを知りたいって思ってるよ。空君のここで思ってることを、そのままお父さんにお話しすればいいの」
鈴音は空君のおなかに指をあてた。
「空君ならできる。……どうかな?」
空君は数秒考えて、「できる」と頷いた。
「よし、じゃあごはんを食べて、元気いっぱいになろう」
鈴音はホットプレートの上にあるお好み焼きを、よいしょ、とひっくり返した。
二十時四十五分、お父さんが迎えに来た。
リモコンで門を解錠すると、空君と一緒に階段を下りて玄関を開けた。
「おとー」
空君がお父さんに声をかけると、お父さんは「ただいま」と左手を小さく上げて鈴音に頭を下げた。
「お帰りなさい、お疲れさまでした」
「今日は急なことなのにありがとうございました。本当に助かりました」
これ、と小さな紙袋を差し出した。
「ゼリーです、白桃の。岡山のお土産です」
「気を遣わなくていいのに」
いえ、とお父さんは首を振った。
「本当に助かったんです」
それでは遠慮なく、と鈴音は紙袋を受け取った。
「空君、リュックとお土産持ってこれる?」
鈴音が言うと「これる!」と空君は、とん、とん、と階段を上がっていった。
「あれ? 二階は」
「わたしの自宅です。今日は空君と二階で過ごしていたんです。空君におばあちゃんちみたいだって言われました」
「すみません」とお父さんは苦笑して、ふっと視線を下げた。
「空は、おばあちゃんのことが好きなんです。妻の母親なんですけど」
足音をさせて空君が階段を下りてきた。
「おとー、はい、おみやげ」
「おとーに?」
お父さんが鈴音に視線を向けると、「おこのみやき!」と空君が得意そうに言った。
「夜ごはん、お好み焼きにしたんです。これはお父さんの分」
「おいしいよ!」と見上げた空君に、「ありがとう」と言ったタイミングでお父さんは腹を鳴らした。
「ぐううううーだって」空君が声を立てて笑う。
「よかったら召し上がっていきませんか?」
遠慮するお父さんを半ば無理やり事務室に通して、お好み焼きを温め直した。
「じゃあ、いただきます」
箸を持つお父さんを、空君は隣でじっと見上げている。
「あ、うまい」
空君が嬉しそうに鈴音に顔を向ける。
「空君もたくさん食べたんですよ」
「おかわりもした」
誇らしげに言う空君にお父さんは目じりを下げて、やっぱり……とつぶやいた。
「やっぱり、こういうことって子どもには大事なんでしょうね」
ん? と鈴音は首をひねった。
「いや、なんていうかまともな食事とか、家族で食卓を囲むとか。うちは朝食だって毎日散々せかして一緒にテーブルに着く時間もなくて」
おとー、と空君が不安そうにお父さんの腕に手を当てたけれど、お父さんは空君を見ようとしない。
「今日みたいなこともこれからだってあると思うんです。シングルっていっても、母親と父親はちがうんです。きっと」
そう言って、お好み焼きを口に入れた。
鈴音は麦茶を入れてお父さんの前に置くと、空君を見てゆっくりまばたきをした。
「そうですよね、母親と父親は違うと思います」
お父さんは驚いたように顔をあげた。
「母親だって、子どもだって、一人ひとりみんな違うじゃないですか」
鈴音はふっと笑みをこぼした。
「わたし、二十年以上いろんな親子を見てきて思うんです。ふつうの家族とか、いい親って形はないなって。ゆっくり一緒にごはんを食べられなくても、毎朝起きたら隣にお父さんがいて、一緒に保育園までやってきて、お迎えに来てもらって。……大事なのは手の込んだ食事でもないし、長い時間一緒にいることでもないと思うんです」
なにも言わず、じっと考え込んでいるお父さんの腕を空君が揺すった。
「そら、おばあちゃんちにいくのやだ」
お父さんは、はっとしたように空君を見た。
「なんでそんなこと」
「電話でお父さんが話しているのを聞いたそうです。空君、ずっとそれを心配して。不安だったみたいで」
鈴音が言うと、お父さんは空君にからだを向けた。
「そら、おとーといっしょがいい」
お父さんはなにかをこらえるようにわずかに顔をゆがめて、空君を抱き上げた。
「あたりまえだろ」
あたりまえだろう、と繰り返すと、お父さんの腕の中で空君は笑顔になった。
「おとーと空は、ずっと一緒だ」
(つづく)