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 ――幼い頃、鈴音は祖母とふたりで暮らしていた。
 自宅の一階で雑貨屋を営んでいた祖母は優しい人だった。忙しいときでも鈴音が話しかけると手を休めて聞いてくれたし、夜、布団に入ると絵本を読んでくれた。保育園に持っていくかばんには小鳥のアップリケを縫ってくれたし、鈴音の好きなホットケーキをよく焼いてくれた。
 みんなのようにお母さんがいないのはなぜだろう? と思うことはあったけれど、鈴音がそのことを祖母に訊ねることはなかったし、祖母も母親のことを語ることはなかった。もしかしたら、鈴音が大きくなったら話すつもりだったのかもしれないけれど、その機会はなかった。
 鈴音が四歳のとき、母親と名乗る人が鈴音を引き取るといってやってきたからだ。
 母親はきれいな人だった。いい匂いがして、ひらひらしたワンピースが物語の中に出てくるお姫様のようで、鈴音はやってきた母親をぽーっと、見つめた。
「迎えに来たよ」と母親が言うと、祖母は見たことのないような険しい顔つきになり、「お客さんが来たら呼んでね」と、鈴音に店番をさせて母親と二階へ上がっていった。
 鈴音は二階を見上げながらどきどきしていた。
 自分にもお母さんという人がいたことに。
 お母さんが迎えに来たことに。
 お母さんがお姫様のようにきれいで素敵な人だということに。
 それから、迎えに来たってどういうことだろうと不安になった。
 おばあちゃんはどうするの?
 おばあちゃんもいっしょにお母さんのところへ行くの?
 二階をじっと見上げていると、階段を下りてくる足音がした。聞きなれた祖母の足音でないことに鈴音はからだを硬くした。
「鈴音、行くよ」
 母親はなんの説明もしないまま鈴音の腕を引いた。
「おばあちゃんは?」
 鈴音は左手で柱をつかんだ。
「おばあちゃんは鈴音の面倒をみられなくなったんですって」
 嘘だと思った。その瞬間、母親と名乗るきれいな人のことが怖くなった。
「おばあちゃーん、おばーちゃーん!」
 柱にしがみついて、叫ぶように祖母を呼んだ。階段を下りてくる祖母の足音が聞こえてくると、鈴音は柱から引きはがされ、母親に抱きかかえられてそのまま店の外に停まっている車に乗せられた。
 人さらいだ、と思った。
 泣きじゃくる鈴音に「なんで泣くの?」と母親は言いながら「これからは一緒に暮らせるのよ。嬉しいでしょ」と囁いた。
 母親に連れられてマンションの部屋に入ると、車を運転していた男の人もついてきた。「今日からここが鈴音のおうち。この人はあなたのお父さんになってくれる人だから、お父さんって呼ぶのよ」
 よろしくね、と男の人は鈴音の前でひざを曲げた。
「ご挨拶、ちゃんとして」と母親に言われて「こんにちは」とぼそっと言うと、男の人はうんうんと頷いて、
「急にお父さんなんて言われても困っちゃうよね。ゆっくりでいいから、仲良くしようね」と、やわらかく目じりを下げた。
「感謝しなきゃね。鈴音を引きとった ほうがいいって、お父さんが言ってくれたんだから」
 母親のことばに、鈴音はお父さんという人を見た。
「そりゃあそうだろ。ずっと預けっぱなしなんてよくないよ。親子は一緒に暮らすのが一番。だろ」
 そうね、と微笑んで、お父さんにキスをする母親を見て鈴音が目を丸くすると、母親はおかしそうに笑った。
「こっちいらっしゃい」と案内されて入った部屋には、かわいらしい白いベッドに机とタンス、床にはふかふかの絨毯が敷いてあり、窓にはピンク色のカーテンがかけられていた。
「鈴音の部屋よ」
 驚いて立ち尽くしていると、「あの人がね、ちゃんとそろえてから迎えに行こうって、全部買ってくれたの」と、母親は鈴音の背中を押した。
「服も絵本もおもちゃも全部新しいのよ。嬉しいでしょ。じゃあ食事のときに呼ぶから」と、ドアを閉めた。
 鈴音は窓辺に駆けよって外を見た。何階なのか道を歩く人の姿が小さい。遠くまで街が見わたせて、その先に山が連なっていた。
 おばあちゃん……。
 鈴音はしゃがみこんだ。
 欲しいのは素敵な部屋でも服でも母親でもない。
 おばあちゃん、むかえにきて……。
 膝を抱えた。
 部屋の中にひとり。隣の部屋に母親と父親という人がいることはわかっていても恐ろしかった。
 夜はいつもおばあちゃんの隣の布団に入って、眠る前には絵本を二冊読んでもらい、おばあちゃんの声を聞きながら安心して目を閉じる。夜を怖いと思ったことなど一度もなかった。
 その夜、鈴音は真新しいふかふかのベッドの中で声を殺して泣いた。

 そうして始まった母親と父親という人との三人の暮らしは、驚くほど早く終わった。
 母親は鈴音を引き取ってからも自由奔放で、子育てにはまったく関心がなかった。夜な夜な出かける母親を父親という人は咎め、鈴音に対する態度を注意した。母親は不機嫌そうに聞いていたけれど、ある日「息がつまる」と言って、父親という人が留守にしている間に鈴音を連れて家を出た。
 父親という人は優しい人で、ある意味まっとうな大人だった。だからこそ母親と折り合いが悪くなったのだろう。
 半月ほどの間、ビジネスホテルや知らない女の人のうちを泊まり歩いた末、小さなアパートに落ち着くことになった。
 まえのマンションとは違って古いし部屋も一部屋しかなかったけれど、「狭くても自分だけの空間っていいよね」と、母親は畳の上に大の字になって、「鈴音もごろんてしてみなよ」と笑った。隣に横になると、天井の木目が目に入った。角の木目が少しとぼけたさるの顔のように見えた。
 母親は相変わらず、鈴音を置いてふらっと出かけていく。夕方からいなくなることもあれば、一緒に布団に入ったはずなのに目を覚ましたらいなくなっていることもあった。
 そんなとき、鈴音はきゅっと胸が苦しくなる。寂しい、というのとは違う、プールで急に足がつかなくなったときのような、吹き抜けのビルの階段を上っているときのような、足元がぐにゃぐにゃとして、拠り所のない不安……。
 ある日の朝方、泥酔した母親を連れて見知らぬ女の人と男の人がアパートへ来た。鈴音が布団から起きていくと、女の人は驚いた顔をして「茉由子の子ども?」と尋ねた。
 こくんと頷く鈴音に、女の人は大きく息をついて名前を尋ねた。
「すずめ」
「すずめちゃん?」
「すずめ!」と言うと、女の人は少し困った顔をして「そう」と応えた。
 この時期の鈴音は、すずねの「ね」がまだうまく言えなかったのだ。
「ママ、茉由子さん寝かせました」と若い男の人が鈴音を横目で見ながら部屋から出て行くと、女の人は鈴音の顔をのぞきこんだ。
「じゃあ帰るからね。鍵をちゃんと締めて。できる?」
「できる」
「おりこうさん」と笑みを浮かべて女の人は玄関のドアを閉めた。
 この出来事のあと、ほどなくして鈴音は保育園に入園した。
「ひどいでしょ、ママが、子どもを家にひとりで置いておくならクビにするっていうから保育園に入れたのに、シフト早番にされたんだから。時給だって減っちゃうしさ、昼間になんて働く気しないよ。だいたい、子どもをどうしようと親の勝手じゃない? わたしの子どものことなんだし。こんなことなら引き取ったりなんてしなきゃよかった」
 電話の相手が誰かはわからなかったけれど、母親が愚痴を言っているのを、鈴音は布団の中で寝たふりをしながら聞いていた。母親にとって自分は面倒で厄介な存在なのだということを、このときはっきり自覚した。がっかりはしたけれど、ショックではなかった。なんとなくそうだろうな、と思っていたからだ。
 保育園は楽しかった。
 家で一人で留守番をしているより時間がたつのが早くて、空腹を訴えずともお昼ごはんもおやつも食べることができる。ここにいていいんだよ、という空気に肩の力はすぐに抜けた。
「すずめちゃんあそぼ」「すずめちゃんこっち」「すずめちゃんみてみて」とみんな鈴音を呼んだ。「すずめじゃないよ」と思ったけれど、「すずめちゃんってなまえ、かわいいね」と言われて、それがとても嬉しくて、訂正するのはやめた。
 夕方になると、保育園にはぽつぽつとお迎えが来て、十八時を過ぎるといつも年長さんのしずちゃんと、鈴音より一つ年下のようじくん、それから鈴音の三人だけになった。
 二人とも次のお迎えは自分だ、自分であってほしいというように首を長くしてお迎えを待っているようだった。そして「ただいま」と自分の母親の声が聞こえると「ママだ!」と得意そうに駆けて行き、残ったほうは玄関の方を気にしながら鈴音の隣に座って、絵本を開いたり、お絵描きをはじめる。
 鈴音が入園してしばらくのあいだは、しずちゃんもようじくんも、鈴音と二人になると、“つぎは自分だから!”とどこか牽制していた。最後にひとり残るのがいやだったのだろう。けれど一週間もすると鈴音を牽制するようなことはなくなった。
 二人とも、すずめちゃんのお迎えはおそい、ということがわかったのだろう。
 しずちゃんもようじくんも、鈴音に「ばいばい」と笑顔で手を振って母親と帰っていった。
 鈴音の母親は、最初こそ閉園時間ぎりぎりの十九時に迎えに来ていたけれど、慣れてくるとあたりまえのように十九時を過ぎるようになった。保育士が注意をしたり、遅れた事情を尋ねると、母親は露骨に不機嫌になり、園を出ると鈴音のことなど気にかけることもなく夜道をどんどん歩いて行ってしまう。鈴音は母親のうしろを必死に追いかけながらアパートまで帰った。
 いくら注意をされても母親のペースは変わらなかった。困っている保育士に申し訳なくて「あっちでまってる」と鈴音が門の外を指さすと、保育士は赤い目になって「大丈夫だよ」と鈴音を抱きしめた。
 ところがある日を境に、母親は十七時に迎えに来るようになった。周りの友だちも、保育士たちも驚いたし、しずちゃんは前のようには話しかけてくれなくなり、ようじくんは鈴音が帰りの支度をしていると、帰らないで、というようにシャツの裾をにぎった。
 母親の変化に対して、保育士たちは安堵したというより懐疑的な目をしていた。が、たしかにそれは正しかった。
 十七時に降園してアパートに着くと、「それ食べて、早く寝なさいよ」と、母親はヒールを鳴らして出かけて行く。鈴音はテーブルの上にのっている弁当だったり菓子パンだったりを夕食に食べ、布団の上でごろんとしながらテレビを見ていると、いつの間にか眠ってしまう。目が覚めると、隣に母親が寝ていることもあれば、まだ帰っていないこともあった。
 あとでわかったことではあるが、この頃、母親は勤めていた店をやめて、別のクラブに移ったらしい。それで出勤前に鈴音を迎えに行き、夜、店にいる間は鈴音をひとりで留守番させていたのだ。
 そうした生活が一、二週間ほど続くと、今度は朝起きず、保育園を休ませるようになった。
 鈴音は保育園のカバンを肩にさげたまま、母親が目を覚ますのを待った。そしてようやく起きた母親に「ほいくえん」と言う。すると「いまから行ってもしかたないでしょ」と母親は気怠そうに言ってテレビをつける。そんなことの繰り返しだった。
 欠席の連絡もしていないので、保育園からは当然、電話がかかってきた。そのたびに母親は「風邪をひいたので休みます」と寝ぼけた声で不機嫌そうに言っていたけれど、しばらくすると電話はぱたりと鳴らなくなった。
 雨の朝、鈴音は母親の寝息を聞きながら、パジャマ姿のままカーテンの外側に頭を入れておもてを見ていた。
 先生は鈴音のことを忘れちゃったんだ。おばあちゃんだってきっとそうなんだ……。
 窓ガラスにぽつぽつと雨粒が打ちつけ、涙のようにつたっていく。
 と、ふいに玄関のチャイムが鳴った。
 母親を見ると起きる気配はない。「だれか来ても開けちゃだめだからね」と言われている。けれど、このとき鈴音は鍵を開けてドアを押した。
「鈴音ちゃん」
 立っていたのは園長の佳恵先生だった。手に持っている赤い傘の先から雨粒がつたい、外廊下に小さな水たまりを作っている。
「よかった」と佳恵先生は安堵の表情を浮かべて鈴音の手をにぎった。
 どうしたのぉ、と部屋の奥から母親の声が聞こえて鈴音は首をすくめた。
「『ぽかぽか保育園』の福木です」
 ごそごそと音がして、母親が奥から出てきた。寝起きで髪もぼさぼさで、化粧はしていないしほぼ下着姿だけれど、それでもお母さんはきれいだなと鈴音は口を半開きにして母親を見上げた。
「なんなんですか、押しかけてくるなんて」
 髪をかき上げてだるそうに言う。
「すみません。でも、お電話も通じないし心配になって」
 その言葉とは裏腹に、佳恵先生はひとつも申し訳なさを感じさせない口調でやわらかに言い、小さく頭を下げた。
「そちらに心配されるようなことはありません。うるさいから電話線を抜いているんです」と、母親がドアノブに手を伸ばすと、佳恵先生は足を踏み出してたたきに入ってきた。
「なによっ」
「お母さん、お仕事替わられましたよね?」
 はぁ? 母親は顔をしかめたけれど、佳恵先生は一向に気にする様子もなく話を続けた。
「連絡がつかないので、お勤め先に電話させていただいたんです。そうしたら半月前に辞められたって」
 鈴音は視線だけを交互に二人に向けながらじっとしていた。
「そんなこと関係ないじゃないですか」
 母親が鼻を鳴らすと、佳恵先生は「あら」と驚いたように目を見開いた。
「関係ないことないですよ。だって鈴音ちゃんはうちの大事な園児だし、茉由子さんは鈴音ちゃんの大事なお母さんじゃないですか」
 名前を呼ばれた瞬間、母親の眉がぴくりと動いた。
「困っていることがあったら話してほしいんです」
「余計なお世話です」
「……よく言われます。でも保育士ってお節介で世話焼きなくらいでちょうどいいかなって。これは私の持論ですけど」
「帰って」と母親が背中を向けると、鈴音は黙ったまま佳恵先生のシャツを引っ張った。そんな鈴音に佳恵先生は、大丈夫、というように微笑んだ。
「わかりました。今日は帰ります。明日、鈴音ちゃんが登園していなかったらまた来ますね」
 佳恵先生は「明日ね」と鈴音に言って玄関のドアを閉めた。
「鍵をかけて!」
 母親の尖った声に、鈴音はあわてて鍵をまわした。
 その翌日から、毎日十時に佳恵先生はアパートへやってきた。鍵を開けず、居留守を決め込む母親の態度に鈴音ははらはらしたけれど、今日も先生は来てくれたと思うと嬉しくなり、でも明日は来てくれないかもしれないと心配になった。
 夕方、母親が仕事に行くと鈴音は色鉛筆と画用紙を取り出してチューリップと佳恵先生の絵を描いた。チューリップは佳恵先生のエプロンにアップリケしてある花だ。
 それをたたんで枕の下に入れて眠り、翌朝、母親が起きてくる前に、玄関ドアの下に挟んだ。毎日来てくれる先生への「ありがと」の気持ちだった。
 十時を少し過ぎたころ、チャイムが鳴った。先生だ、と母親の方を見るとまだ眠っている。鈴音は玄関の前まで行った。鍵は開けない。母親にきつく言われていたからだ。
 ドアの下に挟んだ画用紙の端がまだ見えている。鈴音がそっとドアに近づいて画用紙の端に手を伸ばしたとき、すっと向こうに引き抜かれた。
 気づいてくれた! 先生、喜んでくれるかな。ほっとして部屋へ戻ろうとすると、「鈴音ちゃん」とドアの向こうから佳恵先生の声がした。
 びくりとして部屋の奥に目をやると、母親は背中を向けて眠っている。
「せんせ」
 ドアにくっつくようにして小声で応えると、「これありがとう。先生を描いてくれたのね」と声がした。
 こくんと頷いて、これでは伝わらないとあわてて「うん」と返事をした。
「これはリンドウね」
「リンドー?」
「先生のエプロンのお花を描いてくれたんでしょ?」
「そう」
 あれはチューリップではなく、リンドウという花だったんだと鈴音は初めて知った。
「とってもじょうずだね」
 胸の奥がほわっとした。鈴音はドアに背中をつけてたたきに座った。
 祖母の家にいたころ、祖母はよくそう言って鈴音をほめてくれた。
 いい子いい子、えらいねえ、かわいいね、じょうずだね、大好きよ……。
 祖母が当たり前のように鈴音に言ってくれていたことばだった。こんなにあったかくて心地のいいことばだったんだ……。
「なにしてるのっ!」
 母親に腕をつかまれて鈴音は小さく声をあげた。
「お母さん!? お母さん、福木です。おはようございます」
 ドアの向こうから佳恵先生の声が聞こえると、母親は乱暴に鍵を開けてドアを押した。
「いい加減にしてください! 毎朝毎朝、迷惑なんです。これ以上続けるようだったら警察に通報しますからね」
 警察ということばに驚いて、鈴音は母親にしがみついて「だめだめ」と声をあげた。
「なによっ」
 お母さん、と佳恵先生がドアを押さえた。
「わたしは警察に通報されてもかまいません。でも、それで困るのはお母さんじゃないですか?」
 母親は顔を歪ませた。
「わたしがここに毎日来ている事情を話すことになりますけど、大丈夫ですか?」
 落ち着いた声音ではあるが、はっきりとした口調で佳恵先生が言うと母親はことばを詰まらせた。
「児童相談所に通報することもできるんです。夜間に子どもを一人置いて出かけていて、育児放棄の疑いがあるって」
「……脅してるの?」
 眉をひそめる母親に「事実を言っているだけです」と佳恵先生は返した。
「でも、できればそんなことはしたくありません」
 だったらしなきゃいいじゃない、と目をそらしたまま言う母親に、佳恵先生は続けた。
「鈴音ちゃんを保育園に通わせることはできませんか?」
「はぁ?」
「部屋の中で一日ひとりで過ごすって、鈴音ちゃんのためにもいいことじゃありません。お母さんだって本当は心配でしょ? 保育園なら給食もあるし、園に来ることで一日の生活のリズムだって自然に作れます」
「……べつに、昼間はわたしが家にいるんだから保育園に行かせる必要ないし」
 母親がぼそぼそ言うと、佳恵先生は苦笑した。
「それは、お母さんの都合かなぁ」
「仕方がないじゃない! 人の家庭のことに首を突っ込まないで」
 だったら、と、佳恵先生はまっすぐな視線を母親に向けた。
「わたしが鈴音ちゃんを迎えに来て一緒に登園する。それならかまいませんか?」
 母親が驚いたように目を見開いた。
「お迎えは何時なら来られそうですか?」
「……五時」
「五時って、十七時?」
「だって、五時半にはここを出ないとお店に間に合わない」
 そうじゃなくて、と佳恵先生は頭をゆらした。
「お仕事が終わってからお迎えに来るとしたら、何時に来れるかってことです」
「それって」と、ぽかんとしている母親に佳恵先生は言った。
「夜間保育です」
 翌朝から、佳恵先生は開園前の七時に自転車で鈴音を迎えに来た。日中は保育園で過ごし、閉園後の十九時以降は園の近くにある佳恵先生の自宅で過ごす。母親は毎朝、あくびをしながら見送ったり、眠っていて顔を出さなかったりだったけれど、夜は午前一時前後に迎えに来た。
 鈴音の保育時間は十八時間を超える日もあった。
「鈴音ちゃん、疲れない?」「おうちに帰りたくない?」「寂しくない?」
 数名の保育士に聞かれたこともあった。当時の鈴音にはわからなかったけれど、保育士たちの声は、鈴音に対しての心配が半分、もう半分はそれを受け入れている園長への批判や母親への不満や抗議の気持ちだったのだろう。
 けれど鈴音は疲れもしないし、寂しいとも思っていなかった。十九時を過ぎて友だちも保育士も帰ると、鈴音は佳恵先生と一緒に、保育園から自転車で五分ほどのところにある佳恵先生の家へ行って母親の迎えを待つ。
 佳恵先生の家には、当時まだ結婚していなかった妹の佐恵さんもいて、佐恵さんはよく「いい子の鈴ちゃんにおみやげ」と和菓子をくれた。和菓子職人の修業中だという恋人の作ったもので、「形は悪いけど味はいいのよ」と言っていた。
 三人でごはんを食べたり、お風呂に入ったり、一緒に洗濯物をたたんだり。
 布団に入ると佳恵先生は絵本を読んでくれた。そうして朝、目が覚めるとアパートの自分の布団の中にいた。
 そんな生活を続けているうちに、母親は鈴音と一緒に朝起きるようになった。鈴音が保育園に行くまでの一時間ほどの時間だったけれど、鈴音のためにトーストとインスタントのスープを用意して、それを食べる鈴音を眺めて「おいしい?」と聞き、「おいしい」と鈴音が応えると目じりを下げた。鈴音に対する口調が柔らかくなり、笑顔を向けることもあった。
 母親にとって優先すべきは自分自身。自分を犠牲にしてもわが子を優先するようなことはなかったし、鈴音は母親からの愛情を感じたことはほとんどない。鈴音にとって母親はどこか緊張を強いる存在で、よい母親では決してなかった。
 それでも、生活にも気持ちにもゆとりが生まれれば、子どものために食事を用意し、笑顔を見せることができたのも事実だ。朝のほんの一時間であったとしても。

 

(つづく)