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 午後四時半を回ってもまったく気温は下がる気配がない。暑さには強い方ではあるが、今年の暑さはやばい。
「すずめ夜間保育園」はJR高田馬場駅から北へ十分ほど歩いた先の古い住宅地にある。園長の自宅を改築して作ったという園舎は、外見は民家そのもので、とても保育園には見えない。門の横に『すずめ夜間保育園』の看板を出してはいるが、初めて保育園に来る人は大抵、この付近をうろうろすることになる。
 スクーターのエンジンを切りインターフォンを押すと、「はーい」と声がして、鍵が開いた。建物は古いけれど、セキュリティーは最新のものを導入しているのだと園長は言うが、正確に言うと十年ほど前の、、、、、、最新ということらしい。
 門の中にジョルノを停め、ヘルメットをラゲッジボックスに入れていると、建物のなかから子どもたちのにぎやかな声が聞こえてきた。といっても遅刻をしたわけではない。「すずめ」では、職員の勤務時間は、開園一時間前の午前十時から午後七時までの早番と、午後五時から深夜二時までの遅番という二つのシフトがあり、風汰は遅番の枠で採用されているのだ。
「おはようございまーす」
 休憩室兼更衣室のドアを開けると、先輩保育士の坂寄千温が、いつもの赤いチェック柄のエプロンをつけて、畳のうえでストレッチをしていた。坂寄は一年ほど前にぎっくり腰をしてから、仕事を始める前に必ずストレッチをする。
「おはよ。風汰先生、それ見ておいてね」と、ローテーブルの上にあるタブレットを指さした。今日の登園記録と降園予定時刻、それに早番からの申し送りが入力されている。
 ういっす、と会釈して風汰は部屋の隅にあるカーテンを引いた。このカーテンは着替え時用のもので、風汰が採用されたあと、急遽設置されたのだという。
「そういえば、ノコちゃんママの話聞いたよ」
 Tシャツを脱いだとき、カーテンの向こうから坂寄の声が聞こえた。なんと答えていいかわからず、風汰は黙ったままポロシャツに頭を通した。
「まああれよ、気にすることないから」
「気にするしないってより、ショックっていうか」
「だよね。わかる。でも風汰先生だからっていうことじゃないからね。うちの子が通っていた保育園にも男性保育士がいたんだけど、同じクラスにもいたもん、『娘の着替えを男性保育士にさせるな!』って事務室に怒鳴り込んでいった保護者」
「マジっすか!?」
 ジャージを穿き、前髪をカチューシャ型のヘアバンドで上げて風汰はカーテンを開けた。
「マジだよ」
「こえっ、そのお母さん完璧モンペじゃん」
「お母さんじゃなくてお父さんだけどね」と、坂寄は風汰をちらと見た。
「たしかにすごい勢いで怒鳴り込んでいったから、ほかの人も怖がってたけど。それよりさぁ、モンスターペアレントなんて軽々しく言わないほうがいいよ。保護者のことをそんなふうに考えると、なんでもかんでもモンペで済ませるようになっちゃうから」
 まあ、そりゃそうっすけど……と、風汰は小さく息を吸った。
 先行くね、と立ち上がった坂寄に風汰は声をかけた。
「ん?」と坂寄が振り返ると風汰は思い切ったように言った。
「千温センセーは、嫌じゃなかったっすか? おむつ替えとか着替えとか」
「あ、男の先生にってやつ? うん。まったく気にしなかった」
 そっすよね、と風汰が息をつくと、「ただ」と坂寄は指をあごにあてた。
「うちの場合は男の子だったから。ノコちゃんママとか、あのお父さんみたいに女の子の親の気持ちは正直わからない」
「……そっすか」
「でも保育士として言わせてもらえば、そんなのナンセンスって思うよ。まっ、保護者の意識もこれから変わってくると思うし、そのうちそんなこと言われなくなると思うけどね」
 坂寄はそう言って保育室へ向かった。
「そのうちっていつだよ」とぼやきながら風汰はリュックと服をロッカーに入れて、タブレットを手に取った。
 今日は〇歳児のたく君、一歳児のノコちゃん、三歳児の君とそら君、四歳児のもえちゃんとちゃんとしよう君、それから五歳児のせりちゃんの八人。
 よっしゃ、タブレットを置いて部屋を出た。

「ふーたせんせーおさんぽいこ!」
 保育室へ行くと、四歳児の翔真君が飛んできた。
「散歩っ!?  まだ暑いけど……ちょっと待った。千温センセー、おれ散歩行っても大丈夫っすか?」
「お願いしまーす」
 了解っす、と事務室の壁にかけてある園の携帯電話を首から提げて、タオルや絆創膏、ティッシュにウエットティッシュ、おむつにビニール袋などの入ったナップサックを背負った。夕方の短めの散歩のときはこれで十分だ。
「お散歩、お散歩♪」と、風汰が鼻歌を歌っていると、「いく!」「もえも」「ぼくもいきたい」と、数人がロッカーの前に行って、靴下や帽子をとりだす。準備ができると保育室の隅のテーブルで飲み物の準備をしている早番保育士のにのみやゆり子のまわりに集まっていく。「はいどうぞ」と二宮から渡されたコップを順番に受け取り、一杯飲みほすと子どもたちは玄関へ駆けていく。
 夏場は家から水筒を持たせてほしいという園が多いというが、「すずめ」では豆から煮だした麦茶を保育室に常備して、子どもたちが自由に飲めるようにしている。水筒は一見便利だが、案外不衛生になりがちのうえ、子どもたちの水分摂取量を保育士が把握しにくいのだ。
「風汰先生も、はい」と、二宮がコップを差し出した。
「あざーす」と受け取ると、となりで麦茶を飲んでいた五歳児の芹香ちゃんが「ありがとうございます、だよ」と唇を尖らせた。
「いーじゃん、かたいこと言うなよ」
 風汰が言うと、「だめだよね」と芹香ちゃんは二宮を見上げた。
「そうだね、お礼はきれいなことばで言ったほうが気持ちいいよね」
 芹香ちゃんは満足そうにうなずいて、風汰を見た。
「わかったよ」と肩をすくめて、風汰はびしっと背筋を伸ばした。
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
「はい、よくできました」
 二宮は笑いながらコップを受け取った。
 夕方五時を過ぎても外は昼間のように明るいが、日中に比べると気温は若干下がっている。この時期、日中散歩に出るのは危険ということで、外遊びはもっぱら庭での水遊びになっている。かわりに夕方、軽めの散歩に出るのが日課になっている。
 風汰は三歳児の空君と手をつなぎ、そのうしろに四歳児の萌ちゃんと翔真君、そのうしろにパートのなかごめがノコちゃんの乗ったベビーカーを芹香ちゃんといっしょに押している。
 高田馬場は大学や高校、予備校に専門学校などが多く、全国屈指の学生街といわれている。駅の周辺は学生をターゲットにした低価格の飲食店などがひしめき合っているが、園のまわりは住宅地で、この時間に散歩に出ると、どこからか魚を焼く匂いや煮物の匂いがして、ほっこりする。
「カレーのにおいだ」
 翔真君が鼻をひくひくさせた。
「ほんとだ、カレー」
 萌ちゃんもあごをあげて、くんくんしている。
「そら、カレーすき!!」と叫んで空君も飛び跳ねた。風汰はその手をしっかりと握る。
 子どもの行動は思いがけないことの連続だ。おとなしく手をつないで歩いていても、なにかのタイミングでぱっと手を離してかけだしたり、いきなりしゃがみこんでみたり、水たまりがあれば嬉々として飛び込んだり。
 わかっているつもり、気をつけているつもりでも、これまでひやりとしたことが幾度もある。とくに散歩のときは気を抜けない。
 風汰は振り返って、翔真君と萌ちゃんを確認して、そのうしろにいる中込に目をやった。この人数であれば近所を散歩するくらいは風汰ひとりでもできないことはないが、園長の方針で子どもの人数に限らず、散歩に行くときは二人態勢で行くことになっている。パートの中込は保育士の資格はもっていないけれど、三人の子育て経験があり、赤ん坊の抱き方もミルクの飲ませ方もゲップのさせ方もおむつの交換も、はるかに風汰より手際よく正確だ。
 前からママチャリが走ってくる。
「自転車だよー」
 風汰がうしろに声をかけると、翔真君と萌ちゃんは両手を広げて、塀に張り付いた。
 ありがとうございます、というようにママチャリのお母さんが会釈をして通り過ぎて行く。うしろに二人と同じ年くらいの女の子が乗っていた。仕事を終えて、保育園にお迎えに行った帰りってとこかなと考えていると、「はっぱ」と空君が手を引いた。砂利敷きのコインパーキングの精算機の下に、猫じゃらしがわしゃわしゃはえている。空君はそれを引っ張っているけれどなかなか抜けない。
「もえも」
「ぼくも」
 萌ちゃんと翔真君は猫じゃらしに手を伸ばすと、ぶちぶちちぎり、「はい」と萌ちゃんが空君に一本渡し、翔真君も負けじとベビーカーに座っているノコちゃんに「あげる」と手を伸ばした。
 やさしい……。
 子どもたちのこういう姿を見ると、きゅんとなる。きゅんとして、この子たちはきっと大切にされているのだろうな、と風汰はほっこりする。
「あ、ねこのおばあちゃんだ」
 翔真君が猫じゃらしを持った手を大きく振った。振り返ると、ペットカートを押したおばあさんが角を曲がって来た。この時間に散歩に出ると、ときどき会うおばあさんだ。
「ちわっす」と風汰が声をかけると、おばあさんは顔をあげて、手を振り返した。
「この時間になっても暑いわねぇ」と、そばまで来るとおばあさんは足を止めた。カートの中には黒と茶色の子猫が三匹入っている。
「これみて!」
 翔真君が猫じゃらしを見せると、「あらあら、たくさん」とおばあさんはやわらかく笑みを浮かべた。その横で萌ちゃんと空君がカートの中を覗き込むようにして目を丸くしている。
「ぜんぶおばあちゃんちのねこ?」萌ちゃんが言うと、おばあさんはかぶりを振った。
「うちの子はおうちでお留守番。この子たちは、いま預かっている子たちなの。どこか悪いところがないか、病院で見てもらってきたのよ」
「おばあちゃんちは、ねこのほいくえんなんだよ」
 得意そうに芹香ちゃんが言うと萌ちゃんがおばあさんを見上げた。
「ねこちゃんも、ほいくえんにいくの?」
 そうね、と少し間をおいて「保育園とはちょっとちがうかしらね」と目を細めた。
「みんなはおうちに帰るでしょ。でもこの子たちはまだおうちがないの」
「かわいそう」と萌ちゃんがつぶやき、翔真君も驚いた顔をした。
「あらあら、ごめんなさいね、心配させちゃって。でもね、ちゃんと新しいおうちを見つけるから大丈夫なのよ。それまで、おばあちゃんのうちで預かってるの」
 萌ちゃんはなにか考えているようだったけれど、翔真君は、ふーんと言って、「はやくあたらしいおうちがみつかるといいね!」とにこっとした。
 男って単純だな、と風汰が苦笑していると、空君が風汰の指を握った。
「ん? どうした?」と膝を曲げると、空君はぶるんとかぶりを振った。

 園の周りをぐるっと一周して園に戻ると、子どもたちは洗面所へ直行した。
「これもってて」と、翔真君は握っている数本の猫じゃらしを風汰に渡した。ぶくぶくと泡を立てて指の間まで丁寧に洗う。茶色い泡になったと笑ったり、泡に息を吹きかけたりしている。
「きれいになった!」と、戻って来た翔真君に猫じゃらしを返すと、足音を立てて保育室へ駆けて行った。留守番組の子たちにお散歩の収穫物を見せびらかしに行ったのだろうと思っていると、「おみあげ!」と翔真君はブロックをしていた琉生君とぬりえをしていた明日奈ちゃんに一本ずつあげていた。
 こういう男がモテるんだろうな、将来。と風汰は額を掻いた。
 しばらくすると調理室からご飯の炊ける甘い匂いがしてきた。夕食までの時間は、少し落ち着いた雰囲気になる。奥の畳の部屋で翔真君と琉生君は新聞紙を巻いてハッシュレンジャーの剣づくりに夢中になっているし、明日奈ちゃんはごろんとしながら絵本を開いている。萌ちゃんと芹香ちゃんは色鉛筆で絵を描いて、拓士君は中込からミルクを飲ませてもらっている。
 それぞれが思い思いに過ごしているなかに、早番の保育士二人が入っている。
 風汰はバンダナを頭に巻くと、保育室に折りたたみ式の長テーブルを三台開き、二台のテーブルに椅子を並べていく。もう一台は配膳台として廊下に近い場所に設置する。三台ともにテーブルの上をアルコールで消毒し終えると、廊下をはさんで向かいにある調理室の窓を開けて、「準備オッケーっす」と声をかけた。
 カウンター式の配膳棚の上に、おひつと煮魚が並んだ大皿がすでに置いてある。
「ありがとう、じゃあ運んでください」と、園長が鍋を配膳棚に置いた。
 夕食の調理は主に園長が担当している。
「りょうかーい!」と、風汰は、おひつ、けんちん汁の入った鍋、煮魚の盛られた大皿とキュウリとわかめの酢の物の入ったボウルを保育室へ運び、イスを置いていない長テーブルの上に横一列に並べていく。すると、絵を描いていた芹香ちゃんが色鉛筆をケースに入れ始め、萌ちゃんもスケッチブックを閉じた。その向こうにいる明日奈ちゃんも絵本を本棚に戻している。
 ここで働くようになって風汰が最初に驚いたのはこれだった。実習に行った園では保育士が大きな声で片付けを促したり、音楽を合図に次の活動を促していたが、ここでは、散歩に行くときも、食事のときも、保育士が全員に向けて一斉に指示をすることはほとんどない。
 新人だった風汰が驚いていると、坂寄はなんでもないように言った。
「だいたいの生活リズムは子どもたちもわかっているからね。小さい子も大きい子たちが準備をし始めれば、ごはんなんだなってわかるし、靴下を履いたり帽子をかぶっている子がいたらお散歩に行くんだってわかる。保育士は周りにいる子ども一人か二人に声をかけるだけで十分なの」
 少人数だからできることかもしれないけどね、と坂寄は付け加えたが、風汰の目にはまるでマジックのように映った。

 

(つづく)